06 賢いのよ
自由に取り分けられる形式の食事というのは、安宿の朝飯などでたまにある。
だが、そうした場所で供されるのは、安さだけを重視したものであることがほとんどだ。食器なども、不心得者ですら持ち出したいとは思わないような薄汚れた粗末なものが乱雑に積まれていたりする。
もちろんのことだが、伯爵家の用意する品々はそうしたものとは違った。
冷めてもあまり味の落ちない類の料理が選ばれ、揚げ物などは少なめに出して、頻繁に皿が入れ換えられる。食器も上等なものだ。扱い慣れているクレスでさえ、ぶつけて欠けさせたりしたらどうしよう、と余計な緊張をする。おそらく「弁償しろ」などとは言われないだろうが、そういう問題でもない。
見よう見まねで、クレスは料理を皿に取った。きれいに盛る必要など別にないのだが、ほとんど無意識の内にバランスよく乗せていた。庶民の食事とは訳が違うとは言え、一応、彼だって専門家である。
そうしながら下の妹の姿を探したが、いつまでも食事のある卓にかじりついてはいないようだった。ではどこだろうかと見回せば、彼はすぐに、若い男に話しかけられているミーエリエを見つけた。
(こういう場合はどうしたもんかな)
兄は迷った。
飯を食いに出かけた店でべたべたと女性に話しかけてくる男などがいれば、うるさいと追い払うのが定石だ。何も妹に限らず、見知らぬ女の子でも、もし困っていれば助けてやりたいと思う。
だがここは交流の場であるのだし、ミーエリエも特に困っている様子はなく、にこにこと笑っている。アルンに話しかけ出したら相手の方で逃げるかもしれないが、とりあえず現状では、問題は起きていなさそうだ。
少し考えてクレスは、ミーエリエに気づかれないように、近くの卓に席を取ることにした。
聞くともなしに話を聞いてみれば、彼らは無難に天気の話などから、今日の料理の話に移り、好物の話などに移ったところのようだった。
「ミーエリエはやっぱり女の子だから、甘いものが好きなのかな?」
「うん、大好き」
クレスの位置から顔は見えないが、にこにことしているであろうことはよく判った。
「〈紅連翹〉亭の
「その店は知らないけど、〈水面の夜光〉の評判はどうかな」
「聞いたこと、ある。でも、行ったことはないわ」
「じゃあ今度行かないか」
「僕の友人が厨房にいるんだ。君のために特別な菓子を作らせるよ」
これはミーエリエなら簡単に乗ってしまいそうだ。少し兄は心配になった。どんな男なのだろうか。
「ちょっと待って」
しかし少女は、すぐには「うん」と言わなかった。
「あのね、アルンが駄目だって」
出た。
「アルン?」
「この子。ミーエには、ちゃんとした男の人が現れるから、軽い誘いに乗ったら駄目だって」
「……何だって?」
「アルンは賢いのよ。ミーエに何でも教えてくれるの」
「そ、そう」
かたん、と男は席を立った。
「ちょっと用事を思い出したよ。それじゃ」
「うん、それじゃね」
やはりにこにこしている感じで、ミーエリエは返事をした。クレスは――安堵したものかどうか、迷う。
もしもミーエリエが、判っていてやっているなら、これはひとつのやり方だ。ぬいぐるみのせいにして、誘いを断ってしまう。
しかし――やっぱりちょっと、言葉を選んだ言い方をするとしても「変わり者」としか見えない。男もそう思って、深入りをやめたのだろう。
「あー……ミーエリエ」
そこでクレスは立ち上がり、背後から妹を呼んだ。
「クレス兄さん」
やはり少女はにこにこしている。
「アルンが、誘い男を撃退したみたいだけど」
「賢いのよ」
ミーエリエは繰り返した。
「ねー、アルン」
「ええと」
どう言ったらいいものか。
「あんまり、アルンと話さない方がいいんじゃないか。その、外では、特に」
「どうして?」
きょとんと少女は問い返す。どうしても何もない。
「クレス兄さんは、アルンのことが嫌い?」
「いや、嫌いと言うんじゃなくて」
「よかった。アルンもクレスのこと、好きよ」
「そ、そう」
こんな調子でやられたら、クレスだって困惑する。妹でなければ、彼も用事を思い出すところだ。
「ほんとよ」
引きつった笑顔に気づいたか、ミーエリエは少し頬を膨らませて、アルンの顔をクレスの方に向けた。思わずクレスは兎に視線をやり、一
だがそれはもちろん気のせいだ。
兎のぬいぐるみの目は黒い石のような物体でできていて、たまたま映る以外の何かを見つめることはない。
「ねえ、クレス。ミーエ、ちょっと疲れちゃった」
ふう、と妹は息を吐く。
「帰りたいのかい?」
ついクレスは、もっと小さな子に尋ねるようにしてしまう。
「そうじゃなくて。ちょっと休みたい」
アルンを抱き締めながら、ミーエリエは顔をしかめた。
「人がいっぱいで、うるさいから。静かなとこに行きたい」
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