09 もう忘れたの?

 その少し前のこと。

 リンは、ターキン伯爵に案内される形で、カルダーと共に広間をあとにしようとしていた。

 話は整ったところだった。それも、何とも最高の形で。

 ターキン伯爵は、リンを利用する形になったことへの詫びとして例の花瓶を贈ると言ってきたのである。あとの折衝はリンとカルダーの間でやってくれと。

 もともと伯爵は、金を取るつもりも身体で払わせるつもりもなく、この夜会に合わせることを考えて二日間ばかり焦らしただけであるらしい。

 ターキンはすぐに花瓶を引き渡そうと言い、リンとカルダーは彼のあとに続いた。

 そこに、飛び込んできた姿があった。

「お姉様! ミーエリエがいないの!」

「マイサリエ」

 リンは目をしばたたいた。

「あー、すまん、隊商主」

 ホー=ダンが頭をかいた。

「その問題はこっちで片づけようとしたんだが、クレスもいないんだ」

「何?」

「クレスよ!」

 姉にして妹は顔を青くした。

「あの子、クレスとふたりでいるんだわ」

「なら何も心配はないだろう」

 やんわりとリンは言った。

「彼におかしな企みなんてないこと、マイサリエ嬢はよくご存知のはず」

 「昼の事件のあらましは、裏までよく知っているだろうに」ということだ。いまさらマイサリエがクレスを罠にかけるとは思えないが、友人が誘拐魔だと言われているかのような台詞は、少しばかり気にかかる。

「違います、そうじゃないんです、お姉様」

 「お姉様」の連発をターキン伯爵やカルダー青年がどう思ったとしても、彼らは黙っていてくれた。

……その」

 そこでマイサリエは口ごもった。

「昨夜、何だって?」

 リンは促した。彼女は何か、大事なことをごまかそうとしている。そう感じられた。聞き逃す訳にはいかない。

「ミーエリエが、昨夜、どうしたと言うんだ、マイサリエ」

「……何でも、ないです」

 首を横に振ってマイサリエはうつむいた。

「マイサリエ」

 彼女は少し迷ったが、嫌がっている場合でもなさそうだと言葉を続けた。

「私にも言えないことなのか」

「お姉様」

 厳しい口調に、きれいな娘は目をかすかに潤ませてリンを見た。

 普段の彼女ならば、理詰めで話を進め、相手がうろたえる隙を突き――という形で話を進めるが、おそらくマイサリエには何の理屈も根拠もなく、わずかに威圧を見せて「私に話せないのか」と尋ねるほうが効くと踏んだ。

 リン自身の好みとは相容れないが、重視すべきは迅速性と合理性だ。そのどちらも満たすことができるのであれば、女のふりもお姉様ごっこも有用な手段である。

「言えないという訳だな。判った。あなたにとって私はその程度ということだ」

「ま、待って、待ってください、お姉様」

 少女は去ろうとする女の手を掴んだ。

「話します。でも……信じてもらえるか」

「ミーエリエがクレスを連れて行った、と言ったな。そして昨夜もと。では」

 まさかミーエリエが逆にクレスを誘拐しようとしていたのだ――というようなことはあるまい。つまり。

「つまり、ミーエリエは昨夜、クレスの寝室に向かうために自分の部屋を離れていた。そういう意味か」

 リンはマイサリエの言をまとめた。

「あのお嬢ちゃんが夜這いだって?」

 ホー=ダンが口を開けた。

「いや、だが、あれだろ。仮にも兄妹じゃないか」

じゃない、事実だ。クレスは容易にそんな気にならないだろうが、があろうとなかろうと、成人した男女がひと晩ひとつ部屋で過ごしたとなれば、周りがどう見るかは判りきっている」

で、クレスを追い出そうって魂胆だったのか?」

 あんぐりと地図師は口を開けた。

「昨夜のことはもういい」

 リンは手を振った。

「問題は、いま現在だ」

 マイサリエ。ミーエリエ。

 魔女リーエと似た響きを持つ名前が気にかかっていた。

 もちろん、魔女そのものだと言うのではないのだし、似た名前を持つ女の全てに魔女の素養ありなどと言うつもりもない。

 ただ、姉妹であればふたつの名前は幾度も並べられるものだ。重複した末尾は印象を強くする。ひとりではなくふたりであるということで、気になったのだ。

 リンは、たとえば魔術師のようには、言霊と言われるものに気を払うことはしなかった。それでも、ここには引っかかった。

 これは予感、それともただの勘。

 彼女はどちらでもいいと思っていたが。

「閣下、広間を離れて休める場所などはありませんか。庭か、小部屋など」

 リンはもう「女のふり」をするのをやめた。ターキンは驚いたか、想像の範囲内であったか、リンの口調が先ほどから変わっていることにも特に不審を見せず、ただひとつうなずいた。

「部屋を用意してある。こちらだ」

 そう言って伯爵は彼らを導き、一行は件の現場に行き会った、という訳である。

「――俺が襲いかかってると思ったんじゃなければ、何で水なんかぶっかけるんだよ!?」

 顔を拭いながら憤然とクレスは叫んだ。だがリンが説明をするより先に、マイサリエが動いた。

「ミーエ!」

 彼女は妹に駆け寄る。

「服をちゃんと着なさい! はしたない」

 マイサリエはクレスを押しのけるようにして、妹の胸元を押さえた。

「だって、アルンが……」

 ミーエリエはされるままになりながら、唇を尖らせた。

「これからはアルンの言うことを聞く前に、私に相談しなさいと言ったじゃないの。昨夜の約束よ、もう忘れたの?」

「だってアルンは、いっつもミーエを助けてくれたのよ。アルンの言う通りにしたら、いっぱい、人と話せるようになったもの」

「お前がそう言うから私も様子を見ていたけれど、昨日からおかしいわ。行きすぎよ。どうしてクレスを誘惑なんてしなければならないの」

「ゆ、誘惑?」

 当のクレスは目をしばたたいた。

「誘惑でなければ、何だったと思うんだ?」

 リンは肩をすくめた。

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