バレーナ王女によるイオンハブス襲撃、その翌日――。(2)

 夜通し歩き、日が昇ってさらに半日歩き続け、カリアとアルタナディアがキメロンの街にたどり着いたのは、城を出た翌日の午後三時だった。

 途中で休憩を挟んだとはいえ、実に十五時間は歩き通しだったことになる。どうしてこんな事態になったかといえば、当初の目的地に向かうのをアルタナディアが拒否したからだ。本当は事前に連絡してあったサングスト大老の元に一時的に匿ってもらい、その後の方針を考えるはずだった。ところがアルタナディアは逃亡よりも投降することを望み、計画を実行したグラード親衛隊長以下の面々は、おそらく全員捕らえられた。しかも何を思ったのか、西に向かうと言い出す。

 西―――。今のアルタナディアにとって、イオンハブスにとって鬼門といえる方角だ。イオンハブスは東と南を海に、北と西はエレステルの領土に囲まれている。実質的な戦争状態となった今、エレステルに向かうのは自殺行為以外の何ものでもない。いくらバレーナがいないとはいえ、アルタナディア逃亡の旨は伝わっているはずだ。どうして自ら危険に飛び込もうとするのか、カリアはいくら考えてもわからない。

「…今日はこの町で休みましょう」

 アルタナディアの顔にもさすがに疲労の色が見えたが、それはいつもの薄い表情からすれば、だ。日ごろから訓練を受けているカリアですら、こんな強行軍は経験した事がない。そこにあってこのアルタナディアの気力・体力の持続力は全くの想定外だ。

「姫様、お体は――」

「姫と呼ばない」

 慌てて口を噤んだ。指摘されるのもバカバカしい、初歩以前のミスだ。しかし姫様が姫様でなければ、なんとお呼びすればいい?

 アルタナディアもそれに気付いたようだった。

「……私の呼称については一考しましょう。ですが、その前にやらなければならないことがあります」

 マントのフードを被り(道中で購入した)、頭から全身をすっぽりと覆い隠すと、まず宿を探した。中級のランクの宿を選び、一部屋手続きすると、休むことなく町中へ。

「服を調達しましょう。私もあなたも目立ちすぎます」

「はっ…」

 付き従うものの……エレステルまで向かうとなると、今のカリアの手持ちでは余裕がない。むしろ足りない。姫様は路銀のことをお考えなのだろうか? まさか王族と名乗ってツケにしろとか……自分に姫様呼びを注意しておいてそれはないか。

 古着屋で足を止めたアルタナディアは、平民のドレスと寝巻き用のネグリジェを二着ずつ選ぶと、「あなたも自分のを選びなさい」とカリアに言った。

 まさか古着とは……。カリアは構わないが、姫様に古着は畏れ多い。やはり今後の資金繰りを考えてのことだろうか? とりあえず服と宿の支払いは自分がするとして……どこかの地方貴族に援助を頼むか、それとも少し回り道だが私の実家に寄るか……。

「まだ選んでいないの?」

「すみません、すぐに……」

 振り向いて、カリアは手を止めた。アルタナディアはすでに着替え終わっていた。白のブラウスにダークブラウンのロングスカート。デザインもこざっぱりしていて、サイズもピッタリだ。

 平民の服だというのによく似合う―――いや、それはおかしいな。姫様が服の魅力を存分に引き出しているということか。

「いやいやぁ、よく似合う。センスがいいねぇ、お嬢さん」

 気安く声をかける店主にアルタナディアは軽く微笑み返してみせる。そして少し冷ややかな眼差しをカリアに―――。

「迷うのならあなたの分も私が選びます。構いませんね?」

「え? あの…」

 言う間にヒョイヒョイとチョイスした服を渡され、着替えてきなさいと試着室に押し籠められる。

 濃紺を基調とした、乗馬もできるパンツスタイルだった。どこぞの貴族の質流れ品のようだ。なるほど、これなら丈夫で動きやすいし、剣を下げていても不自然じゃない。しかも、不思議とサイズも合っているし………姫様には服を見立てる才能があるのだろうか? 失礼な話だが、用意されたものをそのまま着ているだけだとカリアは思っていた。

 カリアの姿を見て満足したらしいアルタナディアは、どこに持っていたのか、銀貨で支払いを済ませる。カリアは慌てて、店を出るアルタナディアに耳打ちする。

「支払いは私が…」

「なぜ?」

「なぜと仰られましても……」

「私は貴女の主人です。ならば私がお金を出すのは当然の事でしょう」

「しかし…」

「そのくらい手持ちはあります。無い時ははっきり無いと言います。安心しなさい」

「はぁ…」

 カリアは複雑な気分だった。確かに兵士は国から、つまりは王からの給与で働いているのだが、お守りすると誓った手前、お金を出させるのはどうにも情けない。かといって、自分の分すら危うい財布の中身である。思わず溜息が出る……。

 宿に戻って食事をし、その後の風呂は部屋ごとの時間交代制だった。アルタナディアの入浴中は風呂場の前に控えようとしたカリアだが、部屋に居ろと帰された。逆に怪しまれるからと。それはそうなのだが、一人にさせるのは不安でしょうがない。ここは王都ではない。だから王女の顔を見ても気付かれないことだってあり得る。どんな不埒な輩が出てくるかわからない―――

「先に頂いたわ。貴女も入りなさい」

「は………」

 いつの間にか風呂から上がっていたアルタナディアが戻ってきていた。

 水気を含んだ髪は艶やかで、白い肌は上気して、身にはネグリジェを纏っている。その姿が目に入った途端、様々な不安がいっぺんに吹き飛んだ。そして何か別のモヤモヤしたものが胸に込み上げてくる。

「カリア。カリア…?」

「…っ! はい!」

「疲れているでしょう。早く入ってきなさい」

「は、はい…」

 視線を下ろしたままアルタナディアの脇を通り、カリアは部屋を出る。

 見てはいけないものを見てしまったような気がする……。考えれば風呂場に付き従ったことはなし、寝巻き姿を見たことはなし、まして同じ部屋で寝るなんてこと……。

 どうする? どうすればいい!? 湯桶の水面に映る自分の顔を見つめながらカリアは自問する。

 今さらだけど別の部屋に移るか!? しかし離れていると、いざというときに困るわけで……

「……あーっ!」

 頬をパチンと叩く。

 馬鹿だ…! 姫様に逃げるように進言したのは私だ。その私が慌てふためいてどうする? 姫様に余計な心配をさせるだけではないか。城のときと同じように、城のとき以上に姫様をお守りしなくてどうする!

 疲れも迷いも流したことにして部屋に戻ると、アルタナディアは綺麗な姿勢でベッドに腰掛けていた。

「長かったわね。湯当たりしたのかと、見に行こうとしたわ」

 見に……。

 姫様に裸を見られるのは、なんというか………ダメだ、冷静になれ。

 心の中で深呼吸したその時、ふと違和感に気付く。

「姫様、髪を……!?」

「バレーナに切られた長さに揃えただけです」

 桜色の髪が、肩につくかどうかという長さで綺麗に切り揃えられていた。見え隠れする首筋から肩にかけての細いラインが、なんというか………ダメだダメだ、落ち着け。大体さっきから何だ? どうしてうろたえてるんだ、私は―――!

「そこに座りなさい」

「は?」

「座りなさい」

 指示されるままに、部屋の真ん中にぽつねんとある椅子に腰掛けると、後ろからアルタナディアがカリアの頭をタオルでワシャワシャと拭き始めた。

「ひ、姫様!?」

「他人のことを言う前に、自分の髪くらいちゃんと拭きなさい。風邪をひくわ」

「けっ、結構です! 私の髪は短いですからすぐに乾きます!」

「今の私と大差ないでしょう。大人しくなさい」

 タオルを離したアルタナディアが今度は髪を撫でる。細い指が髪の隙間に入る感触にカリアはぞくりとする。

「あ、あの……こんな、畏れ多い事…」

「そう思うのなら、普段からきっちりしなさい。言葉遣いや姿勢は大分良くなりましたが、身だしなみだけはいつまでたっても完璧にならないわね」

「おっ…お言葉ですが、服装は気をつけておりますし、最近は誰にも咎められたことはありません」

「兵士としてではありません。女性としてです」

「女性として……?」

「私の側に立つならば、衆目にその身を晒すことも多くなります。私専属の騎士なのですから、それなりに華がなければなりません」

「…………」

 カリアは返事に詰まる。

 こう言っては何だが、自分は「女性」ではない。

 騎士団に女は数えるほどしかいない。イオンハブス軍の中でエリートとされる騎士団員二百余名中、自分を含めてたった三人だ。その中で私は、女として意識される事の無いように努めろと厳命されてきた。オスの巣の中にメスが放り込まれるのだ、無意識でも何らかの動揺を招く。「女性」として扱われたとき、お前の騎士としての人生は終わると思え―――そこまで言われた。

 だから勘違いした男が求愛にきたとき、全て剣で打ち倒した。同僚だろうが上官だろうが返り討ちにした。最初は「女に負けるなんて」と男が笑われたが、それもいつしか「カリアだから勝てない」に変わっていった。思いがけない事だったが、そうして男に勝ち続ける事によって、ようやく認められるようになったのである。以来、自分は「女性」であることはないと、心に決めたのである。

 それなのに、だ―――。

「あなたは元々綺麗なのですから、きちんと手を入れれば美しく輝きます」

 正面に回ってきた姫様が前髪を優しく撫でつけてきて、目線を上げられない。

 私に求愛した男は皆、同じように私を綺麗だと……もっと凝った言い回しで褒めちぎってきた。いい気になることはあったが、心を動かされる事はなかった。なのに、どうしてこうも心がぐらつくのだろう? 

「右腕の具合はどう?」

 答える間もなく姫様に右腕をとられる。白い右手が手首を軽く握り、左手の細い指先が傷を撫でて――……

「っ――!」

「ごめんなさい、痛かったかしら?」

「い、いえ…」

 痛みよりも、触れられたのが、なんというか………ああもう! 何を動揺しているんだ私は! 冷静になれ!

「き…傷は問題ありません。痛みは少しありますが、ちゃんと動きます」

「完治するまでは無理に動かさないほうがいいわ。まだわずかに血が滲んでいます」

「大丈夫です。いざとなれば左腕一本でも戦えます。私、元は左利きでしたので」

「左利き? だからあのような技を使えたのね」

 「あのような」とは、ミオを撃退したときのことだ。鉄拵えの鞘を左手に持ち、奇を衒った一撃を食らわせたのだ。

「騎士団剣技においては好ましくないのですが、グラード隊長の勧めで独自に訓練していました。特注の鞘も、許可をいただいたものです」

「そう。頼もしい限りだわ」

「いえ、そんな…」

 正面きって褒められたのは初めてではないだろうか? 照れてしまう。

 その間にアルタナディアは新品の包帯でカリアの右腕を巻いていく。丁寧で、どこか馴れた手つきだった。

 変な感じだ。町での動きも迷いが無い。姫様はずっと城の奥でひっそりと過ごしておられたのだと思っていたが、案外そうでもないのだろうか。

「ところで、私の呼び方についてなのだけれど」

「はい…」

 ……忘れていた。

「あなたには兄弟がいたわね」

「はい。まだ幼いですが、弟と妹が一人ずつ」

「それでは、私はあなたの妹ということにしましょう。私もこれからはあなたを姉と呼びます」

「ええぇっ!?」

 姫様が、私の妹!?

「あなたの方が一つ年上なのだから、当然でしょう」

「でも、やはりそれは抵抗を感じるのですが…。せめて逆のほうが」

「それで貴女が私を目上と認識すれば、無意識に王女として扱いかねません。あなたの正直なところは好ましいですが、真っ直ぐ過ぎるきらいがあります。この際、関係性を逆転させるのが一番いいでしょう」

 そうは言われても……。

「では、私はなんとお呼びすれば?」

「下手に名前を変えるとボロが出かねないでしょうから…………そうですね、ナディアと呼びなさい」

 アルタナディアの下半分で「ナディア」か。「アルタナ」でないのは、やはりバレーナを意識しているからか……。

「呼んでみなさい」

「はい……えと……ナディア、様」

「……カリア」

 姫様が溜息をつく珍しい場面を目撃したのは………もちろんいいことではない。

「へりくだってどうするのです。あなたは姉なのですよ。しっかりしなさい」

「はい…」

 とはいえ、どう客観的に見ても姫様のほうが姉役にピッタリだ。私の方が年上だとか背が高いとか、関係ないと思うのだが。

 ともかく慣れなければ………いや、慣れなくてもきっちり役割をこなせなければ。これからの姫様の安全にかかわる。

 少し深く息を吸って……気合を入れて―――!

「…ナディア」

 ものすごく小声だったが、

「はい、姉さま」

「――――」

 喉を鳴らしてしまった。姫様は別ににこやかだったわけじゃない。単に返事しただけだ。ただいつもの威圧感がないだけなのに、どうしてこんなにも可愛らしく見えて――

「姉さま?」

「いえっ、何でもありません…………あ!」

 自らの愚かさに思わず顔を背けてしまい、

「カリア…」

 さすがの姫様も、目元が苛立っていた……。



 それでその日は就寝した。ベッドは少し軋むが、こんなものだろう。布団はカビ臭くないし、宿のランクを考えれば上々だ。城のベッドと比べれば雲泥の差だが、カリアの実家も騎士団寮もこんなものだった。カリアにとっては日常なのだが―――唯一、隣でアルタナディア姫様が眠っているという非日常がある。

 結局のところ、姫様が何を考えているのかはわからない。あのミオの言うことじゃないが、主の意向を理解できない私は従者として失格なのだろうか。こういう状況になって初めて不安になってきた。

 身を起こし……しばらく迷ったが、声をかけてみる。

「姫様、起きてらっしゃいますか」

「………何ですか」

 アルタナディアはカリアに背を向けて横になっている。そのまま振り向かず、静かな返事だけ聞こえてきた。

「あの……私は、その……姫様は私に女性としての意識を持てと仰いましたが、それでは兵士として強くはなれないのではないでしょうか。私は騎士になるために自分が女であることを捨てるように指導され、私自身もそう在るべきだと納得して今までやってきました。姫様の仰ることを否定するわけではありませんが……」

 不安なのだ、とは言えなかった。それこそ姫様を不安にさせてしまう。

 しばし沈黙の後、アルタナディアのほうが口を開いた。

「女性であることが弱いというのであれば、バレーナも弱いと?」

「あ……」

 バレーナ王女。絶大なカリスマを誇るエレステルの君主。文武に長けた漆黒の姫君。その身に猛々しいオーラを纏っているが、決して女性らしさがないわけではない。いや、むしろヒシヒシと感じるほどだ。口調こそ王のそれだが、声音は聞き惚れるほど艶やかだし、完成された肉体のラインを強調するドレスも実によく似合っている。その振る舞いは高貴であり、されど艶めかしくもある。女性としての自己を存分にさらけ出しているのだ。

「ただ実直に剣となり、盾となる……それは兵士として正しい姿だと私も思います。しかしそれだけではバレーナには、王には勝てないのです。あなたが私の剣であることを自負するのならば、鋭いだけではいけないのです。幾重にも厚みがなければすぐに折れてしまいます」

 その剣になる覚悟があるのかと、姫様は問うてこない。なぜ? 私には期待していないのか?

「……私も未熟なのです」

 ぼそりと、独り言のように聞こえた。その言葉の意味は………後悔に決まっているだろう。城を抜け出し、国を置き去りにしてしまった自分に対する後悔。ひょっとすると………懺悔しようとしているのかもしれない。

 だからそれ以上は、カリアも何も口にしなかった。不安を訴える事は、姫様にとって何よりも苦痛のはずだから。


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