第5話

 玲奈が休みたいと言い出した。この日はパートが休みで、安藤と東京に行く約束をしていた。もちろん家族には秘密である。


「お母さん、職場の人と買い物に行くけど、一人で大丈夫?」


「うん」


「やっぱり家にいようか?」


「いいよ、一人で大丈夫」


「熱、何度だったの?」


 妙子が手を伸ばすと、玲奈はふいっと顔を背けた。仮病だろうか。眉間に立派なニキビがある。


「37・4。吐き気もする」


「そう。本当に一人で大丈夫? お母さん、遅くなるけど」


「大丈夫だって」


 玲奈はさっさと二階へ上がって行った。一人部屋を与えたのは失敗だったかな。今更そんなことを思った。頭に浮かぶのは、鏡を覗き込む娘の姿ばかりである。


 妙子は九時に家を出た。安藤とはバス停で待ち合わせしている。東京に行くというから、てっきり着飾ってくるのかと思ったら、安藤はいつもの学生服にパーカー姿で現れた。しかもマスクをつけている。


 妙子はツイードのジャケットに、ロングスカートを合わせた。首にスカーフも巻いた。精一杯のおしゃれだった。


「風邪ひいてるの?」


 妙子が聞く。安藤はかぶりを振った。


「ブスを晒して歩きたくない。何かに映り込むかもしれないし」


 妙子は衝撃を受けた。自分にはない発想である。


「おばさんはいいね。人にどう見られるかとか、考えないんだ」


 妙子の全身コーデを侮辱するようなことも言った。ムッとする。人に見られることを意識して、この格好を選んだのだ。ただ、怒りよりも憐れみの方が大きかった。彼女は普通の女子中学生が憧れるような、竹下通りに行くとか、プリクラを撮るとかを、自分には無縁のものだと決めつけている。


 ヒヤリとした。玲奈はどうだろう。部屋に、プリクラはあっただろうか。


 二人でバスに乗り込み、駅を目指す。東京へは、新幹線で一時間だ。自由席に並んで座る。安藤は妙子をシャットアウトするように携帯をいじり出した。妙子は仕方なく文庫本を取り出す。夫の本棚から適当に選んだものだ。老眼だろうか、活字がぼやけて見えた。現実を直視するのが怖くなり、閉じた。どうせ読み切れやしない。小説なんて、十何年も読んでいない。


 安藤は目的地がはっきりしているようで、妙子は付いていくだけだった。


「美容クリニック」とガラス窓に書かれたビルの前で、安藤は足を止めた。


 妙子はようやく理解した。彼女が、妙子に付き添いを望んだ理由。大人がいないとできないこと。


「おばさん、いいよね?」


 安藤は「美容クリニック」を見上げながら、言った。


「いいよねって……だ、だめに決まってるでしょう。お母さんに知られたら、大変なことになるわ」


「それはおばさんの都合でしょ。私の気持ちを尊重してよ」


 安藤はこちらを見ると、マスクをずり下げた。


「私、わかってるんだからね。おばさんが私のこと、ブスだって思ってるの。私はブスの教科書なの。顔面凶器なの」


「それ、学校の子に言われたの?」


 安藤は胸を反らした。大きく息を吸って吐く。


「おばさん、なんでうちの前に越してきたの? 別の所に住めば良かったじゃん」


 この子は何を言い出すのか。妙子は胸騒ぎがした。あの家は、妙子が子供の頃に夢見たマイホームとは程遠いけれど、三人家族が暮らしていくのには十分な、大切な家だ。夫は二千万の買い物を嫌がった。でも、本当に金額だけが問題だったのか。夫にだって、子供の頃に描いた理想の家があったはずだ。小さな建売住宅の購入は、身の程をわきまえ、夢を諦めることでもあったんじゃないか。夫の葛藤を、妙子は知らない。ただ購入を決断した時の夫は、どこか吹っ切れたような、清々しい表情をしていた。妙子は幸せを感じた。他人からしたら、大したことはないかもしれない。でも、これが自分にとっての最大の幸福なのだと納得し、楽になった。


「ブスの人口密度が高くなっちゃったじゃん」


「それも、学校の子に言われたの?」


 声が掠れた。玲奈も、同じことを言われているのだろうか。


 安藤はそれには答えず、「十一時にカウンセリングの予約してるの。おばさん、一緒に来て」と言った。

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