2-2

 時間にして五時間。思うがままに運転した僕らは、二県隣の町にたどり着いていた。

 通りがけのラーメン屋でご飯を食べて、そのまま大学までとんぼ返り。戻ってきたときにはすっかり夜が更けていた。

 サー棟の灯りも、奥のサッカー場のライトも全て消えていた。真っ暗な駐車場で、BMWとプジョーのエンジンが鼓動している。

 車を並べて停め、それぞれのボンネットに腰かけながら、僕らは夏の夜空を見上げていた。


「流石に疲れた」


 頭も体も消耗しきっていて、今すぐにでも寝られそうだった。


「運転、上手くなったね」


「珍しく褒めるじゃん」


「褒めたら悪い?」


「裏がありそう」


 夏実はケラケラ笑った。それがなぜか面白くて、僕まで一緒に笑った。

 僕は勝ち誇った気分だった。憧れの存在だった夏実とこうして笑い合えるなんて、前までの僕には想像もつかなかっただろう。

この瞬間はきっと、一生の思い出になる。そう思うと、次第に切なさが芽生えてきた。

 失いたくない。もっとずっと、夏実と一緒に。こう考えるのは邪だろうか。僕なんかに、そんな資格があるのだろうか。

 彼女が言った昔のこと。前のボーイフレンドの話が胸に引っかかっていた。一度考え始めると、様々な疑問が渦を巻く。

 夏実はこの先もう二度と、男を作るつもりはないのだろうか。だったら一体、僕と夏実の関係は何だろうか。ただの友達? それとも……?


「あれがデネブ。で、あっちがアルタイル。ベガはあそこかな」


 夏実は空を指差した。どこかで聞いたことのある言い回しだ。


「よくわかるね」


「前に同じ空を見たことがあるから」


「同じ空って?」


 僕が聞いても、夏実は空を見上げたままだった。暗がりに見えたその横顔は、どこか悲しそうだった。

 やがて夏実は静かに言った。


「私が彼氏を取られたってことは知ってるでしょ?」


 僕の心臓がドクンと大きく動いた。これから語られることが、これまでにないくらいに重大であるとわかった。

 夏実は上を向いたまま、語り始めた。


「その日はね、部活の合宿があったの。夏休みだったからね。でも中止になったの。理由は、忘れたわ。たまにある話でしょ。その代わり夜まで学校で練習して、それで家に帰ったら、元カレの靴が置いてあった。それから遅れて、二人の激しい声が耳に入ってきたの。親は下の妹を連れて旅行に行ってて、家にいるのは姉だけのはずだった」


 それは、想像を絶する話だった。


「絶好のチャンスだよね。ほんと、マンガみたい」


 彼女からは何の表情も見えなかった。まるで他人の出来事を淡々と語っているようで、不気味だった。


「姉の部屋の電気がついていたけど、声は別のところから聞こえてた。びっくりしたよ。だって、私の部屋からだったんだから」


 夏実は僕の方を向いた。


「身内の喘ぎ声を聞かされるのは、けっこうキツいんだよ?」


 僕は何て返せばいいかわからなかった。夏実は構わず続けた。


「あのときの二人、部屋のすぐ外に私が立っていることにも気づかなかったわ。まさか私が帰ってくるなんて夢にも思わなかったでしょうね。後で私にバレるって言った姉に、そっちの方がいけないことしてるみたいで興奮するって、元カレが言ってたくらいだし。でもなんだか、悪いことをしてるのはこっちのような気分になって、気づかれないように家を出たの。荷物も全部持ってね。それから、自分でもどうしたらいいかわけわからなくなって、学校に戻ろうとしたの。でも近くの歩道橋を渡ってるときにふと思いついて、荷物も全部置いて、柵に腰かけて。それで空を見上げると、あんな風に、夏の大三角が見えた。アルタイルとベガは元カレと姉だから、私がデネブ。太陽系から一番離れた一等星。私だけのけ者みたい」


 夏実は手を空へ伸ばした。


「でもそんなのどうでもよくなるくらい星が綺麗で、ずっと見ていたら、なんだか宙に浮いてるような気分になってきて。それで、ふわっと」


「飛び降りた……ってこと?」


 夏実は頷いた。


「気づいたら病院にいた。家族みんなが私を見ていた。もちろん姉も。でも彼氏はいなかった。家族には部活帰りってことにしておいたの。だから私が家で見たことは誰にも喋っていない。間庭くん以外には」


 ようやく、夏実は笑みを見せた。でもそれは、宇宙で最も哀しい笑みだった。この話が嘘でないと証明するのには十分過ぎた。


「どう? つまらない話でしょ?」



 翌日、バイト先で衝撃的な知らせがあった。


「え、真田さん、転勤なんですか?」


「急に決まってね。残念ながら知久とは来月まで」


 なんと真田さんが同じ系列の別のスタンドに転勤することになってしまったのだ。隣の県だから、下手すると二度と会わなくなる。


「そんなあ。急ですよお」


 真田さんがいないこのスタンドが考えられなかっただけに、ショックは大きかった。


「大丈夫。結構何とかなるから」


 しかし真田さんはちっとも心配をしていなかった。無責任ではない。ここのスタンドを信頼しての言葉だった。

 それからあっという間に時間は過ぎ、気づけば真田さんの最後の出勤の日が終わろうとしていた。僕はたまたまそのときのシフトに入っていて、見送ることができた。

 いくつか荷物を積み込んで、真田さんは車に乗り込んだ。


「じゃあな。俺のこと忘れんなよ?」


「はい。ありがとうございました!」


 別れを惜しむ間もなく、奥さんのSUVが走り去っていった。

 僕はそのテールランプを見送りながら、心に大きなざわめきを感じていた。あまり、いいものではない。

 これから何かが、大きく変わろうとしている。そんな予感がしていた。




 夏休みが明けても、まだまだ暑さは衰えを知らない。

 あれから夏実とは会っていなかった。残りの休みはインターンとバイトでなくなった。後期の授業は一つも被っていなかったし、お互いに車を持っているから大学の行き帰りで顔を合わせることもなくなった。駐車場にBMWが停まっているのもこのところは見かけない。

 車を買ったおかげで、大学へ楽に行けるようになった。便利になったはずなのに、僕の生活はどこか彩りを失ったようだった。


「ね、今度一緒に飲み行かない?」


 昼下がりの研究室で、蓮花は公務員講座のテキストを開いていた。


「へえ珍しい」


 彼女とは大学ではよく顔を合わせていたけれど、この学年になってもプライベートでの付き合いは全くなかった。


「わたしが誘ったらいけないの?」


「別にいけないこたあない」


「じゃあ決まり。いつが空いてるの?」


 僕はスマホを開いた。メッセージアプリの着信が入っている。夏実からだった。


『明日学校まで送ってくれる?』


 車の調子でも悪いのだろうか。通りで見かけないわけだ。構わなかったけど、返事は保留して先に予定を確認した。


「来週の土曜ね。わかった」


 約束を取りつけると、蓮花は自分の手帳にせっせとメモした。


「そういやさ、間庭くん車買ったんだ」


 手帳を閉じるやいなや、蓮花が訊ねる。


「何でわかった?」


 隠すようなことではないけど、ドキリとした。

 蓮花は僕の机の上を指差した。


「だってそれ、車の鍵でしょ?」


 よく見てるな。僕は蓮花に見せつけるように鍵を手に取った。


「なんて車?」


「プジョー106」


「なにそれ」


「フランスの車だよ」


「外車ってこと?」


 蓮花は目を輝かせた。


「いいなー。わたしなんか免許も持ってないのに」


「実際、いい車だよ。めっちゃ楽しいし」


「へー。車の運転って楽しいんだ」


 彼女は眩しそうに、僕を見つめている。


「今度、乗せてよ。間庭くんの車」


「いいよ。ぼろい車だけどね」


「ほんと? じゃあ、明日乗せてもらおうかな」


「え、明日?」


「明日も授業でしょ?」


 それは困った。僕はすぐに答えられなかった。蓮花と同じ授業を取っているから不都合はないけど、それだと夏実と被ってしまう。


「別に、ダメだったらいいよ」


 どうしてそう、不機嫌そうな顔をするんだ。まるで僕が悪いことをしたみたいじゃないか。


「いや、ダメじゃないんだけど」


 僕はスマホに目を落とした。夏実のメッセージにはまだ既読もつけていない。


「あさってとかでもいい、かな?」


 恐る恐る訊ねると、蓮花は大げさに首を傾げた。


「今週は明日しか学校行かないから。間庭くん、明日用事あるの?」


「いや、何も」


 また反射的に答えてしまった。ないわけじゃないのに。


「へー」


 蓮花は少し伸びてきた髪の先を弄りだした。

 どうすればいいのだろうか。ここで断ったら絶対気まずいし、夏実の頼みもあるし。

 そうこうしているうちに、また夏実から着信があった。


『どうなの?』


 まずい。この人は待たされるのがとにかく嫌いなんだ。


『明日の何時?』


 慌てて打ち込むと、すぐに返ってきた。


『二限』


 僕の授業も二限からだ。頭を抱えたくなった。

 どっちかを断らなければならなくなった。僕はこういう二択に弱い。

 蓮花とはいつでも会える。次の機会なんていくらでもあるはずだ。夏実とはこのところ会ってないし、色々聞きたいこともある。

 でも、面と向かって言われてしまったからには断れない。夏実には悪いけど、この一回だけにするから。

 僕はスマホに向かって謝りながら、メッセージを打ち込んだ。


『ごめん、明日は送ってけない』


 返事が来るまでには時間がかかった。


『わかった』


 その一言だけ。何でもないはずなのに、文字だけを見ると色々勘ぐってしまう。怒っているようにも思える。


『次は送ってくから

また言って』


 僕は無駄なあがきにも思えるフォローを送った。


『(よろしく)』


 というスタンプだけが送られてきた。取りつく島もなかった。

 いや、きっと大丈夫だろう。こんなときがたまにあるくらい、夏実もわかってくれる。

 僕は心の中で何度も言い訳をした。それだけじゃ誰にも何も伝わらないのがわかっていても、なお自分を慰めるために。



 次の週は夏実を乗せて大学へ行くことになった。彼女のBMWはパワステの調子が悪いとか何とかで入院中らしい。

 頼みを断ったことには謝ったけど、蓮花を乗せたことは伏せた。夏実の方から聞かれることもなかった。

 久しぶりに会ったというのに、夏実は助手席で物憂げに頬杖をついていた。何もしゃべっていない。


「最近、どう?」


「まあまあかな」


「就活やってる?」


「やってない」


「え、じゃあ卒業したらどうするの?」


「どうするんだろうね」


 どこか他人事のようだった。


「何も決めてないの?」


「そう、ね」


 夏実は窓の外を眺めたまま言った。


「もしダメなら間庭くんに世話してもらうわ」


 いつもの冗談を言うような口調とは違って、低い声だった。


「ばっ」


 不意に放たれた爆弾発言に、頭が沸騰しそうになった。


「バカ言うなって。プジョーとビーエムを抱えて生活しろなんて無茶な話だよ」


「冗談。そこまで嫌がらなくてもいいじゃん」


 じゃあ、マジな言い方をするなってんだ。


「悪かった」


 僕が適当にあしらうと、夏実が今日初めてこっちを向いた。


「ほんとに悪いって思ってるの? 何が悪いか分かってるの?」


「ちょ、どうしたんだよ急に」


 こんなときに、目の前に遅いチャリを追い越そうとした馬鹿野郎が飛び出してきた。動揺していた僕は反応が遅れ、急ブレーキを踏んで一気にハンドルを切った。車体が大きく揺れ、カップホルダーからペットボトルが落ちた。


「……」


 夏実はそっと拾って元の場所に戻した。僕の運転には何も文句を言わなかった。あのときと同じだった。彼女は不機嫌になると、口数が減る。

 でも前と違うのは、何が原因かわからないことだった。理由もなく怒りをぶつけられているようで、あまりいい気分ではない。


「何かあったの?」


「いや、間庭君はわからないと思うし、今のは忘れて」


 言うだけ言っておいて、夏実は何もなかったことしようとした。僕はそれがなぜか気に食わなかった。


「わからないってなんだよ。なんだよその言い方」


 傲慢だったのかもしれない。彼女の過去を知った今、僕には他のどんなことでも知る権利があると思い込んで、嫌がる彼女の内面にずけずけと踏み込もうとした。


「もういいから」


「そんな。どうしたんだよ」


「もういいって言ってるでしょ」


「よくないよ。何かあるなら教えてよ。あのときみたいに」


 夏実の目が見開かれる。

 やってしまった、と思ったときには遅かった。

 彼女は口元を震わせ、けたたましく、叫んだ。


「いいから!」


 こればかりは、効いた。ずしんと、腹の底に重いパンチを食らったみたいだった。

 駐輪場脇の信号で止まったところで、夏実は荷物を手に持った。


「ここで降りる」


「もうすぐ着くよ」


「こっからの方が近いから」


 夏実は構わずドアを開けた。信号が青に変わる。彼女は俯いたまま車の前を通って歩道へ移った。


「夏実!」


 呼びかけても夏実は意に介さない。窓を下ろそうとしたけど、こんなときに限ってパワーウィンドウが動かない。フランス車め。

 うじうじしていたら、後ろの車にクラクションを鳴らされてしまった。僕はしぶしぶ車を出した。あっという間に夏実を追い越した。

 僕はサイドミラー越しに彼女の姿が小さくなっていくのを見ていた。そのせいで、自分の車がセンターラインをはみ出していたことに気づくのが遅れた。前を向いたとき、目の前に巨大なトラックが視界いっぱいに広がっていた。


「やっ……」


 死んだ。

 最悪の結末が頭をよぎった。パニックになった僕は目をつぶった。

 しかし、いつまでも衝撃は来ない。目を開けると、車は元の車線に戻っていた。無意識に回避行動を取っていたらしい。

 駐車場にたどり着くと、一気に力が抜けた。絶対にぶつからない車の話が、今なら信じられた。

 車から降りてもまだ心臓が激しく動いていた。

 僕はつい夏実の車を探してしまった。鉛色の分厚い雲の向こう側で今も輝いている星々のように、見えないだけで、どこかにあるんじゃないかと。でもそれは無駄な希望だった。

 空を見上げても、星なんてどこにも見えやしない。

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