第10話
玲奈が学校に行くと言い出し、妙子は朝から機嫌が良かった。
良かった。そっとしておいて正解だった。自分だって子供の頃は、親に悩みを打ち明けようとは思わなかった。ティーンの悩みはコンパクトで、親が解決できるほど単純じゃない。
「おばさん、何かいいことでもあったの?」
さすが安藤は鋭い。早速新幹線で突っ込まれた。この日は安藤の美容整形の日で、妙子は九時に家を出た。
「玲奈が学校に行くって。今日、やっと降りてきてくれたの」
「やっとって、いつぶりなの?」
「一週間ぶり」
「なんだ、大したことないじゃん」
「そうね。おばさん、心配しすぎてた」
顔を変えるというのに、安藤は落ち着いていた。クリニックの前に到着し、妙子の方が怖気付いた。
「平気? 怖くない?」
「怖い。可愛くならなかったらどうしよう」
妙子は涙を堪えた。細い体を抱きしめる。
「おばさん、可愛くならなかったら、また来てくれる?」
「援交はやめなさい」
「もうしてないよ。おばさんち、通ってないでしょ」
通行人が無遠慮な視線を寄越してくる。美容クリニックの看板と何度も見比べる者もいた。害悪な視線にこれ以上彼女を曝したくない。妙子は「行こうか」と手を引いた。通行人には、ひどい母親だと思われるかもしれない。
「お母さん、なんて言うかな」
安藤はガチャピンのような目になった。ここから可愛くなれるのか、妙子は早速日焼け男の腕を疑った。
「お母さんに何か言われたら、おばさんと一緒に行ったって、正直に言えばいいからね」
妙子は腹を括った。
「言わないよ。近所付き合い悪くなったら嫌でしょ」
「ありがとう」
助かった。
「また整形したくなった時、おばさんに頼れなくなったら困るしね」
少しだけ、安藤は明るくなった気がした。妙子も優しい気持ちになる。
「早く腫れが引くといいね。可愛くなったら、うちへ遊びにおいでね」
玲奈と仲良くしてくれたら良いと思った。もう安藤は援交なんてしないだろうし、顔に自信を持てば他人に優しくなれるだろう。玲奈の話し相手になってほしい。
「うん。お母さんの第一声、教えてあげる」
安藤はそう言うと、トボトボと自宅へ帰っていった。
この日は一週間ぶりに三人で食卓を囲った。会話はなかったが、妙子は家族が揃っただけで嬉しかった。奮発して、バーモントカレーに牛肉を入れた。誰も「今日は牛肉なんだね」とは言ってくれないが、美味しく食べているならそれで良い。
ふと玲奈の鼻の下に目がいった。おやと思う。たしか小さなほくろがあったはずだ。
「自分で取ったんじゃない?」
安藤はぱっちり二重になった。目を変えるだけで人はこうも変わるのかと、妙子は驚くと同時に、その人智に感動した。大袈裟ではなく、美容整形は人命を救う医療だと思った。
「だって鼻の下でしょ。私だったら取っちゃうかな。『鼻くそついてる』っていじられたくないし」
胸がキュッと締め付けられた。子供はなんて残酷な生き物なのか。
玲奈はいじられたことがあるのかな。なくても気にしていたんだろうな。妙子は暗い気持ちになった。
しかし安堵もした。玲奈は目や鼻ではなく、ほくろを気にしてたのだ。本人にとっては深刻な悩みかもしれないが、安藤の整形に付き添った今では、どうしても些細な問題に思えてしまう。
言ってくれたら良かったのに。ほくろ除去くらい許してあげたのに。
「でも、ほくろって根っこがあるんでしょ。表面を削ってもそのうち生えてくるよ」
妙子も同じことを思った。消えたように見えても、ほくろは根深く残っているはずだ。いずれ元に戻る。その時、玲奈はきっと傷つく。そして同じことを繰り返す。鏡に向かう玲奈を想像しただけで胸が張り裂けそうになった。次は病院に連れて行こう。妙子はそう心に決めた。
安藤が帰った後、妙子は玲奈の部屋に入った。換気が悪く、ムンとすえた臭いがした。窓を開けたい衝動に駆られたが、部屋に入ったことを玲奈に知られたくなかったので、我慢した。
勉強机の上には鏡があった。前に見た時と寸分違わぬ位置である。ちゃんと勉強はしているのか。ふとそんな疑問が芽生えた。高校入試までは半年を切っている。
引き出しを開けていく。レターセットや筆記用具、細々とした雑貨類と一緒に、絆創膏が入っていた。極小サイズから大判、キズパワーパッドまで。自分でつけた鼻の下の傷を、早く直そうとした形跡に、妙子は涙を堪えた。
キズパワーパッドなんて、高いじゃないの。友達とプリクラを撮るとか、映画を観るとか、お小遣いはそういうことに使いなさいよ。こういうことならお母さん、特別に買ってあげるから……
パッケージを撫でる。手に取り、中を見た。首を傾げる。中のものを、手に振り落とした。これは一体なんなのか。三日月型にカットされている。爪の先ほどの大きさだ。
「自作アイテープでしょ」
一ヶ月ぶりにうちへ来た安藤に相談すると、彼女は当然のようにそう言った。
安藤はさらに可愛くなった。むくみが完全に取れたのだ。
「アイテープ? アイプチみたいなもの?」
「そう。アイプチは糊だけど、アイテープはテープをくっつけるの」
はあ、気の抜けた声が出た。目を二重にする方法にも、いろいろあるのか。それに「自作」とは恐ろしい。きっとまぶたに負担が掛かる。
「学校で流行ってるの?」
「知らないよ。行ってないもん。でもやってる子はいたよ。みんな家でこっそりやってるんじゃない? ずっとやってたら二重になれるって噂もあるし」
「そうなの?」
「どうなんだろうね。皮膚が伸びるだけじゃない?」
妙子は暗い気持ちになった。玲奈は夜な夜なまぶたにテープを貼っているのだろうか。どちらにしろ、目にコンプレックスがあることは間違いない。
「安藤さん、整形してどう? 満足してる?」
妙子が問うと、安藤はムッとした。安藤は表情も豊かになった。それも含めて彼女は随分可愛くなった。
「当たり前じゃん。おばさん、前の顔見てるでしょ。どう見たって大成功じゃん」
妙子は微笑んだ。
「安藤さん、本当に可愛くなったものね」
「うん。おばさんのおかげ」
安藤ははみかみ、サッと俯いた。肩口を震わせ、涙を拭う。
「おばさん、可愛くしてくれてありがとうね」
妙子も涙が込み上げた。女の子は可愛い方がいい。可愛ければ他人に傷つけられることも、自分を蔑むこともない。何より選択肢が増える。安藤は前髪を短く切った。とても似合っていると思った。
その日の夜、妙子は玲奈の部屋をノックした。「なに」とぞんざいな返事にやや怯んだが、気合を入れ、ドアを開けた。
玲奈はベッドの上で、うつ伏せで漫画本を読んでいた。取り繕った姿勢に見えた。勉強机の上には絆創膏の箱がある。妙子がチラリと勉強机を見ただけで、玲奈は「ねえなにっ!」と気色ばんだ。
改めて娘の顔を見る。鼻の下に、小さな点があった。愕然とした。あんた、もう生えてきたの。なんでもう少し引っ込んでられないの。妙子は空気の読めないほくろを恨んだ。
「玲奈」
玲奈は無視し、漫画本を向いた。
「美容クリニック、行こうか」
玲奈は弾かれたように顔を上げた。妙子は眉根に力を込めた。どこかに力を入れなければ、立っているのもおぼつかない。
「お母さん、お金出してあげるから、整形しようか」
玲奈は両目をひん剥いたままフリーズしている。妙子は根気よく待った。
やがて、玲奈はあんぐりと開いた口をゆっくりと閉じ、ゴクリと唾液を飲み込んだ。
「いいよ」
そっけなく答えてしまうと、玲奈は再び漫画本に目を落とした。
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