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 春の嵐が去って、いつのまにか随分と日が長くなっていた。制服の袖が短くなり、木漏れ日が肌に熱くなって、風に青いかおりが混じっていた。わたしはようやく夏に気がついた。

 ギイギイ言わない新品の自転車ですら上り坂の前には無力だ。春にはこんなこと思わなかった。陽差しはこんなに暴力的ではなかったし、ふくらはぎが熱されたアスファルトに炙られて汗が吹き出るのがわかる。スカートの裏地が太ももにはりついて、歩くたびに絡みついてくる。朝っぱらからくたびれてしまう。

 通学路の左側には緑色が剥げたフェンスがある。坂道に沿って作られているので上のへんががたがたの階段状になっている。辺りには雑草が腰の高さまで繁茂はんもしている。その向こう側に広大な――手入れの行き届いていない――グラウンドがあって、砂粒が舞っている。砂まみれの運動靴が何ダースか白黒ボールを中心にばたついている。遠くから見ているとひどく滑稽な状況に思える。ただ、わたしの汗よりは意味がありそうとは思う。

 坂の上にある学校の周りにはなにもない。正しくは建物がない。坂を登るほどにその数は減っていき、種類がわからない無数の大木が壁のように鬱蒼としている。しだいに、森の中に無理やり差し込んだような薄青の校舎が見えてくる。もう少しだ。

「はあ」

 勢いよく息をついた。歩みの重さは変わらない。


 長いトタン屋根の駐輪場に自転車を置き去りにしたあと、開け放たれていた正面玄関を通る。まだ生徒はほとんどいない。屋内に入ると熱気が感じられなくなった。まだどこも暖まっていないのだ。夜に冷えた湿度が肌寒くすらあった。とはいえ、強い朝日によって校内は濃い影に満ちている。そこにくっきりと貼られたように硝子窓の意匠で光が落ちている。たまにそれを上履きで踏んだ。廊下の床はリノリウムの淡いベージュ色をしている。人が見当たらない朝の校舎の閑散は、ゴーストタウンのように寂しさをたたえている。

 わたしに特にやるべきことはない。教室に荷物を置いてしまえば、おおよそ一時間は暇になる。毎日、この時間を無為に過ごしている。ペンケースの中身を机に並べて一つ一つ検めてみたり、まだ発表されていない来週の時間割を想像で捏造ねつぞうしたり、クラスメイト全員の名前を漢字まで暗記するゲームをしてしまったりした。脳の無駄だ。学校の机と椅子はわたしには少し大きい。はたしてこの教室を去る頃にはちょうどよくなるのだろうかと思う。机に突っ伏していると天板に接している頬が冷たくなる。同時に首も痛くなる。つねづね思っていたが、この姿勢で眠れるのがこの世のスタンダードだとしたらすごい。わたしには到底できない。わずかな時間を過ごしているだけでも首がもげそうになっている。

 個々のひまつぶしでは五分ともたないのでトリッキーなアプローチも試みてみた。机の中を空っぽにして、見えないところでジグソーパズルを作ってみたはいいものの全く完成できなかった。面白くなかった。そのあとで普通にやってもうまくいかなかったので兄にあげた。はっきり言えばわたしのひまつぶしは迷走していたし、わたしはこの暗い時間の使い方に新たな展開を求めている。つまり、教室から出ることにしたのだ。


 くしてわたしは早朝に校内を徘徊するようになった。

 学校はわたしが認識していたよりずっと広かった。屋上に鍵が掛けられていることも知らなかったし、学校裏の森には獣道が存在していた。どこに続いていたのかはわからない。早く登校したのに深入りして授業に間に合わないのはいけない。よく顔を合わせるので先生と仲良くなった。わたしは真面目な生徒に見えるらしい。うろついていても注意されることがない。正直、味をしめた。

 最近ではもっぱら、校舎から少し離れた部室棟をうろついている。いつ頃作られたのか、明らかに老朽化したコンクリートの箱がずらずらと並んでいる。対称的に草はよく刈られていて小石も見当たらない。ひさしの下に、運動部が使うであろう木製のトンボが何本も立てかけられている。人生でトンボに触ったことがない。少し触ってみたい気持ちはある。

 ふたつあるグラウンドには野球部とサッカー部がそれぞれの朝練をしている。わたしはルールをよく知らない。登校するだけで疲れてしまいそうなものだけど、鍛え方が違うらしい。あるいは、わたしよりもっと早く登校しているのだからもっと涼しくて快適な朝だったのかもしれない。せわしなく動き回りながら断続的に大声を出しているのがなんとなく面白い。あの中には同級生もいるのかも知れないけれど、遠いので顔を判別することが出来ない。真実は闇の中である。めくれば剥がれるような薄っぺらい闇の。


「なにやってんの」

 思わず飛び上がった。慌てて背後を振り返った。

 そこには頭からずぶ濡れの女の子がいた。同学年だった。制服のリボンの色がわたしと同じ黄色だった。シャツからスカートから、靴下までびっしょり濡れて青い下着が透けている。肩まである茶髪から水がぼたぼた滴って水たまりになりつつあった。わたしと同じくらいの背たけだったので、彼女の目はわたしの正面にあった。朝日を眩しそうにしていた。

「なにやってんの」彼女は繰り返した。「朝から」

 胡乱うろんな目をぱちぱちさせながらこちらをじっと見ている。よく見ると、長い睫毛にも雫が見える。頬は炎天下で火照って光っていて、それがなんだか油絵のように思った。

「どうしたの、どこの部」事も無げにそう言う。少し掠れた声をしていた。「マネージャー?」

「いや、あの。特にはないんですけど」敬語が間抜けに出た。

「迷ったの?」

 わたしは戸惑った。なんだか後ろめたいような気がして。

「いや、別に」目を逸らして、嘘を吐いた。嘘ではなかったかも知れない。

「そう。じゃあ」

 言うなり、彼女は身を翻して校舎のほうに歩いていった。乾いた地面にこの上なくくっきりと足あとが残っていった。しばらく呆然としたあと、わたしはそれを辿りながら校舎へ戻った。足あとは少しずつ薄くなっていき、玄関まで来る頃には消えた。

 頭上にチャイムが鳴っている。


* * *


 たかが初夏だ。午後になってもあまり暑くなることはなかった。そよぐ風がカーテンをあおいで、誰もいない教室を洗っていくようだった。

 放課後はもの寂しい。人の気配も笑い声も、色々な音が遠くに聞こえる。夕暮れは訪れておらず、空は青いままで、だけど学校という時間は終わりつつある。ごく当たり前のことなのに、廊下に人影を見るとびくりとしてしまう。この時間はまるでスパイ映画のように人目を避けて歩く。なんの用もなく学校に残っていることが罪になる身分なので、わたしなりに気を遣う。

 本校舎と特別教室棟を結ぶ渡り廊下は二階にある。大抵誰もいない。すこぶる暑いからだ。はめ殺しの窓から、中天にぎらぎら光る太陽が陽炎を立たせている。きっとパンを置いておいたら焼ける。ここはわりかし、わたしの場所という位置づけにしていて、理由のひとつは誰も長居せず通り過ぎていくこと、もうひとつは外を眺めていても誰にも気にされないこと。首にタオルを巻いて、こまめに水分を補給しながら放課後を俯瞰ふかんしている。顔だけ日焼けするのが嫌なので、次は帽子を持ってこようと思う。

 数日のあいだ、ずぶ濡れのあの子を探していた。濡れた顔をはっきりと覚えている。細い眉の下に、アーモンドみたいなかたちの目が据わっていて、真っ白い肌が火照っていて、口もとがつまらなさそうにしていた。濃い茶色の髪で、同学年だった。名前を知らない。他のクラスであることは確かだったが、特別、友だちがいるわけでもないので探しに行くのは気が引ける。

 そうやって見つけるのはなにかが違うような気がする。確信めいたものがあった。


 わたしはより徘徊するようになった。

 朝早く登校するのはもちろん、夜も誰よりも遅くまで学校に残るようになった。アリバイ作りのために図書室で教科書を広げて勉強の真似事をしているし、遅くまで残っている部活に友達を作った。真面目な生徒のふりをするのが上手くなった。親や先生にも評判がいい。成績はよくないので、目立つことはない。一般的な、少しばかり頑張っている二年生に擬態できていると思う。赤本も買った。事務的に設問を解いていく。

 わたしには日常のなかであの子と再会したいという考えがある。出会ったときがそうだったのだから、同じように再会するべきで、そうでなければ座りがよくない。

 そのために放課後に勉強することを当たり前のことにしなければならないし、たまに友達を夜まで待つことにした。だから赤本を進める努力を怠るわけにはいかない。義務のような、罰のような気持ちで机にかじりついている。そうでなければ全部が嘘になってしまう。わからない問題はわかるまで調べなければ。手段を手段として用いてはいけない。陳腐ちんぷになる。

 赤本のノルマをこなしたら渡り廊下へ行く。太陽はオレンジ色を帯びつつあり、眼下にランニングしている運動部が見える。ひとりひとりの頭を見ている。違う、違う、違う、と、ひよこの雌雄鑑別しゆうかんべつのように目が勝手に茶色かどうか判別していく。みんな真っ黒い。校則は厳しい。たまに見える茶髪のようなものは、光でにじんでいるだけだった。そのたび勝手に期待して、勝手に裏切られた。汗をかいている彼女たちはそれを知る由もない。しかし、ベルトコンベアのように流れていく頭を仕分けするのはいかにも作業的で効率が良い方法だと思った。なぜなら一週間もせずに運動部のなかにあの子の姿がないことはわかったからだ。暑い渡り廊下で汗をかいた甲斐はあった。

 文化部は数が少なく、熱心な活動もないので、あの子がいないことはあっという間にわかった。放課後、特別教室に向かうのはごく限られた生徒だけで、茶髪はいなかった。染髪が運動部にいないのに、文化部にいる謂れはない。昼食の場所を探して徘徊したこともあったが、ほとんどの場所は誰かが定位置にしていて、例外なく複数人で一緒にいる。今なら、校内の昼食スポットの地図を作れる。気まぐれに学食に行くこともあった。お弁当を持たされているので、二食ぶん食べなければいけなかった。AとBの定食があり、たいていはAが肉で、Bが魚だった。小鉢とデザートが付いていて、食べきるのが苦痛だった。

 わたしはまるで動物行動学を研究しているかのようだった。目的の動物に警戒されないためにあらゆる努力を惜しまない。目先の欲に惑わされず、余計なことをしないでじっと待つのだ。そうすることが、新たな発見のためになると信じている。


* * *


 ある通学中、電車で同級生に呼び止められた。わたしはイヤホンで音楽を聴いていたので、一瞬わからなかった。

「えり、気づいてくれてもいいじゃん」

 運動部の彼女は朝から溌剌はつらつとしていた。ぎらぎらした日光でうっすら額に汗をかいている。スクールバッグとは別に、細長いナイロンバッグを携えていた。

「おはよう、早いね」当たりさわりのない挨拶をしておいた。

「電車、この時間乗ってたんだ、知らなかった」

 彼女はあっという間にわたしの隣の席に座る。二つの鞄を置く動きがいかにも手慣れていた。わたしはイヤホンを制服のポケットにしまい込んだ。

「たまにね。毎日じゃないよ」

「部活してないのに。なんで?」

「勉強」本当のことは誰にも打ち明けるつもりはないので、笑いながら嘘にならないことを言った。「バカだから」

「まじめじゃん、まだ一年なのに」

「だけど今だけかも」

「なに、それ」

 嘘くさいほど中身のない談笑だと思った。彼女は部活の話や、アルバイトをしている同級生の話をしてくれた。楽しそうに話しているのがなんだか不思議で、合わせてわたしも笑っているのがおかしいことのような気がしてしまう。お互いに感情が動いているのかわからない。ロボット同士の会話のような気がした。


「あのさ」

 なにげなく言ったつもりだった。言ってから、ボリュームと声色が間違っていなかったか不安になった。彼女が反応するまで時間があった気がする。

「うちの学年で、茶髪ってさ、誰か、いたっけ」

「茶髪?」

わたしは「なんてことない普段どおりの」表情を作れているだろうか。

「確か、いるよ。どこかの組に。怒られてるの見たもん」

 なんだかとても、ずるをしている気がした。

「そっか、ありがと」

「なにがよ」

 彼女は不思議そうにしていた。良かった。気づかれてしまったら、誰かに叱られてしまう気がしていた。

 登校してからも、後ろめたい気持ちが残っていた。


* * *


 美しいものが好きだ。そう気づいた。

 美しいという言葉の意味は複雑で、とおり一辺倒な量産・消費されるようなものは逆に無様で汚い。わたしにとっての美しさとはもっと普遍的であり、同時に刹那的せつなてきな儚さも必要だとわかった。「美しい瞬間」は存在しても、それを写真として切り取ったものからはその本質が失われてしまう。どれだけ写真を見ても、実感を求めて旅行に行くような、不合理なものだ。

 その点、絵は素敵だ。写真よりもその本質を取り逃がさない。わたしは絵が描けないけれど、美術の授業は好きだった。ものごとの本質を描くために、いろいろな考え方があると知れるのが、なんとも楽しい。

 美術の教科書を、机に入れっぱなしにしている。ふとしたときにぱらぱらとめくると、豊かな気持ちになる。書かれている文章は難しいけれど、作者によって再構築された風景の歪みかたは様々で、世界の見え方がひとつじゃないことがわかる。お守りのように思っていた。


* * *


 雨が降っている。風が無く、いつまでも生ぬるい。数日のあいだ、この天気は続くだろうと天気予報士が言っていた。

 渡り廊下は薄暗かった。設置されている電灯が点く気配はない。濡れたガラス窓に雨粒がぱたぱたと音を立てていて物寂しい。水滴が重なり合い、自重を支えきれなくなってガラスを滑っていくのをぼんやりと見ていた。なんの意味もなかった。目を凝らしてその奥を見ても、傘を指して下校する生徒の人影がまばらに見えるのみで、いつもの風景はない。朝から教室で運動部が喜んでいたので、運動部のほとんどが休みであることは知っていた。

 けれどわたしは渡り廊下に来ることをやめなかった。これが果たすべき日常だからということ、そして、微雨びうの中に頭から濡れたあの子を幻視するからだ。

 あの子の姿はすっかりわたしの脳に焼き付いていた。ただし、濡れた姿しか知らなかったので、いつでも幻視することはできない。お風呂くらいでしか見たことはなかったし、それも一瞬だった。この雨には新たな発見があった。世界に水がじゅうぶんにあれば、あの子の幻をはっきり見ることができる。学校にはわたし以外誰もいないのかもしれないと感じるほど人影がなかった。


 わたしはあの子を、雨の中に傘もなく立たせる。まぶたに雨が当たるから目をすっと細めていて、俯いているようにも、眠っているようにも見えた。睫毛に水が玉を作る。細かい雨粒が頭頂部から髪を伝って地面に滴り、水流が生まれる。赤くなった耳から顎のラインを通り、断続的にぽたぽたと垂れる。頬にうっすらと水の膜が張っていて、それが水煙みずけむりのなかで光っているように見えた。わたしと同じ制服が、しっとり濡れて、からだに貼りついている。スカートから太ももへ流れて、靴下も靴も水が染み込んでいく。時折、風が吹くと、茶色の髪が乱れる。もっと風が強くなると、制服のスカートがばたばたたなびく。胸もとの黄色いリボンが今にも外れそうになびいている。あの子は目を細めてこちらを見ている。目が合っている。


 ここで幻視をやめた。嘘だ。演出であり、脚色だ。風は吹いていない。ただいつまでもしとしとと穏やかな雨音が続いているだけだ。あの子が立っていた場所に水たまりはなかった。そうだ。いなかったのだ。そう思うまで少し時間がかかった。わたしは自分が思っていたよりものめり込んでしまっていた。だからといって自分の思い通りにしようというのはいただけないことだったので、もう一問、赤本を解くことにして図書室に戻った。だけど、頭の中でもあの子はこちらを見ていた。見張られているような気持ちになって、いつもより勉強がはかどった。無私になるのだ。自分のためにやっていることは、自分の利益として帰ってこない。「ただやっている」ことこそ、わたしの力になってくれる。だから、ノルマを超えて二問、こなした。ノルマ以上にやったことで安心めいたものを覚えた。

 わたしは日常の強度を上げようと思っている。いつも一問解ければいいところだった赤本のノルマを二問に増やし、雨の日に徘徊して幻視することを禁止した。週に一度は昼食を二回とることにして、その日が暑ければ暑いほど渡り廊下に長くいなければいけないルールを作った。徹底的にやらなければならない。

 雨音が意識に入るたびに苛立ちを覚えた。その苛立ちすらわたしのためになってくれる。


* * *


 絵を練習しておけばよかった。子供のころは人並みに描いていたと思うが、特別なきっかけもなくいつの間にかやめてしまっていたので、わたしの画力といったら惨憺さんたんたるものだった。自分に素晴らしい絵の才能があれば、こんなに悩むこともなかったに違いない。

 いまのところ、新品の手帳を二冊、駄目にしている。書き出しが定まらない。最初は五冊セットのノートを買ったのだけど、全部一ページ目に失敗した。さらにいえば、一行目から許せなくなってしまってどうしようもなかった。正しいことはわからないが、正しくないことははっきりしている。大学ノートはあの子のことを書き記すには貧相だし、そもそもペンの色を決めるのに数日を要したのだ。

 わたしには文学的な才能もないことがわかり、母親に尋ねて、家中の辞書をわたしの部屋に集結させた。一行目の書き出しにふさわしい言葉を探すためである。適当にページをめくると「純然じゅんぜん」が見えた。意味はいいが響きがよくない。類語を調べてもことごとく気に入らない。「至純しじゅん」は軽やかさがないし、「生粋きっすい」は清廉さがない。なにより、こんな直接的な表現は品がない。複雑で爽快な、鮮烈な香りのある言葉が欲しかった。


 日課の中に一行目探しが加わった。ちょっとした空き時間にはあの子を表現するための言葉を模索するようになった。これはなかなか骨の折れることで、ただでさえ日常の強度を保つためにたくさんのルールを自分に課しているわたしはもう、一日じゅうをあの子のために費やしているといっても良かった。それなのに、「わたしはこんなに努力している」と思ってしまってはいけない。謙虚さの欠如は醜い。そうなってしまっては運命は遠のいてしまう。わたしは身を以て「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の意味を学んだ。

 高校生になって初めて、休日に市立図書館へ行った。図鑑のコーナーでいろいろな名前を探した。花と魚は「らしい」名前が多い。たとえば、「花椿はなつばき」はざっくりとした潔さがスマートで、「金鳳花きんぽうげ」は品と感じがいい。「赤矢柄あかやがら」には組み立てられたような計算高さがあり、「ステューレフォールス」なんかはそのものの姿かたちも相まってとてもミステリーで一抹の間抜けさに起因する可愛らしさがある。しかし、わたしに一行目を書き出させる言葉はついぞ見つかることはなかった。

 図書室での日課を過ごしているとき、きまぐれに本棚を一周してタイトルを収集してみた。

「西の魔女が死んだ」「六番目の小夜子」「ばいばい、アース」「猫町」「或る少女の死まで」「星を継ぐもの」

 すっきりしていて良い文言を、失敗作の手帳に書き集める。どれも読んでいない。残念ながら、今のわたしに本を読んでいる時間はない。どうも陰りがある言葉のほうが美しく感じることがわかり、手帳がいっぱいになるのはさして遠いことではないことを確信している。きっと二冊目の手帳にもあの子を表すための語彙が満ちるころには、ぴったりの書き出しが見つけられる。


* * *


「えり、待った?」

 学校にも夜は来る。部活が終わった友達が迎えに来るころには、図書室にも蛍光灯の薄暗い光が灯っている。ノートを閉じて彼女の顔を見るたびに、暗い部屋で自分の目がいかに痛めつけられていたかを思い知る。司書の先生に軽い挨拶をして電灯を切った瞬間、さっきまで自分が座っていた席がなんだか怖いものに感じて下駄箱へ急ぐ。

「帰りさ、なんか食べてく?」

 靴を履き替えながら彼女が言った。

「どうしようかな、遅いしね」

「この辺さ、あんまりないよね、ちょうどいいとこ」

「ちょうどいいって?」

「ほら、学校と駅の間にあって、座ってなにか飲めるようなお店がさ」

「それなりに安いとこ」

「そうそう、卒業までになんかできればいいのにね」

 どうやらわたしは彼女に好かれたようだった。部活のある日には必ず帰りにわたしを誘ってくれるようになったからそう思った。クラスでもよく話しかけてくるし、毎日お昼を一緒に食べる。わたしから誘ったことは一度もないが、それなりに親しい仲なんだろうと思う。

 まだ赤味あかみが残っている空だった。生ぬるい風がのったりと緩慢に、汗ばんでいるからだにまとわりつく。帰り道の自転車は涼しくて素敵だ。スカッとする。自転車の籠に鞄を入れると、なにもかもすっかり終わった気分になって気持ちがいい。自分が世界で一番軽いからだの持ち主だと勘違いする。

「今度、休み、どっか行かない?」

 彼女はわたしの顔を覗きながら言った。

「部活は?」前輪につけた鍵の番号を合わせる。「ないの?」

「ない日もあるし、大会前じゃなかったら休んでも怒られないんだ」

「悪いんだ」5662。名前をもじった数字。

「ちょっとだけね」彼女はわかりやすく少しだけ眼尻を下げた。「さ、行こ」


 校門を出るまでは自転車にまたがってはいけないので押して歩きながら、わたしは見た。

 一度目は少し視界に入っただけだった。

 二度目はもしかして、という気持ちがあって、三度目にやっと確信したのだった。

 なんだか、とても。

 見覚えがあった。


「えり?」

 わたしが立ち止まったので友達は振り返った。そちらを見ることはなかった。

「ごめん、先、帰って」わたしの声はうわずっていただろうか。「後で追いつくと思う」

 嘘を吐いた。悪いとは思わない。なぜなら、そういう領域はとっくに逸脱いつだつしていたのだ。おそらくはずっと前から。

「メールするから」

 彼女は不本意そうに自転車に乗っていった。その姿を見送って見直ると、いつかの早朝がフラッシュバックした。あのときの光景がこの夜に貼り付けられたように。

 あの子は、髪だけ濡れていた。歩くたびに前髪から落ちる滴が光っていた。

 わたしの足は勝手に動いて、いつの間にか近づいていた。脳は焼けていて、言語野げんごやが破壊されたのでなにも言えなかった。あの子がかぶりをふって、胡乱な目がこちらを見た。くちびるが動くのが見えた。

「誰? どこかで会った?」

 心臓が爆発した。

 ようやく運命が来たのだ。


* * *


「タメじゃん、何組?」

 夏の夜で良かった。緊張で汗をかいていることも、耳が熱を持っていることも気づかれなかった。そのはずだ。

「えっと、五組」

「うちと真逆だ、あたし一組だから」彼女は少し大げさな手振りをしてみせた。「遅いのは? 部活してんの?」


 想定と違っていた。わたしはもっと、こちらから話しかけるつもりだったのが、まるで向こうの質問に答えるばかりになっていた。喉が渇く。呼吸すらうまくできない。

「図書室で勉強してたんだよね、バカだから」

「まじめだ、いいね」うっすら笑顔で言う。

 その何気ない、たぶん適当な「いいね」はわたしの心臓に突き刺さった。もし心臓が弱く生まれていたら死んでいたはずだ。耳の裏に血が通っているのを感じる。脈拍がうるさくて、彼女の言うことを聞き逃さないように集中する必要があった。

 徒歩の彼女に合わせて自転車を押しながら歩いていると、通学路がとても長く感じる。ずっと暗くて静かで、車輪のカラカラとした音が寂しくなっている。わたしは、どこで道が別れてしまうのかと考えてしまう。脳に送られる情報が多すぎて、思考に取り留めがない。話題を探していた。

 洗練された話題を出したかった。感心してもらいたかった。すべての取捨選択が間違っているような気がする。手札も悪い。

 もし「友達になりたい」などと言ってしまうのは最もよくないことで、その浅ましさや、短絡的な思考で、かけがえのないものが汚れてしまう。

 彼女は時折、気だるそうな仕草で前髪をかきあげる。そのたびに小さな飛沫が霧になって舞う。街灯の光に浮かび上がるさまがコマーシャルみたいだなと思う。

「涼しいんだよ、これ」

 こっちを見ずに言ったので面食らった。

「自転車だったら寒いぐらいだと思うけど、どうせ歩きだし」言い訳めいて彼女が言う。「それにたぶん、思ってるよりずっとはやく乾くんだ。不便じゃないんだよ」

 彼女は照れているようだった。子供じみた遊びを見つかったように目を伏せている。恥ずかしがっている。背筋がびりびりした。

 動悸どうきが止まらなくて、苦しい。

 はっきりと自覚した。あたっている。

 発汗は止まらず、それに伴って口の中がからからに渇いている。舌がもつれそうで怖い。


「なんか、言ってよ」

 やはりこちらを見ずに言った。泣きそうになった。走馬灯を初めて見た。心臓と肺と胃がいっぺんに潰れたような気がした。なんでわたしはこんなに気が利かないんだろうと自責じせきが襲ってきて、耳鳴りがする。息が苦しい。

 なにか言いたい。


「いいじゃん、綺麗で」


 言ってから、恥ずかしくてたまらなくなった。ボキャブラリーの貧困さに絶望した。声が震えていた気がした。こんなわざとらしいおためごかしのようなことを言いたいわけじゃなかったのに。

 もっとうまくできたはずだった。

「ありがと」

 蚊の鳴くような声が、不思議とはっきり聞こえた。聞き間違いをしたかと思って、どういう意味の言葉だったのか、考えていた。車道をトラックが騒音を上げて過ぎていった。ライトが一瞬、彼女の顔を照らした。彼女が不安そうな顔をしていたのを見て、本音が出た。

「似合ってる、ほんとに」

 今度はちゃんと言えた。「なんでもないふう」を装って、今まで脳内に渦巻いていたものを伝えることができた。

 彼女はなにも言わないまま、わたしは審判を待っていた。お互いにどうしていいのか、わからないであろう瞬間だった。さっきまでと裏腹にわたしの気持ちはすっかり落ち着いている。開き直っているのか、覚悟が決まったのか。わからない。

「だからさ」彼女が口を開いた。「ありがとって」

 また髪をかきあげるのだった。飛沫はなかった。いつの間に乾いたんだろう。微笑んでいた。やっぱり照れていて、こちらを一瞥して、すぐに前に向き直した。


「じゃあ、こっちだから」

 信号のない小さな交差点で分かれ道になった。彼女は歩きながら振り返る。

「またね」

 わたしもまたね、と返して、初めての帰り道はあまりにも呆気なく終わった。そこに劇的なものはなく、突然に世界がからっぽになった気分だった。彼女の後ろ姿が夜に溶けていくのを見ていた。

「あ」彼女が遠くからまた振り向いた。「あたしサハラだよ、砂原ジュン」

 通学路に声が響いた。誰かに聞かれないかどきどきした。

「そっちは?」

 恥ずかしかったけど、返事をした。ジュンは手を振って帰っていった。こちらからは表情がわからなくて、ジュンは目が良いんだろうかと思った。空に月が光っていることに気づく。そうだ、もうとっくに夜だった。急にいつも通りの景色が舞い戻ってきて、夢から醒めたときみたいにあまりにスムーズにわたしは現実に帰還した。

 自転車に乗って、勢いよく漕ぎ出した。下り坂。風の音、街の灯り。車輪がカラカラ回りだすのが聞こえる。早く家に帰りたいと強く思った。

 インスピレーションが湧いている。


* * *


「ただいま」

 言うなり靴を脱ぎ散らして自室への階段を駆けのぼった。鞄を半ばひっくり返すように開け、新品の手帳を取り出した。ペンケースからボールペンを引きずり出して、椅子に座りもせず一ページ目に「堕落論だらくろん」と書きなぐった。たしか、坂口安吾だ。

 着替えもせずにベッドの上で仰向けになって、眠るまで何度もその文字を読んだ。不思議な満足感と虚脱があった。誰かから認められたような気分になって、そのまま少し眠った。

 夢は見なかった。


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