アルタナディア姫が逃亡、その一週間後――――。(3)
「ふあ…」
欠伸が出たところをアルタナディアに見咎められ、カリアは慌てて噛み殺す。
「姉さま。眠いのはわかりますが、緊張感がないのは困ります」
「……ごめんなさい」
不機嫌そうな姫様の声。謝って目蓋を擦るが、また欠伸が出そうだ。
五時間前―――私は最後まで抵抗したのだが、姫様の意向で同じベッドで眠るという結論に至った。
―――眠れるわけがない!
備え付けてあった寝巻きのスリップはシルクの上等な品だったが、やたら丈が短く、生地が薄く……詰まる所いやらしい一品だった(それでもこれが一番マシだった)。ここは逢引きするためのホテル、ゴニョゴニョするのが目的だから当然と言えば当然なのだが、やっぱり露出が多いのは困る。挙句に姫様と一緒に風呂に入り(背中しか見なかった)、姫様と同じベッドで眠る(落ちそうなくらい端まで離れた)始末。こんな体験、そうそう……普通は天地がひっくり返ってもありえないぞ!?
そんなだから疲れていてもちっとも眠れず、ようやくまどろんできた私に姫様の影が覆い被さってきたときは、心臓が飛び出す思いだった。細い指がそっと触れてきて、私はガラにもなく、乙女のように身体を強張らせてしまった(あ、乙女か)。姫様は私に触れながら、何度も何度も「カリア…」と囁きかけてくる。どう応えていいかわからず、私を呼ぶ細い声に胸を振るわせるだけだ。やがて肩に触れていた手が頬に移り、姫様の影が近づいてくる。私は覚悟を決めた。
「あの……私、初めてで……っ」
人生で初めて出した声だった。姫様の影はピタリと動きを止め……バチンと頬を叩かれた。
「寝ぼけていないで、さっさと起きなさい。出発します」
冷たい声に目が覚めた。実は起こされていただけだったのだ。血の気が引き、滴るほどに冷や汗を掻いたのだった。
そして今。肌寒いカサノバの裏通り。手持ちの懐中時計が示す時刻は午前三時半……早朝というより、まだ深夜だ。
こんな早くに宿を出たのは、他の貴族の客より先んじて出発するためだという。秘密の逢引きなら人目を避けるから早くに出る、だから自分たちはもっと早くに出る―――なるほど、理に適っている。そして私が眠っていたのはほんの二~三時間ということになる。貴族は楽じゃないな、ホント……。
空は暗い。月は明るかったが、その光もカサノバの細い裏道には届かない。不気味な暗がりの中を、二人は寄り添うようにして慎重に進んでいく……。
やがて大きな水路に出た。中央街道と十字に交差する水路はこの町の水源であり、監視の目もある。安易にゴミでも捨てようものなら厳しく罰せられ、街から追放されることもあるらしい。深夜で人気は感じられないが、警戒するポイントだ。
「この水路に沿って町の外周に出ましょう」
アルタナディアの提案にカリアもうなずく。裏通りは迷路のようだが、中央通りと水路は一本道。道なりに行けば確実に町の外に出られる。その目論見通り、町の端が見えてきたのだが―――。
「姫さ――」
「ナディアです。わかっています」
町の外の空き地に人の気配がする。それも集団だ。姫様呼ばわりはもちろんタブー。いい加減に目を覚ませ、私。
気配のする方の様子を伺うと、物々しい雰囲気だった。数は二十人ほど、全員武装している。全員下馬しているところを見るとちょうど馬を休ませているところなのか……いや、深夜でそれはない。最初は盗賊の類かとも思ったが、違う。外套で全身を覆っているが、軍隊……兵士のようだ。そしてその装備はイオンハブスのものではない。
「あれは……もしやエレステル兵!?」
「そのようですね」
消去法だが、十中八九間違いないだろう。しかしいくらイオンハブスとエレステルの親交が深いとはいえ、兵士までもが自由に出入りできるわけではない。だが、バレーナが王都を占拠した現状では……。
「何かの作戦行動中……もしかして姫様を……!?」
「どうでしょう。しかし避けるにこしたことはありません。時間はかかりますが、反対側から町を出ましょう」
引き返そうとした、その時。
「―――誰だ!?」
今見ていた方向と別の方から声がとんできた。しまった、見張りがいた!
「こっちへ…!」
姫様の指示で細い脇道に逃げ込む。何人かが追いかけてくるようだ!
意外というか幸いというか、姫様も足が速い。すぐに追いつかれることはなさそうなのだが、
「あの、この方向は中央通りを横切る事になりますが!」
「その通りです」
姫様は走りながらも平然と答える。
「あの兵士は正式にここに駐屯しているわけではないでしょう。やましいところがあるのならば近づきたくないはずです」
「しかし、それは私たちも同じでは!?」
「そこは賭けです」
「賭けですか!?」
と、姫様が足を止める。次いで私も「あ!」と声を上げてしまった。行き止まりだ! 路地裏の建築物は城壁のように高く、その間の道は糸のように細い。それが深夜になると、まさに一寸先は闇。月明かりも届かず、昼間の喧騒もない……まるで地の底にいるような気分だ。その前後不覚の空間の中で追い詰められたのは致命的だった。
「ちっ……チョコマカと逃げやがって……!」
兵士が追いついてきた。その気配の数…十二人!? 女二人を追い回す人数じゃないぞ!? しかも皆そろって剣を抜き出す。問答無用―――口封じか!?
「くそっ…!」
「待ちなさいカリア。剣を抜いてはいけません」
「しかし!」
「いけません」
この状況でどういうおつもりなのか!? 仕方なく、すぐに剣を抜ける姿勢のまま前に出る。
「貴様らは何者だ! なぜ私たちを追い回す!」
「なぜ、だと? ブラックダガーだからというだけで十分理由になる」
「ブラックダガー? 何だそれは?」
「とぼけるな! バレーナ王女の命令で我々を探っていたのだろう。貴様のような小娘が剣を持っている時点で、証明されたようなものだ。安心しろ、吐かせた後もちゃあんと可愛がってやるぜ」
くだらんセリフを聞いている最中にさらに五人追加。いくら何でも一人で相手にするのは無理がある! しかし、姫様だけは必ずお守りせねば………!
そのとき、姫様がスッと後ろに下がった。そして姫様の元いた位置に、何かが―――誰かが落ちてきた。
「うわ!?」
突然現れた気配にカリアが驚くが、高所から着地したらしいその人物はゆったりした動作で身を起こす。
「やれやれ……無関係の婦女子に手を出すなんて、下衆のやることだな」
女の声。飛び降りてきたのは女だ。建物の隙間から溢れでたわずかな月明かりが照らす女を、カリアは見る。
黒く長い髪をポニーテールにしていて、赤黒いコートを羽織り、バカ長い長剣を携える様は、一目見れば忘れられない強烈な印象を与える。
若い。自分とほとんど変わらないかもしれない。しかしこの重厚な雰囲気はなんだろうか。さらにその身のこなし。コートの裾がはためく音こそ聞こえたが、ほとんど無音で着地した、まるで猫のような身のこなし。直前に気配を感じなかったことから察するに、かなりの高さから降りてきたはずなのに………!
そして一番の問題は―――――敵か? 味方か?
「何だ貴様は…!」
エレステルの兵に刃を向けられた女は黒塗りの鞘に収められた長剣を肩に担ぎ、くだらなさそうに兵士を睨んだ。
「フ、あたしを知らないか。シロモリといえば、わかるか?」
「シロモリっ…!?」
「あ……まさかこの女、『長刀斬鬼』…!?」
チョウトウザンキ……?
女の正体に気づいた兵士たちがうろたえ始めた。こんな剣を持っているくらいだから目立つだろうが、しかしそんな大層な人物なのか?
「するとやはり、この女たちはブラックダガーか……!」
「だから違う……それに今のあたしは誰の味方でもない。ただ……一般人がワケもなく追いかけられてるとなりゃ、助けるのが道理だろ?」
そう言いながら鼻で笑う女に、カリアはなぜか初めてとは思えない苛立ちを覚えた。
「無関係の人間に手を出そうってのは見逃せないな。どうする? あたしが相手をしてやるが」
「シロモリ」が担いでいた長剣を腰に構えると、兵士が後ずさりする。二十人近いフル装備の男たちが、だ。
「わ、わかった、その女たちは見逃すから……」
「そうか………じゃあさっさと消えろ…!」
ジャキンと剣の唾が鳴った瞬間、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げだした。一人で一喝するだけで脅しになるとは……本当に何者なんだ!?
「さて……」
チョウトウザンキは長剣を、ポンポンと肩を叩くように担ぎなおす。
「大丈夫かな、お嬢さん方」
「寄るな! 貴様、エレステルの者だな!」
姫様を後ろに据え、私はサーベルに手をかけて凄んでみせるが、
「ああ、そうだよ。だから?」
あっさり肯定し、逆に問い返された。
からかわれている……。
「だからって、お前は何者で……」
「ん~? あれ……」
無礼にも姫様を覗き込んでくる。
「ち…近寄るな、私の妹に…!」
「妹? アルタナ姫に姉がいたとは初耳だな」
「―――!!」
声も出せずに驚愕する。
しかし姫様は私と対称的に動揺を顔に出さず、逆にずずいと前に出る。
「私をご存知なのですか? 私には覚えがありませんが」
「認めるなんて潔いな。直接会うのは初めてだが、バレーナから散々話を聞かされていてな。でも別にアンタらを追ってきたとか、そういうことじゃない。バレーナとは関係なく、偶々通りかかっただけだ」
「関係ない? 兵士が震え上がるような貴様が?」
睨み付けるが、長剣女はフンと受け流す。
「シロモリっていえば、国じゃちょっと武闘派の家柄なのさ。軍事方面に発言力も強い。まあほら、親の七光りかな? あー、でももう一度言うけど、バレーナは関係ない。あたしは軍籍じゃないし、ただの一般人、旅行者だ」
「旅行者ぁ? そんな長い剣を持ってるくせに旅行者だと? 信用できるか!」
「しなくてもいいが、揉め事はごめんだ。姫様斬ったら、あたしがバレーナに殺されちゃうからな」
「……バレーナとは深い仲なのですか?」
唐突な姫様の質問に、長剣女はプッと笑った。
「深いっていうか、古い付き合いなだけだ。『可愛いアルタナ』の話を延々聞かされるくらいの仲かな」
「………いいでしょう。私たちに危害を加えるつもりがないのは信じます」
「え…いや、姫様!」
「姫と呼ばない。何度も言っているでしょう」
叱咤が飛んでくる。その横で長剣女は得心していた。
「なるほど、だから妹で、姉ね……ははは、逆だろ」
カチンとくる。口出しされる筋合いじゃない!
「改めて、アケミ=シロモリだ。妹はいいとして、護衛の姉の方はなんていうの?」
「……カリア=ミート」
「イオンハブスじゃ女が兵士になれないじゃなかったか? 大したものじゃないか。あたしは妹君よりもお前の方に興味があるな」
「姫様をないがしろにするとは無礼だぞ!」
「おやおや、忠義の騎士か。褒めてんだからもっと素直になればいいだろ」
「黙れ、不審者が偉そうに! 大体、何が目的でこの国にいる。……今の事情を知っているのだろう?」
「だから旅行だって……いやわかった。正直に言うと、アンタらとバレーナのゴタゴタが見たかった。だからもう目的は済んだ。帰るところ」
「ゴタゴタ…? あの宣戦布告からのできごとをゴタゴタだと!?」
「珍事だ。少なくともエレステルにとっちゃ、国と国との戦争じゃない」
「なんだと……貴様、姫様がどんな思いで今日まで―――!!」
「妹だろ。しっかりしろ姉君」
「くっ…!」
さっきから人の揚げ足ばかり……!
「帰るところだと言いましたね、アケミ」
長剣女のにやけ顔がピタリと治まる。名前を呼んだからか?
「それに貴女は軍人ではなく、ただの旅行者だと」
「…言ったな」
「では貴女を雇いたいと思います。グロニアまでの道案内と護衛を頼みます」
「えっ………はああぁっ!?」
思わず声を上げてしまい、アケミから「しー」とわざわざ指を立てるポーズまでつけて注意され、慌てて声のボリュームを下げる。
「姫様っ…何をお考えなのですか……!」
「ずっと考えていました。どうやって国境を越えるかを」
「あ………」
そうだ、今の状況で国境を越えることなどできるはずもない……いやいや、考えていた、ちゃんと考えていた。考えていたが、具体的な方法は何も思いつかなかったのだ。
「あたしに国境の検閲をどうにかしろと?」
アケミが肩を竦める。
「その程度には顔が利くとみました」
「軍属ではないと言ったがな、それなりに由緒正しいお家柄ではあるんだよ。そんなあたしが不法入国の手伝いなんてできるはずないだろう?」
「手伝えないというのなら、私の存在を知ってしまった貴女には口を噤んでもらわなければなりません」
「……ほう…」
一気に空気が冷える―――アケミから殺気がどっと溢れ出した。自分の身体が萎縮したのがわかる!
何だこの感じ……皮膚から骨の芯まで痛みが走り、内臓が締め付けられるように気持ち悪い!
アケミはまだ柄に手もかけていないのに、あの長い剣に―――まだ見ぬ刀身に切り裂かれていくイメージが頭の中に刷り込まれる。肌があわ立ち、脂汗がとまらない……!
しかし姫様はその必死の間合いの中で、なお平然とアケミを見据えて言った。
「貴女の目的は事の顛末を見ることでしょう? ちょうどよい機会だと思いますが?」
「ク……ははは…! わかった、引き受けよう。バレーナがのろけるからどんなお姫様かと思っていたけど、話のまんまというか、それ以上だな。さっきもそうだ。カリアが不用意に剣を抜いてたら、あっという間に殺されていたところだ。絶体絶命の状況でよくも冷静な対応ができる……これはあたしも迂闊に剣を抜けないな? フフ……面白いな」
嘘みたいに明るく笑って見せるアケミは構えを解き、握手を求めてきた。
こうして思わぬ同行者ができたのだったが………
……のろけるって何だ?
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