5

 たぶん一生ぶんの嘘を吐いた。勉強をずっとしていたことも、帰りが遅かったことも、始発で学校に行っていたことも、珍しく遠出していたことも、すべての辻褄つじつま合わせは受験ストレスのせいになった。

 手術のおかげで指はつながった。一ヶ月も入院することになり、片手しか使えないのは退屈だった。固められた手は一日じゅう痛んでなににも集中できず、苛立ちだけがつのった。それが自分のせいだと解っていてもどうしようもなかった。きっとそれまでも罰だった。

 指は少しだけ短くなるらしい。元通り伸ばすにはまた別の手術が必要で、それは断った。両親は心配していたが、元通りになられては罰の意味がない。

 わたしは初めて親に本をねだった。今は携帯電話の電源を入れるのが怖かった。机の中に、手帳と一緒にしまい込んでいた。そうするべきだと思った。わたしには時間があった。

 カードを使って、通販で何冊か本を買った。本物の「堕落論」も。

 起きている時間のほとんどは読書と、ゆったりした勉強に費やした。母親はわたしと話そうとして、お菓子をたくさん焼いて持ってきた。美味しかった。食べると喜ぶので、なるべく食べるようにした。泳いで痩せたぶんがすぐに戻ってしまいそうだった。


 週に一度、カウンセリングを受けなければならなかった。

 自傷行為をした患者の義務だと聞いた。最初のカウンセリングで、あなたは悪くないと言われた。どう返すのが正しいのかわからなくて、黙っていた。

 いくつかゲームのようなことをさせられて、君はどう感じる? と聞かれた。なんとなく、それらしいことを言うと、それをカルテに書き留めている。殺人犯にも同じことをしているような光景に感じたが、それは言わないでおいた。なにやらやたらゆっくり、はっきりと熱心なことを喋っている。なにをどう想像したのかわからないけれど、きっとこのひとはわたしではないひとのことを考えているんだなと思った。


* * *


 わたしの頭は空っぽだ。この世の誰よりも物知らずなんじゃないかと思っている。

 朝な夕なにベッドで本ばかり読んでいる。あまり勉強しようとすると、母親が嫌がる素振りを見せたので、もっと心が豊かそうに見えるように過ごしていた。本当はもっと読んでみたい本があったが、平たく言えば、あまり自殺などとは関係なさそうな本を選んだ。精神科学の本を、辞書をめくりながら読むのが楽しかった。新しい言葉をたくさん知った。わたしのことを書いているようなところがぽつりぽつりと点在していて、それを拾い集めるようにするのが遊びみたいだった。

 ジュンのことは書かれていない。わたしはジュンのことをなにも知らないんだと思う。例がジュンに当てはまっているのかわからなかった。ジュンは変わってしまっている。わたしの記憶の中の彼女は、もういなくなっているのかも知れない。

 

 朝、早く起きてしまうくせが抜けなかった。まだ薄暗い時間に目が覚めて、ベッドの小さな明かりをつけて、うつ伏せで本を読んだ。さいわい、気づかれることはなかった。どうして今まで読書をしないで生きてきたんだろうと、過去の自分に無責任な思いが湧いた。もし昔から本を読んでいて、今より賢かったとしたら――。

 どうなんだろう。こんなことになっていなかったのだろうか。「こんなこと」とはなんなのか。ジュンが変わらなくて、ずっと美しいままで、わたしはそれを見ていられたのだろうか。無意味な仮定が浮かんでは消える。

 思い出したように、指が視界に入る。まだ見たことのない、短くなった指。残酷な証がわたしを励ました。一度は切り落としたのに、もう感覚が戻りつつあって、不気味で、すごかった。わたしは人間なんだと気付かされる。ぴくりとでも動かそうとするとどうしようもなく、人間の痛みがする。


 母親が夢占いの本を持ってきてくれた。表紙の絵がかわいかった。母親もそれが決め手だと言っていた。母親は前より元気になったと思う。良かった。わたしのせいだったからそう思った。

 最初に魚の夢を調べた。抽象的ちゅうしょうてきなことがたくさん並べられていた。魚が泳いでいる夢は、魚の様子が今の自分を表していると書いてあった。激しく、優雅に泳ぐ魚の夢は、わたし自身のことなのだろうか。

 毎晩、夢を見ればいいと思って眠る。それを本に当てはめて、一喜一憂しながら自分のことを確かめたかった。

 わたしは、わたしのことを知りたかった。


* * *


 わたしはなんなく退院した。指の包帯が薄くなって、前よりはるかに自由が効くようになったのは嬉しかった。入院のなかで、利き手じゃない方の手の大事さが身にしみていたのだ。

 学校は休学中になっていた。両親が学校に申請していたらしい。復学するには、カウンセラーの許可が必要だった。カウンセラーは馴れ馴れしいので嫌いだった。わたしのことをえりちゃん、と呼び、先生と呼ぶと名前で呼ぶように言われるのだ。

 わたしの部屋は記憶と違っていた。ベッドは新しくなっていて、勉強机からは筆記用具がなくなっていた。数日経ってから、ベッドは血がついていたから、筆記用具は危ないからだとわかった。つめきりも、耳かきすらもなかった。自業自得だったけれど、手のこともあってとても不便だった。

 母親はわたしが頼ると嬉しそうにした。ひざ枕で耳かきをしながら、昔のわたしのことを話してくれた。わたしが覚えていないことまでよく知っていた。わたしが知らなかった、父親の話、兄の話、母親自身の話を、ずっとしていた。どう捉えていいのかわからずに、相槌を打っていた。わたしは相槌がうまいのだ。


 担任が一度、家に来て母親と話をしていた。わたしが部屋から降りていくと、ふたりともぎゅっと緊張していた。そんなつもりはなかったのに、悪いことをしてしまった。

 担任は、まるで的はずれなアドバイスらしいことをたくさん話していた。母親がそれに頷いていて、わたしはそうですね、とかそうなんですか、と返していた。受験が失敗しても偉くなったひとの話は、なんとも思わなかった。

 ジュンのことを誰にも話さないでおいてよかった。きっと誰かがジュンのせいにしてしまいそうで、それはかわいそうだと感じる。


* * *


 たぶん、ひとを大切に思ったのなんて初めてだったからだ。休学中のわたしにありあまった時間は、そう結論づけさせた。

 思えば、親友も恋人もいない人生だった。幼稚園も、小学校も、中学校も。特別なひとなんていたことがなかった。家族とも全く違う気持ちで、ジュンのことを捉えていた。

 だからきっと、大切にする方法を間違ったんだと思う。


 今まで気にも留めなかった名前も知らない庭木にわきを見る。剪定せんていがされておらず、枝葉えだはが四方に伸びて、長く散髪をしていないひとのようになっていた。

 生き物を育てるのにはストレスが必要らしい。トマトは水を与えなければ美味しくなり、熱帯魚は薬液やくえきに泳がせて丈夫に育てるそうだ。

 ジュンにはそういうことが必要だったのかも知れない。

 わたしの失敗を世界中があざ笑っているような気がした。そのたび、指の傷口を握った。痛みがわたしを守ってくれた。


* * *


 ジュンに近づきすぎてしまった。それが間違いだと断言はできないけれど、彼女の美しさを奪ったのはまぎれもなくわたしだった。

 今回の通院で、指の糸が抜かれた。説明されていたよりも痛みはなかった。久しぶりに傷口を見たらひどい色をしていた。代償という言葉が浮かんで、その価値を確かめるように安心する。

 あまり濡らしたり、激しく運動しないでくださいと注意があった。

 まだ通院が必要だと教えてくれた先生は、親からもらった体を大事にしなさいねと言った。意味が通っていないと思った。親からもらわなくとも大事にするものはするし、からだを傷めることが大事にする方法であることもある。小学生のようなことを諭されて、はい、と頷かなければならないのがしゃくだった。わたしを壊れやすい人形かなにかだと思っているのだ。


 通っている病院の本棚には子供に読み聞かせるための絵本があって、そのなかに人魚姫があった。表紙で人魚が泣いていた。どうして泣いているんだろう。結末を覚えていなかった。結局のところ、人魚姫は王子と結ばれたのだろうか。本当は、海に帰っていったんじゃなかっただろうか。

 とても読む気にはならなかった。結末はわたしが求めているものじゃない気がした。けれど、わたしがなにを求めているのかはわからない。

 人魚姫はどうして王子のことを好きになったのだろう。別の生き物のはずなのに好きになることなんて、とてもおかしいことのように思った。

 王子は、足を手に入れた人魚姫をなんて美しいと言っていた気がする。尾びれを持った人魚は美しくないのだろうか。人魚姫が人間の姿を失ったら、王子の愛はなくなるものなのか。

 人魚姫は馬鹿だ。王子も同じくらい馬鹿だ。ただの童話に、なんでこんなに嫌悪感けんおかんが湧くのかわからなかった。


 わたしは人間になる前の人魚が好きだった。そう言ってしまったら人魚は泡になって消えてしまうんだろうか。


* * *


 復学が決まった。母親は心配していたが、カウンセラーの先生は大丈夫でしょう、と太鼓判を押した。それはそのとおりだと思う。本当はわたし自身に問題なんてなくて、ジュンの気持ちに気づいてしまったあの瞬間だけが問題だったのだから、罰を受けたわたしにはもうカウンセリングも休学も必要ない。徐々に耳ざわりの良い返事をしておいてよかった。せっかく上がった成績をあまり落としすぎたくない。むしろ、下がったほうが両親は安心できるのかも知れないけれど。

 母親は電話をかけることが増えた。耳をそばだてなくても内容が聞こえた。大きめの声だった。日程を決めているようだった。何回も何回もはい、はいと繰り返していた。

 その日の夕飯に、ちらしずしが出てきた。父親がお祝いと言った。機能の少ない携帯電話をもらった。わたしはごめんね、ではなくありがとう、と言っておいた。母親は泣いていた。まるで儀式のようだった。

 小学生くらいのことを思い出した。ふたりの片方が悪いことをして喧嘩になっても、お互いにごめんなさいをさせられるのだ。大人の手が頭に置かれて。あれは強制的なものではないだろうか。大人たちが、都合のいいように子供をコントロールするために刷り込まれる、儀式じゃないだろうか?


 復学前に一度、学校に行くことになった。突然もとに戻すのはよくないとカウンセラーが言っていたので母親も先生も言うとおりにしたのだ。

 わたしが電車で行くと言ったら、母親が車で送ってくれると言った。面倒だったので断ろうとしたら、ひどい剣幕けんまくで怒られて強引に決定された。よく考えれば、わたしのような状態の人間と電車を引き合わせたくないのも当然なので、いやだったけどしょうがなく車に乗った。他のひとが思っているのとは別の理由で、学校に近づいていくのが気恥ずかしくて憂鬱だった。

 窓ガラスに自分の顔が映っている。こんな顔だったろうか。あれ以来、鏡を見た覚えがない。髪に艶があった。塩水で傷んだはずなのに、すっかり元通りになっていた。変わったのは髪の長さだけだ。あの思い出が夢だと言われたら信じてしまいそうだ。

 瞳が歪んだ。水滴が付いていた。雨と思う間もなく、ぽつぽつと水滴が窓に弾けていく。わたしの顔は見えなくなった。エンジン音に覆いかぶさるように雨音が聞こえる。ああ、雨が降っている。わたしは水の中にいる。

 魚は今日、この雨の中を泳いでいるのかが気になった。


* * *


 校長と担任に挨拶することになった。

 クラスには来週から戻ることに決まり、担任には何度も伺うように大丈夫なのか聞かれた。わたしよりも怯えているのが不思議で、おかしかった。わたし以外の全員が誰かに謝っていて、わたしのことのはずなのに蚊帳の外だった。みんな困っていたんだと思う。腫れ物に触るのは怖いだろうから、なるべく黙っておいた。

 帰りしなに先生が休学していた期間のノートのコピーをくれた。クラスメイトの名前を言っていたけれど、覚えがなかった。復学したらお礼を言わないといけないから、名前を忘れないことを頑張った。鞄を持ってきていなかったから、大切なもののように抱えていなければならなかった。薄っぺらな重みがあった。

 昼間から校舎を出るのは変な感覚がある。学校という世界から吐き出された気分がした。それとも、わたしが拒絶したんだろうか。


「少し散歩させて」

 母親にいうとやはりついてきた。しょうがないので目につくものを指差して話してあげると、神妙な顔で聞いていた。なんの意味もないことなのに、母親には意味があるらしかった。想像の中でわたしはひどい目にあっているのだろうか。それとも楽しそうにしている時間のことを考えているのだろうか。それはどっちも外れていると言ったらどんな顔をするのだろうか。

 誰もいない校庭と、部室棟までたどり着いた。道中、何回か早く帰ろうと言われた。その都度、もうちょっと、と言って引き伸ばした。そんなはずはないのに、ジュンに会ったらどうしようと考えた。どうすることもないという結論が出ても、このテーマは目の前を目障りにぐるぐる浮遊していた。

 手足がなかば勝手に動いている。からだが道を覚えていた。部室棟を裏に回って、周りより背の高い草を踏んで、扉が開いているのかを真っ先に見るのだ。それから……。


* * *


 唖然としてしまった。膝を畳んでしまいそうだったのをこらえた。

 隠れ家は、隠れ家ではなくなっていた。扉にたくさんの木の板が打たれていた。真新しい「立入禁止」が貼られていた。

 わたしはなぜか、ジュンのことが心配になった。



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