第8恐怖「付いてくる者」

 

 私が一度きりで登山を辞めることとなった話。


 私は専門学生時代、飲食店でアルバイトをしていた。そのアルバイト先の先輩──といっても六十代だが──に、地元の登山会に所属している方がいた。

 その登山会は、月一回だけ関東地方の山に登るという程度のもので、初心者から中級者の集まりという感じらしい。年齢層は高く、一番若い人でも四十代だという。


 先輩はバイト中に暇な時間があると、よく登山の話をした。珍しい植物や鳥、美しい風景、美味しかった食べ物、そのほか、おもしろおかしい体験談など。


 私はその話を聞いているうちに登山に興味を持った。元々自然が好きだし、趣味という趣味がなかったため、何かアウトドアの活動を始めたいところだったのだ。


 私が興味を示すと、先輩はぜひ参加しなよと誘ってくれた。たまたま年齢層が高いだけで、若い人も歓迎だという。

 ちょうどそのときは年末で、登山会では初日の出を見る計画があった。

 私はそれに参加することとなった。


 当日、早朝の四時にバイト場の駐車場で先輩と待ち合わせた。そこから先輩の車で約三十分、お目当ての山に到着した。私たちが一番だった。

 あたりはまだ真っ暗で、ライトがないと何も見えなかった。もちろん山の姿もちゃんと確認することはできない。


 少し待っていると、登山会のメンバーが集まった。年始という時期もあって、私と先輩のほかにはたったの三人だけ。登山会の会長と、元気な主婦が二人だ。合わせて五人。


 冷え込む空気のなか、私たちは一列になって山を登り始めた。会長が先頭で、先輩が二番目。私がその次で、その後ろに主婦の二人。私はちょうど真ん中で、挟まれる形となった。


 初めての登山は、暗闇の中ということも相まってかなりハラハラした。道は相当狭く、また、視界も相当狭い。すぐ横をライトで照らすと、落ちたら助からないであろう険しい傾斜だったりする。地面は岩や木の根によってかなり不安定だった。それに、ぬかるんでいる箇所も多々ある。足運びに気を張っていないと、いまにも転んでしまいそうだ。


 これでは年配の方々が相当苦労するのではないかと思った。ところが、前の二人はすいすい登っていく。体力に自身のある二十代の私でも早いと思うペースだ。後ろの主婦二人も、細身の体なのにしっかりとついくる。それも、年末に見たテレビ番組や、おせちの話などをしながら。私はそれどころではないというのに。


 そうして三十分以上が過ぎただろうか。


 かなり疲労が溜まってきて、おしゃべりだった主婦二人の口数も少なくなってきた。それでもやっぱり、二人はしっかりと付いてくる。むしろ今までよりも距離を詰めてきている気がした。振り返るまでもなく、真後ろで足音がする。


「そろそろ休憩にしようか」

 と先頭の会長が振り返らずに言った。

「そうですね」と先輩が返す。「もう少し登ったら、ベンチもありますしね」


 その言葉に、私はおもわず「よかったあ」と口にした。「このまま休憩なしで行くかと思いましたよ」

 すると前の二人は笑って「それでもいいけどね」なんて冗談を言った。


 私はそのとき違和感をおぼえた。

 後ろの二人から、何も反応がない。あんなにおしゃべりだったのに、今はただ、淡々と付いてくるだけ。


 変だなと思い、私はひさびさに背後を振り返った。

 と、その光景に、おもわず面食らった。


 誰もいないのだ。

 二人の姿が、ない。


 いや、ちがう。距離が離れているのだ。ライトを使って見渡すと、二人は私たちに遅れてまだ下のほうにいた。


「あれっ」と、一瞬にして頭が混乱した。いつから離れていたのだろう。さっきまで聞こえていた足音はなんだったのか。もしかして、前を進む二人や私の足音が、へんに反響して聞こえていたのだろうか。そうだ、そうにちがいない。


 結論づけたそのときだった。


 べちゃっ


 すぐ目の前のぬかるんだ地面に、足跡がついた。

 ぎくりとして、おもわず「うわあっ」と悲鳴をあげてあとずさった。すると、ふたたたび、


 べちゃっ


 足跡が一歩私に近づいてきた。


 まずいと思ったそのとき、主婦二人の声がした。


「あれ、待っててくれたのー?」


 ライトをそちらへ向けると、いつの間か、二人が近くまで来ていた。


 そこから、私は主婦の二人と休憩所までを登った。その間、何度も振り返っては二人の存在を確認した。そうして、休憩後も定期的に振り返りながら山頂まで登り、誰か別の人に付き纏われるような感覚をおぼえることはなかった。


 山頂から町を見下ろす景色は美しかった。もちろん初の日の出もとても美しかった。

 が、私はそれ以来、山に登っていない。美しいものよりも、恐ろしいもののほうが、強烈だったからだ。


 おそらく、登るとしても、夜が明けてからにするだろう。


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