05 心当たりはないか
普段ならばマイサリエは、礼儀作法を習いに出かけているはずだった。だが今日はそれどころではないと、欠席を決め込んだらしい。
ミーエリエが戻ってきたのだからもう大丈夫、と出かけることにもしなかったようで、彼女は現状、父に呼ばれるまで自室で待機をしているようだった。
助かったな、とリンは言った。ウォルカスがまず、自分とラッシアとで末娘の話を聞こうとしたことに、である。確かに、姉娘が初手から参加していたならクレスを貶め放題だったろう。
「証拠はないと言っている割に、妙に確信をしていないか?」
クレスは、糾弾する意味ではなく、疑問に思ってそう言った。
「リンの前では、マイサリエは強烈な態度を取ってないのに、どうしてそんなふうに思うのか聞いてみたいんだけど」
そうなのだ。もしかしたらホー=ダンであれば、大いにうなずくかもしれない。それくらいやりかねない跳ねっ返りだ、とでも言って。
しかし彼女はリンの前からは、驚くべきことにクレスに謝罪の言葉を述べて、そそくさと立ち去っただけ。
「実は、名前が気になっていた」
リンは突然、そんなことを言った。
「何だって? 名前が、どうだって言うんだよ」
「マイサリエ。ミーエリエ。――
「ちょ、何だよ、それは」
クレスは目を白黒させた。
「〈名は運命を作る〉などとも言う。まあ、厳密な意味での魔女だと言っているんじゃないが」
「当たり前じゃないか」
女魔術師、つまりは「魔力を持つ女性」という意味でも、昔語りに出てくる、男の精気を吸い尽くして干からびさせてしまう「魔女」でも、彼女らは有り得ない。
生まれははっきりしているのだから後者のような化け物であるはずはなく、もしも魔術師であるならば、これまでにそれらしい言及があって然るべきである。殊に、ミーエリエが行方不明という事態になったとき、魔術師なら何か魔術でも使うだろう。
もっとも、職業としては魔術師ではないが魔力を持つ、ということなら有り得るが、それくらいのささやかな魔力の持ち主をして「魔女」とは言わない。
「女の魔性、というやつだ。主には色気、艶気のある女性に対して『魔性の女』などと言うが、必ずしも色欲に限った話じゃない。時に身体で、時に嫉妬で、時に画策で男を陥れる、それが魔性の女、魔女という訳」
「……魔女の解釈はそういうことでもいいけどさ。マイサリエや、ミーエリエにまでそんなふうに言わなくても」
「お前は、自分がはめられたかもしれないのに、そんなことを言うのか?」
「『かもしれない』だろ、あくまでも。いや、もし本当だとしてもさ」
クレスは頭をかいた。
「俺はやっぱり、マイサリエは金とか家とかのためにそうしたじゃなくて、単純に俺が気に入らないんだと思う」
「そうだとしたら、それでいい訳か?」
「よくないけど。こういうのは相性とでも言うのか、仕方ないだろ」
「お前は妙なところで寛容だな」
リンはどこか呆れた風情だった。
「もっとも、お前がそれでいいと言うのであれば、私が彼女の罪を立証しようと躍起になる必要もないが」
それでも、と彼女は言った。
「確認だけは、しておこう。私の考えが大外れであれば、ほかに勢力があるということになる。それを放置しておく訳にはいかないからな」
その言葉にクレスはうなずいた。
犯人が――もちろん――クレスではなく、狂言でもないのなら、ミーエリエを拐かし、解放した何者かが存在するということになる。
「マイサリエ。いいかな」
長女の部屋の前に立つと、クレスは慎重に戸を叩いて、なかに声をかけた。いいはずないでしょう、近寄らないで――という類が返ってくるだろうと考えながら。
しかし、彼の予想は裏切られた。
「父様? よかった、私、ふたりで話したいことが」
かちゃりと扉を開けたマイサリエは、かっと頬を赤くした。
それは、クレスの声をウォルカスのそれと間違えた、という失態へのやり場のない怒りであったかもしれない。そうした意図はなくとも、無意識の内にクレスとウォルカスが似ていることを認めたも同然だ。
しかしそうではなく、クレスの存在など関係のないことだったかもしれない。
「あっ、あの……どうして、ここに」
と言うのも、マイサリエは、クレスにではなくリンに話しかけていたからだ。
「よろしいか」
リンは部屋のなかを指す。マイサリエはこくこくとうなずいた。リンが先に立って室内へ入り、クレスは敢えて何も言わずについていった。ここで「自分もいいか」などと尋ねるのは愚の骨頂というものだろう。
「あなたに訊きたいことがあるんだ、マイサリエ嬢」
リンはそう切り出した。
「はじめに言っておく。私は全面的にクレスを信じている。だから、余計なはぐらかしで時間は取らせないでほしい」
たとえクレスに罪をなすりつけようとしても無駄だ、とリンはまず宣言したようだった。クレスはくすぐったい気持ちになる。
何とも頼もしい、そして嬉しいことを言ってくれる友か。
普段が皮肉屋であるだけに、こうしたまっすぐなリンの言葉は、クレスに安心を与えた。
「ではまずお聞きしたい、
リンは指を一本立てる。
「あなたが朝方、クレスを起こしに彼の部屋を訪れたとき、そこでミーエリエ嬢のぬいぐるみを見たか」
「それは」
いきなり尋ねられてマイサリエは困惑していた。
(……困惑)
(困惑だって?)
さっきから上の妹はどうしてしまったものか。
ターキン伯爵と会ったということは、彼が思っている以上に大事なのだろうか。
(そりゃあ、伯爵様で領主様だけど)
(王様ほど偉い訳でもないだろうに)
これまでの旅路で、リンの商う品に絡んで、領主級の貴族と面会したこともあった。それはちょっとした語り草ではあるし、場合によっては箔付けになるが、大騒ぎをするほどのことではない、とクレスの印象はそんなところだ。
「あの、み……見ませんでした」
意外にあっさりとした返答がやってきた。リンはわずかに片眉を上げる。
「見ていないと。では、朝の時点でクレスの部屋にアルンは落ちていなかった」
「いませんでした」
「それは、何と言うか、思ったよりも話が早くてけっこうだ、マイサリエ嬢」
リンはそんなふうに言う。
「ならば、兎のぬいぐるみはその後、意図的にクレスの部屋に落とされたことになる。彼を疑わせる目的で」
まるで、いま考えついたという風情で、リンは両腕を組む。
「誰がどうしてそのようなことをするのか。心当たりはないか、マイサリエ嬢」
「私……」
マイサリエはうつむき、ちらりとリンを見、それからクレスを見ると、また床を見た。
「私は、知らないわ」
とてもそうは思えない態度だが、とにかくマイサリエは否定した。
「クレスは、ミーエリエをさらったりしていないと思う」
次に彼女の口から出たのは、その発言だった。クレスは目をしばたたく。
「この男がやったに決まってる」はどこへ消えたのか? さっきからクレスの立場は好転どころか悪転しかしていないし、マイサリエにはクレスに与する理由もないはずなのに。
「私、父様に言うつもり。クレスは悪くないし、私がミーエリエから話を聞くからって」
言葉はそうとまで続いた。
「な……何で?」
思わずクレスは口を挟む。
「あんなに、俺やホー=ダンの仕業と決めつけてたのに」
「考えが、変わったの」
ふうと息を吐いて、マイサリエは答えた。
「あなたはそんなことをする人じゃないと思う」
「あなた」だの「クレス」だの、「お前」「こいつ」「この男」から、大した進化である。クレスはほとんど呆然とした。
「その意見には賛成だが」
リンは挙手をするように軽く片手を上げ、そこでとまった。
「では誰が、『そんなこと』をしたのだろうか?」
「それは……」
マイサリエは詰まった。その困った顔は、手を油まみれにしながら、揚げ菓子をつまみ食いしたのは自分ではないと言い張る様子に似ていた。
「あー、いいじゃん、誰でも」
クレスは頭をかいて、そう言った。
「え?」
「おい」
「まず、俺じゃないだろ。で、ミーエリエは無事。彼女が俺を怖がるのが何かの誤解と判れば、俺はそれでいいや」
マイサリエだ――と状況は全て、語っている。
だからこそ兄は、妹にそう言わせたくなかった。
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