第3章
01 何もしていない
少なくとも道路の真ん中に兎のぬいぐるみが判りやすく落ちていたりはしなかった。
もちろん、彼らは小道の両端も、落とし物を見つけた人が好意で掲げそうな窓枠なども注意して見たが、どこにもアルンはぶらさがっていなかった。
「館から誘拐されたというのは、正直、考えづらい」
リンは両腕を組んだ。
「侵入者がいたなら誰かしら気づくだろう。たまたま見過ごされたとしても、痕跡くらいありそうなものだ」
「俺もそう思う。ミーエリエは、外までは自分で出たんじゃないかと」
クレスは同意した。
「それに、俺たちが彼女の部屋に入らなくても、部屋にアルンが落ちてれば誰かが見つけてるはずだ」
あるにせよないにせよ、尋ねれば判明するだろう。彼らが、と言うよりもクレスがミーエリエの部屋に行こうとして、マイサリエに「入らないで!」と叫ばれる事態は招かずに済むのではないかと彼は思った。
マイサリエ。
上の妹の反応を想像してから、クレスはちらりとリンを見た。
彼女の、先ほどの態度は何だったのだろうか。
ホー=ダンが言うように、リンに一目惚れ?
だが、いまではクレスだって、リンを「女以外」だとは思わない。もちろんいまでは知っているからだが、客観的に考えて、仮にいまのクレスがリンに初めて会ったなら、彼女の性別に迷ったりしないはずだ。いわゆる「女性らしい身体つき」ではなくとも、どこからどう見たって、女である。妹が友人を「好青年」だと思ったとは、少し考えづらかった。
世の中には、外見が中性的でぱっと見には性別が判らない人間や、声の高い男だのその逆だのというのも皆無ではないが、リンはそれに当てはまらない。多少は低音だが、男だと思うほどではない。
(誰かに似てた、とかかなあ)
クレスは何となく考えた。
(たとえば、苦手な学問の師にそっくりだとか……)
(それとも、リンがターキン伯爵と会ってたっていう俺の話を重要に思ったんだろうか)
嘘だと決めつけていたが、本当に信じていなかったのではなく、クレス、またはクレスに近しい者がこの町いちばんの権力者と親しいなどということになっては一大事だとでも、考えたのかもしれない。
だが何にせよ、リンが彼の隣にいれば、マイサリエの攻撃が弱まりそうである。こんなことでまでリンを頼るのはますます情けないという気持ちもあったが、仕方ないと思うことにした。
(ほら、適材適所ってやつだ)
(……ちょっと、違うかな)
結局、〈銀色の燭台〉亭とアクラス邸の間で兎のぬいぐるみを発見することはできなかった。そこまではジャルディも同行していたが、アクラス邸で力仕事の用事はないだろうと馬車に戻り、クレスとリンはふたりで館へと入った。
「一応、ぬいぐるみのこと訊いてみよう」
クレスはリンを案内しながら言った。
「たぶん、誰も拾ってやしないだろうけど」
誘拐されたときに落ちたと考えるならば、自宅のなかとは考えづらい。だが念のためだ、とクレスは思った。
誰に訊けばいいだろうか、母はまだ動揺しているままだろうから、父だろうか、などと考えていた彼の前に、使用人が通りかかった。
「あ、ちょっといいかな」
別に誰でもいいのだ、と気づいてクレスは、何回か顔を見たけれどまだ名前を知らない女の使用人に話しかけた。
「訊きたいんだけど」
「あ」
「『あ』?」
相手はクレスの顔を見て口を開けたようで、クレスも同じようにしてしまった。
「何?」
と聞き返すも虚しく、使用人はくるりと踵を返すと、ばたばたと走り去る。
「……何?」
「お前を見て驚いたようだったが」
「何で驚かれなきゃならないんだよ」
クレスは眉をひそめた。
「まあ、急な用事でも思い出したんだろ」
そう言って肩をすくめる。
彼は使用人を咎めたり、叱責したりする立場にはない。少なくとも当人はそう思っていた。
「やっぱり父さんに」
訊いてこようかと言いかけたとき、当のウォルカス・アクラスが角の向こうから姿を見せた。
「父さん、ちょうどよかった。訊きたいことが」
言いかけたクレスは、その背後に、たったいま走り去った使用人がいることに気がついた。
「訊きたいのはこちらの方だ、クレス」
その声は、低く、厳しかった。
「な……何?」
クレスは困惑する。ウォルカスは怒っているのか? そのようにも見えるが――怒られる理由がない。そう思った。
「どうして、これがお前の部屋にあった?」
歯を食いしばり、うなるような声でそう言った父の手には、真剣な顔と声と、立派な大人の男性に似合わないものがあった。
――茶色い兎の、ぬいぐるみ。
「……え?」
「何故、お前の部屋にあったのかと、訊いている!」
ミーエリエがいつも抱えているぬいぐるみは、誘拐された場所に落ちている可能性が高い。
リンはそう言った。クレスもそう思った。
父もまた、そう思ったのだろう。
「し、知らないよ、俺、そんなのっ」
叫びながら、彼は頭のなかが真っ白になっていくのを感じた。
(俺は――やってない)
(やってない!)
蘇る記憶。
(本当だ、俺は何もやってない、信じてくれ)
声を枯らして少年がそう叫んだのは、二年半は前のこと。
「お、俺は」
足が震えそうだ。何もしなかった。何も。だと言うのに、当時の状況はクレスを犯人と指差し、町憲兵は彼を追った。どれだけ叫んでも、信じてもらえなかった。
「クレスは、何もしていない」
す、と彼の肩に手が置かれた。
震えが、とまる。
「ウォルカス・アクラス殿。昨夜、クレスは私の隊商の者と連れ立ち、私がいたのと同じ店にやってきた。そのあとは少し話したが、まっすぐ館に帰り、風呂でも使って眠っただけ。彼は妹に何もしていない」
何なら、と彼女は続ける。
「神殿へ行って神官の前で神に誓ったっていい。あなたが魔術師を忌み嫌うのでなければ、魔術師協会を訪れ、魔術で嘘のないことを証明してもらってもいい。私の誓いなど、あなたには何の価値もないかもしれない。だが、天地神明に賭けて、誓う」
クレスは無実だ、とリンはほとんどひと息で言い終えた。
どれだけ真摯に告げたところで、ウォルカスの心を動かすものかは判らない。
しかし間違いなく、リンの言葉はクレスを支えた。
肩に置かれた友の手を握り返すようにして、クレスは息を吐いた。強張っていた全身が緩む。
「ぬいぐるみを見つけたのは誰ですか」
緊張はしていたが声を震わせることはなく、彼は尋ねた。
「俺の部屋のどこにあったか、訊きたい」
「見つけたのはサーキーだ」
ウォルカスはちらりと背後を見た。その使用人の名であるようだった。
「どこにあったと?」
「寝台のすぐ近くの、床の上です」
真面目な顔でサーキーは言った。
「置き忘れたという感じではありませんでした。無造作に落ちていた」
「そんなのは変だ」
すぐさまクレスは言った。
「俺は見つけなかった。床に落ちてたりしたら絶対に気づいたはずだ。俺が、その、何かしたって言うなら、慌てて隠さなくちゃおかしい」
それに、と続ける。
「部屋にはマイサリエが起こしにきた。ぱっと見て判るところにアルンがあったら彼女だって気づくはず」
「サーキーが嘘をついていると言いたいのか?」
「嘘じゃありません、落ちていたんです」
憤然とサーキーは言った。
「判りません。サーキーが嘘をつく必要があるとも思えませんけど」
クレスは首を振って、使用人を糾弾しているのではないと告げた。
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