09 二度とないかもしれない

 今夜はマイサリエと伯爵の夜会に出るのだという話を聞いたラッシアは、嬉しそうな顔をして、準備は安心して任せなさいと言った。

 クレスは正直、何の準備が要るのかと首をひねった。マイサリエに支度が要るのは判るが、自分は要らないだろうと。

 この辺り、彼にはいまだに、常識に欠けるところがあるということだ。

 庶民生まれの庶民育ちだって、貴族の夜会などというものに出席する際いつもの服装でかまわないなどとは思わないものである。

 時間さえあれば両親は彼の礼服でも作っただろうが、幸か不幸か時間はなかった。クレスは必死で固辞せずに済んだ、ということにもなる。

 ウォルカスの礼服は少し大きく、彼はエランタの息子のいちばんいい服を借りることになった。そうなればエランタも張り切ってクレスの硬い髪を整え、彼は生涯ではじめて、髪の毛に薬剤などをつけた。

 エランタ曰く、伯爵家はターキンの住民――と言っても富裕層に限られるが――のために、時折こうした催しを開くのだとか。ウォルカスとラッシアもそこで出会ったのだと言う。

「お嬢さんもそのつもりがあったかもしれないけどね」

 エランタは少し笑った。

「お兄さん同伴じゃ無理かな」

「いや……『そのつもり』はないんじゃないかな」

「どうして」

「……何となく」

 「お姉様」の方がほしいようだから、と答えるのは控え、クレスはごまかした。

「まあ、男の作法がいい加減でも、大して問題にはならないもんだ。舞踏だって男が申し込むもんで、申し込まれることはまずない。心配するこた、ないんだよ」

 クレスはそう言われて初めて、夜会には舞踏などというものが存在するのだと気づいたが、いまさら慌てたところでどうしようもない。エランタの台詞を信じるしかなかった。

「マイサリエお嬢さんには私からも重々、あんたを困らせないようにと言っておく」

 どこか面白がる口調で、使用人は言った。

「気兼ねなく楽しんでおいで」

 夕刻前にホー=ダンがやってきて、リンも間違いなく夜会に招かれることが判明し――万一にも違えば馬鹿らしいことになった――クレスはやがて、困惑したまま支度を整えたマイサリエと伯爵閣下の館に出向くことになる。

「マイサリエ」

 悪態ばかりついていた上の妹は、昨日からの騒動と「お姉様」の件とで、兄にどんな態度を取ってよいものか判らない風情だった。

 いきなり親しげなふりができるほど役者ではなく、かと言って「本当は嫌いよ」と意地を張り続けるほど幼くもない。自分が悪いという自覚はあるのだろうし、リンに悪く思われたくないという乙女心もあるだろう。

 クレスの意地が悪ければ態度の差を皮肉るようなこともあったろうが、彼はそうする代わりに、思ったことを正直に言った。

「きれいだな」

 上品な化粧を施し、光沢のある薄緑のドレスを身にまとったマイサリエは、これまでの暴言を差し引いたとしても、充分にきれいだと言えた。

「俺さ、こんなきれいな妹がいて嬉しいよ」

「あ……有難う」

 やはり困惑しながら答えるマイサリエは、初めて可愛らしくも見えた。

「クレス、クレス。ミーエは?」

 下の妹も、彼を見て「こわい」などと言ったことなどなかったように、感想をねだった。

「きれいだよ、ミーエも」

 これまた正直なところを言えば、薄紫色の短いドレスを着た少女はにこにことした。

 もともとはマイサリエだけの予定だったようだが、話を聞きつけたミーエリエも、クレスが行くなら行きたいと言い出し、急遽、支度をしたらしい。参列者が増えても問題ないというのは、本当に「気軽な会」であるらしい。

「あー、でも、いいかな」

 クレスは迷って、それから続けた。

「……アルンも、連れていくの?」

「うん」

 当然のように、ミーエリエは茶色い兎を抱き締めた。

「ええと、それは、やめた方がいいんじゃ」

 ちらりとマイサリエを見た。アルンの服など買うなと言ったらしい彼女であればここで良識を発揮してくれるのではないかと期待したのだが、生憎なことにミーエリエの姉は、肩をすくめただけだった。

「アルンに、リボンでもつけたら」

 それどころか、そんなことを言う。

「うん!」

 アルンの親友は嬉しそうにうなずいた。

 アクラス家の下の娘はちょっと足りない――などと悪い噂をされて困るのは当人と姉とウォルカスだと思うが、三人が三人とも気にしないのであればクレスが何か言う必要はないだろうと考えることにした。

「そろそろ出た方が」

 ラッシアが姿を見せて言った。

「三人とも、すてきよ」

 姉妹はともかくとして、自分まで「すてき」の仲間に入れられたことに、クレスは照れを覚えた。

 確かにこのときのクレスは、いままで考えたこともなかったような、立派な格好をしていた。

 上下で一式になる、黒の礼服。これだけでも充分、クレスが身につけたことのあるどんな衣服よりも高価であることは疑い得ない。

 上着の内側は、しわひとつない白い上衣。ぴしっとの利いている襟元と首に巻いた飾り布は少し息苦しい感じがするが、我慢しなさいとエランタに言われた。

 下衣の長さは少し合わなかったので――生憎、エランタの息子はクレスより足が長いようだった――無理に吊ってあるものの、見苦しいほどではない。正直、これも少し苦しいのだが、やはり耐えなさいと言われた。

 エランタは「洒落っ気には苦労がつきものだよ」などと言ったが、クレスとしては、こんなのは一度経験すればもう充分かもなと思った。

「とても、嬉しいわ」

 ラッシアはにこにことしていたが、不意に何かこみ上げるものがあったと見えて、目頭を押さえた。

「あなたたち三人の、こんな姿を見られるなんて」

「泣かないで、母様」

 意外にもと言おうか、ミーエリエがラッシアに近寄ると母を慰めた。

「たとえ最初で最後でも、一度もないより、ずっといいから。ね?」

 母の手を取ってそう言った下の妹に、クレスは目をしばたたいた。

 ラッシアは、クレスにこれまでこうした機会がなかったことと、そして、クレスが去ることを決めればもう二度とないかもしれないと思い、涙したのだろう。

 そのことにミーエリエが気づき、なおかつなかなかいいことを言ったので、兄は正直、驚いた。

 それから少し、安心もした。

 見た目や言動より、ミーエリエの中身は、ちゃんと年相応なのかもしれない。

 ――気のせいかもしれないが。


(第4章・最終章へつづく)

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