2



 ある朝、逆方向の電車に乗った。初めてのことだった。時刻表をチェックして、始発よりも早く登校する方法を発見していたのだ。

 逆方向にひと駅、そこから特急に乗り換えれば、いちばん早くのバスよりも早く着く。早朝のホームは陰っていて薄ら寒かった。普段と違う名前の電車に乗って窓から景色を見た。なんの代わり映えもない。確認するように、小声で看板を読み上げていく。わたし以外誰もいない車両にぽつぽつと消える。

 これは私の日常にとって紛れもない逸脱だった。定期券に特急料金を上乗せしてまで早く登校する理由なんてない。言い訳がなかった。しかしこの程度はなんの問題もない。なぜなら、わたしにはもう「つき」が回ってきているからだ。


* * *


 自分がこんな体力があると思わなかった。体育はなるべく見学していたかったし、走ることも、なんなら歩くことも少し嫌いであるはずなのに、いつも自転車を押して登る坂道を立ち漕ぎで登りはじめていた。

 あれ以来、ずっとぼんやりとした考えが頭の中心にあった。なにをしていてもそれがちらついて、この状態を上の空と言うんだろうと他人事のように納得している。こんなに上の空を実感したことはなかった。書を捨てて街に出ないとわからないことだ。

 空気はまだしっとりと冷たい。皮一枚を隔ててわたしのからだはあまりにも熱い。血流は毛細血管から熱を逃がそうとしているが、全身の筋肉は安い仕掛けのように単純労働を繰り返して産熱を続ける。

 常々、スポーツマンはマゾヒストだと思っていたが、それは正しいと思う。こんなに苦しいことを毎日やりたがるなんて、そうでなければ説明がつかない。ただ、わたしは自罰的じばつてきにこんなことをしているわけではない。早く学校に行きたいから、その手段として急いでいるに過ぎない。

 坂道を登りきるころには、ふとももが自分のものでないくらいに動かなくなっていた。自嘲じちょうして笑ってしまう。もう暇つぶしを探さなくていいのがそんなに嬉しいんだろうか。

「バカみたいだ」

 笑い出したくなった。だけど、息が上がってひゅうひゅうと鳴るだけだった。それがまたおかしかった。

 ほうほうの体になって教室に荷物を置き、部室棟へ急いだ。今日は鞄を二つ持ってきた。約束だったから。小さな鞄だけを持っていった。


* * *


「うわ、すごいじゃん。汗」

 ジュンは部室棟の裏手で待っていた。わたしの様子を見てぎょっとしている。わたしもジュンが肩で息をしながら歩いてきたとしたら同じようになると思う。いつもと逆で、ジュンはまだまっさらに乾いていた。空気を含んだ髪はいつもよりふわふわとボリュームがあるように見えた。

「タオル、使う? 持ってる?」

「持ってきてるから、大丈夫。ありがとう」

「じゃあ、ちょっと休んでから行こ」

 わたしたちは、おそらく友達になった。そうだった。友達というのは、なんとなくなるものだったことを小学生以来に思い出した。

 わたしはジュンのことをはっきり見られるようになった。ジュンもどうやら打ち解けてくれて、いろいろなことを話してくれた。お喋りが上手じゃないことを知った。だからわたしは「聞き上手」と検索して勉強しておいた。ジュンは思ったよりよく笑った。八重歯があることもわかった。


「こっちこっち。大丈夫、誰もいないから」

 ジュンに連れられて部室棟の裏手を回ると、立入禁止と古い貼り紙がされた、ボロボロになったコンクリート製の小さな建物が並んでいた。あたりに笹が青々茂っていて、廃墟そのものの様相をしていた。表札の跡がそこだけ気持ち白くなっていて、アルミの扉が見るからに歪んでいる。

「これ、昔の部室だったんだって」

「なんで知ってるの?」

「お姉ちゃん。先輩なんだ」

「大学生?」

「ううん、仕事してる。もう三十」

「すごい上」

「うん、二人姉妹」

 ジュンが身を翻してこっちを向く。

「で、さ。これなんだ」

 得意げに取り出したのは、古びた鍵の束だった。四、五本のチープな鍵が、真新しい紐でくくられている。

「ここの?」

「そう。魔法の鍵。お姉ちゃんがくれたんよ」

 手慣れた様子で鍵を差し込み、抜いた途端に強く蹴った。わたしは驚いたが、ジュンがもう一度蹴るとギギイと未練がましい音で扉が開いた。

「入るのは楽だけど、出るとき面倒なの。だからあんまりきっちり閉めたら駄目ね」ジュンがわたしを手招きした。「気をつけて」

 入るとふっと気温が下がり、古い匂いがした。なんとなく、行ったこともない田舎の納屋や蔵を想像する。雑然とした旧部室は狭く、いまにも崩れそうな跳び箱、丸まった灰色のマット、金属のポールが何本も束にされて立てかけられていて、昭和の赤色をした高跳びのマットは穴が空いてスポンジが見えている。ガラス戸の戸棚に日焼けした紙がびっしり詰まっていた。

 そしてそれらに不釣り合いに新しい制服と、わたしと色違いの臙脂えんじ色のジャージがハンガーで窓枠に掛けられていた。ジュンがそれを手に取る。

「着替え置いてあるんだ。掛けとけば明日には乾くから。ジャージはお下がり」迷いなく荷物を置いて、わたしにも促す。「荷物はそっち、汚れないから。座る?」

「そうだね、少しだけ」

 言うとおりにマットに腰掛けると、思っているより綺麗だった。正しくは、綺麗にしてるようだった。雑然とした物置みたいな部屋だけど、扉からマットまで動線が確保されていて、荷物は入口近くに置けるようになっていて、ガラス窓からは覗けない位置だった。

「隠れ家にしたんだ」

 ジュンはどこからともなく大ぶりの水筒を取り出して、これまたどこからか出てきた紙コップに注いで差し出した。

「麦茶だけど。ミネラル」

「ありがとう、ちょうだいミネラル」

 くだらなくて、二人とも笑った。お茶を飲みながら取り留めのない話をして、ジュンが持ってきたお菓子を二人で分けて食べた。わたしも帰りになにかお菓子を買うことに決めた。

「声、下げなくてもわりと大丈夫だよ。こんなとこ誰も通らないし、見回りもないみたいだから」

「いいね、ここ」

 髪も気にせず背中からマットに倒れ込んだ。ジュンも隣で同じようにして、いいでしょと得意げに鼻を鳴らした。きれいな歯茎が見える。

「水泳部は朝練ないからさ、ついだらけちゃうんだよね」

「だらけるって?」

「タオル持ってきてって言ったじゃん。それ」

 ジュンの言っていることがいまいちわからなかった。ジュンは反動をつけながら勢いよく立ち上がって、ばばばんと勢いよく音を立てて制服を払った。

「もう八時だからさ、ちょっと来てよ。ほら起きて」

 ジュンはわたしの両手を引っ張って立たせ、髪と制服をはたいてくれた。

「見てるだけでもいいから。ね」

 隠れ家から出るのが嫌な気持ちはあったけれど、なんだか、良い予感がしていた。なにより、手を振り払うことができずにいた。


* * *


 学校のプールは、温室のようなガラスの天井がある屋内式になっている。新しくて綺麗な建物で、学校案内にも大きく掲載されていた覚えがある。当然、鍵がかかっていて、わたしもまだプール授業を受けたことはないので、開いているのをほとんど見たことはなかった。しかし、ジュンの魔法の鍵はこれもすんなりと開けてしまった。

「今度はドア、蹴らないんだね」

「蹴らないよ」鍵束をくるくる回している。「ここのは物わかりいいもん」

 てきぱきと靴を脱ぐ。靴を脱いだ姿を始めてみた。短いソックスは白く、もとからそういう生き物であるように自然な曲線で足先が作られていた。律儀に靴箱に仕舞うのを見て、わたしも真似をした。見つかるかもしれないとは思わなかった。ジュンがしているのだから。

 初めて入ったプールの建物は、思っていたよりも立派なものだった。

 いくつもコースのある大きなプールがふたつあって、真っ白な壁に影のコントラストが映えている。真っ青の水が張られていて、ざらざらした質感の、白と黄色の直線的なデザインの床には水滴の残りもなかった。水泳部が真面目なことがわかった。塩素の匂いがして、なんだか懐かしい気がした。

「わたし、初めて入るよ」

「あたしもまだちゃんと入ったことない」

「不良だ」

「不良かも。先生に言わないでね」

「言わないよ」

 たぶん誰にも、とは言わない。びすぎている。

 ジュンはつまさきでリズムを取りながらプールサイドを歩いた。今にも歌い出しそうだった。後ろ姿に声を投げかけた。

「ねえ、」


 声をかけようとしたとき、もうジュンは飛び込んでいた。制服のまま。うっすら思っていたことは真実だった。飛び込む人間のポーズがスローモーションで見えた。飛沫があがる。似たものを見たことがあった。でも、子供のころに見たものよりもずっと奇妙で美しかった。

 水中で光が屈折してジュンの姿が乱れる。水面に上がってきた彼女は強く水を叩く。跳ね上げるように進み、潜り、回る。濡れた髪とシャツとスカートが、無秩序むちつじょに踊っていた。

 ひとつのからだがうねりを上げていた。

 ジュンは自分と同じ生き物ではないと思った。鬼気迫る、という言葉の意味を体感して、わたしはひとつ賢くなった。

 彼女が水を掻き、蹴るたび、小さな爆発が起きる。宙を乱舞する水滴が朝日を乱反射して、ギラギラと目を刺す。その中心に美しい生き物がいた。

 打ち震える。

 こんなに孤独な美しさはなかった。


 どれほどの時間が経ったかわからないまま、ジュンは水面で仰向けに浮き上がっていた。笑顔は満足げで、熱に浮かされたような目がわたしを見ていた。どきりとした。

「こうするのが好きなんだ」

 前髪がおでこにぴったりとはりついていた。息が乱れている。

「えり、濡れなかった?」

 タオルの話をされてからずっと考えていた。ジュンの綺麗な姿を見ることができるだろうと。

 そして、ジュンがなにを求めているのかも、考えていた。

「えり、」

 ジュンの緊迫した声が聞こえた。見ていなかったので表情はわからない。

 わたしも飛び込んだ。なるべく高く跳んで、おそらくジュンよりはるかに不格好ぶかっこうに。

 ジュンの世界が聞こえた。泡と波が全身を侵食するのを感じた。髪のあいだが濡れていく感触がなまなましく、鼻の奥がツンと痛んだ。上がろうとすると、制服がからだに絡みついてうまく動けなかった。そうか、そういえば泳ぎがうまくないんだった。

 もだえるわたしの腕が引かれた。思う間もなく水中から引っ張り出されて、わたしはとにかく咳き込んだ。鼻がやられていた。

「えり、バカ」

 ジュンがわたしの髪の毛をかきあげて視界が戻った。明るかった。世界が帰ってきた。

「なにやってんの、バカ」二回も言われた。

「だって、」

 言いたいことはたくさんあった。ただ、このときわたしは自分でも信じられないくらい気が利いていた。

「タオル、持ってきてたから」

 一拍置いてジュンは笑い始めた。こらえるような、ひそやかな笑いに、わたしは嬉しくて泣きそうになりながら咳き込んでいた。びしょ濡れのジュンが笑っていた。きらきらと光っていた。

 このときをもって、ジュンはわたしにとって世界でいちばん大切なものになった。


* * *


「焼けてんだ、これ」

下着姿で高跳びマットに横になりながら、ジュンはまだ濡れている茶色い前髪をつまんでみせた。

「なに? 髪?」

「そう。毎日あんなことやってるから」力なく緩んだ笑い顔をする。「天然なんだぜ、これ」

「帽子は?」

「邪魔じゃん。焼けるの嫌じゃないからさ」

「でもさ、ジュンは色、白いよね」

「こっちは焼けないんだ、クリーム塗ってるし」

「毎日?」

「毎日」

 わたしたちは今日を隠れ家で過ごすことになった。ジュンはともかく、わたしは着替えを持っていなかったので、授業に出られなかった。

 電話で今日は休む連絡を入れると、日頃の優等生ぶりは遺憾いかんなく発揮され、電話口の先生に心配までされた。ジュンから借りたジャージは大きかった。

「びっくりしたよ」ジュンは何度も繰り返し言った。

「わたしもびっくりしたって」

 言いながら、わたしとジュンのびっくりは種類が違うだろうなと思った。

「急に飛び込むし、下手くそだったし」

「そういうことかなって思って」

「どういう?」

 ジュンはずっとにこにこしていた。それが嬉しかった。制服が二着並んで掛けられているのはなんだか誇らしく思った。放課後には乾くらしい。それまで一緒だと思うとじんわりと満たされた。

「ドライヤー、あればよかったんだけどね」

 ジュンがどこか申し訳なさそうだった。

「別にジュンより少し長いくらいじゃん。ジュンが乾くならわたしも乾くよ」

「拭いてあげる」

「やだよ、いいよ」

「いいから、タオル貸して」

 照れくさかったけど、きっとジュンが拭きたいんだろうな、と思っておとなしくタオルを渡すとおずおずと髪を拭いてくれた。末っ子らしい下手さだった。髪の毛がしゃりしゃりと音を立てた。

「おかゆいところはございませんか」

「なに、それ」

「言ってみたかったの、言われたことしかないから」

 手付きが弱々しくてくすぐったい。きっと手加減がわからないんだと思う。今度、わたしが拭いてあげようと思った。


* * *


 堕落論のページはみるみるうちに黒くなっていった。

 ジュンのことをたくさん書き留めているうちに、これは観察日記ではないことに気づいた。もっと複雑なものだ。

 ただ数字や事実を書き連ねるのは本質ではなく、そこから意味を見つけていく必要があった。情報を揃えて繰り返し組み合わせて考えることによって真実は浮かび上がってくる。

 わたしの研究は崇高すうこうな目的によって支えられていた。美しいものを知りたいのだ。


* * *


「あれ、嫌いだわ」

 一日に何度もそう言うジュンは常になにかを憎んでいる。

 ジュンはわたしより賢いはずなのに、嫌いなものとの折り合いの付け方を知らなかった。知って欲しくもないけれど。寛容は美しいものなのかもしれないが、寛容なひとはそうではない。美しさとは、美しくないものを拒絶することでも作られることを知った。ジュンとはまさしくそういう生き物だった。

 ジュンがなにかに悪態を吐いているのを見るのが好きだ。そうしているときが、水に触れているときの次に綺麗だから。そう気づいてからわたしはジュンの嫌いなものををチェックしている。彼女をきつけるために。

 いざその話題を出したとき、ジュンは火がついたように憎悪をあらわにする。微に入り細に入り叩きのめすように、徹底的に悪口を言う。全体主義だとか、ストイシズムだとか、いびつな構造論についてわたしが聞いたこともないような言葉を使って攻撃する。一日に一度が限度で、それ以降は憎悪が減っている。わたしはなるべく大きい火がつくようにその日の話題を選ぶのが楽しい。

 ひょっとするとこれがジュンにとってガス抜きになっているのかもしれない、というのはあまりにもわたしに都合のいい考え方だとわかっている。だけどやめられない。

 あんなに冷たい顔はわたしには向けてくれない。


 ジュンには友達がいない。これは推論ではなく真実で、彼女も隠そうとはしなかった。ジュンは話の運びが下手で、何度も時系列が前後するのでとにかく聞きにくい。わたしは頭の中で順番を再構成して返事をしなければならないので大変なのだが、その手間すら愛しく思う。

 ジュンは話し方だけでなく話題も無軌道むきどうで、わたしが知っていることのほうが少ない。

「えり、つまんなくない?」

 聞かれるたび、面白いよと返している。嘘ではない。ジュンは気遣いも下手だ。ジュンがまた話しだすと幸せな気分になる。いつまでも聞いていたくて、上手に相槌あいづちを打つことを意識する。あとで調べておくために、心のなかに知らない単語を留めておく。ことのほかスリルがあった。人生でもまれに見るくらい頭を回転させているに違いなかった。

 ジュンに憎悪を忘れさせないように、怒りをより強く発散させるために全身全霊を使っている。眉間に皺が寄って、目つきがだんだんきつくなっていくのが楽しい。切っ先のように鋭く、ぎらついていく姿は絵になる。

 絵がうまくなりたいと衝動的に思った。しかし、わたしの日常の中に絵の練習をする時間を差し込む隙間は存在しないので諦めざるを得ない。この堂々巡りはもう何度目になるか知れない。

 そう思っているあいだにも、ジュンは言葉によって気に食わないものたちを散々に傷つけていく。雑然とした嵐のような言葉の暴威ぼういが振るわれていくのがなんとも爽快な気持ちになれる。

 ジュンは一気に燃焼して燃え尽きるきらいがあって、話すことへの情熱はあまりに急激に勢いをなくす。そうして話題が当たり障りのないものになるとき、わたしは残念に思う。

 そんなとき、儚さも美しさには必要、と自分に言い聞かせるようにして心を慰める。

 わたしはジュンのことをもっと知りたいと心から思っていた。


* * *


「ジュンって、泳ぐのが好きなの?」

 図書室で尋ねてみた。まだ聞いたことがないことだった。ずっと後回しにしていたような気がする。

「泳ぐのは好き、泳がされるのは嫌い」

 向かいの席で、ジュンはわざと難しい言い方をする。だからわたしはうながす。

「どういうこと?」

「ルールがあるのはいや。水泳部なんか入りたくないってこと」

 ジュンはまた世界を憎んでいる顔をしていた。心底蔑さげすんでいるような目が窓の外を見ている。

「でもさ、夏休みは水泳部、プール使ってるんじゃない?」

「そう、じゃないかな」ジュンは宙を見ている。「あたしはお休みかな、文字通り。隠れ家も閉めて」

 ふたりとも、泥のように沈黙した。なにか言いたいけど、なにも意味がないというか、気だるく倦怠感けんたいかんのある沈黙だった。

 夏休み、隠れ家での時間がないことを理不尽に思った。夏休みなんかなくなればいいし、水泳部は全員、不祥事ふしょうじで退学すればいい。

「海、行きたいな」ジュンが呟いた。「ね、えり。行こうよ」

 呆然とした。口が開いているのを実感するくらい開いていた。なにか言おうと一瞬、思ったが、言うことは決まっていた。

「行く」

 ジュンの顔がぱっと明るくなった。半ば飛びはねてわたしの手を握った。

「行こう、夏休み。電車でさ」 

「朝からずっと泳いでも誰にも怒られないよ」

「子供だけで海に行くのなんて初めて」

 わたしたちはまるで年頃の女子のようだった。事実、年頃の女子高生だった。

「約束ね」

 ジュンに言われて電話番号とアドレスを交換した。これも言い出せなかったことのひとつで、あっさりと交換できたことに呆気なさすら感じた。ジュンの名前を登録するとき、わけもなく嬉しかった。

 わたしは有頂天にならないように自分を律するのに努力しなければならなかった。気づくと頬が緩んでいることがあって、この上なく恥ずかしかった。ただ、それが続くのも翌朝までの短い時間に過ぎなかった。


 わたしはしまったと思った。そうだ、夏には試験がある。そしてわたしは頭が悪いのだ。どうして忘れていたんだろう。ジュンのせいだ。違う、夢中になったわたしのせいだった。

 黒板の、夏期講習という文字を見ていた。


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