3.覆水盆に返らず 前編
この村の時間は穏やかだ。幼少期に母と二人でここに引っ越してきた際、強くそう感じた。父親との別れは寂しくはあったけれど、月日が経つにつれて受け入れる事もできた。熊が出た時だって、猟友会のじっちゃん達がなんとかしてくれたし、外れに変な外国人は引っ越してきた時だって、何一つ変わる事はなかった。精々、たまに腑抜けた顔で自家用車に乗って、どこかへと出かけていく彼を見かける事があったぐらいか...。それはさておき、楽しく過ごせていたと思う。
そう。楽しかったのだ。
高校を卒業した後はすぐに就職をした。夢らしい夢もなかったし、何より母が心配だった。その日だっていつも通り仕事を終わらせ、久しぶりの定時上がりに心を躍らせながら、足早に帰路についていた。12月ともなると、この時間でも辺りは真っ暗。動物が飛び出してくる事もあり、帰宅だけでも神経を使う。ラジオも何故か繋がりが悪く、残念に思いながらも車を走らせていると、すぐに見慣れた我が家が視界に入ってきた。
『龍ちゃん、奇遇だね』
車から降りると、後ろから開口一番そう声をかけてきたのは猟友会の一員で、お世話になっている真田さんだった。今は40代ぐらいだったかな。時間的に猟の帰りだろうか、肩から猟銃を下げていた。
『ちょうどよかった~今日は大猟だったからお裾分けにきたよ!』
「おお!これはまた立派な!ありがとうございます」
そう言って差し出してきたのはウサギである。普通の一般家庭であれば困るところだけど、幸い(?)我が家の母はかなり広く趣味を持っている人だった。その一環で野生動物の解体も覚えたそうだが、意味がわからない。普段はおっとりとした人だから余計にそう思う。
真田さんはたまにこうやって獲物を持ってきてくれる。最初の頃こそ引っ越してきた僕ら家族を気遣って橋渡しの一環でそうしてくれていたようだけど、母の予想外の特技もあって、気づいたらうちで晩御飯を食べていくのがセットで習慣化していた。
*
『いや~恵子さんの煮物はいつだって美味しいね!ご馳走様でした!』
『ははは、真田くん言い過ぎよ。こちらこそいつも貰ってばかりで...』
そう言って母は笑う。最近はすっかり見慣れた光景で、仲睦まじいように思える、真田さんであれば文句はないかな。父親として慕う事はできないけれど、家族として受け入れる事は出来る。すっかり仲の良い親戚のおじさんだ。
『実は私と真田くんから龍ちゃんにとても重要なお話があるの』
なんてバカなことを考えていると、談笑の流れからそのように母に切り出された。
これはいよいよ冗談で済まないようだ。いざその場面になってみると緊張はする物である。いつだって日常に変化があるタイミングというのは踏み出すのが少し怖い。
「っ...あらたまってなんだよかーちゃん。想像は付くよ。むしろさんせ....」
ピンポーン
俺のなけなしの勇気を邪魔したのは家のチャイムだった。勘弁してくれよ。なんか気まずいじゃん
『那々木さんいますかー!?役場の方で騒ぎになってまして!安全確保のため住人を集めてます!』
チャイムに続いて、3回乱暴なノックが鳴らされた後、そんな声が聞こえてきた。玄関まで走り話を聞くと、少し前に、役場の方に他所の人が2人来てたそうだ。彼らは酷く怯えた顔をしていて、保護を求めてきたそう、衣服に血が付着していて、不審に思って警察に連絡をしようとしても繋がらない。手間取っているうちに、彼らが急にうずくまったと思ったら、周囲の人間に噛みつき始めたそうだ。その後、2人はどこかへ逃げてしまったそうだが、念のため、小学校に一旦住人を避難させる事にしたらしい。
『幸い、噛み付かれたのは1人で傷もそんな深くない。診療所で手当てを受けてます。ですが、確実に何かが起きています。携帯も何もかも繋がらない!とりあえず小学校に向かってください!僕はまだミツルギさんに声を掛けにいきますんで!』
呆気にとられる僕らを尻目に、役人さんはそう言い残してすぐにどこかへと去ってしまった。気づいてみれば確かにおかしい。インターネットにも繋がらない。電話の一本もかけられないのだ。
『すぐに移動しましょう。真田さんも一緒に』
「俺!車の鍵取ってくる」
*
移動中、車内は静寂に包まれていた。だが、それもしょうがない事だった。談笑していた20分前と比較して状況にあまりにギャップがありすぎた。我々親子はかなり肝っ玉が据わっているという自負があるけれど、それにしたってこれはやり過ぎだ。
『さっきの話。またこの騒ぎが終わったら続きをしましょう』
その真田さんの一言を最後に、気づいたら小学校に着いていた。
体育館に集合とのことだったので、裏門から入ろうとしたが人の気配がない。不審に思いながらも、鍵は開いていたので中に入る事にした。
『嫌な予感がします。僕、先頭いくんでついてきてください。』
3人で固まって進んでくと、状況の異常さには直ぐ気づくことができた。外灯に照らされた体育館の入り口に人が血濡れで倒れていた。お腹からその内容物を散乱させながら...。
全てを吐き出す不快な心地と共に、穏やかな日々の終わりを感じた。
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