第2章
01 中途半端
昼間の内、マイサリエはどこだかの邸宅に出かけて礼儀作法の勉強をしているらしい。
この「礼儀」は、いわゆる上流社会の夜会だの舞踏会だのに出ても恥をかかないための決まりごとという類であり、初対面の兄たる人物に嫌な思いをさせないための良識ではない。
だが別に、クレスはマイサリエの態度に腹を立ててはいなかった。強烈な言動に少々傷つきはするが、少女の気持ちが全く理解できない訳ではない。
それに何より、どんな理由であろうと昼間に長女が留守にしているのならば、彼はラッシアと心おきなく語らうことができる、ということもある。
クレスの母ラッシアは、まず土産を買ってきた彼に礼を言いながらも、そんな気遣いは不要だと告げてきた。息子は、気遣った訳ではなく、ただ買ってきたかったのだと答えた。
それから彼女は、既にクレスが語ったことをまた尋ねたり、何度も「可哀相に」と言ったり、あまつさえ「つらい思いをさせてごめんなさい」とまで言ってきた。
クレスは、確かにつらいこともあったけれどいい人たちにも出会えたし、だいたいいまはつらくないし、そもそもそれはラッシアやウォルカスのせいではないと言った。
それは彼の正直な気持ちだったのだが、ラッシアは慰められているとでも思ったらしく、またしても謝っては涙まで流した。
これにはクレスは困惑してしまった。
彼は母を泣かせるためにここまできたのではない。
悪いのは山賊連中であって、両親でもクレスでもない。
繰り返しそう告げたのだが、ラッシアの涙は止まらなかった。昨夜にはこんな様子を見せなかった彼女も、ひと晩の時間をおくことで却って実感が湧いたものか、はたまた娘たちの前では泣くまいとしていたものか。
ミーエリエは、ちゃっかりと言うのか自分の分の菓子だけを手に入れると、とっとと自分の部屋へ戻ってしまっていた。クレスと母がふたりで話せるよう配慮してくれた――と考えるのは、正直、ちょっと難しい。彼女にとっては「母がいる」ことは珍しくも何ともなく、いちいち茶を飲みながら語ろうとは思わないのかもしれない。
「ウォルカスから話は聞いたわ」
涙を拭いながら、ラッシアは言った。
「この家に残ることを迷っているとのことだけれど……何故? やはり、マイサリエのせいかしら?」
遠慮がちに彼らの母は尋ねた。クレスは首を振る。
「違いますよ。たとえ彼女が心から歓迎してくれたとしても、俺は迷っていたと思います」
旅の暮らしをやめるために家を探していたのではないのだ、というような話をした。ラッシアはぴんとこないようだった。
「そのリンというお嬢さんと離れたくないのなら、この家に彼女の部屋を用意してもいいのよ。望むならば、あなたと一緒の部屋でも」
「ええと、そういうことじゃ、ないです」
母もまた、クレスとリンが恋仲であるという想像をしたようだった。
彼はリンと恋人同士などではないと言い、彼女こそが、ひとつ場所に居着きようがないのだと言った。
「リンは、
この世にふたつとない、不思議な品――或いは、何の役にも立たないがらくたを好み、噂を聞いては追いかける。蒐集をしている訳ではない。どうしようもないものを面白がって買う人間はクレスが思っていたよりも存在し、〈パルウォンの隊商〉は、何とかやっていけている。
いや、正直なところを言うのならば、リンの仕入れる品だけではやっていけないことも多い。リンと、それからクレスだけならばどうにかなるかもしれないが、ほかに給金まで出すのは無理だ。
そういうとき雇われ人たちは、それぞれの技能を使って街で稼ぐ。
ホー=ダン以外は、どこかの街に住んでそれを専門職にした方が金にはなるかもしれない。少なくとも、生活は安定するだろう。
だが彼らは、旅の暮らしを選んでいた。
ジャルディは「安定したって面白くない」と言い、オンキットは「繕い物ばかりの生活なんて想像しただけで気が狂う」と言う。ホー=ダンは、移動することが仕事のようなものだ。
だがどういう理由を抱えようと、とにかく彼らは、リンの扱う奇妙な品を面白がって、彼女についている。
彼がそんな話をすれば、ラッシアは笑顔を浮かべて聞いていたが、釈然としていない様子だった。安定職に就けないからあちこち放浪をしていると思う、それが一般的な感覚なのかもしれない。
「でも、せっかく帰ってくることができたのよ。またいなくなってしまうなんて言わないで」
母は瞳に懸念を浮かべてそう言った。息子は、曖昧な答えを返すしかできなかった。
(――お前の態度が中途半端だ)
リンの言葉が耳に蘇る。
そう、確かにその通りだ。反論の余地がない。でも、彼にとってはどちらも大切なのだ。簡単に選ぶなどできない。
〈ヒュラクスの
そんな大げさなことではない、とクレスは思った。
少なくとも、誰の命もかかってはいない。
ただ、どちらを選択するにしても、切ない。
リンか、両親か。
ウォルカスとラッシアが、それからミーエリエが、揃ってマイサリエのようにクレスを嫌ってくれたらよかったのに。彼はそんなことを思った。そうだったらとても哀しかっただろうが、迷うことはなかった。
とても複雑な気分で、クレスはラッシアの部屋をあとにすると、台所へ向かった。
エランタに新しい料理でも教わることができれば、気分は晴れるだろう。
それはやはり現実逃避に過ぎず、何の解決にもならないのだが。
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