第38恐怖「かべわたり」

 体験者:絶望ジョリーさん

 

 あの日のことが、いまだに忘れられない。

 まだ幼かったときのことだ。当時、僕は団地に住んでいて、同じ団地に住む仲間たちと日が暮れるまで遊びまわる日々を過ごしていた。


 その日も、敷地内の公園で友人たちと鬼ごっこをしていた。公園のまわりには古びた五階建ての公営住宅が屹然と立ち並び、僕らを見下ろしている。それがいつもの風景だった。


「ほらほら、俺が鬼だよ、早く逃げてー!」


 いちばん足の速い友達の声が興奮気味に響く。僕は一生懸命にそいつから遠ざかると、身をひそめられる場所を探した。

 ふと、高くそびえる建物の壁を見上げた。瞬間、おもわず足を止めた。

 その壁の中程に、色褪せたボロボロの服を着た細身の老婆が、大の字になって張りついていたのだ。


 風になびく薄汚れた白髪、細長く筋張った手足……いくらまばたきをしても、それは間違いなくそこに存在していた。しかし、一体どうなっているのか、どうしたらそんなことができるか……老婆が張り付いているのは建物の側面で、一面が真っ平なのだ。まったく信じられないことに。


 しかし、老婆の超人技はそれだけにとどまらなかった。なんと老婆は、そのまま壁をベタベタとよじ登りはじめたのだ──まるでヤモリみたいに。


「ねぇ! あのおばさん、壁をのぼってる!」


 僕は老婆のほうを指さしながら、わいわい走り回るみんなへ向けて大声を張り上げた。

 友人たちは壁を見上げた。しかし、僕の予想に反して、みんなはおかしそうに笑ったのだった。


「なに言ってんだよお前。バカじゃない?」


 彼らの目は嘲笑を帯びていた。

 僕は戸惑い、あらためて老婆のいた壁を見上げた。すると、その姿は消えていた。まったく、すっかり、どこにも見当たらない。


 その日、部屋に戻ってすぐ窓の外を見ると、まだ明るい夕焼けが西の空に広がっていた。五階もの高さから見渡すそれは幻想的な風景といえたけど、このどこかにあいつがいるかもしれないと思うと身震いした。


 夜、僕は母と隣合わせの寝床に入った。暗い部屋に二人きり。父はいない。母子家庭だ。

 当時の僕にとって、母の隣にいることは何より心強い状況だった。たとえ、何か思い悩むようなことがあったとしても、こうしていれば安心してぐっすりと寝入ることができる。体質なのか、朝まで一回も目は覚めない。


 ところが、その日は事態がちがった。突然、大きな物音が聞こえて、ハッと目が覚めたのだ。

 僕は何事かと辺りを見渡した。母は少々反応したように思えたが、しかし起きる様子はない。差し込むほのかな明かりで、母の汗ばんだ額に髪が張りついているのがわかる。どうやら、外は白んできているらしかった。


 そうだ、音は外から聞こえた気がする……

 異音の原因を突き止めようと、僕はベランダへ向かった。半分、寝ぼけていたのだろう。わずかな緊張感が胸にまとわりつくものの、足取りは軽かった。掃き出し窓を開けると、さっさとベランダに出てしまった。


 涼しい風が吹いていた。何も異常は見当たらない。

 なんだ、と思った。早起きの鳥でもおりてきたのだろうか……。

 ベランダを後にしようと部屋を振り返った。

 その時だ。

 視界の端に、何か巨大な影のカタマリが見えた──どきりとして、勢いよくそちらを向く。

 そこには、あの老婆がいた。

 しかと目が合った。


 ところが、驚くことに、老婆の眼窩には大きな穴がぽっかりと空いているだけで、そこに眼球はなかった。かわりに、闇というかモヤというか、真っ黒な影がぐるぐる渦巻いているようだった。

 それでも、確かに、まちがいなく僕を見ている……


 老婆は、体を逆さにしてベランダ横の壁面にしがみついており、頭の高さはちょうど僕と同じくらいのところにあった。かなり間近に、僕らの視線は交差していた。

 当惑してしまい、僕は無言のまま、ベランダの逆側へ後ずさる。

 端まで来てからハッとし、部屋に戻ろうと試みた。しかし、そちらの窓は固定されて動かない仕様だ。部屋に戻りたければ、再び老婆に接近しなければならない。僕をじっと見つめたまま、壁から動かないでいる老婆に。


 が、混乱と動揺の果てに、僕はその場で泣き出してしまった。

 すると、老婆は眉をカッと釣り上げて、威嚇するように、何やら奇声を発した。それから、ベタベタベターと凄まじい俊敏さで夜闇の奥へ消えていった。


 僕は老婆の行方を確認することなく、慌てて部屋の中へ逃げ込んだ。そのとき、ちょうど母が体を起こした。

 僕はつい今しがた起きた出来事について母に話した。しかし、母は笑いながら僕をなだめた。


「なに、怖い夢みたのー? あたしもよく見たなー」


 呑気な母なのだった。夢ではないと何度も説明したが、無駄だった。


 その後、僕は毎晩、恐怖に怯えながら眠った。いつも夜中に何度も目を覚ました。

 幸い、老婆を見たのはあの夜が最後だ。

 しばらくして、僕らは引っ越すこととなった。僕は団地の仲間たちと離れなければならない悲しみと同時に、安堵を感じた。


 今でも、あの恐ろしい老婆の姿は忘れられない。どうして彼女は壁を這っていたのだろうか……僕はそのときまだ幼かったから、もしかしたら、空想が少しだけ現実を侵食していたのかもしれない。でも、当時の僕にはなんだって同じことだ。つまりそれは、きわめて恐ろしいバケモノでしかない。


 怖くて奇妙な思い出が、僕の心をいつまでも這いずりまわっている。


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