2-1
梅雨が明け、本格的に夏が来る。湿度が異常に高く、肌にまとわりついてくるような殺人的な暑さの中を、学生は自転車をこいで大学に来なければならない。しかし、それが苦行でしかない。
通称、
それまでの僕も照りつける太陽に殺意を抱きながら坂を上っていたけど、今年はひと味違う。車だ。
三年生になって知り合った夏実のおかげで、クーラーが効いた車内で悠々と学校に行ける。貴族にでもなった気分だ。必死こいてチャリに乗っている学生をすいすい追い越していく優越感がたまらない。
しかし夏実にとってはそうでもないようで。
「あーもう邪魔! なんで後ろを見ないで飛び出してくるかなあ。よっぽど死にたいのかな。こういうカスみたいな運転するチャリは轢き殺していいって法律できないの?」
相変わらずハンドルを握りながら凶暴化していた。今ではすっかり運転中の発言に遠慮がなくなっていたし、僕は僕で彼女の暴言に慣れきっていた。
研究室に行くと、やっぱり蓮花が先にいた。
あいさつを交わして、いつもの席につく。
「ねえねえ」
「何?」
「最近、間庭くんが夏実ちゃんと喋ってるところよく見かけるんだけど」
机に身を乗り出して、蓮花はからかうように微笑んだ。
「もしかして……?」
「そんなんじゃないって」
僕は即座に否定した。まったく、小学生じゃないんだから、女の子と喋ったくらいで何だってんだ。
「ただの友達だよ」
「そーなの?」
蓮花はまだ疑っていた。この手のゴシップに流されそうなやつなだけある。
「なら、他に彼氏いるの?」
「いねーよ」
反射的に答えたけど、実際どうだかは知らない。
「でも彼氏とかいそうだけどなー。何か聞かなかった?」
ふーん、で済ませとけばいいのに、蓮花はやけに踏み込んできた。
「聞かないよ」
「えーなんで」
「なんでって言われてもなあ」
女の子にそういうこと聞くのは失礼じゃないのか。
「じゃあ蓮花はいるの? カレシ」
不意打ちだったのか蓮花は目ん玉を丸くした。
「え、そんなにマジになること?」
しばらく固まっていた蓮花は、ハッとしたように頭を振ると、
「いないよ」
と、素っ気なく言った。
「そうかい」
僕は自分の資料に目を落とした。
「ちょっとちょっと」
しかし蓮花はそれを許さない。仕方なく僕は顔を上げた。
「今度聞いてきてよ」
「何で僕が」
「いいでしょ? よく会うんだから」
ここまで頼まれたら、仕方ない。
「まあ、いいけど」
研究室で言われたら、今度はバイト先でも同じことになった。
「聞いたよ。夏実ちゃんに送ってもらってるんだって?」
真田さんが口いっぱいにニヤニヤを浮かべている。
「ええまあ」
「毎日?」
「いや、木曜だけです。取ってる授業が同じなんで」
本当は火曜日も送ってもらっているけど、言わなかった。
真田さんはかみしめるように何度か頷いた。
「知久もちゃっかりしてるな」
「はい?」
僕の肩に真田さんの手が置かれる。
「ちょっと変わってるけど、いい子だから。大事にしなよ」
「いや、そんなんじゃないですから」
「またまたー」
ちょっと仲良くなっただけなのに、どうしてこう、色んな人にからかわれなきゃならないんだ。そろそろうんざりしてきた。
「そういや、真田さん車変えました?」
無理にでも話題を変えた。このところ真田さんはBMWではなく、国産のSUVに乗って通勤している。
「ん? あれは嫁の車」
「じゃあビーエムは?」
「あれはもう手放すよ」
「そうなんですか」
あんなカッコいい車なのに。ちょっともったいないかも。でも、車好きの真田さんが次に何を選ぶのかも楽しみだ。
雑談もつかの間、車が入ってきた。しかも二台同時だ。珍しく、それから客が途切れることがなく、接客に追われることになった。でも、都合はよかった。これ以上、夏実との関係を突っ込まれることがないからだ。
しかし、仕事中も僕はつい考えてしまった。夏実にはボーイフレンドがいるのだろうか。もしいたら? もしいなかったら?
やきもきしていたら、真面目にやれ、と真田さんに叱られた。ごめんなさい。
「夏実はさ、彼氏とかいないの」
なるべく何気なさそうに聞いた。
毎週木曜日の授業後は、夏実の車を運転する日になっている。練習を重ねるにつれてぎこちなさも減り、会話する余裕も生まれている。
「どうしたの急に。持つ者の高みの見物?」
よく見えなかったけど、夏実は怪訝な面持ちだった。
「そうじゃないって。ただ、なんとなく」
「私にいると思う?」
いじわるな質問だ。どっちともも答えづらい。
「いいよ、正直に。思ったことを言えば」
突き放すような言い方だった。
悪いことを聞いたかもしれない後ろめたさがじわりと広がるが、今さら引っ込んでもそれはそれで変だ。
「いない方が不思議」
僕はなるべく角が立たない言葉を選んだ。
「……」
しかし夏実は押し黙ってしまった。
ひと言も会話がないまま、僕はいつものルートを回った。
大学を出て、山の方へ。坂を上ると民家と畑が見える。押しボタン式の交差点を曲がり、田んぼを右手に望みながら緩やかな曲がり道を行く。途中で左折し、埋め立て場の看板を過ぎると、そこからはちょっとしたワインディングだ。右手に山、左手に崖。スピードを出し過ぎてガードレールを突き破れば、埋め立て場のゴミの一部になる。
車内は、テンロクのエンジン音とロードノイズ、ボリュームを絞ったクラシックだけが聞こえている。
ここのきついカーブを曲がっているときが、この車の真価を最も体感できる。でも、今日はなんだか、ちっとも面白くなかった。
僕の運転が悪かったのではない。何か間違えたら夏実はすぐに指摘してくれる。こんな沈黙は初めてだった。
山道を出て県道に合流すると、ようやく夏実が口を開いた。
「いないんじゃなくて、作らないの」
とっさに夏実の方を見たとき、彼女は決心したように息を吸った。
「高校生のとき、同じクラスの彼氏がいたの。よく一緒に遊んだし、何度か家にも呼んだ。でも、いつの間にか三つ上の姉と仲良くなっててね」
もう一度横を見ると、彼女はひじをついて遠くの景色をぼんやりと見ていた。
「その先は言わない」
「ごめん」
「そう。今のは謝るべき」
追い打ちをかけるように夏実は言った。冷ややかな怒りが含まれていた。
僕は背中が冷たくなるのを感じた。取りつくろうにも、何も思いつかなかった。誰にだって思い出したくないことはある。僕は不躾にも、彼女の傷に触れてしまったんだ。
しかし、夏実は右手で髪をかき乱した。
「いや、喋った私が悪かったよ」
それからぎこちなく微笑んだ。僕に余計な気を使わせないためだろうか。
「もう結構前のことだし、私もそこまで気にしてないから」
意識して感情を抑えているのは明らかだった。
こういうとき、気づかぬふりしてどうでもいいことを言えばいいのか、それとも慰めの言葉でもかけてやればいいのか。僕にはわからなかった。映画の主役に聞いたところで、千差万別だ。僕はブラットピットでも、ケビンコスナーでもない。
駐車場に戻って車を停めると、夏実はいつものおしゃべり口調で言った。
「ねえ、この車買わない?」
「え、これを?」
「相場よりちょっと安いくらいでいいから。五十万くらいで」
提案という体で話しているけど、見るからに夏実は買わせる気満々だった。
「手放していいの? 大事な車じゃないの?」
「確かにいい車だけど、でももっと色々な車に乗りたいから」
こだわりが強そうな夏実が言うのだから、よっぽどいい車が見つかったのだろう。それで、費用を捻出するために僕に売却を持ち出した。
「でも、僕なんかに売っていいの? 別に店に持っていけばいいんじゃないの?」
「そこは、何というか」
珍しく夏実の歯切れが悪くなった。
「知ってる人に売った方が安心かなって」
言ってから、夏実は髪を耳にかけた。形のいい耳に僕の視線が留まる。急に頬の周りが熱を帯びてきて、僕は考えるふりをして前を向いた。
「で、どうするの? 買うか、買わないか」
まだ何も言っていないのに、すでに僕に売る方向で話が進んでいた。こうなったら夏実はもう止められない。
「欲しくもあるし、夏実の大事な車だからってのもあるし」
それでも僕は決めかねていた。安い買い物じゃない。お金はあるけど、もっと色々検討してから答えを決めるべきだ。
「どっち? はっきりしてよ」
煮え切らない僕に、せっかちな夏実が急かしてくる。
「わかった。考えさせて」
「そう言うってことは、全くいらないわけじゃないよね?」
「そりゃあ、まあ」
「よし。じゃあ買うってことで」
交渉成立。
「ええ?」
「どうせ買うつもりだったでしょ? 決めるなら早く決めたいし」
「そりゃそうだけどさあ」
そんなに車って簡単に買っていいものなのか。あまりにも唐突じゃないか。いつかは買おうと思っていたけど、今すぐってのは。
なんて、あれこれ逡巡しているうちに、話は引き返せないほど進んでいた。
あれよあれよという間に必要な手続きが終わり、八月の始めには白いプジョーは僕のものになっていた。
学期末のテストも終わり、大学は二か月間の夏休みに入った。
テスト翌日、僕は夏実に呼び出されてサークル棟の駐車場へプジョーを走らせた。授業の時間帯でも自転車は一台も走ってない。ドヤ顔を決めるのはしばらくお預けだ。
駐車場に着くと、僕は思いもよらない車を目にした。
純白のBMWだった。どっしりと存在感を放つクーペに、御沢夏実が体をもたれている。相変わらず画になる組み合わせだけど、僕はその車に見覚えがあった。
駐車場には空きが目立ったけど、僕はわざわざビーエムの真横に停めた。
「夏実、それ、もしかして」
「そう。真田さんから買ったの。破格だったよ」
夏実は愛おし気にボディをすりすりなでた。
真田さんも車を手放すとは言っていたけど、まさか手放した先が夏実だったなんて。で、夏実は自分の車を僕に売った。上手く循環している。
「すっごい速いのこれ。高速でも無敵」
聞いてもないのに夏実はウキウキで車の性能を語りだした。
2013年式BMW435iクーペ。3リッターの直列6気筒エンジンを搭載し、最大出力は300馬力を超えるそうだ。
「やっぱりね、パワーが全てだよ。ジェレミークラークソンも言ってるでしょ?」
「はあ」
その他ハイテク装備の説明は僕にはさっぱりわからなかったけど、とにかく速い車だということは伝わった。
「で、今日はこれを見せびらかすために呼んだって?」
夏実は人差し指を左右に振った。
「見せるだけじゃつまらないでしょ? 車は転がさなくちゃ」
これが最高に楽しかった。
夏実のBMWが先導し、僕のプジョーが追いかけてのドライブ。夏の暑さから逃れるように、夏実の車は山へ山へと向かい、走るにつれて景色は緑の割合が増えていく。どこへ行くかもわからなかったけど、今ならどこへだって行ける気がした。
ときどき、夏実は僕を前へ行かせた。曲がりくねる道で、彼女は容赦なく煽ってきた。下手にブレーキも踏めず、僕は死に物狂いでハンドルを回した。
勇気を出して急カーブに飛び込むと、夏実はそれをあざ笑うかのようにぴったり後ろをついてくる。そして長めの直線で、三リッターのパワーでもってあっさり追い越してしまった。手も足も出ない。
このじゃれ合いにも似たドライブの間じゅう、僕は野性的な喜びを感じていた。
単なる移動手段としての運転を超えた、本能を刺激されるような感覚。ハンドルを通してマシンと一体化し、奥底の本質に踏み込んだとき、そこで見つけたのは獣だった。これこそが車なんだ。彼らも僕と同じ、生きているんだ。
「ああ!」
僕は叫んでいた。ギアを二速に叩き込むと、プジョーもまた獣の咆哮を上げた。夏実はそれに応えるように、直6の官能的なサウンドを轟かせた。
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