恨み
根耒芽我
恨み
父が亡くなった。
その顔は穏やかだった。
やっと、呪縛から解かれたのだと、私も安堵した。
父が自身の父親を亡くしたのは、私の年齢がまだ10歳にも満たない頃だった。
葬儀に一緒に出たのを覚えている。
祖父の骨を拾えと言われ、怖がりながらも
それをすべて拾わなければならないという使命感に駆られて、必死で使い慣れない長い箸に力を込めたのを思い出す。
それが祖父のモノではなく、ただの「骨」という物体なのだと、自分の目と指に言い聞かせながら。
母は、火葬場の職員の「後はこちらで…」という声と同時に私の肩を抱き
「きれいに拾ってくれてありがとう。おじいちゃんも喜んでいるよ」と優しく声をかけてきた。
母が、私の気持ちをわかっていたのかどうなのかはいまだにわからない。
もしくは、私が思いもよらないようなことを考えていたのかもしれない。
母はその後、数年のうちに身体を壊し、
私が中学生となったころ、病院で息を引き取った。
最後のほうは、あまり私に会いたがらなかったという。
「きっと、あの子にとっては怖い姿になっているだろうから」と言って。
とはいえ、医者から「家族の皆さんを呼んでください」と言われた父は、私を連れて母の枕元に立ったのだ。
ふくよかだっただったはずの母の身体はやせ細っていた。
母は、自身の母親を病室に呼ぶことを拒んだ。
「あの人は心配性だから」と言って。
母が息を引き取った後、父はその祖母から葬儀場で罵倒された。
「自分の娘の死に目にも会えないなんて!なんで呼んでくれなかったの!」と。
酷い、人でなし。そんなだから、あの子はあなたのことを…
そんなことを言いながら泣き崩れた祖母を、私は何の感情もなく眺めていた。
父は何も悪くないのを知っていたから。
それでも、父は親族がいなくなった部屋で、壁に拳を何度も打ちつけていた。
無表情のまま、無言で。
そして私の手の中には、母から託された一個のお守りが残っていた。
「あなたのお父さんも、いずれ亡くなる時が来るから。そうしたら、この中身を見てみて。それまでは、大切にとっておいてね。お母さんの最後のお願いよ」
父がほんの数分、病室を離れたときに。
小さな声で囁きながらそっと手渡された。
母のやさしさなのだと、うれしくも悲しかった。
そんな祖母も、母が亡くなってから数年して、介護施設で静かに息を引き取ったそうだし、それを追うように祖父も亡くなった。
母方の祖父母の葬儀なのに、なぜか喪主は父だった。
「他にやる人がいないからね」と、父はため息交じりに言っていた。
母には兄がいて、私はそのいとこともよく遊んでいたはずなのに、そのころには全く音信がつかない状況だったようだ。
どこで何をしているのか、父にもわからなかったようだ。
なのに。遺産整理をしていた頃にひょっこりと連絡がついたそうだ。
父は何の迷いもなく、叔父一家に一任してしまった。
つまりは、自分は一銭ももらう気はない。という意思表示をしたのだ。
結果として、どういう理由なのかははっきりと父は言わなかったのだが
叔父一家がすべてを引き継ぐということで話はついたらしい。
「お母さんのお兄さんの家はいろいろと大変らしいからね」
とだけ言っていた父は、面倒ごとばかり背負い込まされただけで、おいしいところはすべて持っていかれたようなものだった。
私は、といえば
高校卒業後は推薦で大学に入ることができ、何となく4年間を過ごした末に就職口も何とか見つけ、父とは離れて暮らし始めていた矢先だった。
父は一人で入院し、療養していた。
「オレのことはいいから」といって、見舞いにも来なくていいという。
そうはいっても、できるだけ見舞いにはいくようにしていた。
そしてぽつぽつと、こんな言葉を残していた。
「お母さんの呪いみたいなものだからね」
呪いとは?と聞き返しても、こちらの言っていることが聞こえているのかどうなのか、父は何も答えなかった。
痛み止めが効かなくなってきた頃に、医者から言われた。
「強い薬を入れるようになると、意識が朦朧としてきて、まともに話もできなくなってしまうかもしれないから」
今のうちに、大事なことはきちんと話しておいた方がいい。
暗にそう言われた。
「オレが悪いのかよっ!」
強い薬を入れるようになると、父は看護師さんの姿を見るにつけ、そう言いながら相手を罵るようになったという。
「オレはあんなにしてやったのに。オレはお前らのために家を買ったんだぞ!借金も背負った!貯金は全部はたいた。それでもまだ気に入らないのかっ!」
父が吐露した言葉たちを看護師さんから聞いて、思い出したことがある。
新築住宅を購入してすぐの頃だった。
母と父の喧嘩が絶えなかった。
絶えなかった。というよりは、静かにじわじわと進んでいたのだ。
父と母は罵り合うようなことはしなかった。
ただ、二人とも不機嫌な顔をして、とてもとても冷たい空気の中で無言のまま過ごすのだ。目も合わさず、言葉も交わさず。なのに私との会話は進んでいく違和感。
とても怖かった。
時には母が折れてみせ、
別のときには父が私と二人で外出し、
そんなことを積み重ねていくうちに、気がつくと普通に戻ったように見えていた。
でも、それは、見えていただけだった。
明らかに母はそれを境に、父とのふれあい方が変わったのだ。
うまく言葉にできないが、それはもう、夫婦と言うよりは「同居人」に寄せる情以上のものはどこにもなくなっていた。
母は仕事を始めた。
仕事はかなり順調で、職場でも母の評判はよかったようで、在宅をしながらさまざまな業務をこなしていたようだった。
そのころから、母も父へ冷たい視線を投げる回数が減ったような気がする。
それでもまだ「同居人」以上の情は出ては来なかったと思う。
その理由は知っている。
母は言ったのだ。死に際に。私と、父の前で
「うれしいでしょう?私に『死ね』って言ったんだから。実現できてよかったわね」
その視線は、父だけに向けられていた。
その眼球は、父だけをとらえていた。
その言葉は、父にだけ投げられていた。
「そんなこと、言ってない」
絞り出すように言った父の言葉を、母が遮った。
「そう。あなたはそういう人。」
そして目を閉じていった。
「でも私はちゃんと覚えている。私と娘が寝たとでも思ったんでしょうね?寝室に入ってきて言ったのよ。『死ね』って。それも、間を空けて、かみしめるように、三回も。『死ね。…死ね。…死ね』って。」
父はもう、何も言わなかった。
「だからね。三回も言ったことが現実になって、さぞうれしいでしょう?よかったわね」
それから、私を見た母は微笑んでいた。
「だからお母さんね。お父さんに何を言われても『私に向かって死ね。って言った人間が何を言っているんだ』って思って生きてきたの。いいことを言われても悪いことを言われても、すべて。『でもこの人は私に向かって三回もかみしめるように死ね。っていった人間なんだから』って思うと。あらゆることがリセットされるの。」
そしてもう一度目を閉じた。
「絶対に許さないし。私とあなたに対する責任を果たすまで、そこから逃げようだなんてことは絶対にさせないって。決めて生きてきたのよ、私」
そして最後に言ったのだ。
「死んだって許さないからね」
あぁ。そうか。
父は、死んだ母から許されてはいないのだ。
許されないから、まだ、妄想の中でももがいているのだ。
「死ね。なんて言ったの?本当に」
父にそう聞くことはできなかった。
少なくとも、母が死んだ後に父から「死ね」などと言う言葉を聞くことはなかったから。
父の呼吸が少なくなったと病院から呼び出され、慌てて行った病室で、父が最後に言った言葉がある。
「これで満足か」
目を開けることはなかった父だが、口元だけでそう、呟いていた。
葬儀は私だけで、小さく小さく済ませた。
父の遺言でもあった。
母の親族である叔父一家の連絡先は結局のところ分からなかった。
父は小さな遺言ノートを残していた。
「母方の親族は探すな。ろくなことはない」とだけ書かれていた。
父方の親族へは、葬儀を済ませた連絡を兼ねてはがきだけ送った。
諸々のことが終わって、一段落したころに
母から託されていたものを思い出した。
自分の部屋の、宝物箱にそっと入れておいたお守り。
それは母が手で縫い合わせたであろう小さな布袋に入っていた。
紐をほどいて、中を見る。
小さな紙が入っていた。
それを、開ける。
「死ね」
心臓をつかまれたような気がした。
そしてそれは、自分が書いた字だということも
瞬時に思い出してしまったのだ。
アレは中学生になって間もない頃。
反抗期を迎えていた私は、口うるさい母に直接苛立ちをぶつけることができなかった。
だから、
手元にあった紙に書き殴ることでストレスを発散していた。
死ね
死ね
死ね、死ね。
それはリアルな「死」を望んでいたわけではなく、
ここからいなくなって消えてくれさえすればいいという、反抗期特有の子どもの身勝手な願望だ。
本当に死を望んでいたわけでは…
その中に、もう一枚紙が入っているのが見えた。
恐る恐る、それも開けてみる。
「許されると、思うなよ」
全身の力が、冷たく抜けていくのがわかった。
恨み 根耒芽我 @megane-suki
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