4
二学期に入ってから、ジュンはより激しく水で踊った。
わたしはもう、プールサイドに腰掛けて見ているだけの存在になった。その
ジュンは泳いでいるあいだ、話しかけてこなくなった。そのぶん、美しいものを長い時間、見ることができるのは良いことだった。ただ、ジュンがわたしのことを見ているときがあった。好きに泳いでいるように見えて、わたしのことを気にする瞬間が、間違いなくあった。
そのとき、美しさが濁ることを感じた。いっそわたしがいなくなればいいのかと思ったけれど、ジュンを見られなくなるのは嫌だった。ジレンマがあった。
その濁りは日に日に明白になっていった。
* * *
ジュンは隠れ家を快適にするために苦心していた。
「ねえ、えり。なにがあったらいいかな」
一日に何度も聞かれて、
「ひょっとしたら、三年生まで使うんだから、今のうちに」
話を合わせるのを苦痛に感じていた。なにがその原因なのかわからなかった。ジュンになにかを憎んでいる話をしてほしかった。
毎日のようにジュンは家からなにか持ってきていた。ドライヤー、電気ポット、小さなカーペットとクッション。それをわたしに見せて、反応がよくないのを確認すると、彼女もそれから興味をなくすのだった。古びた電気ポットは一度しか使われなかった。よく見ると、磨いたあとがあった。
* * *
「ねえ、どこか遊びに行かない?」
ジュンはとにかくわたしに話させようとしている。以前は質問をするのは決まってわたしだったのに、すっかり立場が逆になっていた。
「どこ? 海?」
海はもう冷たくなっているはずだ。ジュンが泳げても、わたしはもう泳げない。溺れてしまう。魚ではないから。
「海じゃなくてさ、もっと、街とか。えりが知ってるところ」
「え? 楽しい?」
「わかんないけどさ、放課後、遊んでみたりとか」
「やめてよ、そんな、普通の友達みたいな」
言ってから、しまったと思った。ジュンの細い目が見開かれてわたしを見ていた。細工物みたいに見えた。るっ、と、そこに水が溜まって、目尻から
泣いたのだ。
わたしの全身の関節が固まった。身動きが取れなかった。きっとその一瞬だけは、心臓も、肺も、止まってしまっていた。血の気が引く音がした。
ジュンが
わたしが泣かせてしまったことはかろうじてわかる。でも、しかし、だからといって。
この泣き方は美しくないと思った。
まるでふつうの女の子みたいに泣くのは、違うじゃないかと。
そう、思った。
* * *
結局、ジュンは
わたしは混乱していた。ジュンの心の内がわからない。なんであんなに泣いていたんだろうか。なんであんな目をしていたのか、わからなかった。わたしの知っているジュンではなく、別の生き物であるみたいだったから。
あんなに美しくない姿を初めてみた。
わたしは失望したのだろうか。
失望という言葉の意味を考えながら授業を受けた。不思議なことに、授業に集中できないということはなかった。わたしはこんなに現実的だったっけと思った。
夕方。隠れ家に向かっていた。きっと泣いている。無根拠にそう思った。ジュンの美しさを見たかった。見て、安心したかった。グラウンドで運動部が叫んでいた。彼らの心は、転がる球に向かっている。わたしの心はジュンに。
ではジュンは?
隠れ家の扉は少し開いていた。合図だった。わたしは声をかけて扉を開けた。返事はなかった。
「えり?」
いつもより掠れたジュンの声が聞こえる。わたしを確かめると目を伏せた。マットに腰掛けている彼女は小さく見えた。怯えたように見えた。どうしてわたしなんかに怯えているんだろう。まるでふつうの女の子だった。
「ジュン、」
「えり、」
声が交錯した。どちらとも言えない、気まずい時間があった。
先にジュンが口を開いた。
「えり、ごめんね。泣いちゃった」
また謝っている。
「なんかさ、ぐううって、来ちゃって」
笑顔に力がなかった。無理しているのがわかった。それがわかっても、どうするべきかわからない。こんなにやくたたずの脳だったろうか。いつもジュンと話すことがうまかったはずなのに。
そもそも、ジュンはこういう嘘をわたしに吐いたことがあっただろうか?
ジュンは、ジュンでないみたいだ。
「あの、恥ずかしいんだけどさ」
またあの顔をした。わたしの嫌いな顔。
続きを言ってほしくなかった。
「あたしは、えりみたいになりたいんだ」
ジュンは、美しくなくなろうとしているんだと気づいた。
* * *
頭痛がしていた。どこから間違えてしまったのか考えていた。
わたしは彼女を肯定しているつもりだった。そそのかしていたと言ってもいい。彼女が「らしく」あるように誘導していた。その美しさが磨かれるように注意深くしていたはずだ。
ジュンがわたしと親しくしようとしているのはいい。
ジュンがわたしに合わせようとするのがいやで、どうしようもなかった。ジュンの目の意味がわかった。媚びていたのだ。わたしに。
そんな、汚らわしいことをしてほしくなかった。
叫んでしまいたかった。そうしても解決しないことはわかっていても、わたしには今までにないストレスが降り掛かっていた。好きなだけ叫べる場所を考えても、そんな場所はどこにもなかった。あの隠れ家でさえも違ったのだ。
ジュンのこと、プールのこと、隠れ家のこと、濡れた制服のこと、堕落論のこと、うねりを上げて泳いでいた魚のこと、電車のこと、水着のこと、海のこと、そしてわたしのこと。
すべてがつながって、わたしは理解してしまった。理解しなくてよかったことを。
ジュンはふつうになろうとしていた。きっと、わたしのように。
わたしがかけがえなく感じた美しさは、彼女にとって醜いものだったのか。それを、削ぎ落とそうとしているのが、我慢ならない。
あんなに美しい生き物が、それを捨てようとしていることが、悲しくて、哀しくて、
わたしがそう言ったら、美しいままでいてくれるのだろうか? それは、わたしの知っている美しさだろうか? 一度死んで、
* * *
なんて残酷なことをしたんだろう。ベッドの上で考えた。
わたしは陸から魚に話しかけていた馬鹿だった。魚は陸に上がると死んでしまうことも忘れていた大馬鹿だ。
ジュンは魚ではなくなろうとしている。わたしのせいで。わたしのことをこころよく思っているとは知っていたけれど、ここまでとは考えてもみなかった。まったく、予想していないことだった。
頭の中身がぐちゃぐちゃに散乱していた。混乱しているという自覚があっても、混乱は収まらなかった。わたしの怒りは、どこへ向かうべきなのかわからずに暴走していた。
携帯電話が鳴った。機嫌のいいメールの着信音がうっとうしくて、乱暴に電源を落とした。一瞬、メールの件名が見えたけれど、見えていないことにして。
今まで愛おしかったものすべてに腹が立って、携帯電話と堕落論の手帳を勉強机の引き出しに叩き込んだ。一度手帳がひっかかって、それがまた怒りを増長させた。わたしはうめいた。
ベッドに両手を叩きつけた。でも、うまく力が入らなかった。涙が出ないことが悔しかった。こんなに辛いのに、からだはわたしの辛さをどうにもしてくれなかった。むき出しの
空腹感があった。からだがわたしのものでないみたいだった。こんなに、こんなに苦しんでいるのにものを食べるわけがないじゃないか。
惨めだった。幸せに思っていたのが馬鹿みたいに思えた。ジュンのあの顔を思い出すと苛立ちが大きくなる。
ジュンはあのままで美しかったのに。
もう手遅れだった。
なんで、ジュンはわたしなんかに近づこうとしているんだろう。
魚が陸に上がろうとしているのを、どうやったら止められるのだろう?
魚よ、ごめん。
わたしには、えらも、ひれも、うろこもないのだ。
同じにはなれない。
* * *
その夜、わたしは罰のために指を一本切り落とした。なんのための罰かわからないままだった。
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