第51話 日常、変わりすぎなんだけど!
カーテンの閉まった四畳半の部屋の中に、目覚まし時計がピッ、ピッと音を鳴らす。ベッドに眠っていた少女は、三回目の電子音が鳴る前に、時計の頭を叩いた。
「んー!今朝もいい気分!」
その茶髪の少女は、すっとカーテンを開けると、朝日が部屋に差し込んでくる。軽く腕を上げて伸びをして、部屋の扉を開けた。
しっかりとした足取りで階段を降りていった彼女は、パンをトースターに入れると、椅子に座ってコーヒーを淹れ始めた。ぽたぽたとドリップが落ちていくにつれて、香りが目覚ましい高揚感をもたらす。白いカップに注がれたこげ茶色のコーヒーを、少女はゆっくりと味わう。実に優雅な朝のひとときである。
「おはよう、ゆい。いつも早起きでえらいわね」
このリビングに、その少女ゆいによく似た女性が、眠さに目をこすりながら入ってくる。彼女はコーヒーを口に含んで、ぼんやりと目をぱちぱちさせていた。まだ頭が回っていないようだ。
同時にゆいはコーヒーカップを置くと、キッチンに立って料理を始めた。とはいっても、複雑なものではなく、ただスクランブルエッグとベーコンという、シンプルなものである。ゆいはフライパンにベーコンを並べながら、片手でボウルに卵を割りいれていく。塩コショウをぱっぱと入れて、溶いた卵をフライパンに流し込む。
実に手際よく準備を進めていると、トースターがチンと鳴った。ゆいは冷蔵庫からジャムを取り出して、そしてちょうどできあがったスクランブルエッグとベーコンを皿に並べた。あっという間に、3人分の朝ごはんが食卓に並んだ。
「なんだ、今朝はゆいがごはんつくってくれたのか」
そこに、ゆいの父も起きてきた。全員がそろったところで、湯気がもくもくと上がる温かい朝ごはんを食べはじめる。両親と子、3人家族のささやかな
「あんまり上手にできなかったんだけどねー」
ゆいは謙遜しているが、まろやかなスクランブルエッグも味わい深いベーコンも、至福の朝食といえよう。一般家庭にある素材でぱぱっと作ったとは思えないくらい美味であった。
「ゆい、いつの間にこんなに料理上手になったの?お母さんとってもうれしいわ」
「これだけおいしかったら、どんな男でも胃袋わしづかみだな」
これまでは料理が上手とは言えなかった娘の成長に感動するゆいの両親。そんな二人を、ゆいはすこし後ろめたさの潜む目で見ていた。まぶしい朝日が、ゆいにだけは暗い影を落としていた。
***
「はあ、やっぱりお母さんとお父さんには言ったほうがいいよね……」
通学の列車の中で、ゆいはひとりため息をついた。通勤通学の人たちでいっぱいの満員電車に、ゆったりと座りながらゆいは悩んでいたのだ。
ゆいは、異世界から帰還したあと、あの世界での出来事を両親に話せずにいた。召喚されていろいろあったということは伝えたが、さすがに自分やクラスメイトの数人が人外になってしまったということは、簡単には言えなかった。最悪の場合、娘が強大すぎる化け物に変わったことに絶望して、自殺しかねないのだ。
そういうわけでゆいは、なるべく人間らしく振舞っていた。今のゆいには日常生活を送る必要などないのだが、両親に笑顔でいてほしかったのである。そして何より、ゆいもまた、人間らしい生活を楽しんでいたのだ。
ガタンゴトンと揺れる列車の中でしばらく考え事をしていたゆいは、近くにいた男子学生と目が合ってしまった。しまったという顔をしたゆいだが、ちょっと遅かった。
「あのっ、僕と、結婚を前提にお付き合いをしてください!」
その男子学生は、いきなりゆいに告白をしてきたのだ。当然、周囲の人々の視線が彼とゆいに集まる。しかしゆいは、あちゃーと天を仰いだだけだった。
「あー、ごめんなさい。なんというか、いろいろと」
ゆいが答えた瞬間、周囲の視線が、まるで物理的に切られたかのようにばらばらにゆいたちから外れた。その男子学生は恐怖と崇拝の入り混じった表情を一瞬だけして、それからまた何事もなかったかのようにゆいから離れていった。この超常的な現象を引き起こした本人のゆいは、窓に自分の顔を映して、その美貌にため息をついた。
「どうして魔女はこんなに美人になっちゃうんだろうね」
人間がゆいのすっぴん顔を見てしまえば、ほかの何にも興味を持てなくなるほど、強烈にゆいのことが好きになってしまう。それほど、ゆいの容貌は人知を超えていた。ゆいは、目を合わせたせいで価値観の基幹が歪んでしまったあの男子学生をあわれんで、ちょっぴり幸運になるように運命を操ったのだった。
列車は昨日と同じ景色の中を、昨日と同じように走っている。しかし、そのうちの一つの車両には、ただ茶髪の少女だけが乗車していた。ほかの乗客は、すでに隣の車両に動いてしまった。そのことを不自然に思う人間は誰もいない。ゆいは、誰もいない車両の中で、ひとり思索にふけるのだった。
***
学校に着いたゆいは、教室に先についていた灯里と千晶に愚痴を垂れる。
「おはよう、ゆい。どうしたの、浮かない顔をして」
「灯里さんや千晶ちゃんは、両親に自分の正体を明かすつもりはないんですか?」
「言っても混乱するだけだろうからね。今の関係が崩れるより、秘密にしておいたほうが無難だと思ってるかな」
「わたしも内緒にしてるよ~。バレたときはそのときだね~」
灯里も千晶も、自分が魔女の眷属に変えられてしまったことは家族にも隠しているらしい。まあ、いきなり娘が「人間やめました」なんて言ってきても反応に困るし、知ったところでどうしようもない。
「普通はそうですよね。でも、黙ったままでいるのも心が痛んじゃって」
「ゆいちゃんはどうしたいの~?魔女なんだから、思い通りにすればいいよね~?」
「わたしの力を明かすんならそうしてもいいんですけど、ちょっと決めきれていないんです。さすがに勝手に心を操作するよりは、ただ黙っているほうがいいですし」
ゆいは魔女なので、やろうと思えば大概のことはできてしまうのだ。だからゆいが悩んでいるのは、どんな結末が理想的かということである。ゆいにとっては、自分の行動に対する両親の心の動きを推測することさえ容易なのだ。
「まあ、僕たちに対する奇異の目もなくなったから、ちょうどいい時期なのはわかるけど。だったら納得いくまで考えればいいんじゃないかな。一年でも二年でも」
「そう、結局はわたしの選択の問題でしかないんですよね。今日の昼にでもほかの人に相談してみますか」
そんなこんなでゆいが内心をぶちまけてすっきりしたところで、星奈と勇が教室に入ってきた。
「ゆいちゃんたち、何話してんの?あたしも混ぜてほしいじゃん」
「星奈さんには縁のないことですよ。それより二人とも早いですね」
ゆいが自分のほうが早く来ていることを棚に上げて尋ねると、勇が答えた。
「今日から部活の朝練が再開するんだ。俺も星奈も、部のエースだからな。そんなゆいは帰宅部だろ?なんでこんな朝早くに来てるんだ」
「家で寝ていてもしょうがないじゃないですか。それよりは学校でおしゃべりでもしていたほうがいいですから。これでも、始発から一本遅らせたんですよ」
「ゆいは本当に律儀だよね。わざわざ鈍行列車に乗るなんてさ。僕は遅さに耐えられなくなって歩いてきちゃったよ」
「電車は遅すぎるよね~。三輪車のほうがまだ早く着くよ~」
あまりにも感覚が違いすぎるゆいたちの発言に、勇が思わずツッコむ。
「おかしいだろ!確か灯里は学校から電車で30分以上離れていたはずだよな?」
「いやまあ、あたしたちがあっちの世界を歩き回ってたときは電車よりちょっと遅いくらいのペースだったし?」
星奈がゆいたちの方を持つ。当然である。星奈は今でも魔力を残しているし、車より速く走るくらいはできるのだ。そして星奈は、自分が頑張ればできることは魔女たちにとってはとても簡単であることを理解していた。ただそれだけのことである。
しかしながら、人間に戻った影響で魔力がなくなった勇は、ゆいたちの旅の内容も知らなかった。ゆいたちが人間をやめたことも、わかっていなかったのである。
「あの世界ならともかく、この世界では魔法が使えないじゃないか!なんでその常識で話すんだよ!」
「お~、いいツッコミだね~!」
呑気に答える千晶と、顔を見合わせる灯里と星奈。しかしそこに道子先生が入ってくる。
「みなさん、早いですね!早起きは三文の徳と言いますし、これからも続けてほしいものですね!」
あっけにとられるみんなの裏で、ゆいが糸を引いていたことに気づいた人はいなかった。
***
「それで、テヴァさんやリュミさんはどう思いますか?」
その日の学校の昼休み(に対応する時刻)、ゆいは『森の魔女』テヴァの住む木組みの家で、テヴァや『天空の魔女』リュミとともにお茶を楽しんでいた。
ゆいは、自らの魔女としての力をもってすれば、世界の間を飛び越えることも簡単であった。近所のコンビニに行くより気軽に、魔女たちに会いに異世界に行くことができるのだ。この世界から帰還するときになにやら大掛かりなことをしたのは、単に生身の人間を運ぶのが難しかっただけである。
「思考や記憶を改竄すればすむことに、妙なこだわりを持つのね」
テヴァは魔女らしく人間の人格とか気にしない感じの思想のようだが、リュミはそうでもなかった。
「ゆいちゃんのその気持ちわかるよ。わたしもパパとママをどうするか悩んだからさ。わたしの場合は結局眷属にしたんだけど、それがゆいちゃんにとっての正解とは限らないもんね」
ゆいは、やっと共感を覚える相手を見つけて、聞きたかったことを聞いた。
「リュミさんは、どういう基準でそうすることを選んだんですか?」
「ずっと一緒にいたかったから、かな。すでに精神に影響を受けていたから、あまり躊躇することもなかったっていうのもあるけどさ」
「へえ、そうなんですか」
ゆいは、リュミの話を聞いて、ようやく自分の考えがまとまったようだ。
「わたしは、お父さんにもお母さんにも自由でいてほしいなっていう気持ちが強いみたいです。だからそこに価値を置いてみることにします。なんというか、つまらない愚痴に付き合ってもらってありがとうございました」
「解決したのね。それならよかったわ」
そのままゆいは、ぱっと姿を消す。そしてちょうど昼休みの終わった教室に、ゆっくりと歩いて入ったのだった。
***
「どうしたんだ、ゆい。なんだか深刻な顔をして」
ゆいは、夕食の席で、親に向かって話を切り出した。
「実はわたし、異世界に行ったときに、魔女になっちゃったの。もうわたしは人間じゃないんだよ」
直球のゆいの言葉に、彼女の両親は混乱を示す。
「何を言っているの?今朝も普通に暮らしていたじゃない」
「でももうわたしには寿命はないし、それに絶対的な力を持ってるんだよ。例えば、お父さんが今日早く帰ってこられたのも、わたしが操ったからなんだよ」
ゆっくりと、落ち着いて話すゆい。それに対してゆいの父は、真剣な顔で尋ねる。
「それは本当なのか?お父さんたちをからかったり騙そうとしているんじゃないんだな?」
「本当だよ。わたしはこの世界を思うがままにできるし、世界を飛び越えることだってできる。それにわたし、最近眷属を作ってみたんだ」
次の瞬間、食卓の上の食器がきれいに片付けられていた。そしてゆいの後ろには、黒いゴスロリ服の、人形のような少女が立っていた。そんなものを見せつけられては、ゆいの父は笑うしかなかった。
「ははは。これは参った。子はいつか親離れするものというけれど、まさかゆいがここまで成長するなんてな」
ゆいの母は、泡を吹いて気絶していた。ちょっとデモンストレーションが派手すぎたらしい。まあ、意識を失ったほうが精神的なショックは薄れるかもしれない。
「お母さん、起こしたほうがいい?」
「いや、構わないよ。このまま寝かせてあげよう」
ゆいの眷属の少女がゆいの母の体を丁寧に抱き上げ、寝室へと運んでいく。それを見送ったゆいは、父親に一杯のお酒を注ぐ。そしてゆいのグラスにも、琥珀色の液体が満ちていた。
「あと十年くらいはここで人間らしく暮らそうかなって思ってるから、それまでは家族として前みたいな生活ができるとうれしいな」
「だいたいそれくらいの年になれば、独り立ちするものだろう。お父さんとしてはむしろうれしいくらいだよ。欲を言えば、そのあとも一年に一回くらいは顔を見たいけれどね」
「しょうがないなー」
父と娘は、乾杯を交わす。ゆいは、家族との平穏な日々を失わずに、両親に秘密を明かすことができたのだ。そのどこまでが計算の上だったのかは、ゆいのみぞ知る。
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