第57恐怖「家族侵犯」


 

 実家から大学に通う現役学生のTさんは、奇妙で恐ろしい体験をしたことがあるという。


 ある休日の夕方、Tさんが二階の自室で読書をしていると、

「ただいまー」

 というくぐもった声がわずかに聞こえてきた。


 聞き覚えのない女性の声だったので、おそらく近所のどこからか聞こえたのだろうと思い、別段気にしなかった。

 ところが、ややあってから、今度は大きな声で同じ人の声がした。間違いなく玄関先からだ。


 母親は台所にいるはずだし、Tさんに女兄弟はいない。一体、何者だろうか。もしかすると、知り合いが遊びにきて、ふざけているのかもしれない。しかし、小学生の頃ならまだしも、大学生にもなってそんなことをする知り合いなどいるだろうか。


 Tさんは部屋を出て階段を下りた。とそこで、目を疑った。

 階段を下りて正面に玄関があるのだが、玄関扉の横の曇りガラスに、見知らぬ女が額を当ててこちらを覗き込もうとしているが見えたのだ。


 不審者だ──。


 どんな顔をしているのかはよくわからなかったが、おそらくそれほど若くはない。なんにせよ知り合いではないことは確かだ。

 Tさんが立ち止まってどうしようかと考えていると、女がガラスから顔を離した。外からだと家の中の様子は全く見えないはずだ。諦めたのだろう。


 だが女は、再度、ただいまーと声をあげた。

 ちょうどそのとき、台所から母がやってきた。エプロンで手を拭きながら、「おかえりー」と廊下を歩いてくる。


「ちょっと母さん」


 慌てて、Tさんは母親を止めた。


「不審者、不審者。通報したほうがいいかも……」


 Tさんが曇りガラスにうつる人影を指さして言うと、母は、「ミヨコでしょ?」と言って玄関に下りた。


 ミヨコ……

 誰だ、それは……


 Tさんが困惑しているなか、母が玄関扉を開けた。

 と、そこには誰もいなかった。


 辺りを見渡す母に「ミヨコって誰だよ?」と声をかけると、母はぽかんとして、「知らない」と答えた。


「今、誰かたずねてきたわよね……?」


 母も困惑している様子だった。Tさんはゾッとして、その日は全く眠れなかった。あのとき母は、なぜ、おかえりと言ったのだろうか……



 それからしばらく経ち、その一件のことなどTさんはすっかり忘れてしまった。

 ところが、ある朝のことだ。

 出かけようと自転車に跨ったとき、父のちょっとした作業場である離れの小屋から、何やら声が聞こえてきた。どうも父が誰かと話している様子だった。


 友人でも訪ねてきたのだろうか……

 なぜか妙に気になった。父の話し方がいつもよりもいくぶんか柔らかい。


 Tさんは小屋に近づき、会話を盗み聞きした。

 父の声はハッキリ聞こえるものの、その相手の声はボソボソしていて聞き取りづらい。だが、なんとなく女性のような気がする。

 そのとき、父の口から「ミヨコは……」と飛び出した。瞬間、心臓が跳ね上がった。


 まただ、ミヨコ……


 まさかミヨコは父の浮気相手なのだろうか。いや、だとしたら、このまえ母がその名を口にしたのはおかしいだろう。

 Tさんは小屋の入り口にそっと隙間を作った。そこからこっそりと建物の中を覗き見る。


 ──独り言だった。

 父は、誰とも話しておらず、作業場には父のほかに誰もいなかったのだ。


「父さん?」


 Tさんが声をかけると、父は我に返ったかのように「おお、なんだ?」と言った。

 寝ぼけていたような感じで、さきほど独り言を話していたことなど覚えていない様子だった。

 Tさんはいよいよ、ミヨコという得体の知れない存在が、かなり危ないものなのではないかと思うようになった。



 それからまたしばらく経ち、「ミヨコ」に関する最後の事件が起きた。

 放課後、自宅に帰ると、Tさんは友人と自室でトランプをしていた。何がおもしろかったのか、家に帰ってからずっとトランプをして夜までを過ごした。


 そろそろご飯食べなー、と階下から母の声がした。Tさんは友人を食卓に誘い、母と三人でご飯を食べた。父は飲み会に参加しておりまだ帰ってなかった。


 Tさんと友人はその後も居間に落ち着き、テレビを見ながら過ごした。八時ごろになって、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかとTさんが友人に言った。するとそれを聞いていた母が「何言ってんの?」と笑った。そして、「二人とも早くお風呂入って寝なさいね」と言った。友人は「はーい」と答えて、風呂に向かった。

 Tさんはそこでハッとした。


 あれ?

 俺は今、誰と一緒にいたっけ?

 ともだち?

 ともだちが、なんでこんな遅くまで家にいたんだ?

 いや、ともだちじゃなくて、一緒にいたのは、家族じゃないか?

 でも、家族って、父と母以外に、誰だ?


 Tさんは半ばパニックになった。

 自分は今、仲の良い誰かと一緒にいた。それは絶対に友達のはずなのに、なぜだか家族だという感じもする。


 いや、待て、待て待て待て、ちがう。友人ですらない。

 だって、今の今まで一緒にいたあいつは、そう、見知らぬ中年女性じゃないか……

 誰だ、誰だったんだ、あの女は……


 Tさんはそこで、知らない女と時間を過ごしていたことにやっと気づいたのだった。ありえないだろうという思考と、乱れる記憶とで、Tさんは頭がおかしくなりそうだった。が、やがてその人物の存在に思い当たった。


 ミヨコ。

 ミヨコが、家族として、紛れ込んでいる。


「そろそろ、あんたも風呂に入りなね」


 母親がTさんに言った。いつのまにか夜も更けていた。ミヨコはどこへ行ったんだろうか。風呂場に行ってみると、すでに誰もいなかった。ただ、鏡は湯気で曇り、部屋はまだ暖かい。


「さっき、誰が風呂に入ってた?」


 Tさんが母親に聞くと、「あれ、今誰か入ってたわよね?」と母は困惑した。やはりそうだ。あいつが来ると、みんなの記憶が曖昧になる。そして、違和感に気づかないかぎりは、家族のふりをして、家の中に居座るのだ。



 Tさんにはその現象がなんなのか、さっぱりわからなかった。心霊現象なのかどうかさえ、よくわからない。

 それ以来、Tさんはミヨコの存在を強く意識するように心がけた。すると、ミヨコはすっかり姿を現さなくなったという。

 おそらく、だが。


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