07 何をしたって言うんだ
安心していいのかどうか。
オンキットの言葉には少しだけほっとしたものの、それはオンキットの解釈に過ぎないとも言える。リン自身は「安売りはしないが必要ならば売る」と言っているのである。マイサリエの件以外にも頭の痛い出来事が生じたと見ておくべきだろう。
もっとも、クレスにはリンに意見する以上のことはできない。ため息混じりにアクラス邸に戻ると、クレスは風呂を借りて就寝した。
その翌朝早くである。
続けて頭の痛い出来事が、やってきた。
「ちょっと、起きなさい!」
かん高い声に、クレスはがばっと身を起こす。
「あ……え? あ?」
寝ぼけ眼で、言葉にならない言葉を発する。寝台の脇で、両手を腰に当てて彼を睨みつけているのは、ほかでもないマイサリエ・アクラスだった。
「なっ、ななな、何だよ!?」
自分の部屋には入るなと言ったのに、こっちはかまわないのか。だいたい、戸を叩きもしないで何なのか。いや、叩いたのかもしれないが、寝ていて気づかなかった彼を何らかの理由で起こすのならば、怒鳴る以外にやり方がないものか。
そうした内容のことがクレスの脳裏を駆け巡ったが、起き抜けの舌が巧く動いてくれない内に、マイサリエが続けた。
「ミーエリエをどこへやったの!」
「……は?」
「お前の仕業に、決まってる! 手懐けて、誘拐したんだわ!」
「ま、待て待て待てっ」
クレスは寝台から飛び降りた。
「ミーエリエがいないのか?」
「とぼけないで! お前が連れていったんでしょう。夜の内に、おかしな男と出かけたのは判っているのよ」
ホー=ダンのことを言っているのだろうと判った。
「出かけたことは確かだけど彼は『おかしな男』なんかじゃないし、だいたいミーエリエは一緒じゃなかっ」
「言い逃れをする気ね。いいわ、
「待ってくれってば!」
クレスは慌てて叫んだ。無実の罪で町憲兵に捕まるなど、人生に一度あれば充分だ。
「昨夜からいないのか? 朝早くに目覚めて、どこかに遊びに行ってるだけとかじゃ」
「寝台を使った様子がない。夜からいないのよ」
「そうだ、父さんと母さんには?」
「話したわ。お前が怪しいと思ったから、すぐにここへきたのだけど」
「俺は何もしてないよ! てか、それが本当なら」
「こんな嘘を言うはずがないでしょう!」
「嘘だと言ってるんじゃないってば。とにかく、探さないと」
「待ちなさい。そんなことを言って、逃げるつもりね。仲間と合流して、金を要求したりだとかするんだわ。ああ、やっぱり悪党! 何てことかしら。早く妹を返してっ」
「俺じゃないって言ってるだろっ」
マイサリエは取り乱しているようだが、それにしたって支離滅裂だ。クレスを誘拐犯と断定するなんて。
確かに彼女から見ればクレスは怪しい男かもしれない。しかし、ミーエリエを誘拐したのならば、どうして彼がのうのうと、アクラス家の部屋で眠っているのか? おかしいではないか。
というようなことを指摘しても、どうしようもなさそうだ。
マイサリエはあらん限りの罵倒文句の合間に、妹を返せと喚き散らしていた。
「いい加減にしなさい、マイサ」
苦い顔をして姿を見せたのは、彼らの父親だった。
「父さん」
クレスはほっとする。
「ミーエがいなくなったのならば、すぐに探さなくては。だがマイサ、クレスを糾弾するなど、的外れだぞ」
「どうしてよ。こいつが怪しいじゃないの」
「もしもクレスがそんなことをしたのなら、この部屋でのんびり眠っているはずもないだろう」
ウォルカスはそう言った。それは、クレスが考えたのと同じことだった。
だが――クレスは、どきりとした。
(それってつまり)
(……俺を疑ったってことじゃ)
たとえば「クレスがそんなことをするはずがないだろう」などという台詞ではなかった。ウォルカスは、「そんなことをしながらここで眠っていたのは理屈に合わない」と言ったのだ。
それはマイサリエを説得するためであったかもしれないが、ウォルカスがクレスの仕業だという可能性を考えた、と取ることができた。
(でも)
(そうだったとしても、仕方ないか)
「息子は生きていても悪党になっているかもしれない」と考えていたウォルカスである。血のつながりはあっても、彼らは出会ったばかりも同然なのだ。血縁だけで全面的に信頼する方がおかしい。
そう考えた。それはもっともだと思った。
だが少しだけ、胸が痛かった。
「と、とにかく」
クレスは、いまはそんなことで心を痛めている場合ではないと思い直した。
「町憲兵隊には知らせたんですか?」
「いや」
ウォルカスは首を振った。
「それなら、俺が行ってきます」
「……いや」
その提案にも、ウォルカスは首を振った。クレスは目を見開く。
「知らせないんですか? どうして」
「この町の町憲兵隊は、私を好かないんだ。賊に襲われた不幸を売りにしている、などと言って」
「は? え? 何です、それ」
心底から意味が判らなくて、クレスはきょとんとした。
「町憲兵隊と街道警備隊は親戚みたいなものでしょう。遠くの街のとは言え、仲間の怠慢を父様が糾弾していると、そんな被害妄想を抱いているんだわ」
マイサリエは鼻を鳴らして説明し、クレスはますますきょとんとした。
「な、何だよ、それっ。そんなの、おかしいじゃないか」
ウォルカスは、ターキンの町憲兵隊を責めるなどという筋違いのことは、もちろんやらなかっただろう。いちいち街道警備隊を貶めたとも思えない。この三日間、ウォルカスの口から出てきたのは、自分の力が至らなかったというようなことばかりだった。警備隊が怠慢だったからだ、などと喧伝するような人物の台詞ではない。
だいたい、仮にウォルカスが何かの拍子に町憲兵隊や警備隊をけなすようなことを言ったとしても、それで彼を嫌ったり彼への協力を惜しむ町憲兵など、存在していいものか?
かつてクレスを冤罪で捕らえたアーレイドの町憲兵は腹の立つ男だったが、罪が晴れた暁には、きちんと正式な謝罪をしてきた。たとえあのあとクレスがアーレイドに居続けたとしても、おかしな逆恨みをしてクレスの陳情には耳を貸さないなどということはなかっただろう。たぶん、だが。
「何か決定的な証拠……たとえば、身代金を要求する脅迫状でもない限り、彼らは動かないだろう」
「そ、そんなの、でも」
やってみなくちゃ判らないじゃないか、という台詞は飲み込んだ。
つまらない私怨で、陳情を無視するどころか冤罪を作り上げるような非道な町憲兵もいる。そこまで酷いのは稀であるとしても、〈裁き手の使徒〉として神にも民にも恥じない町憲兵と言うのも、残念なことに稀だ。
ウォルカスは何も、憶測で言っているのではないだろう。彼の言い方は、過去に何度も町憲兵隊と衝突しているのだと思わせた。「昨日から娘の姿が見えない」だけでは、相手にされないのだ。
いや、ウォルカスが訴えたのでなくとも、成人した娘がひと晩行方を眩ました程度で大騒ぎする町憲兵隊もいない。恋人との逢瀬や家出は、誘拐などよりもよくある話だからだ。
理想を言うなら、事件の可能性がある以上、それがどんなに小さな可能性でも町憲兵隊は調査をするべきだ。そのための組織なのだ。
だが実際問題、そうはいかないのが現実。ましてや確執があっては、ということになる。
「俺が探します」
それ以上複雑なことを考えるより早く、クレスはそう言っていた。
「だが君は、この町をあまり知らない」
困惑してウォルカスは言った。
「私が探す。それから、使用人たちにも探させる。君とマイサは家にいなさい。ラッシアがおろおろしているから、慰めてやってくれ」
「待って、父様。この男は絶対に怪しいわ」
「マイサ」
父は困った顔をした。
「お願い。父様こそが母様といて。父様が留守にしたら、こいつ、今度は私と母様を狙うかもしれない」
「どうしてそこまで言われなけりゃならないんだよ!」
クレスは憤然とした。
「俺は、そこまで君に嫌われる何をしたって言うんだ」
彼女が彼のことを気に入らない理由は判る。だからと言って、ミーエリエを拐かしたり、マイサリエやラッシアにまで何かすると疑われるほどではないはずだ。
「だって、そういうことばかりやる連中に育てられたんでしょ! やりかねないじゃないのっ」
マイサリエの根拠はそこにあるようだった。
「そんなことするもんか! 俺は」
かっとなりかけたクレスだったが、上の妹は相手にしなかった。
「私はお前のことなんか絶対に信じないわ。ミーエリエは私が探し出す」
言うなり、姉はくるりと踵を返した。待ちなさいと父は言ったが、聞こえたのやら聞こえなかったのやら、足をとめる様子はなかった。
「困ったな、あんなことを言うとは」
ウォルカスは顔をしかめた。
「……あの、父さん」
マイサリエの言葉にクレスは少し傷ついていたが、いまは落ち込んだり、彼女の暴言に苦情を言うときではない。彼は父を見た。
「俺がマイサリエを追って、一緒にミーエリエを探します。難しいとは思うけど」
正直なところをつけ加えながら、クレスは続けた。
「彼女の言う通り、父さんが母さんといてください。俺がいたら、取り入ろうとしているとか言われかねないから」
既に言われているのだが、告げ口をしたとあとで罵られるのも癪だ。慎重に言葉を選んだあと、クレスもぱっと走り出した。
「待ちなさい、クレス」
父は彼にも言ったが、彼もまた、聞かずにウォルカスをあとにした。
おかしなところで似ている、とウォルカスが兄妹を評したかどうかは、クレスには判らなかった。
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