えら・ひれ・うろこ

片野雪見

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 きっと魚なんだろうと思った。もう少しで口から零れそうだった。わたしが慌てて口をつぐんだことに、ジュンは気づかなかっただろうか。

 水面から出てきたジュンは、砂浜に座っているわたしに向かって目いっぱい笑ってまたすぐに海面を潜っていく。彼女の泳ぎはひどくすべやかで、思わずため息をこぼしてしまう。

「えりも泳げばいいのに、一緒に」

 水から上がって髪を乾かしているジュンはいつもそう言う。そして決まって「うそだよ」と続ける。

 そして彼女は歯を出して笑う。ジュンには八重歯がある。


 わたしは帽子と、長袖と、敷物で防備して砂浜に座っている。カモフラージュのために一冊の文庫本を持っている。炎天下で合皮のブックカバーがじりじり燃える匂いがする。顎から滴った汗が落ちる端から乾いた。たまに砂を触ると、どれくらい汗をかいているのかわかる。水筒から氷水を飲むそのときだけ、からだがすうと冷える。このとき一番、空気が熱い。


 遠くの水面に飛沫しぶきが跳ねる。あそこには魚がいる。大物の。


 夏休み、学校のプールは水泳部以外には開放されない。だから彼女は息をするためにここにやってくる。彼女は淡水でも海水でも息ができる。水に入ると見事に泳ぎだし、あっという間に姿は消えて痕跡だけが残る。このままわたしはずっと一人だったかのように錯覚するけれど、彼女が息継ぎに上がってくるたびにわたしも息ができるようになる気になる。控えめな波の音はどこか他人事のように遠くにあり、ここには自分すらいないような気がした。

 風が熱を帯びなくなってくると、魚は陸に上がってくる。肩で息をしている。学校指定の水着は濡れて光っていた。わたしは、すっかり熱くなったタオルを渡した。小声で「ありがと」と聞こえた。

「ねえ、どこいこうか」彼女は明け透けに言った。

「なにか食べる?」

「お金あるの?」

「あんまり」

「じゃあコンビニでいいじゃん、座れれば」

「座れないよ」思わず笑った。

「とりあえずさ、どこか行こうよ」

 わたしは、気持ち水分を含んだ上着を脱いで、敷物を鞄にしまい込んだ。そよ風がうそみたいにわたしのからだを冷やす。その間にジュンは潮風で髪を乾かしていた。夕暮れの気配が近づいている。遠くの空に夏雲が見えた。

 わたしに並んで、ジュンは道路の真ん中を踊りながら歩いた。車は一台も通らなかった。

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