14 忘れないよ
案の定と言うのか、ラッシアはクレスの決断に涙した。
クレスはおろおろして、謝罪の言葉を繰り返すしかできなかった。
女の人を泣かせたことなど、数日前までなかった。菓子を土産に買ってきたときのような喜びを伴う涙ならばともかく、これはそうではない。
母を泣かせた理由については、全面的に自分が原因だと言える。
意味のないたとえだが、もしもクレスが攫われることなく二十年近い時間を共に過ごしていたとしても、家を出ると言えばラッシアは泣いただろう。
しかし、継ぐような家がなければ、成人した子供が家を出て行くのは当然のことでもある。ラッシアは最後にはそう言って、クレスの出立を認めてくれた。
それから家族は、なるべく一緒に時間を過ごした。
どうやら末娘には魔力があることが判明してひと騒ぎだったが、大した力ではないようだった。最低限の勉強こそ必要だが、特に協会に義務を負うこともなく、よくも悪くも「魔術師として仕事ができるほどではない」ということだ。
それより問題はアルンだったが、ぬいぐるみは魔術師協会が預かることとなり、ミーエリエの手元に返ってはこなかった。少女は非常にしょんぼりとしたものの、新しいぬいぐるみを買うことで話をつけた。
次のぬいぐるみは喋らない――はずだ――が、ミーエリエがそれを受け入れていくまで、両親と姉は支えていくことだろう。
旅路に向けての補充を済ませれば、隊商はすぐに出発することになる。
あっという間に数日が経ち、彼らの旅立ちの朝がやってきた。
父と母には館で挨拶を済ませたが、姉妹は見送ると言ってついてきた。
(たった、五日……六日か)
何だか不思議な気分だ。決断に後悔はないが、やはり少し寂しいような気もする。
姉妹はどう思うものか、ミーエリエが喋らない猫のぬいぐるみイーザを抱えながら何やかやとクレスに話しかける傍ら、マイサリエはじっと黙っていた。
「もう、ここでいいよ」
出発の準備が整った馬車の後ろで、クレスはそう言った。
「ここまで有難う。気まずいままじゃなくて本当によかったと思ってる」
心から言った。うつむきがちだったマイサリエが、すっと顔を上げた。
「クレス」
「うん?」
「まず……エランタから手紙を預かったわ」
「エランタから?」
彼の知らない料理を教えてくれた女使用人とは、簡単な挨拶を交わしただけだった。出立前にもう一度話せると思っていたからだが、生憎と彼女の方が忙しくて、悠長にクレスを見送っている時間がなかった。
クレスは残念だと思っていたが、エランタの方では自分の仕事量を判っていたから、見越して手紙を用意していたらしい。
「何でも、彼女のお兄さんがどこかの街で料理人をやっているんですって。もしそこで仕事が欲しかったら訪ねたらどうか、という内容のようよ」
マイサリエは概要を話した。
「そうなんだ。有難いな」
紹介状という辺りだろう。クレスは大事に、手紙をしまった。彼はあまり文字が読めないから、あとでリンに見てもらおうと考えた。
「それから」
上の妹はそう言って、またうつむいてしまった。
「何だい」
話を聞こうと、彼が気持ち、身をかがめたときである。
「いい?」
マイサリエは再び顔を上げると、両腕でクレスの胸ぐらをぐいっと掴んだ。
「リンお姉様を守るのよ。死ぬ気でね。おかしな男を近づけないように」
「おかしな男って」
胸元を掴まれたままで、クレスは目をしばたたいた。
「どんな男を選ぶかなんて、リンの自由……」
「ク、レ、ス」
「はいはい。判りました。死ぬ気で守ります」
宣誓するように、彼は片手を上げた。
「それから」
マイサリエは厳しい顔でまた言った。次は何だ、とクレスは警戒した。
だが、何を言われるかと警戒していた兄は、妹の動きには気を払わなかった。
上の妹はそのままクレスに近寄ると、彼の左頬に口付けた。
「な」
驚いてクレスは口を開ける。
「いい? あんたは、クレス・アクラスよ。私の兄なんですからね。死ぬ気でお姉様を守っても……死んじゃ駄目よ」
「――マイサリエ」
「もしかしたら私は、パースお姉様とリンお姉様のほかにも誰かをお姉様と呼ぶけど、兄はひとりいれば充分だから。元気でいなさいよね」
「有難う」
そっと左頬を押さえるようにして、クレスは礼を言った。
「ミーエも! ミーエも!」
下の妹が飛びついて、今度は右頬に唇がやってきた。クレスは苦笑する。
そこには、あの夜に驚かされたような「誘惑」の色はもちろんない。姉の真似をしようという思いと、それから兄への親愛というミーエリエ自身の感情が取らせた行動だ。
「有難う、ふたりとも」
「今後もちゃんと、アクラス姓を名乗るのよ。あんたはウォルカス・アクラスとラッシア・アクラスの息子で、マイサリエ・アクラスとミーエリエ・アクラスの兄だってこと、忘れたら承知しないから」
「忘れないよ」
気持ち悪いの何のと言われた初日から、大した昇格だ。
「有難う」
彼は繰り返した。
「それしかないの?」
マイサリエは唇を歪めた。
「ごめん」
「それも違うと思うわ」
「なら、やっぱり『有難う』だよ」
クレスは笑った。
「何度でも言う。有難う、マイサリエ」
自分は何て幸せなんだろうか、とクレスは思った。
こんな幸せに出会えたなら、幼い頃の酷い思い出なんか、みんな帳消しにできる。そんなふうに思えた。
「――それで」
「うん?」
「リンお姉様はどこ? ご挨拶をするわ」
もうクレスなどどうでもいいとばかりに、マイサリエは目を輝かせて辺りをきょろきょろとした。
滅多に見られないリンの困った顔をもう一度見せてもらうかな、とクレスは笑って、隊商主を呼んだ。
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