8-5
「ありがとうございます、助かりました平島先輩!」
「まー、ただマニュアルを読んだだけなんだけど……。じゃあ、後は任せるよ。もし放送機材でまだ分からないことがあったら……、そうだな、鑓水って人に聞くといいよ」
「えっ、あぁー……」
後輩の目が泳ぐ。私はそれを見逃したりしない。
「ん?何か問題でも?」
「問題というほどでは無いんですが……。鑓水先輩、ちょっと話しかけにくくて……」
「それならぁー仕方ない。私でも時間があれば対応するから、頑張って」
「はい!ありがとうございます!」
屈託の晴れた後輩の目はとても澄んでいて、光をまっすぐ反射してくる。最近の鏡花は、反射するどころか増幅してお返ししてくるから困ってたのである。こういうのでいいんだ、じゃばじゃばと音を立てながら、心の中に充足感が注ぎ込まれていく。
忙しければ忙しいほど心が躍る。次の依頼を求めて、放送室の重い扉を開いて廊下に出た。
「あ、よっすー先輩ー、探してたんですよー」
「あれー、君はバレー部の鈴浦じゃない。どうかした?」
「バレー部の出し物の件ですよっ。よっすー先輩が前例がないからダメって言ってた、と露崎先輩が言ってたんだけど、本当なんですか!?」
「えぇー、私がそんな、血も涙も代案もなく突っぱねることは無いって。そのままだと、最終的な裁量権を持つ文実が、認めてくれなさそうだったから、いくつかアドバイスしただけなんだけど……」
ここを直したほうがいいとか、こうした方が客足が伸びそうとか、私が論った箇所をダメな理由だと思い込んだんだろうか……。つくづく露崎の、物事を針小棒大に言い換える程度の能力には手を焼かされる。
「しょうがないなぁ、今、学校にいる人だけでいいから、会議室に招集できる?早めに協議して、準備に取り掛かれるようにしたい」
「わ、わざわざありがとうございますっ。みんな呼ぶので、ちょっと待ってください!」
まあ、露崎のおかげで、また一つ感謝を得ることができたと思えば悪くないか。さっきなみなみに注いだ気がするけど、さらに充足感がグラスに注ぎ込まれていた。
こんな風に、学校を歩いてるだけで問題にぶつかるというか、クエストを依頼されて、それを華麗に解決していく。これ以上の稼ぎ時はない。文化祭っていい行事だなぁ。
しかし生徒会長という役職に課せられるのは、目立つ仕事だけではない。バレー部の出し物の構想が固まったところで、生徒会室に戻って事務作業を進めることにした。当日は自販機の在庫を増やしてもらわないとなぁ。後は、今年も地元の新聞社が取材に来るから、その応対も考えないと……。
頭の中でタスクを整理しながら、無警戒に生徒会室に入ったので、生徒会長の椅子にふんぞり返ってる人に気付かなかった。手の届く距離に到達して、初めて驚嘆し合う。なんで向こうも驚いてるんだ……。
吃驚こそしたものの、全くそこを動く気がないので仕方なく、その前にある鏡花とかがよく使ってるソファに座って、体を横に向けて話を聞いてあげることにした。
「ごっほん、いかにも、私は神宮寺嘉琳、この学校を五本の指に収める人だ」
嘉琳は手を力いっぱい大きく開いて、それ?どれ?を誇示してくる。自由参加の三年生と違って、こっちは忙しいんですけど……。やっぱり、こっちのペースを奪ってくる人は苦手だ。
「まあ自己紹介してもしょうがないね。この物語の主人公は、私たちじゃないんだから」
「私でもないだろうよ」
「それはどうかなっ?」
目をかっぴらいて、こちらを指さしながら自信満々に切り返してきた。明世の下位互換みたいだな、この人。
「さてさて、さっさと本題に入ろうか。生徒会長さんなら、我が軽音部、正確に言うと私は部員じゃありませんが、とにかくその惨状はご存知でしょう」
「承認欲求に負けた陰キャの墓場だね」
「そこまでは言ってないっていうか、ここがSNSなら炎上するよ!」
「賛否両論で大バズり間違いなしっ」
「えーっとっ。話を戻すけど、その惨状を憂い、一人のOGは立ち上がりました、というか命令しました。二年生でまともなバンドを組んで、文化祭で披露しろと」
「はぁ、勝手にやっててくださいな」
「ボーカルやってはーとっ」
わざわざ言行一致させて、指でハートマークを作ってきた。誰か、こいつだけを狙い撃ちしてしょっ引ける法律を制定してくれ。
「待て待て、どうして私に?」
「楽器引ける組は集まったんだけど、全員もれなくいがみ合ってて、テラワロスって感じでさー。でも、平島さんならまとめられるんじゃないかなーって。文化祭まででいいから、頼めないかな?」
つまるところ、人を束ねるという才能のような、属性というほうが正しいような、私のほぼ唯一の武器を欲しているらしい。それはいくらでも提供するんだけど、達成できれば皆からの敬慕を集められそうだけど、何かが喉につっかえてるような気がして、渋々即答するいつもの癖が発動できない。
それなら君子危うきに近寄らず、と言いたい所だけど、ここでその信任を辞退することは、私というブランドには許されないとすぐに気付く。どんなお人好しだろうと、そもそもこの葛藤を知るはずないのだから、嘉琳は恐らく友達に「縁佳には断られた』と話してしまう。これは自分の限界を知らしめる自殺行為で、そんな選択肢は選べるはずがない。
「無論、無茶だっていうなら、私がやるけど。でも一応、二年生で組んでってお達しだから、最後の手段だねぇ」
「わかりましたよ、やればいいんでしょやれば。でも、クオリティは期待しないでね」
「なんか綺麗事みたいだけど、他の四人も粒揃いだから、皆の気持ちが一つになれば、自ずといいものになると思うよ。君にとっては大したお仕事じゃないでしょ。それでも、助かったことに変わりないから、私から朱綬褒章をあげよう。そんなものは無いんだけどー」
嘉琳は屈託のない素直で純真な笑顔を保ったまま、生徒会室を後にして、ようやく会長の椅子を明け渡してくれた。すかさず代わって、水筒の中身でも飲んで喉を潤した。うーむ、単調なはずの事務作業すら始めるのが億劫だ。いつものように頼られただけなのに、得体の知れぬ不安が、充足感を急速に置き換えていた。
頼まれた翌々日ぐらい、OGの無茶ぶりを叶える二年生特別バンドの顔合わせが、軽音部が普段練習してる部屋で開催された。集合時間から一時間は経過したけど、ギターの人には無意味って難癖付けられて欠席されたけど、まだ全然上出来だろう。
「あれ?特別ボーカルって、よっすーの事だったのかぁー。なんだなんだ、身構えちゃったじゃん」
「あぁー……、ちょっとは身構えたほうがいいかも……?」
「え?なんでー?」
「いやその、音楽経験ないんだよねぇ」
見るからに手ぶらで来たこの人は、同じクラスの友達だった。人によって態度をころころ変えることで市井では有名……私には運よく最初から良い方に転がってくれた。まあ、長い物に巻かれるタイプとのコミュニケーションは、自分が長い物になれば解決するのである。
それはそうと、つい雰囲気に気圧されて初心者アピールをしてしまったが、あと二人どちらとも、実力のない者は帰れとか無惨に突きつけないでくれるだろうか……。鏡花が普段、私に対して感じてるような緊張感で、背筋が張り裂け、胃腸が千切れそうになっていると、悪口と事実の境界みたいな発言が、壁際で偉そうに腕を組んで、足をクロスさせてる少女から飛んできた。
「それでも、声をマイクに向けて張り上げることぐらいはできるでしょ。大丈夫大丈夫、よっすーは客寄せパンダ、立って嬌声を集めるだけで合格」
まるで鑓水のような研ぎ澄まされた暴言、しかし彼女はそれを、誰彼男女大人子供構わず言い放つから危険なのである。人間友好度極悪である。それでも、どうやって風が吹き回ったのかは忘れたけど、友達なことに変わりはないので、私の敵ではない。
本当は大笑いでもしてやりたいけど、場の空気に馴染まないので、不承不承図星を突かれたように愛想笑いをしながら、別の方向に視線を向ける。椅子に座って船を漕ぎながら、目が据わってる友達がいた。井の中の蛙だったら恥ずかしいけど、少なくとも同級生で面識のない女子は、片手で数えられる程なのではなかろうか。顔は小さいほうなのに。
でも、私がどれだけ目線を合わせようとしても、目を据わらせたまま動じることはなく、そして相変わらず決め台詞みたいなのを連呼する。漫画とかアニメに出てきそうな、あらゆる意味で現実離れした強キャラのような風格がある。実際、楽器のセンスはあるんだろう。
「わたし、見てますからね」
「はぁ、見られてますね」
「どうせやるのだから、妥協するべきではないと思うんです。なので、見てますからね、二人も例外なく」
「何、あんた喧嘩売ってんの!」
目の据わった彼女は長い物だと認定されなかったらしく、あっという間に一触即発の危機が訪れる。私とはそれぞれ友達だけど、友達の友達はその限りではなく、自分と友達じゃないよりはマシだけど、調停役というのも決して楽な仕事ではない。
「まあまあ、私のド下手くそな歌で全部かき消されちゃうから。元からそれなりに上手い四人に目くじらを立てるより、私を見るに堪えるボーカルにしてくれー」
「だから、見てるんですよ」
「見てるだけかよ」
「はっ、くだらない、誠にくだらない。こんな茶番に付き合わされるぐらいなら、私とよっすー二人で舞台に立つ」
「余計に私が目立つじゃん!20%から50%に負担増だよ!?」
「奇遇だね、私と意見が合うなんて。まっあんたと違って、ネットでちやほやされるのに忙しいって理由じゃないけど。あのOG、虫が好かないのよね」
「めっちゃ幼稚な理由だなぁ、おい」
「私と同じ意見を持つな、このボンクラが!地獄に落ちろ、穢らわしい!」
「もっと幼稚だ!」
混ぜるな危険、人間にも黄色と赤色の文字で書いておくべきだ。いくらOGの無理難題だからって、あまりにも有毒すぎる。私の相槌も無視して、二人は拳を構えて殴り合う準備すらしていた。
とりあえず、今日はこれで解散することにした。このくらいで疲れたり絶望したりはしないけど、いくら稚い争いでも、このままヒートアップされると暴力沙汰になりそうだし、それに練習の主導権を私が直接握ってしまうと、今日顔を見せなかった五人目が拗ねそうだし。冷静に考えて、音楽的素養のない人に、あれこれ指図されるのは好まれないはずである。今日来なかった五人目の好きなように日程を合わせて、そしてそれをさも私が提案したかのように、今日顔を出してくれた三人に対して振る舞えば、完璧だろう。
人間関係はどうにでもなりそうで、この時の私は溜飲の下がる思いすらしていた。けど、仲を取り持つ上では大いに役立った、交友関係が広く、誰からも信頼されているという、一年半ほど掛けて望んで仕立てたこの状況が、ここに来て仇なすことになるのであった。
あいつらは別に練習しなくてもいいのかもしれないけど、こっちは毎日練習する羽目に。いやまあ、一緒に練習したいとは思わないけども。
軽音部の三年のボーカルの人と、おまけでその友達を名乗る黎夢に、色々教えてもらいながら歌の練習をして、もちろん文化祭の準備にも邁進する。いやぁ、私って凄いなぁ。忙しければ忙しいほど、満たされていく実感がある。その充足感が、筋肉をほぐして疲れを癒してくれる。
今日は仕事が立て込んでて、練習が下校時刻まで続いた。こんな時間まで付き合ってくれた先輩に頭を下げつつ、次は夕飯に何を買って帰ろうか、脳髄を絞り散らかして考えながら、扉を開いた。
「うっうわー、よっよすがだぁー」
練習が終わるのを、部室の前で待ち伏せしてたであろう鏡花が、棒読みしながら両手の平を見せてくれた。
「何、降参?」
「違うよっ、偶然に運命を感じてるんだよっ」
「待ってただけでしょ」
「……何が悪いの」
そう問われると、確かに何が悪いと説明はしにくいが、でも看過できる行為でもない。
「心臓に悪い」
「何が」
「鏡花が」
「悪くないし。構ってくれないほうが悪いよね。お泊り会してから、何も起きてないんだよ、うんうん」
存在しない第三者に共感を求めるように、鏡花はそう嘆いた。最近の目に余る行動の数々、私が容認するしかないのも原因だけど、そもそも鏡花の中では既に私の彼女になってる設定なのかもしれない。夢見がちで許されるのは、中学生までだと思う。早く大人料金払ってください。
まあ、一緒に帰るぐらいはしてやらんことも無いと、夕暮れの薄気味悪さを煮詰めたような、人気のない廊下をゆっくり進んでいると、鏡花が昇降口の前で唐突に反対に曲がって、階段まで上っていく。無視して帰ると末代まで呪われそうなので、もう何度目だかわからないけど、只管めんどくさそうにしながら付いて行ってさしあげた。
で、二階の自販機が三台並んでる場所に来た。当然、下校時刻は過ぎてるので、先客などいるはずがない。
「選んで」
選ばないとこの学校に囚われてしまうので、適当に天然水を選んでおく。もはやゲームのイベントだ、選択肢を選ばないと物語が進行してくれない。間違った選択肢を選び続けても、無限ループが起こるだけ。
「わかったわかった、コーヒーでいいよ」
「ダークコーヒーね」
「は?」
数あるブラックコーヒーの中でも、一番コスパの悪いのを奢ってくれた。いや別に、水筒に水道水を補充した余りがあるから要らないんですけど……。口を横に伸ばして嫌そうな顔をしつつ、故意にちんたら手を動かして、せめてもの抵抗をしてみる。が、向こうから押し付けてきて、そして私が缶を握ったのを確認すると、次はそこのベンチに座れと命じてきた。そこはかとなくフットインザドアの香りがする。いや、もう散々イエスを重ねすぎて、既に引き返せなくなってる。気付いた時には手遅れってやつ。
確実に鏡花はくっ付いて座ろうとするって分かってたので、鏡花が座った瞬間に体をベンチの外側へスライドさせる。さすがに追撃してこない。欲望に忠実なように見えて、何だかんだ鏡花も距離感を謀って図ってるのだろう。でもたまに欲に負ける。
「飲んで」
薄暗く静謐で、自販機の光だけが不気味に輝くこの雰囲気の学校に、その三文字だけがこだまする。ふと、目の前にある、陰に呑まれ始めた顔を末恐ろしく思う。一瞬、鏡花であることを忘れかけた。要はなんか毒とか媚薬とか睡眠薬とか入ってそうで怖いなーと、事実無根の深謀遠慮にビビってる。先に異物混入コーヒーを自販機の取り出し口にセットしてる可能性もあるわけで、安易に全ての選択を委ねるべきではないという教訓を得た。
それはそうと五行分も思考していると、鏡花が癇癪を起こしかねないので、腹を括ってぐいっと飲んだ。これで死んだら、それは自殺という扱いにしてくれ。
「あー、まあ、奢ってくれてありがとう」
「べつ別に、これくらいどうってこと無いしっ。喉乾いてそうだったから、気が利くでしょ」
「そこまで乾いてたわけじゃないけど……」
「隠さなくていいんだよ、遠慮もいらない」
「んー、有難迷惑だなぁ……」
影をかき分けて鏡花の表情を読み解くと、とても自信に満ちていて、この善意を振りかざすことに迷いがなさそうだった。純朴な動機かと言えば、微妙なラインだけど……。少しでも好かれたくて貪欲にやってるだけなのだろう。
一口だけ飲んで満足して、ついいつもの癖で隙あらば鏡花の表情をうかがってると、「ねえ」と鏡花にしてはおどろおどろしく呼び掛けられたので、二口目を急いだ。
「最近、何してるの」
「何って聞かれても……。最近は文化祭の準備が忙しいなーってぐらい?」
「そうじゃなくて、わざわざスタジオで、何してるのって聞いてるの。あそこって、実質軽音部の部室でしょ。毎日毎日、隙あらばそこに行ってさ。答えて、何を企んでるの、私に言えないようなこと?苦しんで傷付いて悶えて、動揺して逡巡して迷走して、戦々恐々して周章狼狽して意気消沈して、私がそうなっても守りたい秘密なの?」
鏡花は両手をベンチに突けて前のめりになって、せっかく離れたのに鼻が接するぐらいの距離感で、物理的にも精神的にも回答の隙を与えないよう捲し立ててくる。秘密にする気はなかったのに、強制的にもったいぶらされてる。んんー……、まあ目が泳ぎ回って据わってないだけ、威圧感が削がれて、鏡花らしい詰めの甘さを感じるのが救いかなぁ。
「あ、いや、大したことじゃないんだけど」
「新潟中越地震に比べれば、大抵のことは大したことないよ」
「文化祭で、突如としてバンドのボーカルを頼まれまして、その練習をね……」
凄まじい険相だった鏡花が勢いを失って無言になって、なんかニコニコしたそうにしている。
「人に見せるわけだから、それなりに仕上げないとね」
「そ、そうね……。って、どうして言ってくれなかったの、私には一番に教えてくれてもいいじゃん」
感情が反復横跳びしてて、それに付き合わされる鏡花の表情筋は苦労してそうだった。
「なんか、あんまり話す機会なかったから」
「わざとなんでしょ。距離が縮まりすぎたら、リセットするために時間を空ける。ほんと、私のことをギャルゲーのヒロインみたいに扱ってさっ」
「よくお分かりで。当たり前だけど、あくまでも善意だからね、鏡花のわがままに付き合ってるのは」
「あぁ、そうそう!私、文化祭の日、終日暇だから。まーじで何もすることないから、縁佳に付きまとうね」
「はへ?何の話?」
もう、私に何をされようと落ち込まないってことなのか、それとも単にアドレナリンで視界不良になってるだけか。鏡花は、日を追うごとにますます矛盾が加速させていく。一つ確かなのは、匹夫の勇がみなぎってるってことぐらいだった。
「だーかーらー、もちろん聞けるよ!縁佳の歌声を!」
「おーあー、どうもどうもー」
「文化祭前の準備期間に遊べない代わりに、それで手を打ってあげるよ。だから、いい歌を聞かせてね」
当然、鏡花からは百人分とも思える重い期待を課される。それ自体は悪い気がしない。というか、そういう友達が身近にいてこそ、私という人間は輝けるのだし、価値が生まれるのだ。だからやっぱり、鏡花と友達ではいたい。友達のその先でも構わないけど。親友とか盟友とか悪友とか、間違っても恋人ではない。
「ところで、縁佳って歌上手いの?あっ別にっ、上手い下手関わらず楽しみだけどねっ!?」
「うぅーん……、たぶん人並みかな、少なくとも光るものはないって、自他共に認めてる。まあ、鏡花は私がステージに立ってれば、それでいいのかもしれないけどさ」
「だからこんな遅くまで練習してたの?」
「そういうこと。先輩に稽古つけてもらうことになってね。まあ、それで全部よ。鏡花の疑念も晴れた?」
「そっか……。生徒会長としての仕事もあるのに、大変だね」
「それくらいが丁度いいんだよ。十代後半の時間は、何もせず過ごしてしまうには惜しいからね」
「あっえとあの、だからこそ、何か力になれたらいいなぁって思うから、苦衷を抱えてる時はいつでも私に相談、してくれたら私がいいなぁってなるんで、お願いします」
「ほぉ、そうねぇ、コーヒーの残りを飲んでもらおうかな。もうお腹いっぱい」
缶を鏡花の手に擦り付けると、彼女はぱっとそれを掴んだ。鏡花のお金で買ったんだから、鏡花にも飲む権利があるはずで、押し付け……素直に受け取ってくれて良かったー。内心ほっとしていたら、闇を払うように鏡花の顔が赤くなっていって、狼狽え始めた。
「かかかか間接キス……」
「え?そんなこと?私は気にならないので」
「ううっ嬉しいなー、そう、嬉しいんだよ?でもまずは、相手の見えない所でやりたいっていうか……」
「それって、どういう意味?誰もいない教室で、好きな人のリコーダーをべろべろ舐めることから始めたいって言いたいの?」
「うっさい、いつか正々堂々べろべろ舐めてやるんだから!」
「あんたは本当に、私に好きになってほしいって思ってるの?」
しかしまあ、鏡花が抗えるはずもなく、私の飲みかけを背中をのけ反らせて一気に流し込んでいった。そして勝手にビタースイートを見出していた。
「心臓が壊れそう、すごいバクバクしてる」
「カフェインのせいでは?」
「ち、違うから!夢も幻もないなぁ、縁佳は」
「はい、帰るよ。見張りの先生に見つかったら面倒だから」
「せっかく二人きりなのに。もっと大切にしようよ……」
二人きりでいる時間が長くなればなるほど、それは貴重なものじゃなくなると思うんだけど、その辺はどういう了見なのだろうか。まあ、鏡花が深く考えて、愛を語ってるわけないな。鏡花がどれだけしょんぼりしようと、私は無視して立ち上がって、階段のほうへ歩き出した。鏡花は保育園児のような危うい足取りで、慌てふためきながら追い掛けてきた。
「缶、捨ててきなさいよ……」
足を止めてまでそう呼び掛けたのだけど、飄々とした態度で断られた。
「え?これは宝物だよ。家宝にする」
おいおい、どこかで聞いたことあるって。そんな綺麗な物じゃないだろ……。
足を止めたことを良いことに、腕を組みながら、眠るようにしばし真剣に考えてみる。許可したわけじゃないけど、刑部がやってたことを、鏡花にするなって言っていいものか……。
「縁佳になんと言われようと、持って帰るからっ」
「あーはいはい、勝手にすれば」
投げやり気味に回答しただけなのに、鏡花は歯の間から空気を漏らすように笑って、缶を優しくいっそう握りしめた。本当に、いったい何の価値があるのやら。私を好きになるような変態のすることなすこと考えることは、人間との付き合い方を体系化するのが好きな私にすらよく分からない。
余裕のある高音、粒を光らせるような丁寧な歌い方、ロックとは何かとか、聴衆の感情を揺さぶろうとか、そういう事は微塵も考慮せず、ただカラオケでいい点を取ろうとするように、三年のボーカルの人は精緻に巧妙に歌い上げる。
「……はい、大体こんな感じ。参考になった?」
「きゃぁーっ、かっこいいーっ」
「おい、あなたは黙っててくれない?」
唸るように叱られた黎夢は、いじけてその場でくるくる回転し始めた。
「あっうん、何となく理解した。ありがとう」
「それならいいけど……」
「何か気になることでもあった?」
「えーっと、歌のことじゃなくて……。馬鹿な先輩のお願いを承って、しかも手を抜かずに取り組もうだなんて、社畜予備群なの?って、ずっと前から聞きたかった」
「だって、恥はかきたくないし。それに、そういう人間だからこそ、得することも多いんだよ」
「ふーん、敗軍の将も大変ね」
「何その言い方ー。まるで勝利宣言みたいじゃんー。二人って戦ってたのー?」
「こっちは寄せ集め+素人一名なんだから、勝負にならないでしょ」
「とは言え、足掻くんでしょ。まあ、何度でも練習に付き合うよ。人を教鞭で殴れる日が来るなんて、夢にも思わなかったから」
「どうもどうも、助かります」
真面目で向上心あふれる、そのひた向きな姿勢が軽音部では天然記念物級のボーカルは、黎夢を引き連れてこの部屋を後にしていった。
得するとか言った手前、私は懊悩していた。教授していただけるのは幸いだったが、結局のところ当日は、そんな彼女と比べられてしまうのである。単純な技巧だけで評価されるわけじゃないから、出藍の誉れを目指す必要はないにしても、しかし私たちの番で失速すれば、それは私の失態となるわけで、どっちにしても場数を踏んでいる彼女のほうが有利である。
というか正直、私では足元にも及ばない。でも、それでは立つ瀬がない。面目を失えば、ここで築いてきた全てを失いかねない。だから成功させるしかなくて、私のカリスマは三年生の熟れたバンドにも劣らないと誇示するしかなくて、あと一年半、この学校で過ごすには、伝説を打ち立てるのが最低要件だった。
今の白高のほぼ全員が、私を特別視している。それはもはや空気のようなもので、だからこそ全員が共有する価値観なのである。無論、期待に応えられなければ、その空気も簡単に共有されて、私はただの一生徒に落ちぶれる。そうなれば、空虚で味気なくて価値の判断基準も皆無で、居ても居なくても同じで、利用もできなくて、見るべき才覚もない、藁人形と同格の存在に逆戻りである。
他人から信頼されて慕われて、刑部のおかげでやっと生き甲斐を見つけられたのに、全部アンインストールしなきゃいけなくなる。嫌だ、誰だって自分は守りたい、守りたい自分を持っていたい。
だけど、二十四時間自分の全てを使い潰しても追い付けず、私が居るというのがセールスポイントである以上、舞台の上では糊塗することも許されなくて、反響する噂に冷や汗を流しながら頷く悚然とした日々に、体が削り取られていく感覚すら起こる。知り合いの数は今や銃口の数で、私の存在を脅かしている。それでも、たとえこの依頼を承った時点で蹉跌をきたしてたとしても、文字通り何も無い人間に退潮したくないという一心で、そもそも何心も持ち合わせてないけど、とにかく死ぬ気で孤独に悪あがきしようと、もう百回ぐらいは心に決めている。
先輩の背中が見えなくなるまで見送るなんて、似つかわしくない律儀なことを意図せずやっていたら、背後からの凄まじい視線に意識が向いた。鏡花よりも集中力と貫通力が段違いで、撫でられるというより刺されるようで、思わず振り返ってしまう。
「見てますよ、今も、練習中も、昨日も」
「でしょうねぇ」
見てる人は椅子に座って、部屋の反対側の定位置から目を凝らしていた。ドライアイにならないのだろうか。それとも、だるまさんが転んだ的な感じで、誰も見てない時に余分にまばたきをしてるのだろうか。練習が終わって緊張が解けたからか、一旦休憩したくなって、手近なパイプ椅子に腰掛けて、見てる人に構ってあげた。
「でも、ただ見てるだけじゃ、ありませぬ」
「それにも、でしょうねぇ。ただ見てるだけだったら、あまりにも時間の使い方が下手すぎて、失笑してしまう」
「随分、追い詰められてるようだけど、誰かと因縁でもあるの?」
「因縁?ないない。私はあんまり引きずらないタイプなんだよー」
どんな酷い仕打ちを受けようと、私が友達だと認定したら、わざわざ縁を切ろうと思うことはなかった。刑部とだって、向こうが引きずって、事実上の絶縁状態になったのである。私は常に、過去のいざこざは、清算される必要だってないというスタンスで、一貫している。
「じゃあ、実は緊張に弱い」
「私の弱点を探るなんて、スクープでも書こうとしてるの?」
「どうしてそんなこと言うの?」
「え、いやだって、追い詰められてるとか、妄想を口にするから」
「わたしは見てるの。見た見た見った上で、相談に乗ってあげようかと思って」
「えぇ、結構お断りなんだけど……」
日頃から、たとえUFOが空を飛んでたとしても、目を微動だにさせない集中力を鍛えてるからか、私の言葉に耳を貸さず、被ってても引っ張られることなく、自分の言いたいことを言い尽くそうとしてくる。鏡花だったら、わーわー騒いで私の口を封じてから話し始めることだろう。
「肩の力を抜くタイミングって難しいよね。なんであいつはサボってるのに、自分だけ注意されなきゃなんないんだって、憤りたくもなるよね。ちゃんと見ろって思うよね」
「私は生徒会長でタスクが詰まってるのでね、のんびり雑談してる余裕ないの。もう行くから、部屋を出る時は鍵だけ職員室に返しといて」
本当は、校内をうろうろしてると頼られてしまうから、たまにはここでぼーっと脱力してようと意気込んでたのに、居場所っていうのは難しい。重い腰を上げてパイプ椅子を折り畳んで、ムッとしながらドアのほうに向かった。
「わたしが見てるのは、あなただけじゃない。あの先輩も見てる。あれは、一朝一夕で身に着けた技術じゃない。どれだけ喉を枯らしても、時間を掛けなければ追い付けない」
どうしてこいつらが寄せ集めなのか、本番も近くなったこの頃、腑が陥没するほど理解した。社会性の欠如や、他人を見下したり虚仮にしたり、そういう感情を抑制できないだけじゃない。こいつの場合は、イキりではなく本当に趣味が人間観察で、人格の一角で、見なくていいものまで見てしまって、その結果誰からも好かれなくなったのだろう。
上手くコントロールすれば、強力なパトロンとなってくれるけど、悔しいけどこいつの言う通り、今の私には余裕がない。だから等閑に付すことにした。こんな言葉に馬鹿正直に耳を貸していては、湿気で私自身が腐ってしまう。
「何を恐れてるの?何を疑ってるの?見てるだけじゃ、分からないこともあるんだから……」
しかしまあ、のど飴ってどうして甘いのだろうか。甘くないって謳ってる商品があったから買ってみたけど、集中して味わうと甘さを感じる。メンソールの辛さは悪くないけど、音域が100オクターブになるぐらいの効能がないと、次は無いかなぁ。
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