アルタナディア姫が逃亡、その一週間後――――。(2)

 包帯を解いた右手に少し力を入れて、ゆっくり握り締めてみる。痛みや違和感はないが、まだ全力を出すのを身体が怖がっている。もう少しの間は固定していたほうがいいらしい。

「大事にならなくて、よろしかったですね」

 跪いて包帯を用意するウラノが微笑んで見せるが、ミオにはその笑顔がはっきり作り笑いだとわかる。だからバレーナの意思を尊重して、無視する。

「綺麗な腕ですね。とても剣を振るうようには見えません」

 ミオの右腕の内側をウラノの指先が、つ……となぞり上げ、指先を震わせてしまったミオは苦々しく眉根を寄せる。その表情こそがウラノを悦ばせるのだが、まだ少女のミオはかわす術を知らない。

「さっさと巻き直せ…!」

 それだけ言うのが精一杯。ミオは年少者でありながら親衛隊長という立場上、年上の人間を目下として扱うこともあるが、それでもこんな口調で怒鳴りつけることはない。そもそも年功序列に気を遣うタイプだ。こんな態度になってしまうのは、このウラノが苦手……はっきり言えば嫌いな部類の人間だからだ。昔、学校で絡んできた貴族の子女に似て、はるかにタチが悪い。

相性の悪いウラノがミオの世話をするのはバレーナの命令だからである。

「バレーナ様はお忙しいですから留守番のミオ様はお暇でしょう? もう少し私に構っていただいてもよろしいではありませんか」

「貴様のような職務怠慢が陛下のお手を煩わせるのだ。わきまえろ!」

「あら、手厳しいですね」

 クスリと笑うのが一々癪に障る。見た目には何の毒気も持たない清純そうなこの女が、どうしてこうもドロドロした内面を持っているのか。ミオには理解できない。しかしその事には触れず、別の疑問を口にしてみる。

「ジレンの貴様から見て、陛下の評価はどうなのだ?」

「気になりますか?」

 包帯を巻くウラノは薄く笑う。少し引っかかったが、ミオは見逃した。

「バレーナ様はこの国を実質的に占領してから、まず無能な大臣、不正役人を徹底的に排除し、次に各部署のトップ・中間管理職・現場責任者を集め、自らも参加し、課題点をディスカッション、そして解決されています。これは政治的な膿を一掃するとともに、停滞していた事案を素早く進める良い方法ではあります」

「そうか……なら評価は上々なのか」

「いいえ」

 冷たくウラノは否定する。

「結果を素早く生み出すものの、所詮はワンマン手法の力技です。バレーナ様がお若いからできるのであって、この先何十年も使える手段ではありません。バレーナ様の負担が大きすぎます。良い組織、良い国は、無理なく円滑に物事を運ぶものです。一局に力が集中しては要が欠けたときにバラバラになってしまいます。極論で言えば、バレーナ様の必要のない国こそ理想かと」

「バレーナ様がいない国……!? そんなものはありえない!」

「それはあなたにとっての話では?」

 右手を握られ、ミオは思わず肩を引こうとした。痛みは無い。それほど強く握られているわけでもない。だが、まだ完治していない―――。

 ミオの右手をとったままのウラノが立ち上がって、そっと耳元に口を寄せてくる。

「民にとっては国王が誰かなど、どうでもよいのですよ。大切なのは自らの生活がどうかということです。民にとっても臣下にとっても、リーダーシップの強すぎる専制君主よりは、国の象徴としての王がちょうど良いのです。焦りの出ている今のバレーナ様は、はっきりいってでしゃばり過ぎで、空回りで、少し滑稽です。愚かで進歩がない……だからこそ、また飛び出してきたんでしょう…?」

「貴様っ――!!」

 そこでガチャリとドアが開いた―――。

「……何をしている」

 部屋に足を一歩踏み入れたバレーナが目を細める。ミオははっとして、ウラノの襟首を掴んでいた手を離した。

「これは、その…」

 ミオが弁明するまでも無く、バレーナはズンズンと迫り、ウラノの前で立ち止まった。

「ウラノ。私に対して嫌がらせをするのは我慢してやるが、部下にちょっかい出すのは止めろ」

 単調なトーンは警告なのだが、ウラノは余裕たっぷりに微笑んで返す。

「誤解です。私はミオ様がお尋ねになったことにお答えしただけです」

「ミオ、そうなのか」

 バレーナがミオに確認を求める。

「……………そうです」

 そう答えることしかできない。

 間違ってはいない。自分が評価を問い、ウラノがそれに答えた。そこに酷評があっても、過敏に反応するところではない。ただいくらか悪意があったのだが、それは黙って呑んでやれと言われている。ならば憤る点は何一つ無いはずなのだ。

 完全に状況をコントロールされていた。たとえケンカでも、ミオはこういうのが嫌いだ。政治の場もこんな側面を持つというが、その時バレーナの隣にミオはいないからわからない。政治とは、実は言葉遣いが丁寧なだけの脅し合いなのかもしれない。

「ウラノ、くれぐれもミオに手を出すなよ」

「もちろんです。バレーナ様の可愛い付き人さんたちに手出しするなど、もってのほかですから」

 いけしゃあしゃあと諂ったウラノは、丁寧にお辞儀をして部屋を出て行く。

「アイツ…!」

 ミオが歯軋りし、バレーナが溜息を吐く。

「で? 何を言われた」

「別に…何もありません」

「言われた事をそのまま言え。命令だ」

 命令という言葉を普段のバレーナはほとんど口にしない。それは部下が皆バレーナを信奉しており、バレーナの指示は部下にとっての使命なのだ。だから命令だと言われたことに、言わせたことに、胸が痛んだ。

「バレーナ様の手腕が……その…強引で、でしゃばり過ぎ……だと………」

 いい部分もあったはずなのに、頭の中でいっぱいになっていた悪口ばかりを並べ立ててしまった。

「……そんなことか」

 やれやれと肩を竦めたバレーナは椅子に座ると、「ここにこい」とミオを呼ぶ。恐る恐るバレーナの前に立つのだが、

「違う、ここだ」

 パンパンと自らの膝を叩くバレーナ。戸惑う前に腕を引かれ、ミオはバレーナの膝の上にちょこんと座らされる。そしてそのまま、後ろから抱きしめられた。

「あっ……な、何をなされるのですか!?」

「疲れをとっている」

「疲れっ……何を仰っているのですか!?」

「知らんのか? 小動物の体温は心身を癒す。セラピー効果というやつだ」

「小動物……」

 さすがのミオも顔を渋らせる。

「私は愛玩動物ではありません。お戯れもほどほどになさってください」

「フ、そう拗ねるな。私の肌は気持ち悪いか?」

「そんなことは…」

「なら、もう少しこうさせろ」

 きゅっとバレーナの腕が締まる。やがてミオの身体は緊張を解いていく……。

 慣れたのではない。受け入れたのでもない。身体中に、特に背中いっぱいに感じるバレーナの感触に放心状態なのだ。

 ふと、自分が部屋の姿見に映っているのに気付く。大人が動物を抱いている図ではなく、大人が子供を抱いているわけでもない。当然だ、いくら小柄といっても、ミオは幼子ではない。大人になる手前の少女だ。バレーナの背が高いとはいえ、膝の上に乗せられれば顔の位置はほとんど変わらない。

 そう。振り返れば触れ合える距離に、バレーナ様の顔がある―――。

「ウラノの指摘など百も承知だ。お前だって私が正しいわけではないことをわかっているはずだ。それに『でしゃばりすぎた』せいで私が消耗していることも事実だ」

「国の運営は重責の任とお察しします…」

「そんな大層な事じゃない。ただ、勢いに任せて事を進めすぎた感はあるな。それでもお前たちが居てくれるからずいぶん楽だ……。ん? ウラノは私が疲れてきていると言っていたのだな?」

「はい。それなのにあの女、バレーナ様のことを…!」

「ならばお前を苛立たせたのは、私の手を取らせて余計に疲弊させることが目的だな」

「は? あ……!?」

 まさか、そこまで考えての事だったのか? どこまで悪知恵が回るんだ、あの女……!

 表情を強張らせるミオに、なんとバレーナが頬擦りしてくる。

「うぁぅ!?」

「可愛く鳴くなあ、ミオは」

「人をネコみたいに仰らないで下さい…!」

「些細な事に毛を逆立てるくせに」

 そんな風に言われては反論しようもない。でも……

「些事ではありません。バレーナ様に対する侮辱は、陛下を慕う我々全てに対する侮辱でもあります。捨て置く事はできません」

「本当に可愛いな、ミオは」

「バレーナ様…!」

「怒るな怒るな。うれしいのだ、私は。こんなに慕ってくれる部下だ、可愛いに決まっているだろう?」

「そんな、軽い事では…」

「軽いわけないだろう。私が酔狂でこんなことをしていると思っているのか?」

 こんなこと―――後ろから抱かれていること?

 どう捉えればいい……? 

 王と家来。

 主と従僕。

 ……どれも今の場面にはそぐわない。なら何だ? 友達? 幼馴染? 幼少期ならともかく、現在では無礼千万だ。

 再び鏡を見る。瞬間、あの晩の―――バレーナに抱かれているアルタナディアの姿と、重なった。

「む? どうしたミオ?」

 耳元に吐息を感じてぞくりとする。急に汗が噴出してきて、息が苦しくなる……。

「ミオ、気分が悪いのか? それとも……嫌だったか?」

 違います。気分が悪いんじゃありません。嫌でもありません。ただ少し……機嫌が悪いだけです。

 私はこんなに意識しているのに、あなたは、あの人のようには見てくれない。あの人のようにはしてくれない。確かにあの人とは比べるべくもない、立場だって違うし、そんな関係を望んでいるわけじゃない。

だけど―――たった二つしか違わないのに、どうして私は昔のままの子ども扱いなのですか。

 くやしくて、くやしかったけど―――

「大丈夫です…」

 ミオはそれだけ言って、後ろのバレーナに身を預ける。そうして、自分の中の不快な感情から離れようとしたのだった。



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