アルタナディア姫が十七歳になり、その四日後――。(3)


 アルタナディアは一人、自室に戻らされていた。

 城内での行動はエレステル兵の監視の下という制約がついていたが、アルタナディアにとっては別段どうということはなかった。王族の行動は敵味方問わず、常に人目に晒されているといってよい。その目が誰に取って代わろうが、関係のないことだ。

 夜も更け、城の中は嘘のように静寂だった。一時間前にテラスから見た城下は忙しなく灯りが走っているのが見えたが、今はもうそれほどでもない。たまにはぐれた蛍のように流れていくのがあるだけだ。

 先ほどまでドアの前にはメイドの他にエレステルの兵士もついていたのだが、今はいない。人払いされていた。正面に座るバレーナによって。

 灯りを点さず、差し込む白い月明かりだけだが部屋を照らす中………白いドレスのアルタナディアと、黒いドレスのバレーナは、小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。

 二人の間に言葉は無い。アルタナディアは真っ直ぐ椅子に腰掛けて目を伏せ、寝ているのかと思えるほどに静穏としていた。そのわずかな呼吸に聞き入るように、バレーナはアルタナディアをじっと見続けていた。白い人形に魅入られたように――………。


 …………どれほどそうしていただろうか。


「アルタナ…」

 昼間とは違う柔らかい声に、アルタナディアは目線だけ上げた。

「二年見ない間に、さらに綺麗になった」

 バレーナは目元をわずかに細めてそう言う。

「姉上は艶やかになられました。会場でお姿を見た瞬間、私は心を奪われました」

 思いもよらないアルタナディアの返礼にバレーナはわずかに驚き、笑う。

「口が達者になったな。口数は相変わらず少なそうだが」

「姉上とお話ししたいことはたくさんありました。ですが、それは全て叶わなくなりました……」

「……………」

 頬を撫でにきたバレーナの手を避けるようにアルタナディアは席を立ち、静かにテラスに出て行く。バレーナも追った。

 その白い身に月光を浴びるアルタナディアは、光に紛れて消えそうなほど儚かった。

 美しい………。

 神々しいほどの姿に意識を呑まれたバレーナは思わず手を伸ばす。しかし明確な拒絶をもって払いのけられる。

「そのような顔で………私に触れないで下さい」

 アルタナディアが苦しそうに奥歯を噛んだのがわかった。もう駄目なのだ。ただのアルタナと、ただのバレーナにはなれない。

「……アルタナ」

 バレーナはそっと、しかし固い声で名を呼んで、アルタナディアを見詰めた。アルタナディアも向き直り、バレーナの瞳を見詰め返す。じっと………じっと…………言い聞かせるように…。

 やがて半歩踏み出したバレーナが冷たく言葉を紡ぐ。

「抵抗も屈服もしないということがどういうことかわかっているのか、アルタナ」

「私は貴女と争うことはしません。ですが、降伏することもできません。私が自ら玉座を降りることは、民に対して、国に対して、そして我々の祖先に対する裏切りです」

 バレーナは口元をわずかに歪める。アルタナディアの決断は聡明な選択ではない。

「敗北は認めるが降伏はしない、か。そのような戯言が意味を成すと思うのか。お前は私に蹂躙され、甘んじて受けるというのだぞ」

 少し荒い手つきで頬を撫でるが、今度は抵抗しなかった。宣言通り、アルタナディアはされるがままであることを受け入れているのだ。バレーナの指が首筋を滑り落ち、ドレスの上から身体の線をなぞっても……。

 敗北は認めるが降伏はしない―――国は負けたが、王女である自分は戦う姿勢を放棄しない。アルタナはそう言った。国の頂点である自身だけが抗う意思を示し、そして討たれる事で、武力のない自国に無駄な犠牲が出る事を避ける。それがアルタナが選んだ、王権を担うものとしての責任の果たし方。ならば差し出されたその身はエレステルのものであって、バレーナ個人のものではない。それは理解している。理解している、が……。

 バレーナの指が腰をなぞっても、アルタナディアの瞳は一瞬も揺らぐことはない。〝敵〟の腕がその身を侵しているというのに――……。

 バレーナの心は迷走していた。昼なら迷いはなかったはずだ。あのままアルタナディアを刺し貫く事もできた。だが今は……。

 左足を一歩踏み出す……。二人の間に残された薄皮一枚分の空気はむせるほどに濃く、心身の余裕を奪う。

 さらに右足を、アルタナの両足の隙間に割り込ませるように半歩踏み込む…。最初に脚が、追って腰から上がピタリとくっついて、ドレスのレースが擦れ合った。微かな息遣いが聞こえるたびに、重なった胸元にわずかな重みを感じる。アルタナディアは二年前より背が伸びたらしく、首を傾けると鼻先が触れ合いそうで………それでもアルタナは動かない。抵抗しない―――。

「…いいだろうアルタナ、私がその身に刻んでやる。お前の選択がどのような結果をもたらすのかを」

 低い声音と硬い口調は誤魔化しに過ぎなかったが、バレーナはもはや気にするのを止め、情動のままにアルタナディアを抱きしめた。

 求めるものはもう手に入らない。自分がそれを決定付けた。ならばいっそ……。

 細い腰に腕を回し、ぐっと抱き寄せる。プレイバックされるあの日の情景………そっと抱き返してきたアルタナの細い腕は、今日は応えてはくれない。だからバレーナはアルタナディアの分も抱く。狂おしいほどに強く抱く。白い肌を這い、絞め上げる己の腕はまるで蛇……そうだ、これまで眠っていた蛇のような厭らしい情念は、すべてこの時のためだったのだ。

 落ち着きをなくしてしまった吐息をアルタナディアに塗していると、アルタナディアの息もまた震えていた。雪原のような肌がうっすらと赤みを帯びているのがわかる。ドクンと胸が鳴り響いて、最後の理性が弾け飛ぶ。わななく指先が肌に爪を立てた、その時――――!

「貴様っ……アルタナディア様から離れろ!!」

 突如ドアを破って飛び込んできた者がいた。式典会場で刃向かってきた女、アルタナディアの近衛兵・カリアだった!

「姫様に、なんて破廉恥な…!」

 カリアが包帯を巻いた右手で剣を向けてくるが、それよりも敵意むき出しのその目にバレーナは怒りを覚えた。かけがえのない密事を邪魔した分際で正義の味方気取りなのだ。湧き上がる黒い感情は、苛立ちを超えて憎しみですらある…!

 身の程知らずを叩きのめしてやろうとバレーナがカリアに足を向けたとき、アルタナディアの強い声が割って入った。

「下がりなさいカリア。大事な話をしているのです。ここに入ってはなりません」

 アルタナディアの手がバレーナのドレスを後ろから掴んでいるが、それはカリアからは見えない。

 手を出すなという意図を察したバレーナだが、黙っては引き下がれなかった。

「場の空気を読め、三下め。何をしていたのかわからんのか?」

 バレーナはアルタナディアの後ろに回って覆い被さるように抱き、まさぐるように胸から腹へと手を這わせる。思いもよらぬ行動にさすがのアルタナディアも驚き、小さく呻きを漏らして身を捩った。その媚態にうっかり見入ってしまったカリアは唇を噛んで、咆えた。

「ひっ…姫様から手を離せ、下劣な魔女が! この場で叩き切ってやる!」

「下劣な……魔女……!?」

 バレーナの目元が一層険しくなる……。

 と、バレーナの右腕が引き付けられる。見ればアルタナディアが両手で、自らの胸元に押さえつけるように手首を引いていた。バレーナとカリアを対決させまいとしているのだ。目元は伏せているが必死なのだろう、かなりの力だ。

 振りほどくのは簡単だが………。ふと思いついて、バレーナは押さえつけられている右腕の掌で、アルタナディアの胸の膨らみを撫で上げた。

「っ……」

 白い肩がわずかに揺れたが、黒い手は動きを止めない。ちらりと目を向けると、カリアが動揺しているのが見える。

「姫様…!?」

 余裕のある手先の動きを見れば、アルタナディアが腕を剥がそうとしているのではなく、自らに押し付けているのがわかるだろう。カリアからすれば、アルタナが恥辱を甘受しているように見えるのだ。

 これは傑作だった。アルタナが自分のために恥を晒しているとも知らずに………つくづく愚かな奴だ、このカリアという無作法者は!

 一通り背徳的な行為を愉しみ、怒りを静めたバレーナは、ドレスにつけていたアクセサリーの一つを外して、吹いた。

「……!?」

 それが銀の笛らしい事はわかったが、音は鳴らなかった。だが「奥の手」があるだろうことはカリアも承知している。仲間を呼ぶための合図ならば……!?

 カリアはすぐさま自分が入ってきたドアの脇に移動した。部屋に飛び込んできたところを叩く狙いだ。

 しかし―――

「バレーナ様、何が……あ!」

 バレーナの背後に現れたミオは、カリアの姿を確認した瞬間に腰の短剣に手をかける。対してカリアは出遅れた。まさか三階のテラスから入ってくるとは思わなかったのだ!

「取り押さえろ。ただし殺すな」

「御意っ…!」

「チッ……くそ!」

 破れかぶれで突進してきたカリアの一撃をかわしたミオは、短剣の柄尻でカリアの右腕を素早く打つ。軽い一撃だが、負傷している腕には十分効いた。続けざまに顎に掌打を食らってカリアは簡単に組み伏せられた。昼間の再現である。

「大した実力もないくせにバレーナ様に剣を向けるとは、痴れ者め……!」

 ミオがカリアの首に刃を当てる。

「ミオ、そのまま押さえていろ」

「はっ…!」

 反射的に応えたものの、ミオは指示の意味を量りかねていた。そもそも状況がよくわかっていない。アルタナディアとカリアが二人がかりでバレーナ様を襲ったが、取り押さえたアルタナディアを盾に膠着状態だった……と頭に浮んだが、そうではないようだ。アルタナディアには敵意が見えない。反抗する意思が感じられない。

「さて……カリアといったな、出歯亀。貴様も知るがいい、敗者の末路を」

 次のバレーナの行動にカリアは―――ミオでさえ息を止めた。

 バレーナの腕が正面から抱きしめるようにアルタナディアの背に回り、純白のドレスを掴むと、ゆっくりと引き裂いていく。降り注ぐ月光の下で暴かれた背中はまるで蝶が羽化するように幻想的で、毅然としていたアルタナディアのものとは思えないほど悩ましかった。

 そのままアルタナディアをテラスから部屋へと押しやり、奥の大きなベッドへと突き飛ばしたバレーナは素早く覆い被さり、両腕を取って自由を奪う。破られて緩んだドレスの胸元からは柔らかな膨らみが半分覗き出している。さすがのアルタナディアも羞恥に顔を歪めるが、正面から向き合う事はやめない。

 バレーナは一瞬だけ哀しげに目を細めると、アルタナディアの首の傷に口付けた。式典会場で自分が付けたものだ。今はもう針の穴ほどの赤い痕しか残っていない。

「は……」

 バレーナは舌を這わせる。傷を舐め取りながらも熱く息を吹きかける。身体を強張らせ、呼吸すら噛み殺そうとするアルタナディアの肌はうっすらと汗ばんでいる…。

 一方で――完全に蚊帳の外に追いやられたカリアとミオは、ただただ呆然とするしかなかった。齢十五のミオはもちろんのこと、十八のカリアもひたすら剣術に打ち込んできた身だ。色事には未だ縁がない。とはいえ、薄闇の向こうで折り重なる影が何をしているのかは想像がつく。だが、状況についていけないのだ!

「あッ―――」

 突然の嬌声にカリアは我に返った。

 何だ今のは!? 今の声は姫様なのか!? 常に清廉潔白であり、気品に満ちたアルタナディア様が――――

「っ……あっ!? くぅっ……あ、ああ…ッ!」

 アルタナディアの声が上がるごとに、ベッドの上の影が揺れる。具体的に何をされているのか、ここからでははっきりと見えない………知りたくもない!

「貴様っ……貴様ぁっ!」

 暴れ出したカリアをミオが慌てて押さえ込む。

「このっ……動くな!」

「放せっ! 姫様が辱めを受けているのに黙っていられるかぁっ!」

 怒りに震えるカリアにミオは力を緩めてしまった。バレーナが今のアルタナディアのように恥辱を受ける場面を想像してしまったのだ。

 圧し掛かるミオを振り落としたカリアは、一直線にベッドへ駆ける。

「姫さ―――!」

 いつの間にか、ベッドの前にはアルタナディアを隠すようにバレーナが立っていた。一瞬戸惑ったカリアが牙を剥く前に、バレーナが平手で殴り飛ばす。容赦ない一撃にカリアはしりもちをついた。追って、ミオがバレーナの前に滑り込む。

「バレーナ様、申し訳ありません…!」

「いや……軟膏と絆創膏を出せ」

「は…⁉ お怪我を…」

「出せ」

バレーナの語気は有無を言わせない。

 ウエストポーチに手をやりながら、ミオはバレーナを観察した。どこか怪我をされたのか? 見る限りでは異常は確認できない……いや、異状はあった。    手で口元を拭うバレーナは息を荒げ、頬を赤く火照らせていた。剣技訓練の直後に似ているようで違う。目の輝きが違うのだ。それはバレーナが誰にも見せたことのない表情―――ミオが見てはいけない顔なのだ。

 ミオがバレーナと視線をずらしながら指示されたものを手渡すと、バレーナは片手で受けとったそれらをベッドへと放り投げた。

「アルタナ……」

 普段のバレーナとはまるで違う切なげな声を、ミオは聞いてしまった。

「……戻るぞ」

 部屋を後にするバレーナ。ミオも、カリアとその向こうのアルタナディアの影を一瞥してから後に続く。

 先程までのことが嘘のように部屋は静寂に満ちた。しばし茫然としていたカリアだったが、床に転がる自分の剣に目が留まった瞬間、怒りが爆発した。

「アイツらっ……殺してやる!」

「やめなさい!」

 剣を手に取って飛び出そうとした背中をベッドからの声が引きとめる。

「しかし姫様―――!」

「やめなさい…!!」

 強い口調に振り向いたとき、暗がりの中の主君が自らを抱き、声を殺して涙しているのを知った。だがカリアは慰めの言葉をかける事も、握った剣を手放す事もできず………アルタナディアの胸元に血が滲んでいたのに気付く事すら、できなかったのだ。


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