8-6

 壁に立て掛けて置いてある手作り感満載の手持ち看板、悪ノリで行くところまで行ってしまった中途半端な仮装、最後まで校内を駆け回って準備に勤しむ人もいれば、友達とどこを回るかの議論に花を咲かせる人もいる。校内はすでに祭りの熱気を擁して、うろうろ歩いてるだけで気もそぞろになる。無論これは、日本人に刻まれたハレの日に反応する遺伝子がうずいてるだけじゃなくて、縁佳と一日を共にできるという奇跡からも来ている。というか、私はそうとしか認識してない。カレンダーに予定を書き込むとしたら、縁佳とデートって書く。


 縁日風に屋台が並ぶ道を通り抜けて、土足で上がれるようシートが敷かれた体育館に到着する。ちょうど縁佳が開会の言葉をのたまってた。それを確認したら、開会式に参加してる先生方の列の前を通り抜けて、舞台裏にさも係の人のように忍び込む。


「よすがー!」

「んがっ、もう来たの……?」

「今日から二日間、不束者ですがお世話になりますっ」

「お世話しなきゃいけないの?」

「まあまあ、そう気怠そうな顔しないー。しまちゃん、脳の血管が破けるんじゃないかってぐらい、文化祭を楽しみにしてたんだから」


 舞台袖特有の暗がりから、藪から棒に明世が現れて、縁佳のアンニュイな表情を前のめりに覗き込んだ。


「楽しみにしてたのは文化祭ではなく、文化祭を大義名分としたデートでしょ」

「そうですデートですデート」

「二度も言わんでよろしい」


 しかし、縁佳のほうからデートって形容してくれるとは。なんだ、少しは素直になれるじゃないか。


「思う存分楽しむんだよー」

「楽しめるわけないない。遠くから来た、小学生ぐらいの従姉妹の面倒を見てきなさいって頼まれるようなものなんだから」

「私はしまちゃんに言ったの。なんてったって、私はしまちゃんの味方ですから」

「じゃあ私は楽しくなくていいってこと」

「安心して、縁佳のやりたい事、やらなきゃいけない事、それが最優先だから。私は添えるだけ、付いていってリアクションを取るだけだから、絶対楽しいから」

「それはそれで、鬱陶しいかもな……」


 鬱陶しいとか目障りとか目の上のたんこぶとか罵られたところで、私の感情は何も揺らがない。そしてそれは、縁佳もよく理解してる。そんないびつな信頼関係だけが、日に日に肥大化していく。


 明世に見送られる形で、私たちは体育館を後にした。まだ短針と右向きに取ったx軸のなす角が、35π/36な時間なので、それはもうたっぷり遊べる。そう、現状を悲観するより、今を思いっきり楽しむべきだ。幸いなことに今の私は、いつも煩わしかった緊張とか余計な謙遜とか病的な胸の高鳴りとか、そういうのがあまり気にならない。縁佳が隣にいて、縁佳とお喋りできて、縁佳と同じ空気を吸ってるということを、全身の細胞が生き生きとして楽しんでるという感覚だけが研ぎ澄まされて、でも結局、幸せのオーバードーズなのは変わらない。


「それにしても、本気で付きまとうつもりだったのね、こんな朝っぱらから」

「そりゃあデートですから、デートの日に予定を空けるのは当然でしょ?」

「一生に三度しかない文化祭を、そんな風に消費するなんて、気が知れないわ」


 昔の自分なら、委縮させられて何も反論できなるような、突き放したような言い方と一瞥が飛んでくる。でも、今はそれすら美しいと感嘆すらしてしまう。少しは成長したのだろう。縁佳もそれを認めてくれるようで、対等に話せているような気がして、だからこそ、最近妙な落ち着きを覚えてるのかもしれない。


「自分をこんなに好きになってくれる人なんて、一生に一度も出会えないかもしれないのに、全く興味を示さないなんて、気が知れないわーなのだー」

「凄い笑顔ね、さっきから。人が尻尾を持ってない理由はこれか」

「一緒にいられるだけで幸せだもん」

「悪寒がするから、あんまり愛を囁かないでもらえる?」

「好きになっちゃったんだから、無理」


 私たちが並んで歩く姿、他の人の目にどう映ってるのだろう。片方はお気楽で自由闊達に感情豊かで、でもたまに食べ物に目移りして、もう片方はつんけんとして隣の人の顔をあまり見ようとしなくて、ただ前を向いて歩くだけ。仮に素面に戻れたとしたら、とてもデートな雰囲気とは思えないだろうな。


「へいへい!そこのお嬢ちゃんたち!朝飯にしぐれ焼きはいかがかい!麺を入れるのを忘れちゃったから、タダでいいぜ!」

「おい元カノ焼かれてんぞ……あー朝からがんがん食べる感じね、いつも通りで安心安心」


 しかし麺抜きだと、しぐれ焼きの最低要件を満たしてない気もするけど、フードロスは減らしたほうがいいので食べてあげることにした。ちょうど朝ごはんが消化されきって、お腹空いてたし。


 その呼び掛けに応じて、はちまきを巻いて気合だけ十分な露崎から失敗作を受け取る。そして道の端によってから、すかさず食べ始めた。箸で割ると湯気が立ち上って、底面は触り続けられないほど熱い。多少無理をして口に運ぶ。うむ、味は申し分ない。


「おぉー、縁佳も食べたそうな顔をしてるねぇー。どうぞー」

「鏡花って、馬鹿だよね」


 馬鹿っていうほうが馬鹿なんだよって、そんな捻りのない返答でいいのか不安になるほど、正気な真顔で罵られた。


「はぁっ?正常な判断のもと、縁佳のことが好きなんだしっ。ほら、口開けて」

「いや、私が食べるのはいいんだけどさぁ……」


 私は創意工夫ができる人間なので、ふーふーまでしてあげてから、縁佳の、開いてんのか開いてねーのかよく分からん口に突っ込んだ。


「んむ、ソースとか鰹節をケチってなくていいね」

「あっ……、ここっこの箸、縁佳の口に突っ込んでしまったたったた」

「ちょっと貸しな」


 口の中に猛烈な温もりが広がる。チョコレートと違って、自発的に食べさせてくれるなんて感涙ものだ。食べさせさせるのもいいけど、食べさせられるのは至福である。開きそうになる口を懸命に結んで、縁佳を噛み締めるつもりで、この感動を味わった。


「涙出てきた……」

「熱かったんなら無理しないでよ!ごめん、大丈夫?」

「へいへい!お嬢ちゃん水サービスするよ!」


 露崎からペットボトルの天然水が飛んできて、縁佳がそれをキャッチする。助かるけど、やけに優しくしてもらっちゃって悪いなーと思っていたら、露崎の後ろからクラスメイトが出てきて怒られていた。


「ちょっと露崎!サービスしすぎ、あと物を投げないの!」

「へいへい!お嬢ちゃんたち、気にするな!」


 ていやっ、とそのクラスメイトから頭頂部にチョップを貰っていた。


「露崎、あんたってそんなキャラだっけ?」

「祭りの空気は自由にするのさ」


 だといいなぁと、切に折り入って思いながら、縁佳を睨みつけた。



「いくら何でも、仕事中は付いて来なくていいでしょ。ちゃっかり餌もらってるし」


 壁に肘をついて寄り掛かりながら、縁佳は口を尖らせてきた。私は自由放浪人だけど、縁佳はそうではなく、すでに各所から手伝いを頼まれているのである。まあ、そんな事だろうと思ってたので、最初から終わるのを待つ構えだった。忠犬ハチ公の代わりに、私の像が渋谷に建つ日も近い。どんなポーズで造ってもらおうか。


 そんなわけで、縁佳が喫茶店のクラスの手伝いをしてる間、こうして厨房の教室の傍らに座らせてもらった。そして注文を伝えに来たり、料理を取りに来たりしたタイミングで、こうやって見交わしている。


「なーに、その不服そうな顔は」

「何って何でもないけど?全然全然、縁佳といられるだけで幸せだし。それ以上は望んでない……」

「一体、鏡花の頭の中で何が妄想されてるのやら」

「こういうのって、メイド服が鉄板じゃーないですかー」

「私に着ろと?」

「実は期待してたんだけど」

「えぇー……」


 不思議の国のアリスにでもなったかのように、縁佳の顔がとても小さく遠ざかっていく、ように見える。実際、生理的に無理な時に極めて近い渋面で、ここぞとばかりに見下してくる。とは言え、縁佳のメイド姿はとても気になるし、大変需要がある。そもそも、資本主義社会ならば神の見えざる手で、需要に対してどこからともなく供給が湧き出てくるはずである。さあ、ご照覧あれ!縁佳のメイド姿!


「なんかその、ものっそい自然に息が荒くなってる所が、ほんとに、ねぇ」

「ガチだから」

「鏡花の使用人に成り下がるぐらいだったら、死を選ぶね」

「主人と心中ってこと?」

「とにかく絶対着ないからね!」


 喉を大切にすべき時なのに、そんな大声を出して反発しなくてもいいのにって思う反面、自発的に乗り気で着るよりは、渋々照れながら頬を赤らめながら、でも着てしまった以上、似合ってるかどうかを確認せずにはいられない、というシチュエーションのほうが萌えるなーと、一人静かに固唾を呑みこんだ。


「よっすー!注文取ってきて!」

「あっはーい、じゃあ行ってくる」

「私も行くー」

「あ、あなたにはカニカマドボルザークナポリタンね。これを食べて大人しくして」

「わーい」


 立ち上がろうと踏ん張ったその瞬間、ここのクラスの人が机の上にパスタを置いてきた。食には抗えない。出されたものは完食するしかない。


 午前中ながら本日4度目の食事、文化祭って最高だなぁ。フォークに麺を巻き付けて、寂しさを紛らわすように口に運ぶ。ぬぅー……、カニとボヘミアと地中海の味が、バラバラに襲来してくる。美味しいけど名状しがたい味わいだな、この創作パスタ。



「まさかもぐっ、縁佳がもぐっ、主演もぐっ、だったもぐっねもぐっ」

「食べながら喋るなとか以前に、もう食べるなよ。今日だけで、一体どんだけ食べたのさ」

「ポップコーンはほぼ空気みたいなもんでしょ」

「コーンは穀物だよ、お腹に溜まらないの?」


 映画上映のお供としてポップコーンを買った。縁佳もたくさん食べるだろうと思ってLサイズにしたけど、ほとんど一人で食べた気がする。それなら、塩味じゃなくてウィスコンシンアンタナナリボキャラメル味にしとけば良かった。どんな味なのか、気になりすぎる。マダガスカルだから、バニラ風味なのだろうか。


「で、主演は頼まれたの?」

「映画を作ることが決まったのはいいけど、裏方志望ばっかりで、出演者がいなくて困ってたらしいからさ。文化祭の演劇って、脚本とかそういうのばっかり熱が入っちゃうからねー」

「そっか。頼まれたら何でもやるんだ」

「少しは言い方を弁えてよ」

「いやぁ?偉いなぁーって思って。縁佳が出演してなかったら、こんなに人も集まらないだろうし」

「私は芸能人でも何でもないのよ」

「でも、みんな特別だと思ってる。私はその先を行くけど」


 縁佳を特別に思うことは、すなわち埋没するということ、なのかもしれない。だからこそ、向こうから特別に思ってくれることに、尋常じゃないぐらい深い意味がある、やっぱり、かもしれないを付け足しておく。


「まーでも、我ながら名演技だったと思うけどね。少し気合いを入れすぎて、他の人を圧倒してしまった感じがするけど」

「そりゃあ、縁佳には他の人を圧倒できる魅力があるからね!もう縁佳しか見てなかった、どんな話だったか忘れた、最後の笑顔が素敵だった、敵と戦うのも素敵だった、全部良かったー」

「褒められて嬉しいはずなのに、鏡花だとどこか邪な感情が透けて見えちゃって、素直に喜べない……」

「何でよ!こんなに白河の魚も寄り付かない清らかさだというのに!」

「メイド服の妄想しただけで、鼻血が出そうになる人のセリフ?」

「出しそうって、それって偏見でしょ!まだ出してないもん!」


 そんな迷信ではなく、気持ちが昂りすぎて、単純にその場で失神するだけだと思う。


 廊下でこんな微笑ましく和やかで気の置けない会話に現を抜かしてたら、後ろから忍び寄る影に気付かなかった。肩を押し込まれ、縁佳の顔が上方に飛んで行った。


「鏡花ちゃーんっ!」

「なにっ、あぁ……びっくりした……」

「鏡花ちゃん脆っ、儚すぎでしょ、ちゃんとご飯食べてる?」

「鏡花に対して一番いらない心配だよ、それ」


 二の腕を揉みしだかれながら、安栗が天然めいた心配をしてきた。そもそも背後から奇襲をかけるなって話だけど。お、安栗の名前、今でもちゃんと覚えてる、偉いぞ私。


「どうしたの?安栗」

「それがねー、校内放送でラジオやってるじゃん?2時から鑓水の担当なんだけど、どっか行っちゃってさー」

「どっか行っちゃったって、どこに」

「それ聞く?うぅーむ、多分うちの部活の出展だろうねー。わたしが近付きたくない場所」

「えぇ、怒らせたの?」

「ちょぉーっと、お化け屋敷でいたずらしただけなのにね。鑓水、不意打ちに弱くて、面白くなっちゃって何度も驚かせたら、お化け屋敷如きでビビってるように見られるでしょって、怒られちゃった」

「安栗……本気で嫌われても知らないよ」

「マジで、それだけは勘弁なんだよーっ、助けてよっすーっ!」


 安栗は縁佳に向けて手を合わせて目を瞑って、切実に頼み込んだ。縁佳は呆れてるようで、でもどこか心を躍らせるように短い嘆息を溢した。


「はぁ、しょうがないねぇ。とりあえず、放送は私がするから。終わり次第、鑓水の元にも行ってみるけど、何とかできるなら自力で何とかして」

「ありがと、助かるぅー、やっぱ持つべき友はよっすーだね」


 そうして、縁佳の新しい予定が決まってしまいそうな時、私は声を上げることにした。やっぱり私は、特別に扱うだけで終わらせたくない。私が特別でありたい。だから、多少の犠牲を払ってでも、引き留めないといけない気がした。


「縁佳」

「ん?どうした?」

「別にいいでしょ。こんな茶番、わざわざ任されなくても」

「茶番って。真剣な相談だよねぇ、安栗」


 安栗は目を丸くしたまま、縁佳の言葉に操られるように二回頷いた。


「せっかくの空き時間を、わざわざ潰すほどのことじゃないって」

「あぁーなるほど……?それなら、一緒に放送しようよ、ね?」

「そういうんじゃなくて。なんで休もうとしないの?片っ端から安請け合いしちゃうの?」

「請け負ったことは、おしなべて真面目に取り組んでるけど」

「本当は分かってるんでしょ?」

「独占欲……?」

「それも、あるけど……違う違う。もっとこう……自分のことを大切にしてよ」


 映画の上映中の虚ろな瞳、掠れてるのに平然と通常の声量で話してて。縁佳は上手く誤魔化せてるつもりなんだろうけど、私だって伊達に一日中ストーカーしてるわけじゃない。縁佳の異変だって、誰かが気に掛けないといけないんだ。


「だなー、しょうもない事に巻き込んじゃって悪かったよ、よっすー」

「しょうもなくないよ。拗れて困るのは安栗でしょ?」

「まあまあ、わたしが招いた問題だしね。すぐに他人に頼るのは良くなーい、……って、鑓水に叱られることが増えちゃうよ」

「そんな信頼関係があるなら、きっと大丈夫だよ。縁佳の力なんか借りなくても」

「うおぉーっ、鏡花ちゃんが励ましてくれたぁーっ、じゃっ、健闘を祈れ!」


 安栗は冷たい風を置いて行った。ずっと縁佳を勇ましく睨み付けていたつもりだったけど、自分のお節介が縁佳の癇に障ってないか不安になって怯えて、無意識のうちに安栗を追い掛けていた。恐る恐る横を瞥見する。それに気付いた縁佳は、揶揄うように打ち笑んできた。


「次、どこ行く?」

「んんー……、そうだ少し休憩しよう」

「鏡花が望むなら、しょうがないかぁ。今日の私たちは一蓮托生、そうなんでしょ」

「明日もだけどね」

「はひゃー、明日も付いてくるつもりなんだ……」


 当然、最高のメインイベントも、一番近くで見届けるつもりである。それにしてもこの感情、何かと思えば推しのライブに対する高揚感に似てる……のかもしれない。推しという言葉で何でも片付ける現代社会に、警鐘を鳴らしたくなった。何はともあれ、縁佳の体調を気遣いつつ、でも結局、私の寡占が守られていい気味になっていた。縁佳を護れるのは私だけなのだから、当然のことをしたまでだけど。



 さて文化祭二日目、朝から昨日以上の活気を呈している。みんな、縁佳が目当てなのだろう、渡さないけど。まあとりあえず、今日も朝から縁佳に密着しようと思う。朝は体育館で催しの準備をしてると聞いてたので、特に連絡もせずに、高原をスキップしてるような心持ちで向かった。非日常とは言いつつ、それは結局日常の延長線上で、当たり前に存在して当たり前に楽しいんだって信じて疑っていなかった。


 それで舞台袖では、多くの係の人が慌ただしく活動していた。しかしその中に、縁佳の気配というかオーラが感じられない。こういう作業の時は、いつも現場監督のように、皆に指示を出して回ってるのに。


 邪魔な位置で棒立ちしてると、軽く息を切らした明世が声を掛けてきた。


「あっしまちゃんしまちゃん、がすよ見なかった?」

「そう言われても……。ここに居るって昨日聞いたから来たのに」

「そのはずだったんだけどねぇ」

「やっぱり連絡つかないんだけどー」


 鎖骨大好き変態魔人の篠瀬も、スマホ片手に首をかしげながら近付いてきた。


「縁佳にっ、ななっ何かあったの!?」

「落ち着きなされ鏡花ちゃん。どうせ今ごろ、黒甜郷裡なんでしょ」

「それならいいけど……」


 万が一は突如としてやってくる。分かってるようで、人はそれに直面してみないと深刻さを理解できなくて、そして喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう。ともかく、そういう可能性も考慮しないといけない。考慮したところで、腹を括ることぐらいにしか役立たないけど。


「まっ、がすよが居なくても文化祭は回るから大丈夫でしょ。せめて休むなら連絡してほしいけど」

「そ、そんなこと無いよっ!それに、本当に一大事だったらどうしようっ……」

「その言い方は冷たいよねー。私は鏡花ちゃんとよっすーの味方だよー。だって心配だもん」

「実際、どうすればいいのさ。もう文化祭は始まってるんだよ。それに、事件っていうのは、たいがい部外者の干渉を拒むものだし」

「そっそんなことないっ!それなら私、縁佳の家行って直接確かめてくる!」


 私にはできることがある。時間が縁佳が解決してくれるのを待つのは、死力を尽くしてからでも遅くない。文明の糸が繋がらないぐらいで、諦めるべきじゃない。そういう思考が電撃のように脳内をかき乱して、気が付くと私の脚は地面を蹴り上げようと疼いていた。


 というのはやっぱり後付けの決意で、衝動に負けただけである。でも、縁佳に向かって進んでる間は、自分が絶対的な正義を帯びているような気がして、迷いも悩みも全部吹き飛ぶ。


「道わかってるのー?」


 私が二人に背を向けると、明世が衝動に冷や水をかけてきた。


「大丈夫、私は無鉄砲じゃないからーっ」

「唐突に告白して、その後も付きまとって、どこが無鉄砲じゃないのさ」

「数学の証明は、概要を思い付いてから、解答用紙に書き始めるし!」


 まあ、誰かから圧力をかけられ無くても、私だけは絶対に、縁佳の元へ走っていただろうなと思う。縁佳は天人でも、裏のある優等生ですらない。どこにでも居る普通の女子高生であり、時に怒って不機嫌になって、誰かを憎んで恨んで、責任と重圧から逃亡しようとする事だってあるだろう。私は、縁佳が常に完璧でないことを知っている。だからこそ、手の届かない憧憬と崇拝の対象ではなく、恋人という選択肢を選びたくなった。


「鏡花ちゃん!どうしたの、忘れ物!?」


 体育館を飛び出して、人の流れに逆行していると、駐輪場の前で露崎に名前を呼ばれた。勢いを殺したくなくて、その場で足踏みながら応答する。


「あ、えっと、縁佳の家に行こうと思って!」

「忘れ物を取ってきてって、顎で使われた?」

「今日学校に来てなくて、連絡もないらしくて!」

「あれ、そうなの?それで様子を確認しに行こうと……、わかった、私の自転車を貸してあげよう」


 露崎は駐輪場から自分の自転車を押して出てきた。


「ありがとう、すごい助かる」

「いえいえ、よっすーに何かあったら、私たちも困るから。よろしくー」

「うん、行ってくる」


 逸る気持ちが私を奮い立ち漕ぎをさせる。


「うおりゃー、うああああ……」

「鏡花ちゃんが事故ったら元も子もないからっ。落ち着いて漕いでよ!」


 バランスを崩して倒れそうになった。露崎が傍で見送ってくれてたから命拾いしたけど、血を滲ませながら縁佳に会ったら、むしろ向こうに気を揉まれてしまうので、安全運転左右確認法令遵守……やっぱ無理!縁佳のことで、私が冷静になれる日など、未来永劫やってこない。


 ある夏の日は、炎天下にキャリーバッグを引き連れていたから、弥勒菩薩が降臨しそうな時間がかかったけど、九月の曇天の中、自転車で向かうと十分強で到着した。ここまで来て今さら緊張とか、向かい風で髪が乱れてるとか、合わせる顔が無いとか思わないけど、少しは私も感情の取捨選択ができるようになったと、成長は実感した。雪の日にここまで縁佳を送った時は、金城湯池だと思ったのが懐かしくなってくる。


 インターフォンを鳴らすと、前回と同じで縁佳の母親が玄関から出てきた。


「縁佳……さんはっ、まだ家にいますかっ!?」

「あぁー、多分ね……。えっと?わざわざ来ていただいて、すいません」

「いえ、私にとってはご褒美みたいなものです!」

「うぅーん……、今日は不自然に物音もしないし、休むつもりなのかねぇ……」

「え、ししっしんで紫宸殿!?」


 慌てて両手で口に蓋をする。死んでるって言うところだった。そんなわけないない。


 それで、その不穏な物言いに居ても立っても居られなくなり、家に上げてもらって、二階の縁佳の部屋へ急いだ。しかし、母親なのに娘の現況も知らないなんて、訝しまないのかな。しかも今日は文化祭なわけだし。


「縁佳!」


 部屋に入って、名前を大声で叫んでみる。けど、やれやれって感じで私を諫めてくれるいつもの縁佳はいなくて、代わりに布団を脇に追いやり、ベッドの上で背中を丸めて寝っ転がる縁佳が居た。扉を開けっ放しにしたまま、狭い部屋をばたばたと歩いて、縁佳の顔を上から覗き込む。それでようやく気付いたのか、今にも消え失せそうなか細い、言葉にならない声を発しながら、片目を開いて私の姿を確認してきた。


「縁佳っ、体調悪いの!?」

「ん……、最悪だから、帰って……」


 縁佳は私の呼びかけを無視して、再び目を閉じて頭を壁の方向に戻して、背中をいっそう丸めて寝込もうとする。


「嫌だ帰らない、なんで帰らなきゃいけないの」

「うるさい……」


 今度は、肋骨にダメージが入りそうなほど激しく咳き込んだ。前々から喉を痛めてるような雰囲気は感じてたけど、ここまで拗らせているとは。咳のせいで目が覚めたのか、一苦労しながら仰向けになって、私のほうをまっすぐ見つめてきた。唇が紫に変色して、全体的に青ざめていて、弱ってるせいか一回りほど小さくなってるようにも思えてしまった。


「見ての通り、動けそうにないから。皆にもそう言っといて」


 ガラガラの声でそう言うと、縁佳はそっぽを向こうとした。


「このまま放っておけるわけないでしょ!えっと……、喉が痛いの?他に痛い場所は?」

「頭痛い、あと倦怠感に押し潰されそう」

「熱は何度だった?」

「知らん、測ったって良くならないから」

「そういう問題じゃない」


 私は縁佳の母親に言って、体温計を貸してもらった。そして縁佳の脇に強引にぶっ刺す。


「ちゃんと布団は掛けなきゃダメでしょ」

「暑い……」

「我慢して」

「んー……」


 額の汗を拭う仕草は見せても、特に抵抗されずに布団を掛け直せた。再び蹴り飛ばす体力もないほど弱ってるんじゃないかって、逆に心配になる。


 熱を測り終わると、縁佳は再び壁側に体を向けて、蹲ってしまった。大変な事態という名分で馳せ参じたけど、実際は想像以上の憔悴度合いで、縁佳の顔を覗き込んで心配してみたり、何をするか決める前に立ち上がってみたり、気持ちだけがひたすら空回りしている。


「凄い熱だけど、ほんとのほんとに、大丈夫なのっ?」

「平気だよ、大げさな……」

「熱以外は?吐き気とか悪寒とか、というかご飯は食べた!?」

「気持ち悪すぎて動けない……。めんどいしー……」

「朝から一歩も動いてないってこと?」

「うーん、昨晩からずっとこのまま。当然なにも口にしてない」

「じゃあもしかして、水も飲んでない?」

「手に届く範囲にないからね……」

「ねぇ、馬鹿なの?飲まなきゃダメだよ、死んじゃうよ!」

「トイレにも行きたくなるじゃんー……」


 判断力が鈍ってるのか、それとも自分の体なんてどうでもいいって思想なのか。とにかく大急ぎでばたばた慌てながら、冷蔵庫から麦茶を持ってきた。


「やめてっ……、何するの」

「いいからっ、上向いて口開けて!」


 肩を掴んで強引に体を翻させようとしたら、観念したのか自発的に仰向けになってくれた。半開きの口にコップの縁を近付けて、慎重に傾ける。


「枕、濡らしたくない……」

「文句が多いなぁっ。口移しとどっちがいいか、よく考えて」

「鏡花が風邪を引いたら、所望されちゃうってこと?……ふふっ、気持ち悪」


 私がコップを一気に傾ければ、気管支に麦茶が入って、咳が止まらなくさせることだってできるのに、その状況で罵ってくるなんて、信頼されてるんだなぁと一安心した。してる場合じゃない気もするけど。


 五分ぐらいかけて、ゆっくり一杯の麦茶を縁佳の体に流し込んだ。口の横から零れた麦茶を拭こうとティッシュを近付ける。


「自分で拭くからいいよ。それくらいできる」

「はいはい。あ、何か食べたいものある?買ってくるか作るかするから」

「吐瀉物に興味があるならどうぞ」

「何、その物言いは。余裕ぶらなくていいから。分かったよ、食べられそうになったら言って。あと、喉が乾いてもすぐ言ってよ、飲ませてあげるから」


 食べないと元気になれないという信条はあるけど、今の縁佳の喉を通る物なんて無さそうだし、無理して食べたらむしろ衰弱しそうなので、そっと見守ることにした。ベッドの横で正座して、縁佳のぼさぼさな後頭部を眺める。せめて眠れると良いんだけど、突然せきが激しくなって、それで叩き起こされてしまうようだった。


 どんな姿勢で寝転がってても辛そうで、こんなに近くにいるのに、それを緩和してあげることも、苦しみを肩代わりすることも叶わなくて。自己満足だとは分かってるけど、こうやって近くで何もできないもどかしさを、せめてもの罰として甘んじて受けている。


「背中さすったら楽になるとか、無いかな」

「そういうの要らない要らない、ほんとに」

「そう……」

「ていうか、鏡花はいつまで居るつもり?戻りなよ、せっかくの文化祭なんだし」

「縁佳がこの調子なのに、戻るわけないじゃん。そもそも、文化祭の二日間は縁佳と一緒にいるって決めたんだから、最後までそうするつもり」

「邪魔って言ったら」

「それでも出てかない、縁佳を一人にできないから」


 私がそう言うと、縁佳は時々せき込むだけで、反論してくることはなかった。そうするだけの気力がないだけかもしれない。でも、たとえ一人にしてほしいって言われても、縁佳の言葉より不安が勝ってここを離れられない。面倒だからって水も飲まなかったぐらいなんだから、誰かが看病してないと、危なっかしくて仕方ない。


 縁佳でも、独力で対処できないことがある。そういう時は、他の誰でもなく私が力になりたい。そういう私欲で動いてる部分もあるけど、まあ縁佳のためになってるんだし、罰は当たらないでしょ。もっと欲をかくなら、弱ってる時だからこそ、私が女神のように見直しほしいけど。しかし生憎、壁か天井の方向にしか体を向けてくれない。弱ってる姿を隠そうとしてるって、好意的に捉えることにした。そうやって、私の前では決して弛まないよう、密かに意識的に肩肘張ってるところも、愛嬌が感じられて好きになってしまうのであった。


 しばらく経って、と言っても既に時刻は午後二時を回っていて、東窓のこの部屋は鬱蒼としてきた。ベッドの縁に顎を乗せて静かにしてても、咳のせいで寝られないなら退屈で、苦痛が紛れなさそうだったので、こう、気の利いたことを話してみようとした。


「よすがぁー?」

「んー……?」

「あっ、えとえとあのその、やっぱりお腹っ空きませんか!?」


 でも結局、自分の感情に引っ張られてしまった。縁佳は額に片腕を乗せて目を瞑って、心底煩わしそうに言い返してきた。


「勝手に食べてくれば」

「私はいいのっ。そろそろ、食べられるぐらいに回復してないかなーって」

「今回の風邪、結構やばいかも……。熱上がった気がする」

「一応、測ってみる?」

「いいよ……、めんどください」

「はい、測るから」


 再び縁佳の脇に体温計を突き刺す。彼女の額に手をかざしただけで、痺れるほどの熱を感じた。仮に私が縁佳に押し倒されたとしても、こんなに温度が上がることは無いだろう。まあでも、積極的に麦茶を飲ませてる甲斐あってか、汗が滲むようになっていたので、めちゃくちゃ嫌な顔をされたけど、構うことなくタオルで拭き取ってあげた。


「解熱剤とか無いの?」

「たぶん無いよ。こんなひどい風邪、小学生以来だから」

「あぁ、買って来たい……」

「ん?あー、財布ならカバンの中に……」

「けど縁佳を一人にしたくない!」

「それで昼食を食べずに、ずっとそこに居るんだ……。助かってはいるけどね、でも付きっきりじゃなくていいから」

「……だって、私の知らない場所で瞬間で問題で、縁佳が苦しんだり悩んだり、変わっていってしまうのが、こっ怖いんだもん」

「気に病みすぎだよ。私がぐちゃぐちゃになろうと、鏡花は何も痛まないし失わないし、苦しくもないんだからさ、わざわざ心配したり、同じ痛みを味わおうとしたりしなくていいから」

「そういう所だよっ!縁佳の悪い癖。自分の体を物のように扱って大切にしない、全部一人でこなせると勘違いしてる。今だって、私が来なかったら何もできなかったのにさぁ、そっちの方が良かったとさえ思ってる」

「うるさい……。病人に大声で捲し立てないで……」

「だって縁佳が、喉が痛いのも我慢して歌の練習して、体調が悪いのに無茶をし続けて、破滅へ一直線に向かってくからでしょ!私がさりげなく気遣ったのに邪険に扱ってきて、結構怒ってるんだよ」

「鏡花みたいな、責任も信頼もない軽佻浮薄な人間には、理解が及ばないかもしれないけどね、体調を崩しそうな予感がするからってだけで、仕事を全部放棄していいわけ無いの!」


 縁佳は仰向けのまましわがれた声を、わざわざ少ない体力を浪費して反駁して、大きく息を吸った反動でまた激しくせき込んだ。でも、縁佳のために、カッとなったこの感情は、そのまま伝えないといけない気がする。ここで今までのように迎合したら、縁佳はまた同じように自分を傷付ける失敗を重ねかねない。だから、前につんのめってでも、私は最高最大の心配を浴びせることにした。


「でも、キャパオーバーだったんでしょ、安易に仕事を引き受けたりするから。無理ならせめて、誰かに手伝ってもらおうよ。この私が、島袋鏡花が、縁佳の頼みを聞かないと思う?今度はこっちが風邪を引くぐらい頑張るんだから!」

「助けを求めたら、誰かの手を余計に煩わせたら、全部おしまいなの」

「結果的に自己管理できなくて、累が及びまくってるじゃん!何を偉そうに言ってるの!」

「ねぇ、鏡花のほうが偉そうだよっ!親とか友達とかに甘やかされて、失敗しても許されて、無条件に協力してもらえて、そんな人が何を言っても、どれだけ身を粉にしてきても、茶番にしか見えないんだよっ!」

「どうしてそんな風に受け取るの?心配させてごめんねぐらい、言ったらどうなの!」

「心配なんてしないでよ!望んで倒れるまで働いた、それだけだから。早く帰って!鏡花の顔を見ると逆に悪化する」

「縁佳はいっっつもそうだ。何にも相談しないし、都合が悪くなると強引に押し通そうとするし、不機嫌にもなるし。刑部の時からまるで変わらない、変わったら負けとか思ってる。一人で全部解決するか、墓場まで一人で抱え込むか、どうしてその二択なの?」


 私なら力になれたかもしれないのに、少なくともその用意と覚悟だけは拵えてるのに。とっくに破綻してるのに、未だにしらばっくれようとする縁佳に、そんな一年ぽっきりの積年の思いが爆発してしまった。まあ、私なんかを縁佳が表面上は恐れるはずもなく、出涸らしのような声で、皮相的な冷徹さを見せつけようとしてくる。


「だからって、何の問題があるの?鏡花だって、人と仲良くなるのに時間が掛かったり、夢中になると周りが見えなくなったり、でも治す気ないじゃん。結局、このままが一番心地いいんだよ。鏡花の欠点だって、可愛げに直結してるから、そんなに甘やかしてもらえるんだよ、分かってる?」

「私はさ、何度だって口酸っぱく告白するけど、縁佳のことが好きなんだって。だからこそ、好きな人が墜ちてくるのを、指を咥えて待ってられないの」

「この際、はっきり言い切っておくけど、私は鏡花のことは大っ嫌いだから。好きとは紙一重じゃない、真逆の感情。あーもう、友達じゃなくていいや、どうでもいいっ!こっちはだるくて仕方ないってのに、頤を叩きおって。寝よう寝よう、寝ないと良くならない」


 縁佳は壁の向きに体を反側させて、酷使した喉の悲鳴を懸命に抑えようとしていた。まるで私が存在しないかの扱ってくるようで、あるいは私の干渉を妨げる棘が背中に敷き詰められてるかのように思えて、喜怒哀楽のあまり逃げるように縁佳の部屋を飛び出していた。


 友達でいることを、向こうから諦められたという事実は、私の中にくゆるあらゆる感情のかがり火を、一挙に消えそうなほどに揺らめかせた。縁佳を好きでいること自体が、もう許されないような気がして、あぁ、私も縁佳と同じで、一つのお面に縋る、空虚で綻びまみれな人間なんだと気付きそうになる。そうじゃないって叫んでみても、そうである気が増していくだけだった。


 重く、けれど不安定な足取りで俯いたまま階段を下りて、気が付くと玄関の前まで後退していた。上がり框の角に片足の土踏まずを掛けた所で、ふと踏み止まって後ろを振り返る。私がここで帰ってしまえば、縁佳はベッドの上で、激しい咳と高熱と独りぼっちで闘わなくてはならない。そんな事が、縁佳を見捨てることが、縁佳の云う通りにすることが、縁佳の剥がれかかってるプライドが、その全てが正しいわけない。


 だけど、今度こそ縁佳に拒絶された。その事実はやっぱりショックで、心臓が切り傷でもできたかのように痛む。思い返してみると、私って痛んで悩んでばかりだった。威勢のいいことは言えても、本質を穿ち心を抉るようなことは、そっと溜息と一緒に吐き出してた。私は、縁佳に傷一つ付けさせてもらえないままだった。


 リビングから縁佳の母親が出てくる。何かと思ったら、私ごときを見送りに来たらしい。向こうから敵意は感じないけど、勝手に気圧されて後ずさりしようとしたら、後ろに地面がなくて、慌てて壁に手を突く。


「今日文化祭なのに、わざわざ様子を見に来てくれて、ありがとうございました……」

「あっあぁ、造作もないですっ」

「学校から地味に距離あるでしょ」

「とっ友達から、自転車を借りたので……」

「そうでしたか。気を付けて学校に戻ってください。せっかくの文化祭だから、ぜひ楽しんできて」


 普通に考えれば、娘の面倒を見てくれた友人に対する、適切な社交辞令だけども、今の私は普通に考えられなくて、壁から手を放して直立して、縁佳の母親に毅然とした態度で相対した。


「縁佳……さんは、すごい辛そうでした。熱は38℃代まで上がって、水を飲むだけで喉が痛んで、ベッドから起き上がれないし」

「そう、ありがとう、面倒を見てくれて。今度、何か菓子折りでも……」

「ちょ、ちょっと待ってください!さっきから、私のことばかりじゃないですか。心配じゃないんですか?縁佳のこと。今の縁佳は、一人じゃ何もできないぐらい弱ってるのに!」

「そ、そうね、そうなのね……」

「そうなのね、じゃないですよ。そもそもっ、親なのにどうして、縁佳が寝込んでたことを知らなかったんですかっ!?あなたは今日、縁佳の顔を見ました?私が麦茶を注ぎに来た時とか、何も思わなかったんですかっ!」

「いや、あ、心配はしてた。けど、縁佳って自力で何とかしたがる子だから、下手に干渉しないほうがいいかなーと……」

「それでも、あなたは縁佳の保護者なんですか!子供に普段と違うところがあったら、気掛かりでじっとしてられないですよね!」

「何を言っても、もう怨恨が加速するだけよ。あの子にとって保護者という存在は、少なくとも精神的には必要ないんでしょ」

「どれだけ子供が反発してきても、親っていうのは体の動く限り、子供に粘着して執着するものなんですっ!親としての義務を放棄して、それでもあなたは……!」


「もう辞めて、辞めなさい、鏡花!」


 声がした階段の方に視線が吸い込まれる。縁佳は両手で壁を押さえて、下から三段目辺りの不安定な足場で踏ん張っている。どうしてって思ったけど、こんなに大声で言い争ってたら、迷惑に決まってるか。


 頬が真っ赤に染まって、いかにも病人の様相な縁佳の姿を見て、落ち込んでいた自分が帰ってくる。さっき、言い訳の余地なく怒らせたばかりで、縁佳を直視できない。喉を痛めてるのに大声で喋らせて、帰り際にも睡眠妨害して、どれだけ正論を振りかざしていても、自分に非があることは紛れもない事実だった。


「どうしてあんたは、いつもいつも、突かれたくないって思ってる場所ばっかり突いてくるの!嫌がらせなの!」

「そ、そうだよ!そこを突けなきゃ、私に価値なんてないんだからっ!」

「はぁ、何なんだ、ほんとに……うあぁっ」


 無理して二階から下りてきた縁佳は、バランスを崩してあまりにも鈍臭く、尻から重力に引かれるままに倒れた。……こんな状態の縁佳を、どうやったら見捨てられるって言うんだ……。縁佳は馬鹿だ、わざわざ私の前に弱い所を見せに来て、私のこと、全部お見通しな風に喋るけど、本当は何にも分かってないんだ。


「ねぇ大丈夫だった!?頭打ってないよね、無理に立とうとしなくていいから。落ち着くまで座ってて」

「そこ打って痛いから触んないで……」

「あぁっはっごめんなさいごめんなさいっ。えっと、他にどこをぶつけた?あざにならないといいけど……」

「外から見えなきゃどーでもいい」


 縁佳が睨みを利かせる先を追い掛けて振り返ると、そこには縁佳の母親が、さっきから一歩も違わぬ位置に立っていた。そして私たちを、ただぼんやりと見守っていた。首の向きを縁佳に戻して、心の底から頷いてしまう。そうか、この人は自分の子供に何かあっても、反射で突き動かされるように駆け寄ることもできないんだ。そうなったら……保護者失格だな。他人の親だけど、私は何の責任もない子供だけど、そう思わずにはいられなくて、立ち上がって縁佳の母親に宣言をしてしまった。


「やっぱり、縁佳は私が責任持って看病します!あなたには、縁佳を任せられない」

「すいません……、ありがとうございます……」

「謝るべきなのは、縁佳に対してですから」

「鏡花っ、余計なこと言わなくていい」

「よ、余計じゃない……無理に立とうとしたら危ないよ!」

「早くベッドに戻りたい……」

「さ、支えるから、急がないでっ」


 縁佳は岩を上るかのように、両側の壁に手を突いて二階に戻ろうとする。危なっかしくて見てられないけど、縁佳はいつものように私の手を振り払って、先ほど自分の母親にやったように、私が告白した直後のように、全てを拒絶する鋭利な瞳で瞥見される。風邪を引いてようとも、その魔性は健在だった。進むことを近付くことを、拒むどころか諦めさせる。自分の体調にすら関心のない彼女が、そんな自分の内情を他人に悟らせないための、唯一信頼して使い潰してる武器。


 でも、知ってしまえば、少し心臓がキュッとなる程度の軽傷で済む。どうせ縁佳なんて、恐るるに足らない。風邪も引くし、誰かに相談することもできないし、私以上のビビりだ。そんな縁佳の不確かな背中をもう一度見返してから、私は数段下りてキッチンに向かった。要らないって突っぱねられるかもしれないけど、遅めの昼食を作ることにしたのである。先程までと同様に何をするわけでもなく、ただベッドの横で縁佳を眺めてるのは、喧嘩した後だしさすがに憚られる……。


 それで、ちゃんと手料理を振る舞おうと考えはしたのだけど、もちろん許可を取って冷蔵庫を漁っていたら、自分が飢餓状態なのを思い出して、安閑としてはいられなかった。


 そんなわけで、お茶漬けを三杯、お盆の上に載せて縁佳の部屋に向かった。早く食べたかったから、特に逡巡することなく部屋に戻れて、さっきまでと同じくベッドの横に正座した。苛烈な食欲も使いようだなぁ。


 縁佳は大方の予想通り、壁のほうを向いて寝ていた。そっちの方が落ち着くのだろうか。


「縁佳」


 私が名前を呼ぶと、布団から首より上を掘り起こして、こちら側に首を回してきた。


「んー……、今度は何……」

「ご飯持ってきた。食べて」

「お腹空くわけないでしょ、ずっと寝てるんだから……」

「つべこべ言わずに食べて。絶対おいしいから」

「そりゃ、永谷園のお茶漬けだからね……。というか、鏡花も食べるんかい」

「だって、縁佳と違ってお腹空いてるし。それより、もっと大きな茶碗用意しといてよー」

「金の無駄」


 元が取れるまで通い詰めるから、その心配は無用なんだけどな、ずるずるもぐもぐ。


 縁佳もゆっくりと上体を起こして、ベッドの縁に座って、お茶漬けを食べ始めた。今の縁佳が箸より重いものを持てるのか、目が離せなくて思わず掻き込むのを止めてしまった。


「縁佳、大丈夫?食べさせようか?」

「まあ、だいぶきついけど、食べるよ、食べればいいんでしょ」

「限界だったら、すぐに寝っ転がってね。というか茶碗は持つよ」

「……ありがと」

「おあ、素直だ」

「社会性の塊なんだから、感謝ぐらい口にするし」


 額に熱さまシートを貼った縁佳が目の前で、ただお茶漬けをスプーンでちまちま食べてるだけなのだけど、どこか心がくすぐられるような、温かい感触に見舞われる。弱々しく、喉の違和感と闘いながら、あんまり美味しくなさそうに食べるのに、つい見入ってしまう。無視されたけど、すごい食べさせてあげたい。半年前はあまり念頭になかったけど、これが庇護欲かと感動を覚えている。お願いを聞いてチョコレート食べさせてくれたから、貸し借りを無くすために、こっちからも煎餅を食べさせた。あの時は、そうだったような気がするから。


「そんなにいい気味?」

「えっ?何?」

「私の憔悴しきった姿を、そんなに楽しめるなんて、流石だね……」

「そっあっえぇっ?わわっ笑ってた?今?」

「うん」

「ごめんなさいっ、そんなつもりじゃ無かったんだけどっ。ほんとのほんとに、縁佳のことは心配してるからっ。誤解を招いたなら、悪かった……」

「いいよ別に。私は、縁佳があからさまな表情ができるようになって、むしろ感動してる」

「それってどういう……」

「それよりごめん、もう限界、残りは捨てちゃって」

「まあ、私が食べるけど」

「何だろう、鏡花に食欲を吸われてるのかなー」


 スプーンを茶碗の中に置き、茶碗をお盆の上に戻すと、瞬く間に縁佳は布団を被った。そして激しくせき込み始めた。何もできないのがまだまだもどかしくて、茶碗の縁と前髪の隙間から、目線だけで縁佳を癒そうと躍起になった。壁側にいそいそと帰って行ってしまった。


 とは言え、誠に勝手ながら、なんか赦免されたような仲直りできたような気がしてきて、茶碗を洗い終わってから、また涼しい顔で戻ってこれた。縁佳の後ろ姿を、ベッドに肘を置いてゆっくりと眺める。退屈で時間の進みが遅く感じるけど、縁佳と二人だけの時間だから、進まなくたっていい。これはせっせと看病してやったご褒美なのだろう。別に見返りなんて要らないけど。


 しかしこんな、のどかで安穏とした時間も永遠ではなく、突如として発作のように咳が止まらなくなる。立ち上がって、何もできないけど両腕をくるくる動かしながら、両手を口に押し付けて悶える縁佳の顔を見下ろす。


「縁佳、大丈夫?」

「へーきへーき」

「それじゃあ、満足に寝られないでしょ。やっぱり薬、飲もうよ。これ、体に合わないの?」

「そうじゃないけど……」

「じゃあ、お母さんが買ってきたから?だからそんなに拒否してるの?」


 そう質問すると、縁佳は黙り込んでしまった。私がお茶漬けを作ってる間、薬局に行って風邪薬を買って来てくれたらしく、私に託されたのだけど、その経緯をうっかり馬鹿正直に話してしまったため、この有様なのである……。


 しかし、私が買ってきた薬じゃないと嫌だって駄々をこねるほうが間違ってるので、私はめげずに居直って痛い所を突いてみた。


「縁佳、嘘ついたよね。親と仲直りするって、そう宣言したよね」

「あんなの真に受けないでよ……。鏡花が、私が悩んでるって勘違いして聞く耳を持たないから、そう言うしかなかったの」

「色々あったのかもしれないし、憶測だけど縁佳の親は、その責務をちゃんと果たせてなかったのかもしれないけど、歩み寄る努力は怠るべきじゃないと思う」

「鏡花に、私の気持ちなんて分かるはずないんだよ。価値観が違うんだから」

「そうだろうね。いい加減、見えてきたよ、縁佳の価値判断の基準が。でも家族って、価値観の違いで無下にしていいものじゃないでしょ」

「あのね鏡花、我が家はもう破綻してるの、手遅れだよ。会話はしないし、生活はバラバラ、お金だって生活費の大半は自分で稼いでる。ただ同じ家に暮らしてるだけで、生活してる座標が重なってるだけで、実質的な家庭内別居状態。赤の他人と、シェアハウスしてるような感じなのかな」


 冷蔵庫の中のラップで包まれた冷凍の白米に、わざわざ自分の名前を書いてて、シャンプーとトリートメントも別々にして、あれは徹底的に生活を分離する努力だったのだろう。毎日のようにバイトしてたのもその一環で、そして縁佳の母親も、縁佳のことが興味ないわけでは無く、知ろうとして縁佳の気分を害したり、今以上に嫌われたりすることを恐れてるだけで、何も無いなりに積み上げた縁佳の論理の断片が、次々と繋がっていく。


「それを聞いてもなお、鏡花は何とかしろって言うでしょ?てか現在進行形で言ってるでしょ?だから嫌だったんだよ、人を家に呼ぶのが。分かるよ?普通じゃないことぐらい。普通じゃないから隠したかった。……とにかく、これは自分で選んだことだから。普通の家庭を取り戻したいなんて思ってない、取り戻すことが正しいとも思わない。だから、首を突っ込んでこないで。あんな風に、親に干渉するのもやめて。鏡花は “私” の……」

「彼女」

「違う。えぇーっと、来客、なんだから」

「んんー、縁佳が、友達ってものに拘泥する理由、少し掴めた気がするよ」

「そんな事より、微分の定義でも理解したほうが、百倍ためになるよ」

「近すぎる存在との付き合い方が、わかってないんだ。ただの友達なら、完璧で軽妙洒脱な姿しか見せなくていいけど、近付けば近付くほどボロが出てしまう。家族だって、自分のことをよく知ってて、しかもそれが不可抗力だから、距離を取りたがってるんでしょ」


 風邪を拗らせるまで無茶をしたり、親との関係も拗らせて、誰かに相談できなかったりするのも、弱い自分を隠匿するためで、そこまで自分を立派に飾り立てようとする意味は分からないけど、ともかく縁佳の不可解な立ち振る舞いの目的は説明できたように思う。


「私なら……大丈夫。どんな縁佳でも受け入れられるから。もしかしたら、何かトラウマがあるのかもしれないけど、私は絶対に裏切らないからさ。今後は私に相談してほしいかな」

「善処する」

「ちゃんと相談して。縁佳って、自分が苦しむことがどうでもいいって思ってるでしょ。それも違うからっ」


 身なりとか人間関係とか、そういう所が無頓着じゃないから気付きにくいけど、縁佳は人として大切な情を失った粗忽者なのである。嫌がるだろうけど、縁佳が変わるまで指摘し続けようと思う。私は縁佳の特別なのだから。


「まあ、風邪はもう懲り懲りね……」

「でもそこはっ、『また鏡花に看病してもらえるから、もう一回引きたい』でしょっ」

「一応言っとくけど、鏡花の看病はしないからね。いつもの数億倍うざそう」

「えぇーっ、見返りがないとやってけないよ!」


 そう言えばさっき、見返りなんて要らないって、心の中で呟いた気がしないでもない。数時間前のことなんて忘れちゃった。



 日が傾き、縁佳の美しい寝姿が影に呑まれ始めたので、部屋の照明を点ける。あれからまた何時間かが経過した。結局、薬は飲ませられたけど、劇的な効果は得られなかったようだ。やっぱり、私が口移しで飲ませたほうが良かっただろうか。


「はい、熱を測るよー」


 私がそう呼びかけると、さすがに観念したのかスムーズに仰向けになった。


「もう寝られないー。かと言って、起きててもできることが無い……」

「じゃあじゃあ、私とお喋りする?」

「だから、その気力が湧いてこないの……」


 数時間前と変わらず、未だ熱を帯びて薄っすら紅潮して、額に汗を滲ませて、照明が眩くて目を細める縁佳の顔を見て、ふと脳内に次のやるべき事が思い浮かぶ。


「動けそう?」

「あんまり」

「じゃあ、体を拭いてあげる。気持ち悪いでしょ、汗かいて」

「はっ?待って、じっ自力でお風呂ぐらい入るからっ」


 縁佳は無茶して強引に立ち上がると、全く筋肉に力が入ってなくて、そのままベッドから転落しそうになる。倒れこむ縁佳の下に、偶然の反射神経で潜り込めたから何とかなった。私の頭は鷲掴みにされて、肩の骨が私の鼻を歪ませたけど、縁佳の命が助かったなら安いものである。


 抱きついたみたいになったのが死ぬほど不愉快なようで、上半身が宙に浮いた不安定な姿勢にも関わらず、至近距離からフルスロットルで睥睨してくる。こんなに近くで縁佳の顔を堪能できるなんて、縁佳の呼吸する音も聞こえてくる……、あうっいけないいけない、スリルと興奮が結び付いてるのって、人間最大の欠陥だと思う。


「いつまでこうやってるつもりっ」

「ごっごめん、……んしょ、怪我してない、大丈夫?」

「鏡花が身を挺して守ってくれたから平気。そっちこそ、鼻の頭赤くなってるけど、大丈夫なの?」

「名誉の負傷ということにしておいて。それより、いきなり立ったら危ないでしょ。無茶しないでって言ったばっかなのに、また悪い癖出てるよ」

「はぁ、もう勝手にすればいいじゃん。やっぱり鏡花といると、異様に疲れるんだよな……」


 縁佳は、掛け布団の上にそのまま寝っ転がって呟いた。そんな彼女を看病できるのは私だけなのだから、その一心で下の階から風呂桶にぬるま湯を張って持ってきた。


 部屋に戻ると、縁佳が今度はやけに怯えていた。


「本当にやるんだ」

「そりゃあ、清潔感も必要だけど、清潔であることは大前提だから」

「そういう事ではなく……」


 縁佳は自分の服の裾を掴んで、その下の肌色を垣間見させた。


「鏡花、息止まらない?」

「べべっ別にっ、ななななんでそんな事で、どどど動揺させねれねばーならんのかねっ?」


 縁佳は吹き出すように笑った。それはいつもと違って内向きに、自己完結しているように見えた。それが何を意味するのかは知らない。風邪を引いてて、他人の顔色をうかがう余裕がないだけかもしれないし。


「鏡花も、そういう方向の欲があるんだね」

「ちっちがっ、そんな理由で拭いてあげるって言ったわけじゃないしっ」

「むしろ安心したよー。ただの夢見がちで現実を直視できない痛い人じゃないってわかって」

「そ、そんな疑いが向けられてたの……!?」

「いいからこっち来て。そんなに離れてたらできないでしょ」


 言われるがままに、濡らしたタオルを手に持ったまま、膝を抱えてベッドの上に座る縁佳に近寄った。……すぐそこまで縁佳に迫ると、こんな煩悩だらけでごめんなさいって罪悪感に押し潰されそうになる。唾液の分泌とまばたきが止まらなくなって、判断力が鈍っていくふわふわした感覚に抗えない。


「ほ、ほんとにっ、縁佳はいいの。縁佳が見てほしくないって言うなら、もちろんやらない」

「そう言いつつ、何度私の嫌がることをしてきたのさ。だったら、鏡花の好きなようにやらせて、スムーズに終わらせたほうがいいと思ったの」

「縁佳はもっと、自分の体を大切にするべきなんだって。なんか、安易に体を売りそうで……。信頼できる人にだけ、見せるべきだからっ」

「何、独占欲ですか?」

「違うよっ!私のこと、どこか僅かでも疑ってる部分があるなら、信頼できないなら断ってほしい。縁佳の体を傷付けたくないから」

「ビビってないで、早くしてくれない?」

「縁佳っ」


 おどけて欲しくないから、少し強めに名前を呼んだ。まあ、こんな肝心な時でも、まだ目を合わせてられない。今回の場合は、そのまま目線を下にスライドさせるのも危険なので、行き場を失って迷子になって、目が回ってきた。


「んー……、鏡花のこと、疑ってはないよ。こんなにまっすぐで素直な人、他にいないでしょ」

「褒め殺すつもり!?」

「そんな理不尽な……」


 縁佳は呆れながら振り返って、私に背中を委ねることを選んだ。手が小刻みに震える。呼吸と精神を整えるために、改めてタオルを畳み直してみたりする。でもいつまでも、縁佳に起きててもらうわけにもいかない。塊のような空気を吐き出しながら、覚悟なんて決める間もなく、独断専行で縁佳のパジャマをめくった。


「鏡花ー」

「はっ、眺めてないよ眺めてないない」

「すーすーするから、早くやってねー」


 傷も痣も一つとしてなく、熱のせいで溶けてるけど、平常時は雪のように純白で美しい背中なのだろう。直接指でなぞりたい。そんな事をしたら、縁佳に二度と口を利いてもらえなくなりそうだけど。縁佳だって、本当に嫌なことがあったら、友達を辞めようとするんだって、さっき学んだばかりだし、ここはタオル越しで我慢しよう……。


 私はこんなものを手に入れようとしてたのかという、己の欲深さへの驚きと、ほんの少しの独占欲が争って、重力に多方面から引っ張られてるような、複雑なふらつきが生み出されている。そんな私の悶絶を、膝の上に額を置いて俯いてる縁佳は知ってるのだろうか。縁佳も悶絶してしまえばいいのに。同じ気持ちを共有できればいいのに……。


「縁佳は、何も感じないの……?」

「えぇ?んー、悪寒が治ってないから、触られるとこそばゆい」

「そうじゃ、なくて。恥じらいとか、ね」

「どうかなぁ。温泉とか、公衆の面前で全裸になることもあるしねぇ」

「それを言われたら、勝手に舞い上がって頭に血が上ってる私が馬鹿みたいじゃん。そっそうだよね、そう思うよ、自分でもっ」


 口ばかり流暢に動いて、手は微速前進しかしてない。脚を拭いてる今だって、どこまで袂に近付いていいのか分からなくて、太ももの下流で折り返してきた。正直、あんまり拭けてるような気がしない。少なくとも私がやる意味はない。


「鏡花は、どっちに興奮してるの?好きな人が普段隠してるものを、自分にだけ特別に見せてくれたっていう、シチュエーションに対してなのかそれとも、単純に私の体に魅力を感じて惹起されてるのか、どうなの?」

「それ聞いて、何になるの」

「単純な興味だよ。私は人をそんな風に想ったことがないからさ」


 空々寂々と考えるために手を止める。ふと、嫋やかな縁佳の生足が目に留まる。白くてすべすべで、これまたなぞりたいというか、揉んでみてもいいなーというか、つまり手を止めてまで頭を捻ったけど、なんの捻りもなくずるくもある、両方という回答に至った。


「あ、そう」


 あざ笑うこともせず、まるで別のことを思索しながら聞いてたかのような反応を返される。せっかく気恥ずかしいのに、色欲剥き出しな回答をしたのに。縁佳は私の心なら多少踏みにじってもいいと思ってる、本当に多少は。


「しっ真剣だったのに!」

「わかってるよ。鏡花はいつも真剣だー。それを揶揄うつもりはないから安心して」

「縁佳は、ひょっとしつつもしかしたら体だけの関係で躱そうとか、心のどこかで考えてるのかもしれないけどっ、私は断じて、そんな風にはしないからねっ!」

「鏡花がもっと大人になった矢先には…………まさかね」


 ともかく、無事に鼻血を出すことなく、しかし縁佳から拭き取った分の汗の、二倍の汗をかきながら、彼女の全身の隅々を拭きおおせた。


 それはいいけど、縁佳の一部分でも視界に入る度に、さっきまでの鮮烈な体験が想起されて、いつになってもドーパミンやらアドレナリンやらの濃度が下がらず、余韻に浸され余計に疲れてくる。両腕を投げやりながら、縁佳を見ないようベッドに突っ伏している。着実に回復傾向にある彼女以上に、ぐったりしてるかもしれない。


「鏡花……?いつまで居るつもりなの。もー十分でしょ、十分やってくれたよ。ありがとうっ」

「あのさぁっ、はいそうですって帰ってぐっすり眠れると思う?縁佳が落ち込めば私も落ち込む、縁佳が有頂天なら私も有頂天、縁佳が昨日言ったんだよ、一蓮托生だって」

「いや……、本当に体が軽くなってきたんだって。そりゃあ、このままの体調じゃ学校には行けないけど、明日は振替休日だし。それに、あんまり遅くなると、鏡花の親だって心配するよ」


 軽々しく寝返りを打ってみせて、縁佳は回復したことをアピールしてきた。しかし、多少の無茶を平気でやってくる人だから、もう騙されたりしない。


「縁佳が今夜を乗り切れる気がしない……。水すら飲むのをめんどくさがるし……」

「信用なさすぎでしょ。親から自立しようと躍起になってる人なんだよ。一人で生活ぐらいできますー、鏡花より家事できるんだから」

「んーはー、しょうがない……」


 私は縁佳のスマホを枕元に置いた。


「夜中でも何かあったら、迷わず連絡して。走って来る、二時間ぐらいかかりそうだけど」

「あのねぇ、普通に鏡花にそんなことさせたく無いんだけど」

「逆の立場で考えてみてよ。私以外の友達が、深夜に熱に浮かされてます。そしたら、何キロだって走るでしょ!?」

「えぇー、んー……、走らないよ?常識的に考えておかしいもん」

「そんな簡単に主義主張を変節するなんて!この人でなし!」


 しかしまあ、改めて縁佳のことを見つめ直すと、びっ美人だなぁ……じゃなくてっ、見違えるほどに血色が良くなって、手足を伸ばしてリラックスした体勢を取れている。着実に快方に向かってるようで、少し肩の荷が下りたような気がする。


 何なら上体を起こして見送ってくれた。自然と口元が緩んでしまう。


「それじゃ、明日も来たほうがいい?」

「もういいよー。文化祭を奪ったのに、今度は休日を奪うなんて。鏡花は鏡花で、自分の体を案じなさいよ」

「そう言えば、今日は文化祭だったんだっけ」

「そうだよ。今さら学校に戻っても遅いんだからね」


 そんな冗談も鼻で笑ってやった。縁佳のいないハレの日より、縁佳のいるケの日のほうが魅力的なのは言うまでもない。


 さて、不吉な充足感が途切れぬうちに帰宅しようと、昂然と縁佳の家の扉を開けると、表札の前で見慣れた顔が街灯に照らされてることに気付く。


「あっ、しまちゃーん」

「な、なんでここに皆が?」

「当然でしょ。鏡花ちゃんに自転車貸したままだからさ。これじゃ私、家に帰れないよー」

「うあぁっ、ごめんなさいっ!すすすぐ返しますかららっ」


 家の前に適当に立て掛けておいた自転車を、慌てふためいて鍵も外さず動かそうとしてしまった。がしゃんという音と共に、優しげな笑い声が聞こえてくる。縁佳に甘やかされてるとか言われたけど、それもあながち間違いじゃないのかもしれない。


「全然戻ってこないから、心配したんだぞー?」

「まあ鏡花ちゃんなら、そうなると思ってたけど」

「そうねぇ、ねこの言う通りだったね」

「なっ何!?みんなして、こっちをにまにま見てきて」


 とりあえず露崎に自転車を返して、皆が歩き始めた後を何となく付いて行っていた。


「それより、がすよは大丈夫だった?連絡なかったし、結構深刻だったんじゃない?」

「そ、そうだよっ。大変だったんだよ。だからこんな時間まで居たってわけ。何とか修羅場は潜り抜けたけど、まだ熱は下がりきってないし、咳も止まってないし、ちょっと心配」


 胸を張らずに語れるわけが無かった。調子に乗ると痛い目を見そうだし、縁佳は居ても居なくてもいいって強情を張るだろうけど、今日の私は間違いなく彼女の為になれたと、これだけは自信を持っている。まあだから、少しぐらいは鼻を高くしてもいいよね。


「修羅場?」

「まあ、しまちゃんの献身のおかげで、何とかなったか。私が感謝するのはおかしいから……任務ご苦労だった」

「うむー」


 何となく敬礼しておいた。


「はーあ、心臓に悪かったなー。昨日のよっすーは、そこまで体調悪そうな感じじゃなかったからさー。事件とか事故が頭をよぎっちゃって、気が気でなかった」

「修羅場って?」

「みんなも言ってやってよ。無理したらダメだって」

「ちょっと頑張りすぎだよね。体を壊したら意味ないんだから」


 露崎は自転車を押しながら、しみじみと深々と頷いた。私も激しい同意を込めて、浮遊感が残るほど頷いた。


「修羅場……気になる……」

「わっわかったから寧々子っ、袖を勝手に捲ろうとしないでっ」


 ただでさえ半袖では肌寒くなってきた秋の夕暮れ時なのに、肩が外気に晒されると、思わず身震いしてしまう。腕を揺すって永田を追い払って、愚痴って体を温めた。


「私が何かしてあげる度に、まず逆ギレされるの。縁佳ってほんとに、どうかしてるよ」

「私からしたら、鏡花ちゃんのほうがどうかしてるけどね。もうおまいら、付き合っちゃいなyo」


 永田は人差し指と薬指を伸ばした、独特のジェスチャーでそう言った。


「何というか、がすよらしいなぁ……」

「らしい?よっすーが逆ギレって、あんまり想像つかないけど」

「あぁまあ、がすよにとってしまちゃんは特別だからね」

「と、特別……嬉しい、嬉しい……」

「この通りであります」

「なるほどね。そりゃあ、文化祭なんてやってる場合じゃないか」


 ふいに露崎からの、諦観の籠った視線を感じて、おもちゃを散らかしっぱなしな所を親に見つかったような、幼心に似た感情が呼び起こされる。


「ところでしまちゃん、帰り道はこっちなの?」

「あっ」

「鏡花ちゃんのことだし、焼肉のにおいを嗅ぎ付けてるんでしょ。これから打ち上げなんだけど、鏡花ちゃんの知ってる人だけだし、どう?来ない?」

「はぅっ、ちょうど空腹で死にそうだったの……。昼ご飯、お茶漬け2.5杯だけだったから……」


 自分の腹をさすって誤魔化していると、露崎が自転車に跨って、威勢のいい言葉と共に、ささやかな荷台を手で叩いた。しかし自分で言ってみて、お茶漬け2.5杯で9時間ぐらい稼働したなんて、改めて信じられなくなった。


「よし、私の自転車の後ろに乗れいっ!瞬く間に焼肉屋に連れってやるっ!」

「お、おぉ……」

「いやしまちゃん、危ないよ?なんか鈍臭そうだしっ」

「ん?今早口でなんて言った?」

「そそっそれより、ミケが乗ったらいいんじゃない?」

「お、ちょっと楽できるぜー。んしょっと、行くぞー永田号ー」

「ネーミングライツは売ってませんっ」


 永田が積荷の露崎が運転する露崎が所有する永田号が、がしゃがしゃ音を掻き立てながら、ひんやりとした空気を掻き回しながら突っ走っていった。幕のように寂寥感が降りてくる最中、明世の一瞥に気付いた。


「おっほん、しまちゃんよ、次はどうするつもりなの?」

「次って……?」

「がすよのことだよ」

「もちろん、諦める気はないよ」

「それもそうだけど」

「あーうん、そうだね、引きずり落としてみようと思うんだ。いつも完璧じゃないってこと、みんなに知らしめてやるの。そして、私という存在のありがたみを、分からせてやろうかなっ」

「つまるところ、フッケバインを墜とすのだね」

「はい?」

「あ、これは怪鳥と会長をかけた高度なギャグで……」


 気温が変わったわけじゃないけど、清涼なる秋の入口が今さら肌に染みてきた。縁佳にも尊敬できる部分は山ほどある。こういう時に愛想笑いができる所とか。


 私は縁佳という人間の本質をようやく垣間見られた。空虚であることはそれ自体が問題なだけでなく、社会における自分の居場所、ドラマツルギーを確保するためなのか、やけに満艦飾に自分を飾り立てて、その役割から逸してしまうことを過剰に恐れ、また、自分自身を含む近くにいる人との関わり方を見失って、必要以上に警戒、反発してしまう。


 その能力がたとえ板に付いてきてたとしても、その慣れた能力というのが常にトゥシューズ無しでつま先立ちして舞うようなもので、愚かだとか幻滅とか以前に、ひたすらに痛々しく思えてならない。


 私は縁佳に身を削ってまで、憧憬の対象であってほしいとは思わない。まあ、ブレインに言われた通りに、自分の惨めな現状を覆い隠すために、手を尽くして懊悩して、そうしてるのが一番の幸せだと信じるしかないって思い詰められる縁佳を愛したいし、代わりにそんな彼女のプライドをへし折るのが私の生きる意味とすら思えてきたけど。



 それはそうと、次の日は文化祭の振り替え休日だから、当然お見舞いに行こうと思ったけど、それは叶わなかった。縁佳から風邪を移されたのである。喉は神経が剥き出しになったかのように痛いし、真夏が再来したかのように体が熱いけど、後悔は……ギリしてない。これで食欲が消え失せてたら分からなかった。

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