3

 わたしは必死になって勉強する羽目になった。そもそもの成績が良くないのだ。夏期講習をパスするにはそれなりに躍進しなければならない。

 赤本は役に立っていなかった。今まで解いていた単元は中間試験の範囲にほとんど含まれていなかったし、決してわたしの頭は良くなっていなかった。勉強以外のために勉強することは、あまり身にならないみたいだ。

 ジュンは試験のことをなんとも思っていないみたいだった。意外なことに彼女は成績が良かったので、こんなことは些事さじであるらしい。だからこそわたしは成績を良くしようと思った。

 わたしはますます、真面目な生徒だと思われるようになった。傍目はためには、学年で一番、熱心に勉強している生徒に見えているらしい。

 日常の強度は上がっていくばかりだった。早朝はジュンと会い、真面目に授業を受けて、放課後は誰よりも残って勉強をしていた。各教科の先生におすすめの参考書を聞くほどだった。わたしはジュンと出会ってから自分の頭が悪いことをひしひしと実感しているので、人一倍頑張ることは自然だった。

 夕方にジュンと会えないのは耐え難い苦痛だった。必死に勉強していることが惨めな気がして、頭が良ければこんな思いもしなくていいのにと考えると泣きたくなる。

 図書室の窓から、早々と下校する生徒たちの笑い声を聞こえて憂鬱になる。ノートにペンを突き立てる音はなんて寂しいんだろうと思った。


* * *


「えり、さあ」

「うん?」

 放課後の図書室には人が増えた。クラスの友達も試験期間になると勉強に使うようで、わたしがいることからか、わたしのクラスの人間が多いように感じた。参考書の量を見て感心されると、曖昧な微笑みでしか返せないのは面倒だった。

「最近、図書室で見なかったけど、帰ってたの?」

「うん、先に帰ってる。勉強はしてたよ」

「電車もあんまり一緒にならなくなったから、なにかあったのかなって思って」

「もっとちゃんと勉強したくてさ」

 また嘘を吐いた。電車の時間が合わなくなったのは始発よりも早く登校しているからだし、ジュンと仲良くなる前は平日に必ず図書室で勉強していたが、週の半分はジュンと会っていたので勉強はさぼりぎみだった。

「えりと同じ中学の子に聞いたんだけどさ、前はそんなに勉強してなかったらしいじゃん」

 わたしは中学生のころをあまり覚えていない。悪いことがあったわけでもなければ、特別に良いことがあった記憶もない無味乾燥むみかんそうとしたものだったように思う。だから、名前を言われてもそれが誰のことなのかわからなかった。

「行きたい大学でもあるの?」

 彼女の顔はどこか深刻な雰囲気があって、心配とか、好奇心とか、そういったものがないまぜになっている。非難ひなんめいた響きは、隠し事をされているんじゃないかという疑いに違いない。

 間違っても本当のことを教えたくなかった。彼女のことを嫌っているわけではなく、放課後の勉強を日課にしたときから、誰にも秘密にしておかないといけない気がしていた。


「お小遣い」

「え?」

「お小遣い、増やしてほしくて。高校生なのにお金足りないから、成績上がったら、放課後に遊ぶくらいもらえるかと思ってさ」

 なるべく自然に聞こえるように言った。目をそらすと気づかれてしまいそうだったから、ぐっとこらえて彼女と目を合わせて、早口にならないように。

「えりってそんなに成績悪いの?」

 彼女はわたしがいう「バカだから」を見くびっているようなので、中学生のころの成績を教えてあげた。彼女はわずかに目を見開いて、ごめんと謝ってきた。想像を絶していたのか、気まずそうにもじもじしている。自分のことながら、申し訳ない気持ちになる。

「今度、勉強会しようね」

 わたしの答えは彼女を満足させたようだった。荷物をまとめて帰っていく後ろ姿はしゃんと背筋が伸びていて、心配事が減ったことを表している。

 彼女には嘘をたくさん吐いているが、これもしょうがないことだった。優先順位というものが存在するなら、ジュンのことがいちばんになるのだ。

 そう考えてから、明日の朝、ジュンと会うことを思い出してしまった。いつもより賑やかな図書室のなか、わたしの孤独は浮き彫りになって痛い。時計を見るとまだ四時半だった。問題を解くことに集中して、早く明日の朝が近づくことを願った。まだ十二時間以上もあった。


 心模様とは裏腹に、成績は少しずつ良くなっていった。公式を覚えて、ケアレスミスが減った。やっと人並み程度になるころには夏は盛りだった。ジュンは相変わらず、水に触れていた。試験の話はしなかった。甘えるのもいやだったし、ジュンとの時間が楽しくなくなってしまうことが怖い。ジュンに余計な気を遣ってほしくなかった。

 試験の日は、ジュンと会えなかった。これが最後の試練だと思った。


* * *


 いつのまにか、時刻表を見るのが得意になっていた。以前から路線図とにらめっこして早朝の電車を調べていた甲斐があった。ジュンはまめだねと褒めてくれた。メールで赤線を引いた時刻表を送ったとき、自分の手際の良さに惚れ惚れとした。

 夏休みの電車はこれでもかと空いていた。冷房の効いた車内に帽子をかぶったわたしだけがうきうきしている。多くない荷物はせいいっぱい考えて詰め込んだもので、自信があった。今のわたしにはエネルギーが漲っている。

 改札口でジュンは待っていた。私服を初めて見た。こざっぱりした黄色いシャツとハーフパンツで、いかにもジュンらしく思った。

「お待たせ、見て、これ」

 わたしは定期入れを紋所もんどころのように見せつけた。ジュンが吹き出す。

「すごいじゃん」まじまじと見ている。「わざわざ買ったんだ?」

 定期券は夏休み中、海のある駅まで行けるように更新した。

「お小遣い、増えたんだ。成績良かったから」

 嘘から出たまことだった。友達を騙すために吐いたその場しのぎの嘘だったのに思わぬ幸運だった。

 今までの成績が下の中だったのが中の中になったことで両親はえらく感動していて、こちらから交渉することもなくお小遣いは増額され、父親はボーナスと言って一万円札をくれたのだ。そしてそれはあっという間に、いちばん欲しかったものに化けた。

「偉いじゃん、無敵だ」

「無敵。お腹空いても海には行ける」

「意味あるかなあ、それ」呆れてジュンは笑っている。「でも、今まで見たことないくらい自信満々なのはいいね」

 そう言われて悪い気はしなかった。わたしがこんなに目的をもって行動するのは初めてだと思う。ジュンを知ってから、自分でも知らなかった自分が次々と現れている。将来に、わたしのターニングポイントはここだとはっきり言えるくらいに。


「何分くらいかな」

 駅構内のベンチに座るジュンは非日常的だった。彼女は徒歩通学だから、普段なら絶対にこうして一緒になることはないのだ。

「四つ先で降りるから、三十分くらい」

「結構あるね」ジュンの目は爛々らんらんといっていいほど光っている。「帰りもあるから、思ったより泳げないのかな」

「ね。これ、見て」

 わたしの携帯電話には、詳しい時刻表が表示されている。

「帰りね、四時から七時まで本数が多いの」

「今、九時なのに?」目がより爛々としだした。

「往復一時間抜いても九時間あるから、嫌ってほどだよ」

「九時間あったら渡れちゃうな」

「どこを?」

津軽海峡つがるかいきょう

「ほんとに?」素直に驚いた。

「ほんとほんと」

 調べてみたら本当に渡った記録があった。なんでこんなことを知っているんだろう。

 アナウンスが流れるたびに立ち上がろうとするジュンを座らせながら電車を待つ。

 頑張ってよかった。世の中にありふれていることをしんから思った。


* * *


 車窓の景色が移ろっていくにつれてジュンは傍目にも落ち着きがなくなっていった。家で飼っている犬を初めてお出かけに連れて行ったときのようにばたついていて、その都度えり、えりと話しかけてくる。茶色の髪が、少しだけ開いた窓の風ではらはらとたなびいて、シャンプーの匂いがした気がした。

 プールの中では美しい生き物だと思ったけれど、こうして見ると美しい女の子だった。

 睫毛が長くて、細い目は決して小さくなくて、高い鼻はかたちがすっきりとしている。毎日あんなに日を浴びているのに色白で、あんなに激しく泳ぐとは思えないたおやかな手は指先まで作られたようにきれいだった。スマートな体型はシルエットがよくて、明るい黄色のサンダルが似合って。

 細くて長い首がとても綺麗だ。

「こっち側、来たことないんだよね」

 その声で目が覚めた。変わらず窓の外を見たままの姿勢でジュンが言う。

「わたしも、家と学校の駅しかないよ」

「えりは友達とどこか行ったりしない?」

「今、してる」

「そっか」

 ジュンはそれ以上を聞かなかった。安心してるように見えた。

「わたし、ジュンが思ってるほど友達多くないよ」

「そっか……」

 ふたりで窓の外を見た。国道沿いなのに、あまり建物がなかった。タタン、タタンと規則的なリズムが耳に残った。


 四駅、三十分。

 待ち遠しくて長く感じた。ジュンはもっとだろうと思う。名前しか知らない駅に降り立ったとき、間違えて異国に来てしまったような違和感があった。

 ジュンは大きく背伸びをする。釣られてわたしもそうした。こんなに長い電車移動はふたりとも初めてだとあとで知った。

 サンダルをよく見た。きっと、わたしたちと同じ目的だと知れた。異国なのに、俗っぽくて、いやだった。

 駅を出ると陽射しがじりりとわたしたちをさいなむ。季節を実感させられていた。普段は出していない二の腕が熱かくて、脇の下を暑い風が通っていった。

 誰もがサンダルで、夏らしい格好をして、何人かで集まって、同じ方向に歩いていた。ああ、いやだなと思った。ジュンはわたしの気も知らないでうきうきしていた。

「ねえ、これ、みんな海に行くのかな」

 感情が抑えきれていないささやき声でジュンが尋ねた。

「たぶん、そうなんだろうね」

 電車で気軽に行ける海スポットとしてインターネットで見た。駅の売店には安い浮き輪が売っていることを知っていた。とはいえ、こんなに騒々しそうなのは予定外だ。小さく祈っていた。みんな通り過ぎてくれますように。

 果たして海岸は、テレビニュースで見るような混雑だった。浮かれた色のパラソルが何本も立っていて、みぎわに人間がたくさん見えた。掘っ立て小屋のような建物があって、看板まであった。色とりどりのシートで、目が痛いくらいカラフルだった。

 ああ、やっぱり。がっかりした。

「ね、海だ」

 興奮するジュンの手を引っ張った。がくん、とジュンの足がつんのめった。すごい力だった。

「こっちは駄目」

「違うの?」

「こっちは人がいるでしょ。広いし綺麗だから、みんなこっちに来てるみたい」携帯電話で地図を見て確認しながら喋る。「もうちょっと行ったら狭くて人気ないところがあるらしいから、そこまで歩こう」

「まあ、いいけど」

 お預けをくらってジュンは不満そうだ。

「ジュンが泳いでたら苦情がありそうじゃん」

「そうだけどさ」

「それなら、遠くても好きにできるほうがいいじゃん、隠れ家と一緒だよ。誰も来ないからいいんじゃん」

 理解はしたが納得はできない顔でジュンはわたしの前を小走りしていた。海を目の前に飛び込めないストレスのほどはわからないが、どうせなら絶好の初日にしたかった。今後どうなったとしても、最初は人がいてほしくなかったのだ。


「ねえ、まだー?」

「まだ」

 地図の上のちょっとはジュンには長いみたいだった。たまにくるりと振り返って縁石えんせきの上でケンケンしたりしながら全身で退屈を持て余していた。小学生のような動きが似合っていた。あんなに綺麗なのに。

 どこか漠然と不安になる自分もいる。この地図は嘘っぱちで、この先に思い通りの場所なんてなくて、ジュンが怒り出してしまって……。そんな馬鹿なことと思いながらも心の一部が陰っていた。

 後ろを見かえると、まだ海遊びをするひとたちの声が聞こえていた。なんて邪魔なんだろうと、苛立ちがさざめいた。みんな、いなくなってしまえばいいのにと、子供じみた願望を思う。

 わたしもジュンを追って小走りした。わたしたちの海が見たかった。それと余計なものから遠ざかるために。揺れる鞄が邪魔で、放り出してしまいたかった。携帯電話を握りしめる手が思うように振れなかった。

 うっすらおでこに汗をかくと、小さな砂浜が見えた。

 やっと夏休みが始まったと思った。


* * *


 案の定というか、ジュンは勢いよく駆け出していた。砂に足を取られてよろめきながら、鞄をそこいらに放り投げて、ほとんど突進だった。

 小さな水柱が立った。そうなるだろうと思っていた。

「えり! ほら、海!」

 久しぶりの砂浜の頼りなさを確かめながらジュンを追って浜辺にたどり着くと、すでに彼女はこの上なく海を満喫していた。海はプールと違って波があるから泳ぐのが難しいと聞くのに、苦もなく泳ぎ回っている姿は本当に水を得た魚のようだ。

「わかったから――。先、荷物ねー!」

 はーい、と返事のようなものが聞こえてジュンは海中に姿を消した。わたしは家の物置から持ってきたストライプのビニールシートを砂浜に広げて、重しにふたりの荷物を置いた。買ってきたビーチサンダルに履き替えて、わたしも着のままでジュンを追いかけて海に入った。思ったよりも冷たい。波に押されてうまく進めない。早くジュンの近くに行きたかった。

 腰の深さまで来て、大きく息を吸って潜った。膝を抱いて丸まるかたちで沈んでから、からだを伸ばして泳ぎだす。ゴーグルを持っていなかったから、目を開けるのがちょっとだけ怖かった。

 青かった。記憶よりずっと。

 青い暗闇がどこまでもぼんやりと広がっている。くまなく全身に染み込んでくる冷たさ、目が塩水でころころする。泡の音、さーっとホワイトノイズ。どこかで、この音は自分の血流の音だと聞いたことがある。すべてが遠くに聞こえる。たまに水を叩く音が大きく鳴って、ジュンを見たくなって海から顔を出した。

「あ、いた」

 ジュンはわたしを探していたみたいだった。わたしが顔を拭おうとしたら、もうすぐそこまで来ていた。

「えりは溺れそうだから、一回上がって着替えよ」

 さざなみに煽られて口がきけないわたしは人差指と親指で丸を作った。するとジュンはわたしを引いて浅いところへ連れて行ってくれた。

「髪、ひどいわ。見てこれ」

 手櫛で髪を梳かそうとしたら、塩水でまたたく間に軋んでいた。それを見て、彼女があやふやな顔をするので、怪訝に思った。

「えりの髪、いたんじゃってるね」

「そうかな」

「せっかく黒くて綺麗な髪だったのに」

「ほら、ジュンみたく茶色になるんだったらそれでいいし」

 彼女がしゅんとしたので、慌ててフォローした。

「わたしが、泳ぎたいんだから。そうじゃなかったら定期なんて買うわけないじゃん。いいよ、髪くらい」

 わたしは本心を伝えるのが上手になったと思う。わたしは怒っていた。どれほどジュンのことが大切なのかをこんこんと言い聞かせてあげたい。荷物の中から手帳を取り出して、つまびらかに解説してみせれば信じてくれるのだろうか。

「ごめんね」

 ジュンは最近、よく謝るようになった気がする。

「いいって。それより泳ごうよ。まだほとんど九時間あるんだから」

 岩陰で、ずぶ濡れになった服を脱いだ。じっとりと重たいそれをハンガーで陽に当たる岩壁に引っ掛けておいた。忘れないようにしようねと言い合って、水着になる。ジュンは学校指定だった。深い紺色で、本来は来ないだろう海の色をしていた。手足の白がもっと白く見える。つまさきまで彫刻みたいだった。

「買ったの? 水着」

 わたしはこの日のために水着を買っていた。絶対に買わないと思っていた。浮かれているんだと思う。

「こないだね。髪、縛ってくれる? 似合うように」

「流行りとかわかんないよ」

「いいの。縛ってほしいだけだから」

 ジュンは時間をかけて髪を編んでくれた。お返しをしようとしたら海に逃げられてしまった。泳ぐ合間に日向ぼっこをしてからだを温めながら、冷たいものを飲んだ。こんなに楽しいことがあるんだと夢中になっているうちに夕方に差し掛かっていて、お腹が空いていることに気がついた。わたしたちはお昼のことをなにも考えていなかったのだ。

「帰ろう」

 まだ日が高いのにジュンが言い出した。意外だった。

「まだ時間、ぜんぜんあるけど、帰ろう。お腹すいた。近くにコンビニないし、とりあえず帰ろう」

 有無を言わさずまくしたてている。確かに、わたしも胃の中がどれだけ空っぽかわかるくらいだった。乾いた服に着替えると、暖かい。からだが冷えているのが、ようやくわかった。

「思ったより寒いんだね、海って」

 そういえば、プールの水はずいぶん温かかった。天井が熱を逃さないからだ。今までわたしたちは温室育ちだったのだ。

「あんまり長い時間泳ぐひとは、少しは太ってないといけないんだって聞いたことあるけど」ジュンがしみじみ言う。「ほんとそう思う。たぶん、ふたりとも痩せ過ぎてる」

「太る? 今から」

「無理。なんだったら今日、痩せたよ」

 帰る前、お互いに目薬をさしあった。水分が目にぎゅんぎゅん吸い込まれていった気がする。


 わたしたちは予定より早い電車に乗った。シャワーを浴びたかった。首にシャツの襟が当たるとざらついて違和感がある。来るときは気づかなかった座席の柔らかさが、力の抜けたわたしのからだを受け止めてくれていた。

 ぽつりとジュンが言う。

「海、明日はやめとこうか」

「え? なんで、いやだった?」

「楽しかったよ、そうじゃなくてさ」

 窓枠に頬杖ほおづえをついて、

「えりだけじゃなくて、わたしも毎日は疲れちゃうって思ったから。一日泳いだら、一日休もう。いつもは三十分も泳がないのに、急にあんまり長い時間は危ないし」

 えりはもう寝そうになってるし、とからかわれた。事実だったので曖昧あいまいに笑っておいた。そうとして返せなかったし、無理に返すこともない。

 今度は温かい飲み物と食べ物を用意することに決めると、わたしのまぶたはいよいよ重たかった。話しながら

「いいよ、寝てて。降りるときに起こしてあげる」

 ジュンが夕日に当たって微笑んでいるのが素敵で、そう思っているうちにわたしは眠ってしまった。


* * *


 二度目はうまくいった。わたしは父親から小さなクーラーボックスを借りてサンドイッチを持っていき、ジュンは魔法瓶まほうびんに紅茶をれてくれていた。一枚余分に羽織れる上着もあって、前回の反省は完璧と言ってよかった。わたしたちは有意義に海を楽しんだ。

 わたしの泳ぎは以前とは比べ物にならないほど上達していた。ジュンを追って泳いでいるうちにからだを上手に使えるようになっていた。ジュンのおかげでわたしは今更ながら人間の基本的な機能を獲得している。

 浮き輪をふたりで交代しながら膨らませて、波間を漂ってみたりした。太陽が本当に夏だった。

 三度目からは、人が多い砂浜にも行った。まるで普通に遊んで、屋台で焼きそばを買って食べた。ジュンは思ったとおり少食だった。ジュンはあまりにも大衆に馴染んでいて、飛んできたビーチボールを投げ返していたくらいだった。

 違和感があった。誰と一緒にいるのかわからなくなる時間が、不思議な感触をしていた。


「あっち。行かないの?」

 奥の人気のない海岸のことだった。わたしはジュンの本当の泳ぎが見たかったので、そちらに誘うことが多かった。

「んー」ジュンにしては珍しく歯切れが悪かった。「今日はこっちでいいかなって思うんだよね。ほら、更衣室もあるしさ」


 あるとき、わたしは生理になった。特別に辛いわけでもないのだけれど、ジュンに止められて泳ぐのはやめておいた。ビニールシートに座って、海を見ていた。波は穏やかで、それをジュンが破壊していく。

 こんなに遠くからジュンの泳ぎを見たことがなかった。近くから見ていたときとは違う印象があった。優雅で、静かだった。

 波の音しか聞こえない。ジュンが海面を叩き、蹴っても、わずかに飛沫が舞うだけで、プールで感じた躍動的やくどうてき勇壮ゆうそうなものと同じとは思えなかった。新しい宝物を発見したみたいで気分が良かった。

 ジュンはなにかにつれて砂浜に上がってきた。少し横になっていただけで、わたしが倒れたんじゃないかと心配になったそうだ。せっかう遠くから見ていたのに、ジュンの気遣いにも困ったものだった。海に戻るときも、一度は振り返ってわたしを見るのだ。手を振って送り出して、ジュンがいる風景を見ていた。やっぱり、絵が描きたかった。


昼前にはジュンは海から上がってきた。今までになく短い時間だった。また水気が残っている服に着替えて、帰り支度をした。

「今日、もう、いいかなって思ってさ」

 ジュンはわたしを見ずに言うのだった。


* * *


 ジュンはどんどん弱々しくなっていった。あまり口の悪いことを言わなくなったし、泳ぐ時間も減っていった。砂浜に上がってわたしの隣で座っていることが多くなり、笑顔ではなく、不安げな表情をすることが増えた。

 わたしは不思議でたまらなかった。どれだけ問い詰めても病気も隠し事もないと言うし、それならどうしてそんなに元気がないのか知りたかった。

 ジュンの美しさの本質を見ることはどんどん減っていった。


 わたしは焦っていた。言いようのない穏やかな恐怖がある。その正体がわからなくて、もやがかかったようにもどかしい。

「もっと泳いだらいいのに」

「うーん、えりはさ」

 深刻そうな表情をしていた。やっぱりわたしと目を合わせなかった。視線の置きどころがわからないみたいだ。

「潜ると、どう? 気持ちいい?」

「うん」本心だった。「すごく青くて、暗くて、好きだよ」

「そっか」

 しばし沈黙があった。ジュンが言葉を探していた。わたしはただ待っていた。ふたたび口を開くとき、くちびるが開く音が聞こえた。

「あたし、最近好きじゃないんだ」

 驚いた。声を出しそうになるのを我慢しなければならなかった、ジュンが泳ぐことを好きじゃないなんて、信じられなかった。

「どうして?」

 わたしの声は明らかに上ずっていた。隠せていなかった。

「なんか、寂しくて」

 意味がわからなくて沈黙していると、ジュンは続けた。

「ひとりぼっちだな、ってなるんだ」悲しそうに見えた。「えりを見ると、ほっとするんだけど、また潜ったら、えりが見えなくて。泳いでると、


「ひとりじゃ、だめなの?」

 ジュンがこくりと頷いた。

「なんでだろう、怖くなっちゃたな」

 彼女は自嘲的じちょうてき微笑ほほえんでいた。どうして笑っているんだろう。


 わたしはなにかしくじっただろうか?

 まだ賑わいのある電車のなかでそう考えていた。向かいに座っているジュンは明後日あさっての方向を見ている。心ここにあらずで、話しかけても生返事だった。あんなに頑張って、待ち焦がれた夏休みはどこへ行ってしまったんだろう。

 ジュンが下車するとき、「またね」と言った。次の約束をしていなかった。わたしも誘おうと思わなかった。海は、もうわたしたちのための場所ではなくなっているんだと、思い知った。

 家に帰る途中、ジュンの言っていたことを考えていた。

 けれどきっと、あのプールで、美しさを取り戻してくれると、願望に近い期待をした。


 二学期が始まる。

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