02 変わった効用のある品

「その相手が、具体的に数字を出してきてるらしい」

 ホー=ダンが伝えてきた。

「いくらだと閣下ははっきりとはばらさないが、嘘じゃなさそうだ。値を上げようと言うんじゃなく、パルウォンを焦らそうという魂胆みたいだな」

 件のライバルと話しているところでもリンに見せ、今夜中にどうにか――と彼女に思わせようとしている。それがホー=ダンの解釈で、リンもおおむね、同様に考えているらしかった。

「宴の享楽というのは、たとえ酒を飲まなくても酔ってしまうものだ」

「そうだろうね」

 したり顔でホー=ダンがうなずいた。

「パルウォンに、勢いで閣下を誘惑させようってところか」

「誘惑」

 リンが。

 クレスは吹き出すのをこらえた。

「お姉様、そんなことはなさらないで」

 懇願するようにマイサリエが言う。

「似つかわしくないです」

「やるべきことがあれば、やるだけだ」

 リンは少し困った顔を見せた。珍しい表情だが、珍しい格好にはよく似合う気がした。

「ひとつ、考えがある」

 リンはそっと言った。

 人がわさわさとしているなかで、内緒話は困難だ。

 それほど秘密の話ではないが、商売の話は即ち金の話と取られる。商談の場ではなくこうした娯楽の舞台で声高にすれば眉をひそめられるものだ。

 もっとも、こうした会は必ずしも遊びや交流のためとは限らない。友愛的な交流ではなく仕事上のそれを広め、深めることや、好敵手が誰と親しく語らっているか観察し、次には自分が優位に立てるよう計画を練ることにだって向いている。

 若者や娘たちは単純に同年代から少し年上、年下の異性――好みによっては同性――との出会いや語らい、状況によってはそれ以上を目的にきているし、「人それぞれ」と言ってしまえばそれだけのことだが。

「カルダー氏というその人物に会ってみたいと思っているんだ。閣下に紹介されるより先に」

 そう言うと女商人は、あまり「物を入れる」という役割を果たしそうにない小さな鞄を開いて手布を取り出した。それは、リンの瞳とドレスを合わせる気遣いを見せたオンキットの選択らしくない、男物のような黒っぽい色の布だった。

「失礼」

 と彼女が言ったのは、通りかかった給仕役の使用人に対してだ。盆に酒を載せて上手に人々の間を歩いている彼らのうちのひとりから、リンは小さな酒杯を受け取った。

 給仕は少し目を見開いたが、思うことがあってもここで口を利くのは彼の役割ではないと心得て、何も言わなかった。

「お姉様って、お酒、お強いんですか」

 代わりにマイサリエが、目をきらきらさせて問う。

「いや、普通だろう」

 答えると彼女は、強い蒸留酒――「姫君」はたいてい、酒分の弱い果実酒の炭酸割りや果汁との混合酒などを選ぶものだ――を飲み干すのではなく、わざわざ手布にこぼした。

「何やってんだよ」

 クレスは口を開けた。次に目を輝かせたのはホー=ダンだ。

「それは、あれか? 酒の強さに応じて、探し人を見つける布」

「はあ?」

「近距離でないと反応しないし、知っている顔であれば意味がない。だがこの状況で、これだけ密集していたら、役に立つだろう」

「何の話なんですか?」

 マイサリエが目をしばたたいているのとは違って、クレスには「何の話」かよく判る。リンの大好きな「変わった効用のある品」だ。

 二年半のつき合いで、世の中には大量におかしなものが転がっていることが判った。

 ただ彼は、そうしたものに興味がない。ホー=ダンやオンキットのように面白がることもあまりない。「また出た」などと思うだけである。

「見ろ」

 持ち主の手の上で、黒っぽい布は酒の染みを作っていた。

 酒に濡れた部分の色がすうっと薄まっていったかと思うと、濃いめのベージュになった。色は見る間に全体に移り、黒っぽかった布は、濃いめのベージュになっている。

「黒のままでなくてよかった」

 リンは肩をすくめた。

「黒い服の人間が多すぎる。黒ければ、せっかく反応しても役に立たないところだった」

「つまり、こうか? その布に酒を落とすと、探してる誰かの着てる服と同じ色合いになると」

 少し胡乱そうにクレスは確認した。

その通りアレイス

 商人は、寒いのは冬になったからかとでも問われたように、かすかに片眉を上げながら当然そうに認めた。

 マイサリエは理解に至ったという感じではないのだが、つまらない質問でお姉様を煩わせてはならないとでも思うのか、ただリンを眺めてうっとりしていた。

「あれじゃないか」

 ホー=ダンが少し離れた小さな卓を指す。見れば、居心地悪そうにひとりで座っている、二十代後半ほどの、正直、冴えない感じの男がいた。

 手布と見比べれば、確かによく似た色合いの服を着ている。商人という感じはしない。

 リンも――殊にいまは――商人らしいという雰囲気ではないが、少なくとも人見知りをするようなことはない。初対面の相手にも、にこやかに笑みを浮かべて自然に対応することができる。だがその男は、場違いなところにきてしまったと言うように身をすくませ、クレス以上にきょろきょろして、いささか挙動不審だ。

「行ってくる」

 リンはすっと一歩を進めた。

「俺たちは?」

「不要」

 短く隊商主は答えた。男たちはうなずいたが、マイサリエが続きかける。

「待った」

 素早くクレスは制止した。

「何よ、邪魔をしないで」

「ついてったら『お姉様』の邪魔だよ、嬢ちゃん」

 ホー=ダンが笑う。それはマイサリエの足をとめるだけの力がある台詞だった。うー、と少女はうなる。

「クレス、滅多にない機会なんだから少し楽しんでこいよ。その辺のお嬢さんと踊るとか」

「無理だよ」

 正直に彼は言った。

「踊りなんか知らないもの」

「隣の奴とおんなじ動きしてればいいんだよ」

「できないって」

 ひらひらと彼は手を振った。

「んじゃ見本を見せてやる」

 ホー=ダンは言うと、マイサリエに向かった。

「お嬢様、一曲お相手をお願いできませんか?」

 優雅なふりを装って、地図師は彼女に手を差し出した。

「何ですって。ふざけているの?」

 少女は眉をひそめ、クレスは目をしばたたいた。

「いいや。俺ぁ、昨日の詫びをもらってないね。踊りのひとつで済ませてやろうと言うんだから優しいだろう?」

 にやにやしながら年上の男が言うのを少女は胡乱そうに見た。

「私と踊りたいと言うの?」

「昨日みたいな悪態さえなきゃ、きれいなお嬢さんの手を取るのは喜ばしい話さ」

「いやらしいわ」

「お断りという訳か?」

 ホー=ダンは片眉を上げた。マイサリエは迷うようにリンの背中と、それから周囲の楽しそうな雰囲気を見比べる。

「……踊れるのでしょうね」

「お任せを」

「一曲だけよ。そのあとは」

 お姉様のところに行くとでも彼女は言いかけたのかもしれないが、ホー=ダンは片手を上げて先に声を発した。

「そのあとは一緒の卓で、俺と料理でも堪能しよう」

「どうして私がそんなこと」

の話、聞かせてやるよ」

 これでマイサリエは陥落した。

 ホー=ダンはクレスに片目をつむって見せ、妹の手を取って行ってしまった。

 どうやらホー=ダンは「滅多にない機会」を楽しむつもりであるらしい。ホー=ダンならばクレスの妹におかしな真似もしないだろう。彼はしばしの間、旅仲間にマイサリエを任せることにした。

 しかし、こうなると手持ちぶさたというものだ。

 彼はミーエリエの様子を見ることと、自分の腹を満たす目的を兼ね、何より伯爵家の料理に興味を持って、食卓の方に向かった。

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