第3話
今日もカラスの鳴き声で目を覚ました。昨日、役所に電話で相談したら、今日、早速注意に来てくれるという。こんな簡単なことだったのかと、妙子は拍子抜けする思いだった。同時に役所を見直した。役人に労いの気持ちを抱いたのは、生まれて初めてのことである。
まだかまだかと様子を伺っていたが、午前中にそれらしき人物が川島宅を訪ねることはなかった。今日は残念ながらパートである。妙子は仕方なく家を出た。パート先のスーパーまでは自転車で十五分。そういえば、今日は新しい人が入る日ではなかったか。中学生の子供を持つ四十代と聞いている。面接を偶然目撃したパートの印象は、感じのいい綺麗な人、だった。常識人ならなんでもいい。昔は美人に気後れしたが、もうそんな歳でもない。それに経験上、ブスに辛く当たるのは美人ではなくちょいブスだ。
裏口から事務所に入る。背の高い女がいた。妙子に気づくなり、「初めまして、赤堀です」と腰を低く頭を下げる。背骨が浮き出ていた。妙子も釣られて頭を下げる。
「萩尾です。よろしくお願いします」
「ああ、萩尾さんですね! 私も中学生の娘がいるんですぅ!」
パッと赤堀の顔が華やぐ。黒髪のベリーショートで、二重国籍の国会議員を思い出した。
「私、萩尾さんに教えて貰えばいいのかな? 店長には『一緒になった人に聞いて』って言われてるんだけど」
赤堀はごく自然にタメ口を使った。苦手意識が芽生える。声が大きいのも気になった。
「あ、じゃあ一緒にやりましょうか」
赤堀を連れてレジに入ると、反対側のレジにいた女の社員に「ちょっと、勝手に赤堀さん、連れ出さないでください」と怒られた。
「なんで萩尾さんが教えるんですか。赤堀さんには私が教えます」
女の社員は目尻を吊り上げてそう言うと、「じゃ、赤堀さんはこっち」と、赤堀には愛想よく微笑んだ。赤堀はニコニコと笑っている。妙子と目が合うと、眉根をキュッと寄せ、申し訳なさそうな顔をした。ごめんなさい、なのだろうが、豊かな表情に腹が立った。こっちは表情を殺して生きてきたのだぞ。そんな顔で許されたことなど、一度もないぞ。
いかんいかん。卑屈になるな。妙子は心を無にして仕事をこなした。こっちのレジ、空いてますよ。客にテレパシーを送るが、妙子のレジが混雑することはなかった。
帰宅するなり、発言小町を開いた。昨日の相談に、六件レスがついていた。順に読んでいく。たちまち顔が熱くなった。
「主さんは見えないものが見えてしまうタイプでしょうか? 精神科の受診をお勧めします」
「援交と決めつける根拠はなんですか? それはバイト先の先輩かもしれないし、親戚のおじさんかもしれません。勝手に援交と決めつけられて、その子が可哀想」
「他人を監視するしか趣味がないんですね。陶芸でも初めてみたらどうですか?」
暇人が偉そうにっ! アンタらだって趣味がないからこんなところに書き込んでるんだろうっ!
妙子は鼻息を荒くした。
ただ、中には真っ当な回答もあった。
「不法侵入なので、注意するべきだと思います。私ならはっきり迷惑だと言います。我が物顔で敷地内を歩かれるなんて許せない」
その通りだと思った。やはり、言うしかないのだろうか。
「実害がなければ放っておきます。そのうち入らなくなりますよ。その子は善悪の区別がついていないだけだと思います」
そうかなあ。確信犯だと思うんだけど。
「注意しなくても、声を掛けてみてはどうですか? それだけでも抑止力になると思います」
そうか、声を掛けるだけでもいいのか。それなら自分にもできる気がする。
エンジン音が聞こえ、妙子は飛び上がった。窓へ飛びつく。昨日とは別の車から、安藤が降りてきた。目を凝らす。運転席にいるのは三十代くらいの冴えない男だ。ふん。あんなの援交で決まりだろう。後ろめたいから人の家の前で車を降りるのだ。
妙子は玄関へ向かった。軽く深呼吸し、ドアを開ける。
ジャストタイミング。安藤は正面にいた。肩にトートバッグを掛け、パーカーに両手を突っ込んでいる。妙子はにっこり微笑んだ。安藤は不測の事態にフリーズしている。
「あら、安藤さん、うちに何か用? 玲奈ならまだ帰ってきてないけど」
困るがいい。妙子は更に言った。
「寒いでしょう。よかったらうちの中に入って」
安藤は「はあ」と気の抜けた返事をし、のこのこと家の中に入ってきた。驚きである。もっと動揺して、「いいです、いいです」と拒否すると思っていたのに。
「玲奈ちゃんの部屋、どこですか」
安藤が気怠げに聞いてくる。
「あ、勝手に入ったら怒るかもしれないから、ここで待ってて」
背中に汗が噴き出した。まずい。このままでは、援交少女と玲奈が接触してしまう。感化されたらたまらない。まったく、余計なことをしてしまった。
「あ、玲奈、今日は委員会があるって言ってたっけ。遅くなるかもしれない」
「はあ」
帰らんかい。妙子はヤキモキした。安藤はソファに座って携帯を弄っている。玲奈には高校生になるまで我慢しなさいと言ってある。あれがなければ悪いことはできまい。妙子はそう自分を励ました。
早く帰って欲しいと思いつつも、一応自分が招き入れた客なので、お茶とお菓子を出した。安藤は頭も下げない。妙子は安藤の斜め向かい、絨毯に正座した。気まずい空気を全身で醸し出す。
よく見ると、安藤は可愛くなかった。ブスの部類だ。これなら玲奈の方がよっぽど可愛い。
「おばさん」
安藤が急に顔を上げ、妙子はビクッと背筋を伸ばした。
「な、なに?」
まさか、心の声を聞かれたか? ブスには人の心を読む超能力がある。ただし、ブスを自覚している者に限る。
「私ね、本当は姉妹なんだ。上にお姉ちゃんがいるの」
妙子は首を傾げる。
「東京にいるみたいなんだけど、連絡がつかないんだ」
「そう……」
「おばさん、一緒に東京行ってくんない?」
なぜ。妙子は目を見張った。
「嫌?」
「嫌じゃないけど、どうしておばさんなの?」
嫌かと問われたら、嫌じゃないと答えてしまう性分である。
「だって、お母さんに言っても、どうせ反対するに決まってるから」
安藤は肩をすくめた。
「それじゃあ、おばさんが安藤さんのお母さんに怒られちゃうわ」
一人で行ってこい。援交するより簡単だろう。そう喉元まで出かかった。
「大丈夫だよ。うちのお母さん、気が弱いから。他人に口出しできないの」
安藤は台所を振り返った。目を眇め、小窓を睨む。卑屈に唇の端を上げ、言った。
「お母さんね、リビングに日が入らなくなったってずっと怒ってたんだから。あんなところに窓なんか作って、どういうつもりなんだって。でも直接は言えないの」
安藤はクククッと肩を揺すった。妙子はワンテンポ遅れて彼女の言葉を理解し、鼓動が早くなった。うちは、裏の家にそう思われていたのか。建売なのに。
「うちはここに建てられた家を買ったのよ。建てたわけじゃないの。あの窓も、別におばさんがつけたくてつけたわけじゃないのよ」
「そんなこと私に言われても困るって。お母さんに直接言ってよ」
生意気なガキだ。妙子の中で、残酷な気持ちが動いた。
「安藤さん、援助交際してるでしょう」
安藤の顔から感情が消えた。動揺しているようには見えない。だから何、とでも言うような、ふてぶてしい真顔だ。
「いつも、うちの前で車を降りるでしょう。それで、うちの敷地を通っていくでしょう。あれ、やめて欲しいの」
なんとか言ったらどうなのだ。安藤はジッと妙子を見つめたまま、無言を貫く。妙子の方が居た堪れなくなった。
その時、どこからともなくケンジが現れた。安藤の元へ行く。安藤は瞳だけでケンジを見ると、「かわいくない猫」と言った。
「そんなこと言わないでよ」
妙子は媚びるように笑った。
「おばさんが選んだの?」
「そうよ。夫はマンチカンが良いって言ったんだけど」
「玲奈ちゃんは?」
妙子は記憶を辿った。
「玲奈はプードルが良いって。ティーカッププードル」
安藤は鼻で笑った。ムッとしたが、妙子は我慢し、明るく返した。
「でもプードルって高いのよ。大きくならないプードルなんて四十万円もするんだから。私、びっくりしちゃった。エルメスが買えるじゃない」
「エルメスは四十万じゃ買えないよ」
知るか。妙子は口を結んだ。
「この猫で良いと思う。ブスな飼い主が可愛いプードルなんて買ってたら笑っちゃうもん。え、自分ブスのくせに、ペットには可愛さを求めるんだ! って」
妙子は勢いよく立ち上がった。怒りで全身がブルブルと震えた。鼻息荒く、安藤を見下ろす。
決めた。今夜裏の家に行く。お宅の娘さん、援助交際してますよ。いつもうちの敷地を我が物顔で通っていくので不愉快です。
建売というのも伝えよう。うちは売られている家を買っただけですよ。住宅地なんだから、目の前に家が建つのは当然でしょう。日が入らなくなった? それなら頑張って南側の家を買わないと。
ふと、安藤の髪の毛に白いものが混じって見えた。女子中学生なのに、白髪があるのか。妙子は憐れみを覚えた。
「怒んないでよ。私だってプードル飼う資格ないんだから」
安藤は俯いたまま言った。彼女の憎まれ口の源が、その恵まれない容姿にあるのだと思ったら、鼻の奥がツンとした。彼女は、どれだけ辛い思いをしてきただろう。
「東京、行こうか」
妙子は優しい気持ちになった。自分は大人で、彼女は子供なのだ。安藤が顔を上げる。虚ろな目を、逆さまつげが囲っている。
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