五速ミッションの選ぶ道
竹内るい
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生きていると一日に百回くらいは、選択肢にぶち当たる。
何を着るかとか、何を食べるかとか、もしかしたら玄関を出て最初にどっちの足を出すかだって、無意識に選んでいる。
一日のほとんどは些細な選択の連続だけど、一生という長い目で見たら、何度か重大な選択をする場面が出てくる。就職とか、家を買うとか、結婚とか。
思い返せば、大学三年生になる僕はこれまでの短い人生で一度も、大きな選択をしたことがなかった。直近で最も大きな選択の機会は大学進学だ。しかし今通っている大学も、自分の学力で行けるところがそこしかなかった、という消極的な理由で選んだ。私立でなく国公立にしたのは、そっちのが就職に有利だから、という周りの声があってのことだ。
それどころか、小さな選択すらしてこなかった。
幼少期から僕は甘やかされて育った。兄が一人いるけど、年は十個も離れていたからえらく可愛がられた。過保護ぎみの両親からも溺愛されて、欲しいものは何でも与えてもらえた。自分で選ばなくても、誰かが代わりに選んでくれたし、選ばなくても困ることもなかった。
そんな風に育ったためか、いつしか僕は、自分で選び取ることをしなくなった。
生活には何一つ不自由していない。ただ少しだけ、人より長い時間考えてしまうというだけだ。あるいは、逃げているのかもしれない。飲み会では隣の人と同じ飲み物を頼むし、サブスクでみる映画もおすすめに出てきたものか、人におすすめしてもらったものだ。
こんなこと、気にする人なんてまずいない。おそらく多くの人は、自分が日常的に選択肢に向きあっていることすら意識していない。意識しなくても大丈夫なくらいに、器用に生きているからだ。
でも、あいつと出会ってから全てが変わった。
常に自分の力で道を進むあの強さに魅せられた。少しでも近づきたいと思った。そのために何度も傷ついたし、他人を傷つけたりもした。
でも一方で、学んだこともある。僕がどれだけ自分で選んでこなかったかを。そして、自分で選び取ることの大切さも。
そして時々考えることがある。
僕が選び取った道は、果たして正しかったのだろうか、と。
三年生になってからアルバイトを始めた。
金に困ることはなかったけど、免許を取ったことがきっかけで車の購入が視野にあった。
アパートから徒歩三分の場所にある、古ぼけたガソリンスタンド。友人の紹介だったけど、どことなくゆるい雰囲気が気に入って申し込んだ。
通りの多い交差点の角にあって微妙に入りにくい。来店するお客さんといったら常連の老人か、旅行者くらい。立っているだけの時間が多く、暇疲れになりそうな店だった。仕事が少ないからありがたいけれど。
「
「おー、おはようさん」
窓ふきの手を動かしながら真田さんがこちらを向いた。この店の店長だ。この人の顔を見るだけで、安心して仕事ができるような気がした。
四十代半ばとは思えない若々しい風貌の真田さんは、まさにこの店の大黒柱だ。仕事が早く、面倒見もいい。お客さんの対応は丁寧なだけでなく、それぞれの車の状態やお客さん自身の性格まで考えている。その人当たりのよさは僕らにとってもありがたく、急用が入ってシフトに出られなくても、真田さんには気楽に相談できた。こんなオンボロのスタンドにはもったいない人だ。
「知久、名札付け忘れてるよ」
「ああ、すみません」
うっかりしていた。一度控室に戻り、ロッカーから名札を見つける。
「
僕がいないわずかな間に新しく客が入っていた。やけに古い車だった。一発で外車だとわかる。真田さんがそのお客さんと話をしていた。相手は若い女の人のようだった。二人とも楽しそうに、ショックがどうとか、クラッチがどうとか、車の話をしていた。真田さんはいつも以上に親し気な顔をしていた。
「じゃあまた来ますね」
「はーい、また来てね」
女の人が乗った白い小型車は、滑るように走り出して交差点の中心へ進入し、軽快に走り去った。初めて見る車の動きだった。まるで生き物のようだ。
「真田さん、今の人は?」
「よく入れに来る子だよ。知久と同じ大学」
車が去った先を見据えながら真田さんは言った。
「え、大学生なんですか。学部は?」
「文学部だよ。もしかして顔見たことあるんじゃない? 御沢夏実って子だけど」
その名前の響きは覚えがある。
「え、その人と僕、同じ授業取ってるんですよ」
「あ、そーなの?」
「はい。まあ、喋ったことはないんですけど」
そうだ。英文学の授業で顔を見たことがある。
「なんか、珍しい車乗ってますね。なんてメーカーですか、あれ」
「プジョーって分かる? あのライオンのマークの」
似たようなマークが三つくらい頭に浮かんだ。よくわからないけど、動物のマークってことはお高いのだろう。
「あーなんとなく、なんとなくですけどわかりますよ」
「あれのふっるーい車だよ。もう二十年前の車になっちゃうのかな」
「すげえ。ほぼ同い年じゃないですか」
「いい趣味してるよ。若いのに」
表情からは嬉しさがにじみ出ている。真田さん自身も根っからの車好きで、何台も外車を乗り継いでいるから、通ずるものがあるのだろう。ちなみに真田さんが今乗っているのはかっちょいいBMWだ。
「高いんですか?」
「そうだねえ。安くはないし、あとあの手の車は変なところが壊れるからね。修理費だけでもう一台買えるよ」
「ひえー」
どんなお嬢様なんだろうか。そうでなくても相当に変わった人だ。
「そうか顔見知りかあ。今度乗せてもらったら?」
「いやいいですって――あ、らっしゃいませー!」
そこへふらっとお客さんが入ってきた。僕が向かう。
「いらっしゃいませ」
「満タンと、あとオイル交換してくれる?」
「はい、オイル交換ですね。かしこまりました」
僕は声を張り上げた。
「店長オイル交換ー」
「はいよー」
作業が入ったから、雑談は一旦終わりだ。
研究室に入ると、見慣れた顔があった。僕に気づくと、その短いくせっ毛のボブが揺れた。
「おつかれ」
「あ、おつかれー」
英文の研究室、といっても理系と違ってただの自習部屋だ。部屋の壁に沿って本棚が置かれ、文学作品や参考書が並べられている。長机が四つ合体した大きい机が二つあって、その上にはこれでもかと物が散乱している。本はともかく、割りばし、ティーバッグ、ホチキス、チョコレートの箱と、やりたい放題。そのほとんどは蓮花の仕業だ。
そもそも人が少ない英文学コースで、さらに研究室に来てまで勉強するような真面目な人となると、蓮花か僕くらいしかいない。ここは実質二人の共同の部屋みたいになっていた。
僕は入り口に一番近い場所に座った。蓮花はその対角線上、入り口から一番遠い場所に座っている。これが二人のいつものポジションだった。
彼女は机にプリントを広げていた。
「予習?」
「うん、まあね」
木曜二限の英文学の授業で使う資料だった。この授業では事前に決められた作品の一部分を読んで、自分の考えを用意してくる。分量こそ多くはないけど解釈が難しく、負担が大きい。それに、授業では三、四人のグループを作ってディスカッションをするため、サボることもできない。
「僕もまだ読んでないな。難しい?」
「結構難しいかも。まあでも、誰だっけ、一人めっちゃ喋ってくれる人いるでしょ?」
「御沢さん?」
そうそれ。と蓮花は指を差した。
「あの人すごいよねー」
偶然だろうか。このところ御沢夏実という名前をよく聞く。彼女は同じ文学部でも言語学科に所属しているが、いくつか文学の授業も取っているらしい。その一つが僕と被っている。
「一緒の班になるのをお祈りするかなあ。はあめんどくさ」
蓮花はだるそうに机に突っ伏した。
「やるしかないんだから」
「代わりに読んでよー」
「なんで」
あしらいつつ、僕は僕でパソコンを立ち上げて自分の課題に取りかかる。
次第に会話も減って、キーボードを打つ音と、ときどき紙をめくり、何かを書き込む音だけが聞こえるようになった。
僕はなんとなく集中できず、窓の外を眺めた。遠くに山が見える。手前にはサークル棟と、サッカーグラウンド。見慣れた景色をぼんやりと瞳に映しながら、僕は御沢夏実のことを考えていた。
なぜだろう。週に一度目にするだけの、顔見知りですらない学生が妙に心に引っかかる。変わった車に乗っているからだろうか。どんな人で、どんなことを考えて生きているのか、ぜひとも知りたかった。
「グレートギャツビーの話の構成ってノルウェイの森と似てますよね。あ逆か、ノルウェイの森がギャツビーと似ているのか」
ディスカッションが始まると、夏実は僕を含めたグループ四人の中で最初に話し始めた。文体から話の展開、キャラクターの背景を引き合いに出してグレートギャツビーとノルウェイの森の関連性をひたすら説明している。彼女の迫真の語り口は、他の学生に一言も喋らせない。
今週の木曜二限で、僕は初めて夏実と同じグループになった。
改めて正面から見ると、夏実はかなり美人だった。おでこを大胆に出した茶髪のロングヘアーは肩の辺りでゆるくウェーブしている。顔の輪郭は縦長気味の卵形で、キリっとした目元は、日本人の割には彫りが深い。質のいいパーツがあるべき場所に配置されていて、その奇跡的なバランスが「美人」というオーラを常に発し続けていた。
しかし彼女は想像を二段階くらい超えたおしゃべり人間だった。そのよく回る口のせいで美貌が損をしている。もったいない、と赤の他人ながら思った。
「……と、いうことなんですけど、他に意見あります?」
「……」
グループにしばし沈黙がおりる。脱力感さえあった。
「……じゃあ」
「これは関係ないんですけど、グレートギャツビーって映画化もされていて、それも二本あるんですよ」
僕が口を開きかけても、夏実はそれを食ってまた喋り出す。
「昔の方は知らなくても、新しい方は観たことある人いるんじゃないですか?」
「あ、観たことある。ディカプリオのやつでしょ?」
僕が食い気味で答えると、夏実は待っていましたとばかりに目を輝かせた。
「そうそう! で、ニックの役がトビーマグワイアなの。この二人が共演してるのがほんとに熱いの。この二人って実は親友同士で――」
突然話が脱線し、夏実は映画を語り始めた。止める人はいない。主導権を握っている夏実は話を広げに広げ、収集がつかなくなったグループはついに暴走特急と化した。
「トビーマグワイアってわかります? 一番面白いスパイダーマンやった人ですよ。ほら、ノーウェイホームにも出てきたじゃないですか」
「サムライミ版はリアリティがあっていいよね。スーパーヒーローと日常との姿のギャップに葛藤する姿とか」
映画なら得意分野だ。僕は負けじと食らいついた。
「そう! まさにそう! わかってくれる人がいた。あれは傑作だよね」
彼女の知識の広さ、深さには目を見張るものがある。こちらが何を聞いても答えてくれる守備範囲の広さもある。どんなボールを打っても返してきそうなディフェンス力は、ジョコビッチに匹敵するものがある。
他の二人を置き去りにしたまま、僕らは映画談議にふけった。初めて喋ったのに、初めてじゃないような感覚があった。相手もそう思っているのかは分からないけれど。
「三作目も面白い映画ってなかなか珍しいよね。例えば何かある?」
「んー、ミッションインポッシブルは2より3の方が面白いかもしれない」
「なるほど。スターウォーズのエピソード3は?」
「あれは公開順で言うと六作目でしょ?」
「そうだった」
「そうだよ」
一体何のディスカッションをしているのかわからなくなりそうだった。
結局、時間一杯まで映画の話が続き、作品自体の解釈は深まらずに終わった。
授業後、鞄を持って立ち上がったところの夏実を捕まえた。このチャンスを逃すつもりはない。
「うちのスタンドによく来てるよね?」
「そうだけど?」
大きく鋭い眼に見つめられ、グッと背中に緊張が走る。
「最近バイトするようになって。で、この前見かけたんだ」
「偶然ね。でも、よく覚えてたね」
「そりゃあんな車乗ってたら忘れないよ」
夏実の見えざる尻尾が振られた。
「そう? でもおんぼろだよ」
「かわいい車だよ。プジョーっていうんでしょ?」
「そう! よく知ってるじゃん。あの車はね、106って言って、数字の106って書いてイチマルロクって読むんだよね。それであれは2003年式のモデルでS16ってグレードなの。それで……」
夏実は待ってましたと言わんばかりに車の説明をおっぱじめた。
何を言っているか半分も理解できななかったけど、彼女は殊更に軽さを強調していた。1トンを切る重量でもって、1.6リッターのエンジンのパワーを余すことなく使い切るのが楽しいらしい。
夏実はそれから三十分近くもの間、自分の車について語った。よくそこまでしゃべれるなと感心してしまう。
一通りしゃべって満足したのか、夏実は話題を変えた。
「間庭君、よく映画みるの? 結構知ってそうだったけど」
「ぼちぼちかな」
自慢じゃないけど映画はそんじょそこらの人よりは数多くみている。でもきっと、彼女はその遥か上をいくのだろう。
「何か好きな作品ある?」
「うーん。どれかなあ」
「いくつかあるってこと?」
僕は返答に詰まった。選択肢が多いだけに、むしろセンスが問われる。変なタイトルを出したらイヤな顔をされるだろう。それが美人な女の子と来れば、傷はより深い。
ショーシャンクなんてありきたりすぎるし、変にカッコつけてセブンとかでも変だし。ここはひとつ……
「まあ、ありきたりだけど、テルマルイーズとか、かなあ」
夏実の瞳の中で星がきらめいた。それはもう、とびきりの一番星だった。
「すごい。いきなりそれが出てくる人とはじめて会った」
気分が高ぶって、そのうち踊りだすんじゃないだろうか。インド映画みたいに。
「はは、どうも」
「こんな面白い人が身近にいたなんて。もっと早く言ってくれたらよかったのに」
ここまで喜ばれるとかなり照れくさい。
「今日はこの後授業あるの?」
「四限があるよ」
「その後は帰る?」
夏実は期待に満ち満ちた目を向けてくる。
「まあ、帰るよ」
「じゃあ授業終わったらサー棟の駐車場に来て。私も今日は四限で終わりだから」
決まりね、と言い放ち、夏実は僕の返事を待たずに教室を出て行った。
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