1-2

 サー棟とはサークル棟の略称で、各サークルの部室が一堂に集結している建物のことだ。キャンパスを一度出て道路を渡った先の丘の上にあり、周囲を木で囲まれているから、意識していないと存在にすら気づかない。そのサー棟前には二、三十台もの車が停められる駐車場もあり、いつも学生の車で埋まっている。

 長い階段を上がり駐車場に出ると、夏実があの白いプジョーのボンネットに腰掛けていた。車のカタログからそのまま出てきたような美しい姿に、僕は息を呑んだ。


「来たね。無視して帰られたらどうしようって思ってた」


「律儀な男なんで」


 言いながら僕はプジョーの全身をじっくりと見た。

 曲線が少ないボディの割に、今まで見たどの車よりも個性的だった。軽自動車とさほど変わらないサイズだけど、ボンネットが長い。天井の切れ目からお尻にかけての斜めのラインには目を惹かれるものがあり、まるで動物の後ろ姿でも見ているような息づかいを感じる。シンプルかつ妥協のない均整のとれたデザインは、西洋美術が培った美的感覚でないとなしえないものだろう。


「乗って。家まで送るよ」


 プジョーに体重を預けながら、親指で車内を差した。その仕草すら様になっている。


「いいの?」


「ダメならはじめっから言わない」


 それもそうか、とつぶやいて僕は助手席のドアノブに手をかけた。


「あれ、運転するの?」


 はじめ、僕は夏実が何を言っているのかわからなかった。窓から車内を覗くと、僕はすぐに納得した。


「そうだ、これ左ハンドルだった」


 ハンドルが座席の左側についていた。実際に見てみると、異質だ。


「逆側だけど怖くないの?」


「別に。ほとんど変わらないから」


 夏実は立ち上がって言った。


「ほら、そっち乗って」


 僕は車の後ろを回って右側の助手席に乗り込んだ。ドアはバシッと気持ちよく閉まった。


 車内も一風変わっていた。天井は拳一個がギリギリ入るくらいで、足元は右側の出っ張りがちょっと邪魔だけど足をのばすことはできる。決して広くはないけど、圧迫感はなかった。この辺の空間の使い方もどこか日本の車とは違う。内装は実にシンプルで、中央にエアコンやハザードランプ等のスイッチがコンパクトにまとまっている他にスイッチ類は見当たらず、ナビもついていない。右側に座っているのに、前に何もないのが面白おかしかった。

 夏実が運転席に座り、シフトレバーを何度か動かしてからエンジンをかけた。手慣れた動作だった。後付けのカロッツェリアのオーディオからサラブライトマンの曲が流れ出した。センスがいい。

 僕と夏実は結構ご近所さんだった。歩いて二分もかからない場所に住んでいるそうだ。二年も暮らしてて一度も気づかなかった。


「シートベルト締めた?」


「締めたよ」


「よし、行きます」


 シフトを一速に入れ、サイドブレーキを下ろすとすぐにプジョーはゆっくりと歩み出した。

 あっという間に僕はこの車の虜になった。

 車というのは静かで揺れが少なければ乗り心地がいいものだと思っていた。このプジョーはロードノイズが大きく、段差を越えるときは段差の分だけ上下する。曲がれば曲がった分だけ車体が傾く。それなのに、乗り心地は最高だった。

 地面との距離が近い。車内にいながら外を走っているように感じる。窓から手を出したら触れるんじゃないだろうか。

シートの座面からは道路の細かい凹凸さえも伝わってくる。カーブを走ると、タイヤが地面を掴んでいる感覚がよくわかった。

 それに、とにかく動きが軽快だった。特に交差点では面白いように曲がった。


「どう? 念願の車に乗った感想は」


 そう訊ねる夏実はどこか誇らしげだった。


「すごいよ。こんな楽しい車、初めて乗った」


「そりゃどうも」


 そう言って彼女は三速へシフトチェンジした。ショックを出さずにギアを繋ぐと、思いきりよくアクセルを踏み込み加速、さらに四速へシフトアップして車をスピードに乗せた。

 車の作りもさることながら、彼女のドライビングテクニックもまた極上だった。

 ハンドル捌き、ペダルワーク、シフトレバーを握る手つき。そのどれも無駄がない。それだけでなく、全ての動作は丁寧で、車の姿勢を手に取るように制御している。彼女がハンドルを回すと、円を描くように重力が移動した。おかげで、スピードが出ていても僕はゆりかごに揺られているかのように安心できた。

 こんなの反則だ。これだけ美人な子が、とびきりお洒落な車に乗っていて、しかもめちゃくちゃ運転がうまい。

 大通りを外れ、住宅地へ向かう。橋を渡った先のわき道から小型車が一台飛び出してきた。明らかな割り込みだった。


「おい!」


 と言ったのは僕ではなく夏実だった。喉のどこにしまっていたのか、普段のしゃべり方からは想像もつかないほどドスの利いた声だった。


「そのタイミングで出る普通? うわうわほら、全然加速しない。出るなら覚悟持って出なさいよ。そんでアクセルを地の底まで踏み抜けそうじゃないならそんなカスみたいなタイミングで出んなよ!」


 夏実は車の鼻先を相手のギリギリまで近づけた。少しでもブレーキを踏まれたらぶつかる距離だ。それからクラッチを切り、エンジンをレッドゾーンまでふかした。

 僕は唖然として夏実を見た。彼女は牙をむいて前の車を威嚇していた。

 都合よく先の信号が赤になった。反動のないブレーキで車を止めると、夏実は僕を見て、気まずそうに目線をまた前に戻した。


「ごめんなさい。私つい」


 怒りはもう収まっていた。それどころか額をハンドルにこすりつけてまでして反省している。


「運転するときはいつもこうなの。ヘンな動きをする車を見ると無性に腹が立って……」


 なるほど。こんな彼女にも欠点はあった。ハンドルを握ると性格が変わることだ。それも、重度の。

 信号が青に変わると、夏実は充分以上に車間距離をとって走った。


「いつもビックリされるでしょ。隣に乗せた人に」


「いや、間庭君がはじめて」


「じゃあいつもはそんな怒らないんだ」


「そうじゃなくて横に乗せたのが、間庭くんが初めて」


「え、そうなんだ」


 僕はおずおずと頭を下げた。


「それは恐縮です」


 意外だった。大学生で車を持っているやつは、友達にいいようにタクシーにされるのが当たり前だ。こんなに運転が上手ければ、なおさらそうだと思えるが。

 そこまで考えて、悲しいことに気づいてしまった。もしかして御沢夏実は、友達が――

 僕は頭を振った。きっとたまたまだ。それか、自分の車を大事にしているのだろう。

 アパートに着いた後、夏実は車を降りようとする僕を引き留めた。


「次さ、授業終わったあとに昼ごはん行こうよ」


「喜んで」


 思わぬ誘いだった。そこまで僕は夏実に気に入られたのか。


「間庭君のおごりだよ?」


「マジ?」


 顔をしかめると、彼女は口を大きく開けて笑った。


「冗談だよ。また来週ね」


 なんだよ。思ったよりおちゃめなやつだ。


「じゃあまた。ありがとう、乗せてくれて」


 ドアを閉めると車はすぐに走り出し、あっという間に見えなくなった。その後もしばらく、僕は車が去った影を眺めていた。




 キャンパスに点在する食堂の中でも、一番マシな食事を出すのがこの中央食堂だ。文系と理系のキャンパスを結ぶ二本の橋の中継点にあり、昼時は文理両方の学生で賑わっている。中央と名乗っている割に、二番目に大きい食堂というのが謎なところだ。

 僕と夏実は六人掛けのテーブルを挟んで向かい合っていた。僕はカレーで、彼女はラーメンだ。券売機の前で悩んでいたら勝手に押された。

 髪を結んだ夏実は、恥じらいもなく豪快に麺をすすっていた。咀嚼しながら何度か頷いている。いちいち仕草が食通みたいだ。


「今さらだけど、間庭君って免許持ってるの?」


 飲み込んでから夏実が訊ねた。


「持ってるよ」


「オートマ限定?」


 祈るような視線を僕に向けている。


「いや、マニュアルの方」


 僕が応えると、夏実は安心したように水を一気に飲み干した。


「それは偉い。偉いよ」


「そんなかなあ」


「だって、身の周りの人なんてみんな限定でしょ? 男の子だって限定だし」


 彼女の言う通り、今やほとんどの人が運転免許をオートマ限定で取っている。僕も父親に半ば強制されてしぶしぶマニュアルで取っただけで、何も言われなければ限定だっただろう。なんせ、今の時代は必要がないからだ。


「まあ、別にマニュアルの車なんてほとんどないから」


 多くの大学生が口にするこの文句はしかし、


「それは甘え」


 彼女にバッサリと切り捨てられた。


「オートマ限定なんて、補助輪つけて自転車に乗るようなものだよ。それにさ、必要ないからって取らないのも理解できない。マニュアルに乗れないとオートマで安全に運転できるわけないのに」


 急に毒舌を発揮した夏実に僕は気圧された。

 僕が黙ってしまったことに気づくと、彼女は申し訳なさそうに目を伏せてスープをひと口飲んだ。


「ごめんなさい。また暴言を」


 授業のときや運転してるときもそうだけど、夏実は口に戸が立たないタイプだ。一度思ってしまったら、口に出さないと気が済まない。


「でも、ちょっとわかるかも。車校でマニュアル運転してからオートマ運転すると勝手に車が進んでく感じがして怖かったから」


「そう。そうでしょ?」


 彼女が同意してくれて、僕は胸をなでおろした。汗ばんでいるのは、単にカレーが辛いだけではない。

 もうひと口麺をすすってから、夏実は言った。


「車はまだ買わないの?」


「まあ。安いのがあったら」


「安いのって例えば? 208のモデルチェンジ前とかねらい目だよ」


 ニーマルハチという響きで、同じプジョーの車だとわかった。そんな車を大学生に勧めてもらっても困る。


「外車はやめとくよ。別に普通の車で」


「普通の車って例えば?」


 彼女の質問はどこか、鋭利な響きがある。面接でも受けているようだ。


「いや、軽とか」


「間庭君、それは一番やめた方がいい」


 僕を見つめる夏実は、助言をすると同時に懇願しているようにも見えた。


「どうして? みんな軽に乗ってるけど」


「軽自動車なんてカス。あんなのは車輪がついただけの箱よ」


 隣のテーブルで談笑していた男子の一人がギョッとした顔でこっちを見た。


「でも、燃費もいいし、小さいから運転しやすいんじゃないの?」


「いいわけないじゃない。あれに毎日乗るって考えたら、椅子に縛りつけられて瞬きもできない状態で暴力的な映画をひたすらみせられる方がまだマシよ」


「それ時計じかけのオレンジ?」


「よくわかったね」


 ネタが伝わって上機嫌になったのか、夏実は矛を収めた。

 とんでもない暴言だったけど、全く間違っているとも思えなかった。彼女の言うことには不思議な説得力がある。


「でもごめんなさい。言い過ぎたかも」


「まさか。むしろそれくらい言ってくれた方がいいよ」


「ほんと?」


「うん。ここまでズバッと言えるのは長所だよ」


 一瞬、夏実は戸惑いを見せた。


「そんなの、言われたことなかった」


「わからないのがおかしいんだよ」


「ふふ、そうかも」


 それから満足げに微笑んだ。その美しさは彼女の持つ毒を知った今、より際立って見えた。



「今日も四限終わったら帰るの?」


 昼飯もすっかり食べ終わり、食器を片づけながら夏実が訊ねる。


「帰るけど、また送ってくれるの?」


 次に何が来るのはわかっていた。


「送ってくよ。でも」


 夏実は車の鍵を出して、トリコロール柄のキーホルダーに指をかけてくるくる回した。


「今日は、運転してみる?」


「え、いいの?」


「実際に運転してみないとわからないでしょ?」


「そうだけど、左ハンドルなんて」


「同じよどっちも同じよ」


 微妙に伝わらない小ネタを出すな。


「でも、ぶつけたら悪いし」


「それなら平気」


 夏実は妙に自信ありげに言った。


「平気って? なんで?」


「私の車、もともと母親が乗ってたの。私が免許取った辺りで乗り換えることになって、譲ってもらったんだけど――」


 ゆっくりと夏実は語る。


「うちの母親は昔っから運転が下手くそで、今まで乗った車は必ずどこかしらに傷をつけたりへこませたりしてたの。廃車にしたこともあったかしら。でもね、この車だけはどこにも傷が入ってないの。不思議でしょ? まるで意志があるみたいに、危険を避けてくの」


 冗談みたいな話だ。どうせ偶然なんだろうけど、夏実が言うとリアリティがある。


「だからきっと、間庭君が乗っても大丈夫」


「ハービーみたい」


「それなら私の車はラブ・キャットね」


「ライオンじゃなくて?」


「猫足だから」


「なるほど」


 この辺のネタが伝わるのが、夏実の変態なところだ。もちろん、いい意味で。


「そういや、夏実はぶつけたことはないの?」


「私?」


 夏実は大げさに笑ってみせた。


「ぶつけるわけないじゃん」


「他の車に乗っても?」


「もちろん。絶対ぶつけたりしないよ」


「そんなこと言って、もしぶつけたらどうすんの?」


 夏実は口もとに人差し指を当てて考えた。


「もし、なんてものはないけど、もしぶつけたら――」


「桜の木の下に埋めてもらっても?」


「んふふっ。いや、死ぬほどバカにしてもいいよ」


 大した自信だった。それも高い技術に裏打ちされているから言えることだ。


「言ったね?」


「もちろん」


 自然と僕らは握手していた。


「じゃあ、また授業が終わったら駐車場来て」


 夏実は鍵を僕に渡した。盗まれるという心配はどこにもないようだった。

 その後の授業で、僕は鍵を机の上に出したままにしていた。ずっと視界にないとどこかへ失くしてしまいそうだったし、何より、あの車を運転できると思うとわくわくしてたまらなかったからだ。



「……」


「どうでしょう?」


 練習のため大学構内を一回りしてきて、何とか駐車スペースに車を収めた。助手席に座る夏実はその間一度も口を開かなかった。

 そもそも免許を取ってから丸一年まともに運転してなかったのもあった。その上、右手でシフトレバーを動かすとなると、もうわけがわからない。ハンドルは重くて上手く回せなかったし、ペダルが右に寄っていたせいでアクセルと間違えてブレーキを踏んでしまったことも何度かあった。こんな車を手足のように操っていたと思うと、夏実の技術の高さが改めてわかる。

 夏実はでっかいため息をついてから言った。


「下手くそ」


 やっぱり。


「左ハンドルはじめてだからシフトがぎこちないのは百歩譲って許す。でも何? アクセルもブレーキも、何もかも雑。しかも間庭君、周りを全然見てないでしょ? 危なくて仕方ないよ。一体教習所で何を教わってきたのか不思議」


「……ごめん」


 言い方はキツいけど、中身はもっともだ。ぐうの音も出ない。


「いやいいの。少しずつ慣れてけばいいから」


 彼女は無理にフォローしているようで、僕はかえってダメージを負った。


「それに、ぶつけなかったでしょ?」


「まあ、そうだけど」


 確かに、あれだけグダグダな運転をしても、車には傷一つついていない。


「時間の問題だと思うけど」


 でも、あの話はやっぱり信じられなかった。


「それはそれとして、車はどうだった?」


 夏実が興味津々に訊ねる。


「たしかに全然違う。なんだろう。自分で動かしてる感じがする」


 今まで乗ったどんな車とも違った感覚だった。夏実の横に乗っているときからそれは感じていたけど、実際にハンドルを握るとそれはもう劇的だった。楽しさが全身から湧き上がり、一気に弾ける。こんな車に乗っていたと思うと、羨ましくて仕方がない。


「間庭君がまともな感性を持った人で助かる」


 まともじゃない感性のことをぜひ聞きたかったけど、聞いたらまたすごい暴言が出そうだったからやめた。


「でも、このままだとダメね。まるでダメ」


 夏実は腕を組んで頭を振った。


「せっかく普通免許を持っているのに、こんな運転じゃ見てられない。それに、こんな身近に下手なやつがいるってのが許せない」


「悪かったって」


「違うよ。だからね」


 夏実はその細く白い手を僕に差し出した。思えば、これが全ての始まりだった。


「私が鍛えてあげる。間庭君がまともに運転できるようになるまで」


 こっちに選択権はなかった。

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