少女の苦悩(3)

「…………」

「お気づきになられましたかな」

 豊かな髭を蓄えた老人が、柔らかなオレンジ色の火を灯すランプに照らされて見下ろす。アルタナディアはベッドの中、重い瞼の隙間から目だけを動かしてその老人を見た。

「失礼ながらお召し物は替えさせていただきました。身体中に斬られた痕と高熱……されど戦士というわけでもない御様子。高貴な御身分のお方であるとお見受けいたしました。お名前をお教えいただけますか。迎えをお呼び致しましょう」

「…………」

「ああ、失礼いたしました。御容態がよろしくないのにこのように話し続けてしまい、申し訳ございません。お構いはできませんが、ゆっくりお休みくださいますよう――」

「いえ……それには及びません。私は、ここに用があって…参ったのですから……」

 アルタナディアが身を起こそうとするが、生まれたての小鹿のように弱々しい。しかし懸命に腕を突っ張り、よろめきながらもベッドから出て、老人の前に立った。

「ここが…ジレンの、お屋敷なのですね…」

「左様でございます。しかし今、主人は出払っておりまして…」

「いいえ。あなたが当主です、ミスター・ジレン」

 老人は眉ひとつ動かさなかったが……ややあって、目元を細めた。

「何故、そのようにお思いになられるのです?」

「昔グロニアを訪問した際、城中でお見かけしたことがあります。そのころ、お髭はありませんでしたが……私とバレーナを見ていたのを覚えています。城中で、一使用人の格好をしていないのなら、ジレンでも特別な人物……すなわち、ただ一人面が割れているジレンであるご当主である、と……。おそらく、父や私を直に見にいらっしゃっていたのでしょう…」

「……なるほど。さすがの観察眼でいらっしゃる」

 老人は口髭を取った。変装用の付け髭だったが、外した瞬間ガラリと雰囲気が変わる。どっしりと根を生やした、大木のような存在感。国の王を選定する重要な任務を負う秘密主義の一族―――その歴史の中で王とともにあり、王を生みだす。ある意味で王以上に己を滅す、非情な運命にある。その長ともなれば、たとえ相手が女王であってもたじろぐことはない。大らかで慇懃な態度を取りながらも、アルタナディアに向けるその眼光は鋭い。

「ご挨拶申し上げますアルタナディア様。私のことはただ『ジレン』とお呼びください」

「……少し、意外です…」

「何がでしょう?」

「白を切られるものかと思いましたから…」

「白を切ったところでどうなるものでもありますまい。お迎えが来ればここがどこで私が誰かなど、すぐにわかることなのですから」

「それはそう、ですが……」

 ぐらりと体勢を崩すアルタナディアを支えた老ジレンはすぐさま侍女を呼ぶが、アルタナディアは「大丈夫」と手で応えつつ、その侍女を見た。特に特徴のない給仕服に身を包みながらも顔半分、目鼻から上を大きなマスクで隠している。外見からはアルタナディアと同じか年下の少女のようだが、彼女も紛れもないジレンなのだろう。仮面は、面が割れないようにするためだ。

 感情を顕わにしない彼女を眼の端に止めながらアルタナディアはまたまっすぐ立つ。ふらついてはいるが、とにかく自らの両足で立たなければならない…。

 アルタナディアはゆっくり、静かに呼吸すると――――老ジレンの前で、床に膝を着いた。老ジレンの眉がピクリと跳ねあがる。

「……一体、何のおつもりですかな…?」

「ジレン様……私はあなたに教えを乞いに参りました。私が王であるために……王の何たるかを、ご教授いただきたいのです…」

「お言葉を返すようですが、意外ですな。バレーナ様を王にするために私を説得しにいらっしゃったのだと予想しておりましたが」

「それも……考えてはいました。しかし、バレーナが王になれない要因は私にも多分にあると聞きました。私は覚悟と自覚を持って女王となったつもりですが、所詮名ばかりの小娘であることに変わりありません。臣民が本当の意味で私の声に耳を傾けてくれるようにならなければ、私はいつまで経ってもバレーナの隣に立てないのです。お願いいたしますジレン様………私に叡智をお与えください」

「…私どもが王様にお教えできることなどございません。その時代によって必要とされる素養が異なります。ゆえに、あらゆる角度から判断するために我々は市井に溶け込むのです。ただ……人の上に立つ者には共通して持ち得るものがございます」

 そう言って老ジレンは棚の上から小箱を取り、アルタナディアの目の前で開く。普段表情の変化が薄いと言われるアルタナディアの顔が、驚愕の面持ちで固まった。

「それは、…………どうしてここに……」

 真っ赤なルビーが埋め込まれた指輪。それは幼き頃、誓いと決別のために手放したものだった。

「亡くなった先代の当主が少女から頂戴したと申しておりました」

「当主……では、あの方が…!?」

「曰く、その少女は王の器と資質を持っていると。そして―――最も大事な物が欠けているとも」

「! それはっ……それは何なのですか!!?」

 老ジレンに食い下がろうとするも、華奢な背中ははがくりと折れて床に伏せる。侍女が手を貸し、アルタナディアはベッドに促されるが、拒否する。もはや肉体は限界を越えている……横になれば、もう起き上がれないだろう。だからこそ歯を食いしばり、己に鞭打つのだ。

 しかし―――その有様を、老ジレンは冷めた目で見下ろしていた。

「…私も今、確信いたしました。アルタナディア女王―――あなたには、自己が無い。ゆえに王ではない」

「は…!?」

 アルタナディアはしばし言葉が出なかった。全く予想していなかった解答だったからだ。

「……どういうことでしょう…王が、国のため、民のために己を殺して尽くすのは当然のことではないですか」

「小さな集団であればそれもまた正しいでしょう。しかし王は違います。王は国そのもの。民あっての王ではありません。王政の国にあってはまず王ありき、そして称える民があって初めて国となります。ですが貴女が今おられるのは民の下。滅私奉公する様は奴隷のそれです。こうして貴女がここで傷だらけの身を押し、他国の人間に頭を下げているのを誰が知っているのです? あなたが一人で訪れたのは部下に心配をかけないため? 民に不安を抱かせないため? それはただの独りよがりというもの。貴女がどれだけ身を裂いても誰もそのことを理解しようとせず、理解できない。そのような王ならば、誰でもよいのです」

 老ジレンの言葉が胸を刺す。王など誰でもよいのか―――それはバレーナの襲撃により王都を離れる道中、自ら得た実感だった。

「貴女にないのは、欲。自ら王でありたいという欲望。それがまったくございませぬ。先代は申しておりました。助言の意味と価値を理解している一方で、母の形見を簡単に手放すのは何か未練を残しながらも、血の宿命と義務感に己の身を任せている。そういう者は王になってはならない。いつか冠を投げ出すからだ…と」

「…………」

 アルタナディアは茫然自失の顔で虚空を見ていた。

「それでは……先代様とお会いしたその時から、私は王になれなかったという事ですか…」

「貴女が真の王となるためには、今一度自身を見詰め直さねばなりません。そしてなぜ王になり、王になろうとするのか―――自らの出生とは関係のない王たる理由、王であることを欲すその原因を知るのです」

 王たる理由―――

 なぜ王になり、王になろうとするのか―――

 なぜ――なぜ……

 王でありたい欲望―――……

「私……わたしは……」

 細い肩が震えだす……そして一筋の涙が、頬を伝って流れるのだった……。




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