3-1

「もう三年生も残り半分かあ。間庭くんは就職するの?」


 蓮花は二杯目のサワーに口をつけた。少しペースが早い。

 約束通り、僕と蓮花は夜の街で飲んでいた。気を使わずに済むからという蓮花のリクエストで、大衆居酒屋に入った。

 パンの耳の味がする熱燗を飲んでから僕は答えた。


「そうだね。今さら教員受けるわけにもいかないし」


 文学部の連中の体感にして半分が公務員志望だったけど、僕は何一つその手の講座を受けていなかった。特に理由はなかった。


「そっちは公務員一本?」


「うん」


 蓮花は自信満々だった。分厚いテキストを何冊も抱えて勉強している姿が目に浮かぶ。あれだけ真面目に勉強しているなら、余裕で試験に受かるはずだ。

 ボックス席が並び、奥には宴会用の座敷がある店内はほぼ満席だった。ほとんどが大学生だろうか。賑やかな笑い声がそこかしこから聞こえる。バイトの店員は忙しそうに席を行ったり来たりしていた。

 刺身の盛り合わせが運ばれてくると、蓮花は僕に断ってからまぐろの赤身を取った。


「どうだった? 大学生活」


「まだ三年生だけど?」


「そんなこと言ってたら、すぐ四年生になっちゃうよ?」


 醤油をしっかりつけてから、まぐろを口に放り込んだ。


「それに、四年になったらもう授業もないし」


 蓮花の言う通りだ。暇な文学部は、人並みに真面目に授業を受けているだけで、三年生のうちに単位を取り切れる。四年に上がってから、就活と卒論以外にすることがない。右も左もわからないままオリエンテーションを受けていた一年生の頃が、まだ昨日のことのように思える。


「なんだか、無駄に過ごしてたような、充実していたような」


「え、どっち?」


「どうかな。充実してたのかな、きっと」


「ふーん。じゃあ、一番楽しかった思い出は?」


「一番?」


 思い出せそうとすればいくらでも思い出せる。そのどれもがモノクロで、すぐに消えてしまうものだった。

 でも、夏実との思い出だけは違った。数は少ないけど、どれも鮮明に思い出せる。手で触れるくらいに、ハッキリと。

 夏実のことを考えると、胸が苦しくなる。思い出の中の僕が笑顔になればなるほど、現実の僕が締め付けられる。罪悪感でいっぱいになる。

 しばらく経っても返事がない僕を、蓮花は心配そうに見つめていた。


「思いつかないの?」


「いや、どうかな」


 こういうとき、僕は間に合わせのことしか言えない。


「まだ卒業したわけじゃないし、これからもっといい思い出があるかもしれない」


 しかし予想に反して蓮花はニッコリ笑った。


「そうだよね。まだ終わってないよね」


 グラスを一気に飲み干して、力強く置いた。


「わたし達もまだまだこれからだよ」


「え? どういう?」


 蓮花は立ち上がると、僕の腕を掴んで席から引きずり出した。


「二軒目行くよ!」


「はあ」



 二軒目のバーを出たときには日付が変わっていた。夢中になって話し込んでしまった。十月にもなると夜は肌寒い。うっかり薄着で来てしまったことを後悔した。

 飲み屋街の狭い道を二人で歩いた。蓮花は両手に息を吐いている。淡いブルーのワンピースに、黒のニットだけでは寒そうだ。


「寒いね。もう手が冷たいや」


 ためらいもなく蓮花は両手で僕の手を取った。彼女の手は確かにひやりとしていた。


「間庭くんの手は、あったかいね」


 自分の体温と僕の体温を混ぜ合わせるかのように、蓮花は両手で僕の手を挟みこんでこすっている。

 その奇妙な動きをじっと眺めていたら、顔を上げた蓮花と目が合った。その大きくて丸い瞳はうるんでいて、僕は不意にドキッとした。それに呼応して、蓮花の目がさらに大きく開かれる。


「間庭くんってよく見ると、綺麗な目してる」


「言われたことないや」


「え、それはおかしいよ。絶対みんなそう思ってるって。普段眼鏡してるからわからないだけで」


「そうかな」


「ちょっと眼鏡外してみてよ」


「いいけど」


 言われた通り、僕は眼鏡を外した。ぼやけた視界の中でも、蓮花が微笑んでいるのはわかった。


「うんうん。間庭くんはコンタクトにした方がいいよ」


「ありがとう」


「ちょっと、眼鏡貸して」


「いいよ」


 渡してやると、蓮花はおもちゃをもらった子供のようにはしゃいだ。ちゃっかりかけてるし。


「どう? 似合う?」


「賢そうに見える」


 蓮花はその場をくるくる回り、ポーズまで決めている。


「ふふーん。あ、ふらふらする」


「ほら、返しなって」


 彼女は眼鏡をつけたままふらふらと寄ってくると、つまずいた勢いで僕に抱きついてきた。


「ほら言わんこっちゃない。危ないよ」


 立たせてやっても、蓮花はまだ何か企んでそうな笑みを湛えている。


「かけたげる」


「自分でかけるって」


「いいからいいから」


 蓮花は眼鏡を外し、両手で僕の顔にかけた。はっきりとした視界が戻ってきたと思ったら、強い力で頭が引き寄せられた。

 一瞬、平衡感覚を失った。気づいたときには、唇に柔らかい感触が残っていた。胸の奥に、甘くて苦い味が広がっていく。

 蓮花は俯いて黙っていた。体は震えていた。僕が先に動くのを待っているようだった。

 僕がするべきことは、蓮花の体を抱きしめて、もう一度熱く口づけをして、その後……。想像するのも恥ずかしいけど、とにかく今はそういう雰囲気なんだ。

 でも僕はその一歩が踏み出せなかった。心がブレーキをかけている。

このまま行ったら、後戻りできないような気がした。あまりモテない僕にとって願ってもないチャンスが目の前にあるのに、それを取るのが正しいのかどうかわからなかった。蓮花のことは嫌いじゃないし、つき合えたらきっと自慢できる。

でも、この期に及んで、僕は夏実のことが頭から離れなかった。このことを知ったら夏実がどんな顔をするか、そればかりが気になってしまった。


「間庭くん?」


 待ちかねた蓮花が不安げに僕を見た。心臓が飛び出てしまいそうだった。


「ごめん、心の準備が、まだ……」


 カチコチのロボットみたいな声になってしまった。


「ぷっ」


 なぜかそれが蓮花に刺さった。


「くっ、あっははは! なにそれー! 硬くなりすぎだよー!」


 腹まで抱えて大笑い。一気に周りの空気が弛緩した。


「間庭くんってさ、変なとこ真面目だよねー」


 蓮花は笑いながら僕の背中をバンバン叩く。

 ま、そういうとこがいいんだけど。と蓮花は付け加えた。


「悪かった」


「ううん。全然。わたしも少し飲み過ぎたのかも」


 蓮花は軽快な足取りで先を行く。


「今日は帰ろ。もう遅いし」


 街灯に照らされた蓮花の笑顔は、果たして本物なのか。僕には確かめようがなかった。

 これでよかったのだろうか。僕はとんでもない間違いをしたのではないか。不安で飲み込まれそうだった。

 そんな僕とはまるっきり対照的に、不自然なほどに、蓮花は明るく振る舞っていた。




 バイト先の控室で、僕は新しい店長に頭を下げた。


「すみません、明日のシフト出られなくなって」


「なんですぐ言わないの?」


 店長はいら立ちを隠さない。


「急に予定が入ったんで」


「代わりの人いるの?」


 椅子にふんぞり返り、デスクを指でとんとん叩いている。この様子だと、認めてはもらえなさそうだ。


「いや、みんなダメだって」


「じゃあ出てもらうしかないよね」


 店長は芝居がかったため息をついた。


「あのね、ホウレンソウは社会の常識だからね。君、もう就職でしょ? こんな前日になって言いに来るなんて、会社じゃ通用しないから」


 高圧的な物言いだった。でも、言っていることは正しい。


「……はい」


 僕は何も言い返せなかった。

 黙りこくっていると、ここぞとばかりに店長の嫌味が炸裂した。


「最近ボーっとしてることが多いんじゃない? 頼むよ? 仕事も雑だし。このところ売り上げも落ちてるんだから、バイトにも頑張ってもらわないと困るんだよ。学生だからって何もしないで許されるわけじゃないからね?」


「……はい」


 何もそこまで言うことないのに。

 店長は言うだけ言って、話は終わりだと言わんばかりに自分の業務に戻った。

 表に戻っても、気分は最悪なままだった。真田さんならふたつ返事で許してくれたのに。

 新しい店長が来てから、バイトに来る度に憂鬱な気分になる。これまで真田さんがフォローしてくれていたことが全部自分に返ってきた。不自由なことも増えた。真田さんなら、真田さんなら、と考えることはしょっちゅうだ。

 でもそれは、真田さんだからの話だ。新しい店長は何も間違ったことはしていない。僕が甘えていただけだ。わかっていても、それを反省させられるのは辛かった。

 ほんと、色々どうして上手くいかないのだろうか。



 蓮花と飲みに行ったあの日以来、彼女を研究室で見ることはなかった。一週間経っても、二週間経っても、一度も研究室には現れない。授業で姿を見ることはあっても、彼女は徹底的に僕を無視した。

あの一件を彼女がひどく気にしているのはよくわかる。そんな様子を見せられたら、こっちまでイケないことをしたようで、胸が変な鼓動を始めてしまう。

 相変わらず夏実は冷たいままだ。車もまだ直っていない。送って行こうかと連絡しても、拒否される。

 気持ちが浮かないまま十一月が終わり、十二月も中旬に差しかかろうとしていた。

 事件が起きたのは、退屈な授業を終えた僕が気まぐれに中央食堂に顔を出したときだった。


『いい加減にして!』


 入り口を前にして、空気が割れるような怒号が耳に入ってきたのだ。僕はその声をよく知っていた。今となっては懐かしい。

いや、こんな場所でこの罵声を聞いてはならない。僕は青くなって食堂に飛び込んだ。

 券売機の前で、夏実と数人の男子学生が言い争いになっていた。いや、正確には夏実が一方的に暴言を浴びせていた。


「さっきから聞いてれば、くだらないことぺちゃぺちゃと。あんたらは口から生まれてきたの? 後ろで待ってる人がいるってのに、どういうつもり!? 自分が偉くなったとでも思ってんの?」


「夏実、夏実! おい、やめろって」


 僕は慌てて止めに入った。自分でも理由はわからなかった。ほとんど直感だけど、あえて理由をつけるなら、夏実の様子は自分にも責任の一端があるように感じたからだ。

 夏実は僕に気づくと、うろたえた表情を見せた。しかしすぐに牙をむいた。


「間庭君はほっといて」


「ほっとけないって。とにかく落ち着いてってば」


 彼女の矛先から外れた学生たちは、どさくさに紛れて立ち去ろうとした。


「待て! 話は終わってないから!」


 それを夏実は見逃さない。学生はめんどくさそうに足を止めた。頭のおかしい人に絡まれたと、げんなりしていた。

 騒ぎに気づいた野次馬が少しずつ集まってきた。早いところこの場から離れなければ。僕は今にも殴りかかりそうな夏実の腕を掴んで押さえた。


「わかったわかった。わかったから落ち着いて」


「いいや、こいつらは一度本物の痛みを味わわないと分からない」


「ダメだよそんなことしたら」


「私はね、見てくれだけ飾って中身はスカスカの腑抜け野郎が地球上で一番キラいなんだよ!」


 いけない。このままだととんでもない暴言を吐いてしまう。


「いいから黙って!」


「黙るもんか」


 荒ぶる牛を押さえつけているみたいだ。力負けしそうになる。腕だけでは足りず、僕はとうとう夏実を羽交い絞めにした。それでも夏実は僕を引きずってでも学生たちに向かおうと拳を握った。

 それでも体格の差が勝り、僕は彼女を入り口まで引きずり出すことに成功した。しかしここでまだ夏実は踏みとどまる。油断も隙も無い。

 巻き込まれた学生は、自分らが安全圏にいることがわかったのかスマホを構えた。SNSにこの映像を投稿して、大量のいいねを狙っていることだろう。彼らにとっては、この手の騒ぎは格好のネタだ。その様子が火に油を注いだのか、夏実はこれまでにない怒りを発揮して叫んだ。


「思い知れキノコ頭! お前らなんかこの先も一人じゃ何もできない能なしのクズで、SNSの中だけでイキって底辺どもと傷をなめ合って死ぬときは誰にも悲しまれないカスみたいな生涯を送るんだよ!」


 学生たちはそれを笑って流していた。自分のことだとは思っていない様子だった。

 まだ何か言おうとする夏実を、僕は渾身の力で食堂から引きずり出した。これ以上は喧嘩以上の問題に発展しかねない。

 外にも野次馬が集まっていて、事態を把握しようと僕らに好奇の目を向けていた。僕は無視して、とにかく夏実を遠くに連れ出すことに集中した。おもちゃを買ってほしいと駄々をこねる子供に手を焼く母親の気分だった。

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