少女の苦悩(2)
合同訓練二日目からアルタナディアはエレステルの方々を回っていた。
エレステルは首都グロニアが極端に東よりに位置するため、広大な国土の西側ほど中央の目が届きにくい。
また、国境付近の領主たちは国防の要である。ゆえに中央政権に対する影響力は思いの外強く、自領内で国王の如き振る舞いをする輩も少なくない。それでも好き放題できないのは、グロニアから国境の要地に派遣されるエレステル軍が存在するからである。五つある大隊の内三つの大隊が三つの地区に配備されるのだが、これは外敵のみでなく内部へも目を光らせているのだ。しかも大隊は一定期間ごとにローテーションで回されるため領主が軍と癒着することも難しい。だがその軍も領主の支援がなければ戦線を維持できない。また、最も怖れるのは領主の裏切りでもある。国境付近の領主が外国に寝返ればあっという間に曖昧な国境線が動くのだ。それらの要素を天秤に乗せると……やはり地方領主に秤は傾く。
そこで王室を含めた首脳陣が内々で考案したのが、最高評議会十三席のうち最低でも三席以上を地方出身者の優先席とすることだった。この様式が伝統となり、地方領主がグロニアを我が物顔で闊歩し、大物ぶる悪習は今も残る。もちろん、皆が全てそうだというわけではない。国境を守護するからこそ誇り高く、その魂を代々引き継いでいる家系も存在する。しかし当代の人物がどうであれ、やはりその時代の王の影響力が大きなキーポイントとなることは間違いないのだ。
そういう意味では、今が最悪の時と言える。バレーナは両親も死に、ただ一人。直系の血筋としては天涯孤独の身であり、他に王家の血筋を引く者はかなりの遠縁にわずか数名、残念ながら国に対して影響力を持つような人間ではない。だからこそアルタナディアは前面に出て、孤軍奮闘するバレーナと共立して見せようとしている。各地の訪問もそのためであった。
本来であれば、友好国とはいえ外国の王族が地方領主を訪ね歩くなどありえない。ともすれば謙った態度と取られかねず、イオンハブスの王室の権威を失墜させかねないことであったが、アルタナディアは直近の実を取った。顔を合わせることは、バレーナの敵となるものであればプレッシャーになり、味方であればより協調性を高めることができる―――そう考えていたからだ。
しかし、それは甘かった。馬車の中でサンジェル医師長と看護師に挟まれて汗を拭いてもらうアルタナディアはまだ熱が引かない。だが、沈痛な面持ちはそのせいだけではなかった。
「情けない……私には王として足りない物が多すぎる……!」
苦々しく弱音を吐くアルタナディアはおそらく相当稀に見るものなのだろうと、向かいに座るロナは感じていた。瀕死の状態でなおここまで来たアルタナディアである。高熱でずっと意識が朦朧としているはずだが、それでも会席の場では背筋を伸ばし、立ち居振る舞いは静かに、瞳からは力強いオーラを発揮する。この華奢な身体のどこにそんな鋼の闘志があるのだろうか……感服する。地方領主との会談でも聡明さを存分に発揮する受け答えで、女王としての資質を示すには十分だった。
だが、領主が求めるものはもっと現実的なものだった。未来への期待ではなく、今提供できるものを暗に探られる。これに対し、アルタナディアは答えを持っていなかった。正式な手続きを経て女王になったとはいえ、あくまで急拵え。自国の内政に関してはまだ何一つとして引き継ぎされていないこの状況で、アルタナディアの一存で物事を決めることはできない。エレステルに行軍したのは非常時の特例措置として処理できる確信があってのことで、これ以上の勝手は自国で不評を買うだけでは済まない。結果、バレーナ派でも反対派でもない中立勢力との会談では手応えを得ることができなかった。
ロナがつくづく不運だと思うのは、バレーナもアルタナディアも王座を継承するタイミングが早すぎたことだ。特にアルタナディアはある程度の教育は受けているだろうが、実践はこれからだったはずだ。本来ならば父であるガルノス王の手によって社交界デビューを果たし、その美貌と才が噂で広まり―――満を持して女王となっていたはずなのだ。前評判のないアルタナディアは実際無名の女王。バレーナを戴冠させる望みを叶えるには、盗賊団を撃退したバレーナを超える実績を積み重ねなければならない。しかし、今の状態では……
「…アルタナディア様、差し出がましいようですが予定を切り上げてお休みなさるべきかと。このまま続けられても、おそらく……」
「わかっています…。ですがエレステルにも生前父と懇意にして下さった方々がいらっしゃいます。私の代になってもその関係が続いている……そう感じさせるだけでも反対派に対して効果はあるはずです…」
アルタナディアはまだ折れてはいない……だが弱い。見ている方が辛くなる。
ある意味似た立場のロナにはよくわかる。どれほど優秀でも、若さが相手の信用を阻害するのだ。ただ若いというだけで、たまたま上手くいっているだけだろうとか、誰かの入れ知恵ではないかと高を括られ、才格を疑われる。しかしそれは経験に裏打ちされた実績がないため仕方ないのだ。そんなときに必要なのが背中を押してくれる第三者、すなわち「後ろ盾」だ。ロナにとっては父、そして実家のバーグ商会がそれにあたる。エレステル内で頭一つ抜けたバーグ商会がその看板を賭けてくれるからこそロナに価値が出た。大きな商談も任され、他の商人ともつながりができ、アケミに引き抜かれ、現在に至る。決して一人では成しえなかったことだ。
今のアルタナディアにはその後ろ盾がない。その一番の原因はバレーナの強襲なのだからロナには何も言えないが、その代わりに今回アルタナディアは間接的にバレーナを後ろ盾に利用した。つまり、バレーナ支持を訴えながらも、自身が次代の王であるバレーナに認められる王族であるとも語ったのだ。しかし二人とも王としては張り子の虎……互いに寄り添ったところで、絶対的な権威を得るにはまだ脆弱すぎる……。
時刻は午後六時。予定の訪問を終え、次が最後である。
グロニア郊外にある山の麓。ジレン一族当主が代々住まう屋敷の入り口である。
「アルタナディア様、ご要望通り到着いたしましたが……本当にお訪ねになるのですか?」
馬車が止まってすぐ、ロナが訊ねた。この数日間、長距離の移動と会談を繰り返し、アルタナディアは衰弱しきっている。しかしロナの心配はそれだけではない。
「重々申し上げますが、ジレン一族は王の選定者として絶対中立の一族です。あらゆる場所に溶け込み、あらゆる立場から王にふさわしい人物かどうかを評します。その公正さを保つために自身がジレンであることを一生明かすことはなく、親兄弟ですら別人となり、互いの顔も知らないことがあると噂されるほどです。唯一顔が晒されるのは当代の当主のみ。その当主に認められることこそバレーナ様が王座に着く絶対条件ですが、説得に応じられることはないかと存じます…」
「……話を聞くことができれば、何が必要なのか…そのヒントを得られるかもしれません……行くだけの価値は…あります…」
やつれた顔を上げ、立ち上がるアルタナディアだが、もはや真っ直ぐ歩くこともままならない。マユラの手を借りて降りると、後から降りたサンジェル医師長が悲鳴を上げた。
「これはいけません……今のアルタナディア様では到底辿りつけません! 今回は諦めてまた出直されるべきです!」
切り開かれた広い山道には見上げるほどに石段が続き、ここからでは屋敷は見えない。しかも壁かと見紛うほどの急斜面であり、サンジェル自身、登れるかどうかも怪しい。しかしアルタナディアは制止しようとする手を振り払う。
「滞在期限が迫っています……今体制を整えておかねば、その次の段階で手も足も出なくなります…。打てる手は、打っておかねば……」
「何を仰っているのです! 次がどうのと考えるときではございません、今お身体を労らなければ……どうかお聞き入れください、アルタナディア様!!」
サンジェル医師長の必死の懇願を前にして――アルタナディアはクスリと、弱々しくも笑った。
「サンジェル……あなたには幼いころから世話になっていますが、すみません……子供の頃の私は聞きわけがいいフリをしていただけなのです…騙していてごめんなさい」
これを聞いてサンジェルの後ろに控えていた若い看護師の女は思わず含み笑いをしてしまう。が、すぐにサンジェルに睨まれて口元を押さえる。
「…アルタナディア様、私とマユラは同行できません。この見通しのいい山道は来訪者の存在を誰もが確認できるよう、意図的に設計されているそうです。今の状況で私たちが接触を望めばバレーナ様の王位に関わる不正を疑われるのは明白です……それでも向かわれますか?」
ロナの忠告はアルタナディアを思い止まらせようとするものだったが、
「当然です……私一人で行きます…」
やはり効果はなかった…。
「三時間……いえ、四時間経ったら迎えに来て下さい…」
「ですが…!」
「お願いします…」
熱に浮かされてなお、アルタナディアは真っ直ぐな瞳で一同を見据えた。
登る。
登る。
一段。……そしてもう一段。
身体に力が入らない……まるで神経が繋がっていないように感覚が鈍い。果てしなく続くこの石段は、足を滑らせれば転落は免れない。膝を着き、手を着き、這うようにして、また登る。
日は沈み、空は赤黒く夜の顔へと変わりつつある。先程まで共に歩んでいた影も暗がりに溶け込み、今はもう一人。
身体が燃えるように熱い……傷が疼き、昨晩抜糸してできた新たな傷痕が痛む。脂汗は止まらず、髪が額や頬に張り付く。身体の中はどろどろに溶けたように気持ち悪く、今日は嘔吐感が特に酷い。
登る。
登る。
掻くようにつま先を動かし、指を伸ばし、登る―――…。
…目を開けたが、何も見えない。いつのまにか意識を失っていたようだ。暗闇の中、瞳には何か映っているのだろうが、何も認識できない。
意識はこれまでにないほどはっきりしているのに、身体は何一つ感じない。
いや―――
「……つめ、たい…」
頬に当たるのは、土か…。
意識を繋ぎとめようとその感覚を反芻するが―――木霊のように空しく消えて、全ては闇に沈んでいった……。
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