10 ぬいぐるみ

「昨夜から今朝にかけてのミーエリエ行方不明事件は、当初、お前を誘拐魔に仕立て上げるものではなかった。お前と彼女を姦通させて、お前を追い出すか、或いは――」

「か」

 ドレスを身にまとった、一見、貴婦人から出てくる言葉ではない。クレスのみならず、ターキンとカルダーも目をしばたたいた。ホー=ダンだけがにやにやとしている。

「或いは、下の妹の虜にしてしまおうと企まれた」

「何言ってんだか、判んないよ」

 クレスは首を振った。

「判らないのか? この上なく、判りやすく話しているつもりだが」

「判らないのは」

 彼は顔をしかめた。

「リンはいったい、企んだって言ってるのかってこと」

 昼間の話では、それはマイサリエだった。いまの話では、まるでミーエリエが考えたかのようだ。

 だがそうではない、とクレスは思った。

 妹という存在へのひいき目でもない。彼女たちではない。自分もそう思うし、リンも――そう言っている。

 では、誰が。

 リンは肩をすくめた。

「ほかにいないだろう」

「……は?」

「私はこれの中身をお前にかけようとした訳じゃない」

 そう言った彼女が振って見せたのは、酒や水を入れるための杯ではなく、印章のようなものが描かれた空の瓶だった。

「目標は、アルンだ」

 成程、言われてみれば兎のぬいぐるみは、クレスよりも多く水をかぶって、くたっとなっていた。

「どういうことだよ」

 水滴を振るい落とすように首を振りながら、彼は尋ねる。

「これには聖水が入っていた」

「何だって?」

「何もアルン用に用意した訳じゃなく、花瓶の判定に使うつもりだったんだが」

 夜に活けた花が本当に枯れるのかでひと晩、聖水に活けても同じかでもうひと晩、調べてみるつもりだったのだと言う。

「でも、何で……」

「アルン、濡れちゃった」

 ミーエリエが手を伸ばす。

「やめなさい」

 マイサリエがその手を掴む。

「そのぬいぐるみは、変だわ」

 姉は真剣な顔をしていた。リンは姉妹を見た。

「ミーエリエ。アルンを手に入れた経緯は?」

「ウェレスの、市で見つけたの」

 少女は答えた。

「雑貨市を見てたら、屋台の端っこに、アルンがいたの。ミーエに話しかけてきた」

 それは夢見る少女の空想――ではないようだった。

 ぬいぐるみは、彼だか彼女だかの声を聞く者が現れるのをずっと待っていて、ミーエリエに交渉を指示し、買われたのだと言う。ミーエリエでは、小金に厳しい屋台の商人から値切れるような能力がなく、全部アルンの言う通りにしたとの話だった。

 ミーエリエは以前、いまよりももっと口数が少なく、家族の前でさえ囁くような声で話す子供だった。だがアルンが友だちになってくれて、次第に話すことが怖くなくなっていったのだと。

「はじめは私も、ミーエリエが空想の国へ行ってしまったかと思ったわ」

 マイサリエは息を吐いた。

「でもずっと明るくなったし、ぬいぐるみが心の支えになるなら、少しくらいはかまわないかと思っていたの」

 両親もそれを許容し、喋らない兎に娘が話しかける様を黙って見守ることにしたらしい。いずれは、離れるだろうと。

 けれど時折、「アルンに言われたから」とミーエリエが奇妙な行動を取ることがあった。夜中にふらふら出歩いたり、服を着たまま池に飛び込んだり。

 医者に診せても「内気な子供が人形やぬいぐるみと話をするのはそれほど珍しくない。いくらか年齢は行っているし、極端な感じはあるが、家族の気を引こうとしているだけであり、愛情を持って接すれば次第に治まる」と言われ、家族はそれを信じるしかなかった。

 しかし、本当にアルンが指示をしているのではないかと、マイサリエは密かに思いはじめていた。

 馬鹿らしいとも思ったし、確かめる術などないと何もしなかったが、昨夜になって確信したのだと姉は青い顔で言った。

「リンお姉様の言った通りです。クレスと……その、ロウィルの関係を持ち、ミーエリエを愛するか訊くのだと。否ならば乱暴をされたと追い出し、応ならば」

 彼女は言いにくそうにしたが、リンに促されて続けた。

「妹と関係を持つという弱みを握って、クレスが家を継いでも、生涯……ミーエリエの世話をさせるのだと」

 クレスはあんぐりと口を開けた。

「まるで宮廷陰謀劇だな」

 話を聞いていた伯爵がそんな感想を洩らした。

「ミーエリエの考えとは、思えない!」

 姉はそう叫んだ。

「アルンが言ったのよ」

 無邪気とさえ言える様子で、ミーエリエは告げた。

「私は、そんなことをしては絶対に駄目だと言ったわ。でも……」

 躊躇いがちに上の妹は兄を見て、うつむいた。

「出て行ってほしかったから。それなら誘拐容疑をでっち上げればいいと……」

 その言葉にクレスは少し胸が痛くなったが、すぐに気づいた。マイサリエは「出て行ってほしい」ではなく「ほしかった」と言ったのだ。

 たとえ、罪をでっち上げた罪悪感からであっても、或いは「お姉様」に嫌われたくないからであっても、マイサリエはもうクレス憎しとは思っていない。

「あなたが考えたのか?」

 リンはそこを尋ねた。

「それは……」

「アルンが言ったのよ」

 下の妹は繰り返した。

「賢いのよ。マイサが駄目だって言うなら、ほかにもやり方があるからって。そうすればミーエが幸せになれるからって。アルンは、ミーエに幸せになってほしいんだって」

 そこにはやはり、邪気はなかった。「企みがばれた」というような様子は、ミーエリエには皆無だった。演技であれば一流の役者トラントだが、そうではなかった。

「私の部屋に隠れているようにと。アルンがそう言った、と。絶対におかしいと思ったわ。でもそれを拒絶すれば、またクレスの部屋に行こうとするのではないかと思って……」

 妹を案じる気持ちと兄を厭う気持ちが、マイサリエに狂言誘拐の片棒を担がせたようだった。

「成程。昨夜から今朝の事情は知れたな」

 リンは淡々とうなずいた。クレスは呆然としていた。

「この子の考えじゃないわ」

「アルンよ」

 姉は悲痛に、妹はにっこりと、言った。

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