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 指が短くなったわたしは、以前ほど早く登校することはなくなっていた。最初の数日は隠れ家だった場所を見に行ったけど、何度見ても真新しい立入禁止の貼り紙が貼ってあった。それに納得して、登校してまっすぐに校舎へ行くまで時間がかかった。

 一組に近い階段を使うことはない。わたしは五組だから、自然なことだった。クラスメイトたちは驚くほどあっさりとわたしを日常のなかに取り込んだ。質問攻めに合うことも、いじめの発端になることもなかった。大人よりも子供のほうがしたたかで現実的で、柔軟だった。

 友達に心配された。遠慮がちに接してくるのをどう返していいかわからなかったので、放課後の寄り道に誘ってみた。彼女は喜んで、わたしは母親に電話しておいた。あまり遅れないように帰るから、と言うと「友達を大事にしなさいね」と言われた。きっと、かけがえのない友達だと思ったのだろう。

 寄り道はそれなりに楽しかった。お互いがやることなすことに笑い、はしゃいだ。ほんの一時間もなかったが、彼女は満足げだった。そういえば、勉強会をするとも言っていたことを思い出した。それをいうと気まずそうな顔をして、わたしは受験のストレスで指を切ったことになっているのも思い出した。勉強会でなく、また少し出かけることを約束した。

 授業を真面目に受けることが、前よりも楽しく感じた。わたしはふつう程度の学力という自由を手に入れてはじめて、教室に選択肢を得た感じがした。小テストに、えー、と声を上げなくてもよくなっていた。先生に当てられて、それを間違えたとしても、友達が笑ってくれていることがわかった。ひょっとすると、前からそうだったのかもしれない。わたしがそれに気づいていなかっただけで。

 母親が作ったお弁当は少し豪華だった。机をくっつけて、友達と交換しながら食べた。帰り道、また寄り道をして、冷たいものを食べた。


 わたしは、ジュンを探していなかった。

 なぜなら、そうすると嘘になるような気がしたからだ。


* * *


 職員室前の掲示板に、取り壊し工事の日程が貼られていた。隠れ家だった旧部室棟はすべて取り壊されるようだ。授業中に行われるらしく、きっと窓から音が聞こえるだろうな、と思った。

 噂を耳にした。ぼや騒ぎがあったようだ。ジュンがやったのか、他の素行が悪い生徒がやったのかはわからない。わたしから詮索せんさくする気はなかった。ただ、噂が偶然聞こえただけだ。

 取り壊しを話題に出している生徒はひとりもいなかった。だれもあの場所に興味も思い出もなかった。学校の中にそんな場所がないかのように生活している。そのとおりだと思う。わたしたち以外は誰も、あの場所のことを知らない。本当は、わたしも知らないんじゃないかな。


 英語の授業中、地鳴りのような音がした。今日だったんだ、と思った。わたしは工事の日程のことを忘れていた。元気のいい生徒が先生となにか話していて、そんなことよりも授業を進めてほしいと他人事のように思った。

 悲しみはなかった。それが、わたしにとって良いことなのか悪いことなのかわからなかった。


* * *


 プールの授業があった。本当はふたつのクラスが一緒になって使うらしいのだけれど、わたしがいる五組はあまりなので広く使える。

「すごいね、ここ。市民プールより立派かも」

 みんなが揃いの水着姿で、初めてのプール授業にはしゃいでいた。わたしはこのプールに見覚えがあることを黙っていた。言ってもしょうがないことだ。すごいね、と合わせるだけだった。

 誰もわたしの指を見ていなかった。間違いなく以前よりいびつなかたちになっていたのだけれど、みんなそんなことを気にしている心の余裕はなかった。そうだ。そういうものだ。切れ目は消えてしまったし、握ってももう痛まない。もう傷ではないのだ。

 現実味が感じられない時間だった。こんなにたくさんの人間がこのプールにいて、そのただなかにわたしがいる。なにも足りなかった。真っ直ぐに泳ぐばかりなひとも、潜水時間を計測しているひともいるのに。中天に太陽が光っていて、そこらじゅうに水しぶきが上がっている。きらきらと光っていても、ちっとも綺麗だとは思わなかった。

 わたしの泳ぎは褒められた。クラスの誰よりも早くタッチすることができて、教わらなくてもうまくターンすることができた。今まで話したことのない水泳部がわたしのまわりに集まって、いろいろと質問された。水泳を習ったことがないと言うと、天才だと言われた。自由時間には他愛もない水遊びをして、みんな笑っていた。わたしも、笑っていたはずだ。

 交代で部室棟にあるシャワーを使って、体を綺麗にした。温水だった。胸が、足がという話が聞こえた。その話の中に入ってみたりした。わたしは髪を褒められた。黒くて艶のある、きれいな髪だと友だちが言っていた。


 放課後まで、誰もが疲れていた。暖かい風が教室に吹き込んで、眠っている生徒もいた。先生は苦笑しながらそれを注意したり、しなかったりした。プールだからな、と笑っていた。

 みんなが次のプール授業の話をしていた。

「ね、えり。また楽しみだね」

 わたしが得意になったふりをすると、水泳部の友達が笑いながら今度は負けないと言う。みんな、泳ぐのを楽しんでいた。

 だけど誰も、美しい泳ぎ方をしてはいなかった。もちろんわたしも含めて。


* * *


 両親はずいぶん明るくなった。兄はずっと変わらないままだった。

 家族でテレビを見て、みんなでかわるがわる口を挟んだりすることが増えた。もうぎこちなさを感じることはなかった。今は、あのころのことを忘れることができているんだと思う。そして、それが自然だったころを取り戻しているのだ。

 それが、両親にとってかけがえのないものなんだと気づいた。

 昔はわからなかったが、顔を見ているとそう思った。


 部屋に戻ると、本と参考書が増えた勉強机がある。ベッドのサイドテーブルにも本があった。改めてたくさんの本を読んだんだと実感した。読んでいるあいだは、そんなこと考えもしなかった。わたしは賢くなった実感がなかった。

 明日の授業の準備をするのに、時間割を見ながら教科書を鞄に詰める。最近、ようやく文房具を買ってくることが許されたので、もうカッターナイフやハサミも友達から借りずに済むのが気楽だった。

 なんの気なしに、引き出しを開けた。記憶のままに、折れた手帳と携帯電話があった。確か、力まかせにしたからだ。

 数ヶ月ぶりに、携帯電話の電源を入れた。メール欄を見ずに、全て消去した。なにも、どきどきしなかった。


* * *


 いつのまにか、秋が過ぎて、期末試験の季節になっていた。生徒たちは冬服の上に厚着をするようになって、女生徒はこぞってタイツを履き始めた。わたしもそれにならっていて、自転車を使わなくなっていた。もうすぐ雪が降るからだ。

 わたしは図書委員になっていた。委員会に入ったのは初めてのことで、先輩がわたしのことを知っていた。よく勉強してた子だよね、と言われて恥ずかしかった。

 利用者の少ない図書委員の仕事は楽で、ほとんどがただ座っておしゃべりをするだけだった。ときどき友達が遊びに来て、本も借りずに話をして注意されていた。なぜかわたしは怒られなかった。

 ある日、新刊が届いて、初めて作業らしい作業をした。法則のわからない番号が振られているラベルのシールを剥がして貼るだけだったが、量が多くてわたしひとりでは難儀なんぎした。

 先生はまた明日でもいいと言っていたが、最後までやり遂げていた。単純作業が向いているかもしれないと思った。積み上がった本すべてにラベルが貼られているのが少し誇らしく感じた。


 雪が降っていた。図書室にいるときは気づかなかった。息がこれでもかと白くて、薄暗いなかで雪が白く浮いていた。

 こんなに遅くまで学校に残ったのは久しぶりだった。どうしてか、たくさんのことを思い出した。思い出さなくてもいいことを。

 マフラーを巻き直した。

「こんど冬靴、買わなきゃ」


 校舎から校門まで、白かった。

 どこかで見た絵のようだった。

 わたしは絵を描きたいと何度も考えていたことを思い出した。もう、描いてみてもいいような気がする。わたしには時間がある。もう、無理にたくさん勉強することもない。

 雪を踏んだ。頼りなく潰れて、靴のもようが残った。まだ滑るほど積もっていないことを確かめながら歩いていたのだ。


 わたしは見た。

 一度目は少し視界に入っただけだった。

 二度目はもしかして、という気持ちがあって、三度目にやっと確信した。

 見覚えのある白い横顔だった。

 茶色の髪に雪の房が付いている。

 心臓が一度、どくんと高鳴った。

 どうしてだろう。


 彼女の目がわたしを見た。

 雪が降っていた。


* * *


 わたしたちはどちらからともなく重い足取りで歩いていた。

 何度も歩いた道だった。あのときは、わたしは自転車を押していた。わたしが前で、ジュンは後ろだった。足音が聞こえている。

「ねえ、えり」

 初めて聞いたような声だった。このひとのことを知らないみたいだった。

「ジュン」

 口はこの名前を覚えていた。人生でいちばん、多く呼んだものだ。

「ケガ、したって、聞いたよ」

「誰から?」

「わかんない」

「指」

「え?」

「指、ね。切ったの。包丁で」

 ジュンが息を呑んだ気配がした。

「どうして」

「なんでだろうね」

 わたしもいまだにはっきりと理由がわからなかった。ただ、あのとき罰が必要だった。どうして指を選んだのか、忘れてしまった。

「元気だった?」

 ジュンが意味のない質問をした。元気という言葉の意味をわかりかねた。どう返答しても嘘になってしまう気がする。

「来なく、なったし、心配、した」

 声が震えていた。

「隠れ家ってさ、どうしたの?」聞きたかったことだった。

「コンセントが、漏電してたんだって」

 ジュンが持ってきた電気ポットのことを思い出した。古びていたけど、磨かれていてきれいだった。

「もったいなかったね」

 そういえば初めて、ジュンが持ってきたものを褒めた。

「うん」

 どちらともなく、なにも言わなくなった。靴が雪を踏む音がする。


 何度も繰り返した帰り道は終わろうとしていた。信号のない、小さな交差点が見えた。ジュンは、道路を渡って左に行く。何度も、そうだった。

 なんて言うべきか迷う。「またね」も、「じゃあね」も、「さよなら」も、似合わない。

 そう考えているあいだにも足は動いていて、風景はゆっくりと前へ進んでいく。立ち止まろうかと思った。だけどそれは嘘だった。

 嘘を吐くのは、いやだった。

「えり」

 ジュンの声が聞こえる。聞こえてないふりとした。足は止まらない。足音が、ひとり分になった。

 やっぱり、と思った。心のどこかでそうなると思っていた。

 きっと、そうすることが美しいと思っていた。

 初めて見る景色のような気がした。空が灰色に曇っていて、雪の粒がゆっくり落ちてきていて、世界はモノトーンだった。

 少し左に視線を合わせていた。そちらがわに背中が消えていくのをずっと見ていた。そのとき、なにか言おうと思った。

 けれど、見えることはなかった。

 そこがわかれ道だったのに。

 わたしはなにも言わなかった。

 後ろから、わたしのものじゃない足跡が聞こえていた。

 ふりむいたらだめだ。

 ふりむいたらいけない。

 ふりむいたらきっと……。

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えら・ひれ・うろこ 片野雪見 @yukimikatano

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