第7話
夕食の時間になっても、玲奈は降りてこなかった。呼べば返事は返ってくる。でも降りてこない。
「ねえ、玲奈、どうしたのかしら」
夫に聞く。今日のメインは酢豚だが、夫が酢豚と認識しているかは謎である。夫は妙子が出したものを黙々と食べるだけで、「おいしい」とも、「これなに?」とも言わない。いつも玲奈が聞いてくる。
「まだ腹が減ってないんだろう。間食したとか」
妙子は食事を持って行くことにした。茶碗に白米をよそう。
「引きこもりになるぞ」
「体調が悪いのよ。学校を休んだの」
「なんだ、風邪か。なら寝ていたいんだろう」
夫は食卓に常備してある大袋のかつお節を手に取った。
「それ、ケンジの」
「知ってる」
袋にはアメリカンショートヘアがプリントされている。ケンジと違い、目がまんまるで、愛くるしい。夫はそれ開け、湯豆腐にかけた。
かつお節の匂いを嗅ぎつけ、ケンジがやってきた。玲奈の椅子に飛び乗り、食卓に前足を掛け、夫に顔を突き出す。
「ケンジ! 机に乗ったらダメでしょう!」
妙子はケンジの背中をペシっと叩いた。ケンジが慌てて机を降りる。ランチョンマットに猫砂が落ちた。
「そんなに怒らなくたって良いだろう。なあ? ケンジ」
ケンジは夫の膝の上に避難していた。湯豆腐に乗ったかつお節をぺろぺろと舐めている。
「それ、ちゃんと食べてよ」
夫は返事をしなかった。残したら明日の味噌汁に入れてやる。
妙子は食事を持って二階に上がった。玲奈の部屋に聞き耳を立てる。何も聞こえない。「玲奈?」声掛けした。
「置いといて」
言われた通りに床に置く。これでは本当に引きこもりである。
「今日は酢豚だからね」
「うん」
「熱はどう? 冷えピタいる?」
「まだちょっとダルい。冷えピタはいらない」
明日も休むつもりなのか。妙子はますます不安になった。我が娘にも整形願望はあるのだろうか。あるとしたら、変えたいのはどこか。目か、鼻か、輪郭か……やめよう、母親が考えることじゃない。
この日はなかなか寝付けなかった。浅い眠りの中で見たのは、玲奈と美容クリニックに行く夢である。玲奈はエラ削りを希望した。日焼けした医師は「大人になってからにしよう」と断ったが、玲奈はどうしてもやりたいと泣き出した。
カラスの鳴き声で夢から覚めた。妙子は起きることにした。下へ行くと、玲奈がパソコンの前に座っていた。一体何を調べているのか。胸の中でさざ波がたつ。
「あら玲奈、起きてたの」
できるだけ明るく声を掛けた。玲奈はビクッと振り返り、慌ててパソコン画面を切り替える。
「別に」
俯きがちに二階へ行こうとする。鼻の下が赤かった。
「玲奈、その顔どうしたの?」
自然と言ってしまった。
あれ、そんな顔してたっけ? マスクを外した玲奈が同級生にかけられた言葉を思い出し、妙子は脈が早くなった。「鼻の下」と付け足す。
「うるさいっ! ほっといてよ!」
玲奈は二階へ駆けて行った。ピンク色のキティのパジャマ。玲奈は女の子らしく可愛いものを好む。プードルを飼ったら、洋服をたくさん着せたいと言っていた。
妙子はパソコンの前についた。我が家は一台のパソコンを三人で共有しているが、アカウントは別々だ。したがって玲奈が何を調べていたのかを知るには、まず玲奈が設定したパスワードを入力する必要がある。試しに名前と生年月日を入れてみる。違った。お手上げである。妙子は自身のアカウントに入り、発言小町を開いた。
「娘、不登校」と打ち込む。五百件以上のヒットがあった。同じ悩みを持つ母親がこれだけいるのだ。それだけでも励みになった。
しかし「不安神経症」とか、「強迫性障害」とか、物騒な単語が目についた。どうも、世間の母親は子供が休みがちになると、精神科を受診させるようである。妙子は憂鬱になった。美容クリニックに行く夢を見たばかりである。
「娘が不登校にならないか心配です」というフライング相談もあった。しかもまだ生後二ヶ月だという。相談者は過去に整形しており、イケメンの旦那と結婚したが、娘は自分の遺伝子を受け継いでしまった。いずれ自分の顔に悩むと思う。そしてブスな母親を恨むと思う。涙声が聞こえてきそうな文章だった。
それに対するレスは手厳しいものばかりだった。中には優しいものもあったが、「成長したら顔は変わりますよ」という的外れな内容に、妙子の方が腹が立った。妙子ですら、「昔は可愛かったのに」と親戚中に同情されたのだ。
「私にも高校生の娘がいます。毎日アイプチをして登校しています。どうしても二重整形をしたいと言うので、仕方なく美容整形外科に連れて行きました。毎日アイプチをするより、糸で留めてしまった方がまぶたへの負担が少ないと説明され、その日のうちに施術を決めました」
アイプチが分からず調べると、まぶたに糊を塗って二重線を作る美容アイテムだとわかった。どう考えても皮膚に悪そうである。そんなものがドラッグストアで簡単に手に入る時代なのだ。日本人の二重信仰もここまできたかと、妙子は悲嘆にくれた。世間はブスにブスと自覚させるだけでなく、とうとう変化まで求めるようになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます