8-4

 任天堂は偉大だ。急に何を言い出してるんだかよく分からないけど、とにかく大助かりだったのである。


 時間が余ること必至なお泊り会、いくら永田といえども根は真面目な高校生だし、手持ち無沙汰になったら夏休みの宿題でも始めかねない。しかしそれでは、思い出の味が濁ってしまう。縁佳とのお泊り会なら尚のこと。そこで、常葉お姉ちゃんのお姉ちゃんからNintendo Switchをお借りしてきたのであった。時代の進歩には瞠目せざるを得ない。この薄い板の中に、無限の娯楽が詰まってるのだから。


「よすが強いぃ……。少しぐらい手を抜くとか焼くとか、そういう気遣いは無いの……?」

「鏡花は適当に、思うがままにやり過ぎなんだよ」

「考えながらボタン押せない。どういう思考回路なの?」

「なんでそんな角が立つ言い回しなの……。えぇー、特に意識してないからなぁ」

「これが天賦の才ですかさいですか」


 勝つ方法じゃなくて、勝てない御託を探してしまうのが人間の性でして、あぁそうか、縁佳はスポーツをやってたから、体を動かしながら臨機応変当意即妙に思考する能力が身に付いたのか。人生は経験が明暗を分ける、分けられた、暗がりに。


 ゲームしたり持ってきたスナック菓子を食べたりしていたら、すっかり日が落ちていた。これからが佳境なのに、縁佳とのお泊り会も確実に終わりが近付いてるなーという寂寥感と、いつも夕食がこのくらいの時間なので空腹が同時にやってくる。つまり、やけ食いの機運が高まっている。


 まあ、時間が早く進んだように感じるのはいいことなのだ。この時間が私にとって、とても幸せだということの証左だから。すぐ隣に縁佳が座っている幸せに震えて、両手で脚をみっちり抱えて、頬を膝に擦り付けて堪えている。


「縁佳の家は、何時ぐらいにご飯食べてるの?」

「んんー、大体このくらいの時間かなー」


 と言いつつ、縁佳は後頭部を壁に付けて、平然と何かを考え始めた。我が家ならにおいだけで、あらかた献立を予想できるんだけど、他所では全くこの能力が活かされないのである。というかそもそも、何のにおいもしてない気がする。もっとも、毎日だいたいのメニューを、素材から用意してる私の母親が凄いだけかもしれない。普通はスーパーの総菜とか、出来合いの品に信頼を置きたくなるものだ。


「せっかくだし、どこかに食べに行こうか。食べたい物ある?」

「うん?お母さんが用意してないの……?あぁっちがっ、乞食じゃないっていうか、出してもらって当然だと思ってるわけじゃないっていうか!」

「鏡花だって腹一杯食べたいでしょ?だから」

「それはぁーそうだけども……」


 夕飯が別々だなんて、私だったら毒でも盛られない限り、そうしようと決心しないけど……。共働きならともかく、平日の日中にずっと家で活動してるんだから、そういうわけでも無いんだろうし、単純に食べ物の嗜好が合わないから……、育った国が違うならまだしも、同じ日本人で、同じ釜の飯を食らえないことがあるのか……?


「そうだけども、の続きは?」

「はっ、縁佳って実は帰国子女だったりするっ?」

「え、全然海外行ったことすらないけど」


 縁佳は腕を組んで、小首をかしげた。


「だって美人だし、人を惹き付ける魅力に富んでるし、英語話せそうな雰囲気あるし」

「何その、創作に出てくる帰国子女像は」

「じゃあ、ハーフ?」

「鏡花よりは大和撫子に近い自信あるよっ」


 髪飾りを選んだ時に、撫子という選択肢も一考したのを思い出す。ただの黒なのに、これほど鮮やかで輝いて美しい髪で、何度見ても惚れ惚れする。まあ十中八九、縁佳への贔屓目が入ってるけど。


「あの、鏡花ー……?あーわかった、鏡花がゲームで勝てない理由」

「え?」

「私の存在に気を取られてるでしょ」

「そうだよっ!縁佳がかわいいのがいけないんだよっ!罪だよ、暴力だよっ!」


 こうやって、ニコニコしながら話してる顔もいいけど、ゲームの画面をまばたきを減らして真剣に見てる顔も眼福である。動悸にも似た激しい胸の高鳴りは、だいぶ落ち着いてきたけど、十秒に一度は縁佳を視界内に捉えないともったいないというか、意識せずとも首が勝手に回ってしまう。


「急に大声を出さないの。私の容姿はどうでもいいから、さっさとご飯食べに行こ」

「縁佳が優しく諭してくれるの、好き。最近あんまりやってくれなかったから、余計沁みる」

「えぇ……。もう何でもありじゃん」


 歩いて行ける範囲に回転寿司があるらしいので、そこに行くことになった。旅行に行く前が一番楽しいのと同様、外食も行く前が一番お腹が空く。……それは当たり前だった、栄養不足と縁佳の美貌と仕草の愛くるしさに酔ってるせいで、頭がちゃんと回ってない。


 玄関で縁佳が靴を履き終わるのを後ろで待ってると、縁佳の母親がトイレから出てきて、私たちのほうを瞥見した。お邪魔してるのはこっちなのに、ペコっと軽く頭を下げられたので、何か反応しなきゃって発作が起こった。


「あ、えっと、どうも」


 私の視線を感じて、縁佳の母親がもう一度こっちを向いた。


「夕飯食べに行くの?」

「はっはい、そうです、行ってきます」

「気を付けてね」

「あ、あのっ、……一緒に行かないんですか……?」

「え?私は大丈夫よ。家にご飯あるから」

「鏡花っ!早く行くよ、暑いから」

「でも、どうせなら家族で…………父親不在で他所の子が混ざってますが」


 私の一瞥に反応してか、後ろから鍵を開ける音が聞こえてくる。そんなに急かすこと無いじゃんって思う。縁佳の母親も、私と後方の縁佳を交互に見やりながら、回答に迷って動作を停止してしまった。この家には、いくら換気しても収まりそうにないほどの、重苦しく退廃的で空気が沈滞していることに、今更ながら気が付く。この時の縁佳の表情は知らないけど、気配だけで何となく勘付く。縁佳の親子関係は、冷め切って他人行儀で、一つの屋根の下で暮らしてるのが嘘のようだった。


 だからこそ、このまま見て見ぬふりをするのも違うと思う。殺意にも似た気迫と、余計なお世話だと言わんばかりの視線によって板挟みになりながらも、それが正義だと信じて、私はせがみ続けた。


「いつもバラバラなら、今日ぐらいはいいと思います」

「ううーん……、そこまで言われると……。分かりました、準備するから少し待っててね」


 もし仮に、お互いの信頼が地の底まで失墜してて、その間に奈落より深い溝があったとしても、家族という鎖は途切れないわけで、だからこそそれらしく振舞うべきで。私が振り回してる、縁佳と自分を繋ぐ鎖とは全然違うのだ。拒めないし、それほど嬉しくない、ほぼ義務、そんなものをあてにするぐらいなら、縁佳に全てを委ねたい、だけど一応の最後の砦だったりもする。


 とりあえず、私も靴を履こうと、玄関のほうに体を向けると、ドアを今にも押そうとして固まってる縁佳が視界に映った。


「鏡花ってさ、ほんとに可哀想だよね」

「何を今更」

「冗談じゃなくて。誰もあなたと腹を割って付き合ってくれなかった。だから、本来人と関わる中で調整されてくものが調整されず、どこまでもまっすぐに歪んだまま、ここまで大きくなってしまった」

「じゃあ、縁佳が腹を割ってよ」

「はぁ。腹を割るっていうのは、鏡花に都合のいい人間になるってことじゃないんだけど」


 縁佳が空っぽの腹に響くような低音で、威圧するようにぼやく。部屋でゲームしてる時に散々よそ見した、穏やかに夢中な雰囲気はあっという間に吹き飛んでいた。


 縁佳がここまで不機嫌で不愛想で不満げな要因が、自分が何気なくある種の社交辞令のように放った言動だってことは、状況からさすがに理解してるけど……。一緒にご飯を食べることを忌避するぐらい、実の親を憎んでるというのが、やっぱりにわかには信じがたくて、申し訳なさより、得体の知れぬ気味悪さのほうが先行していた。そんなことで、腹を割ってまで腹を立てるなんて、それを上手く説明できる論理が、まだ眠ってるというのだろうか。


「よ、縁佳は、何のお寿司が好きなの?……かなぁー、あははは……」

「鏡花と違って、私は馬鹿舌だから、醤油付けたら全部一緒に感じるの」

「今食べてるエンガワとか、好きだったり……?」

「別に好きだから食べてるわけじゃない。みんな食べてるから選んだだけ」

「えぇ、じゃあじゃあ、さっき食べてたアジは……」

「あーもう、強いて言うならイカが最悪、無味無臭のガムね、あれは」


 噛み切れない部分も、意を決して飲み込まないからそうなる……。じゃなくて、縁佳は周りの目を気にしながらでしか、寿司もまともに選べないのかと思うと、誠に勝手ながら惨めに見えてきて、救ってあげたくもなる。


 しかしまあ、そんな事がどうでもよくなるほど、この卓の空気は凍り付いてるというか、死にかけていて、生命の生存に適さない。両隣の家族は、本当に心の底から明るく食事をしていて、余計にここの異常さが際立つ。そもそも、回転寿司に来てテンションが上がらないって、富裕層かよってツッコミを入れたくなる。やっぱり、おかしな所を私よりも器用だからって、巧みに隠して生きてるだけなんだろうな、縁佳という人は。


 喉も締まるような緊張感に、あと積み上がる皿の枚数を見て、食指が止まってしまう。そして気が付くと、対角線上に対峙する平島親子を交互に見守ってしまっていた。


 縁佳の母親は、決して子供に無関心ってわけでもなくて、あんまり美味しくなさそうに寿司を食べる縁佳を、どこか憂愁を忍ばせた遠い目で、頬杖をついて見下ろしている。縁佳はそれに気が立って警戒して、舐められたら縄張りを荒らされてしまう野生動物のように、睨みつけて威嚇する。それに気圧されたのか、母親は目を逸らして、その先で私が積み上げた八十平瓮に呆気を取られる。それの繰り返し。輪廻には終わりを付けなきゃいけないというのに、きっと二人は、私と縁佳が知り合うずっと前から、こんな調子なのだろう。


 内心何か言葉を交わしてくれることを雑に期待していたけど、その目論見はいとも容易く破綻してしまって、気が付くと二人とも箸を置いて、こちらを避難場所のように漫然と眺めていた。そろそろ潮時か、私は手を合わせて投了をアピールした。


「ごちそうさまでした」

「会計はどうする?私が全部出そうか?」

「えっあっ、悪いです悪いです、東京ばな奈一箱と釣り合わないですよ!」

「一応、お客さんだしね。それに私は大人だから……」

「鏡花は私の、私が目当てのお客さんでしょ!だから、私が出す」


 鋭い眼差しが、私の横顔と迷いを穿とうとする。やっぱり、あからさまに苛立ってる。道理はともかく、縁佳を不愉快にしたのは事実で、そうしてしまった自分を不甲斐なく思う。もっとスマートにやる方法はあった、縁佳なら見つけられた。


 まあ、反省は後で睡眠時間を削ってやるとして、やっぱり縁佳に奢らせるのは、己の肉体を維持することすら困難になるので、絶対に断らなくてはならない。


「そ、それはダメだよっ。そもそも、自分で払える分しか食べてないし、それに、いつまでも借りばかり作るわけには……」

「そうね、他人の親に借りを作るのも辞めときなよ」


 結局、各々が自分の食べた分を払うことになった。改めて考えてみると、突然押しかけてきて泊まらせてと言ってきて、ご飯まで供させたら、とんでもなく面の皮が厚い人になってしまう。そういう、可愛がられて世を楽に渡るような小賢しい人間になるのを、未然に防いでくれたという点では、縁佳に感謝すべきなのかもしれない。そんな意図はなさそうだけど……、でもちょっとかっこよかった、私の女なんだから取らないで、的な感じがして。



 縁佳の部屋は美しく整頓されている。無駄な物は一切置かず、清潔感に溢れてる。引き出しの奥底に紙屑が溜まってたり、クローゼットに夏服と冬服が混在してたり、まあぱっと見ただけじゃ分からないし、その辺はなあなあでも問題ないでしょ!


 さすが縁佳の部屋だなぁーと思いつつも、咳をしても一人になると、物がなしだから少々物悲しい。縁佳が居てこそ完成する。アロマキャンドルとか無くても、縁佳がいればそれとなく芳香が漂って、造花よりも美しく華やいで……、想像を膨らませるだけで、そこに縁佳の幻影が浮かんでくる。末期かもしれない。


 お風呂上がりで血流が増したところを、冷房でキンキンに冷えた空気を浴びて、血管を引き締めて気持ち良く、呼吸すらも上の空になっていると、バスタオルで髪を拭きながら、縁佳が浴室から部屋に戻ってきた。良からぬことをしていたわけでも無いのに、一度心臓が止まって、背筋が伸びる思いをした。


「あー暑い暑い、シャワーを浴びることを、汗を流すっていうけど、洗い流すってことじゃなくて、かく方のことなのかな」

「はぁぁ……、すぅーっ……」

「えええ?何、寒いの?」


 私の言葉にならない感激に、縁佳が首をかしげる。その濡れた髪がどれだけ暴力的で、煩悩を誘うものなのか、縁佳には想像力とか配慮が欠けている。せめて乾かしてから来いとか思ったけど、ドライヤーをこの部屋に持ってきたのを忘れてた。


 私があんまりまじまじと見つめるために、縁佳はドアのすぐ前で足を止めて、こちらを引き攣りながら睨んできた。


「近付きたくないんだけど」

「はっ、えっ、嫌いになった!?まだ何もしてないのに!?」

「好きだったわけでもないのに、嫌いになるものか」


 縁佳は即答した。手強いというか初志貫徹というか。玉砕する度に傷付きはするけど、そうやっていつまでも冷たく突き返してくれるっていう信頼感があるというか、極悪非道な縁佳も美しいというか、だけど一生に一度ぐらいは好きになって悶えてほしいというか……。


 私が、また見慣れた手口でしょんぼりさせられていたら、縁佳を解放していた。それで彼女はベッドの縁に座ると、ドライヤーを手に取った。


「ん、やりましょやります、乾かしますよ」

「いい、自分でやったほうが早いから」


 夕飯の時の一件から、縁佳が八つ当たりのように、一挙一動が素っ気なく感じ悪い。けど、ここで食い下がればきっと後悔する。あの時、好きな人の髪を乾かせなかったなぁーって。いやそんな私欲丸出しな感じじゃなくてっ、せっかくのお泊り会なんだから、喜楽の感情が尾を引くようにしたいから。私はドライヤーの柄を強く握りしめた。


 私の決意に理解を示してくれた?聳動されてくれた?のか、縁佳は無言で手を放した。提案したのは私だけど、もちろんただの衝動で、後先があることすら忘却の彼方だったため、急激な呼吸困難情緒不安定に襲われる。目の前が真っ暗に……それは縁佳の髪が黒いだけで……、自分が縁佳に吸い込まれて、縁佳と一体化していくような気さえした。


「鏡花っ」

「はい!」

「ちゃんとやってよ。変な気を起こしたら、夜だけど家から追い出すから」

「承知してます!」


 と、啖呵を切ってみたのはいいけど、いざ縁佳の背後に回って、無防備な背中とかうなじとかを独り占めしてしまうと、自明に被りつくように堪能せずにはいられない。色付く紅葉と滝といった、息を呑むような光景を眺めてる時と、全く同じ場所が脳の中で活性化している。大きく深呼吸して、その幽玄の趣と一体化しようとしてしまう。


 だが大自然と違って、せいぜい腕の中で収まる規模であって、私はこの柳髪を乾かしてしまえるのである。そうやって話の規模を拡大していくと、畏れ多くなってきてドライヤーを持つ手が震えてきて、もう少し濡れた髪を眺めていたくて……。


「……っんしょっと」

「うわあああっ、ごめんなさいごめんなさい、反省します精進しますーっ!」

「え?そういうのいいから、早くやって」


 呑気に命知らずに眺めていたら、縁佳の頭が急に接近してきて、頭突きでもされるのかと変な推測をして、それに基づき身構えてしまった。実際はただ足を折り曲げて、ベッドの上に載せたかっただけだった。まあ、頭突きされても文句は言えない視線を送っていたのは、否定できないけど。


 それで驚いた反動でドライヤーのスイッチを入れてたので、そのまま乾かしにかかる。というか、縁佳の髪、触っていいんだよね……?触らなきゃ、ちゃんと乾かせないよね、怒らないよね、……触りたい、死ぬ前に一度ぐらいは。


 まだ乾いてないのに、この滑らかな感触、人類の反応速度を超える0.1秒で、世界一の特筆すべき髪質だと確信した。ただ単に、自分と正反対な性質なだけかもしれないし、そもそも自分以外の髪なんて触ったことないけど、でも縁佳の髪だから、私は世界一だとしか考えられないのだ。


 ずっとこうして、指で梳いていたい。ドライヤーの温風で波打つ髪を、一フレームも見逃したくない。縁佳にそれを、積極的に許してほしい。


 それはそうと、他人の髪を乾かしたことがないので、これで合ってるのか分からない。世間的には常識な、髪を痛める禁忌肢を選んでる可能性すらある。縁佳の髪に触れられるという興奮も束の間、責任を見つけてしまって脈が乱れ始めた。


「あぁっ、あっ熱かった?」

「そんなに離してて、熱いわけないでしょ。それじゃあ一生乾かないんだけど」

「ご、ごめん……。頻繁に姿勢を変えるから、気に障ることがあったのかと……」

「人に乾かしてもらうなんて、小さい頃以来だから。なんか落ち着かないだけ」

「そっか、ごめんね、落ち着かせられなくて……」

「何言ってるの?」

「……ごめん」


 自分の行いがここまでの不機嫌を励起させたことは自覚してるけど、でもそういう時、とっさに一番間違ったことを言って、縁佳に笑い種にしてもらうことでしか乗り切れたことがなくて、それ以外の方法を探ろうとすると、頭の中が真っ白になる。そして焦りから、気を遣おうとだけはしてることを主張するために、直球の質問を飛ばしていた。


「縁佳、怒ってるよね。さっきのこと」


 縁佳が感情を溢すとき、だいたい露骨に行われる。相手を望んだ方向に動かすために、披露されるものだから。だけどさっきの、玄関先での嫌味な言動とか、寿司を食べてる時の縁佳の緊張感とか、あれは演技っぽくなくて、逆にいつも演技なんだろうなって確信できて、どうしていつも、本物は負の感情ばかりなのだろう。やっぱり、心の底から楽しいって思えることが無いから、不本意なことばかり脳裏にちらついて、……なんて生きにくそうな性格なんだ。


「えぇ?……まあ、鏡花だしって諦めてる部分はあるけど、嫌ではあったかな」

「そこまで険悪だとは想定してなかったというか……。少しでも仲を取り持てたらって欲をかいちゃって、身を弁えろって感じだよねっ」

「居心地悪いでしょ、親子がギスギスしてる家。だから友達を招きたくなかった。鏡花はちょっと特殊だから、どうでもいいかもしれないけど」

「どうでもよくない。縁佳が困ってて、どうでもいいことがあるか」


 私が暑苦しめにそう言うと、縁佳の目が細くなったのが背後からでも分かった。


「あーあー、困ってはないよ。まーでも、そうねぇー、どうしてもこの歳だと、完全に自立できないお金ってあるから、それはどうしようってなるなぁ」

「そんなの当たり前じゃん。バイトしてるだけでも偉いのに……。仲直りしてでも、過去に受けた仕打ちを清算してでも、やっぱり頼るべきだよ」

「親なんか頼りたくないし、向こうにも義務感で養わないでほしい」

「縁佳さ、もしかして仲直りせずにこのまま進んで、高校卒業したら一人暮らし始めて、連絡を絶っちゃうつもり?」

「よく分かったね。それが理想だね」

「後悔すると思うよ、そういうの。何でかは分からないけど……」

「そうかな。その選択を後悔しない人も、世の中にはいっぱいいると思うけど」

「頼らないよう頑張るのは、まあ感心しないことも無いけど、それと円満は両立するんじゃないかな」

「んまぁ、それは確かに……?そうねぇ、もう少し、親との対話を心掛けてみようかなぁ……」


 表情が一転して柔和になったのが、斜め後ろからも確認できて、警戒レベルが一段階だけ下がる。先程までは捕食動物が背後で口を開けて牙を剥いてるって状況下の緊張で、今は何とか回避して藪の中に身を隠せたけど、まだ近くで自分を探してる緊張って感じだろうか。交感神経が暴走してるのは同じだけど、まだ自由に体を動かして、藪の隙間から探りを入れられるし、縁佳の思考を解読しようともできる。つまるところ、縁佳といる時の、いつもの私に戻った。


「それは……嬉しい」

「それはどうも」

「縁佳が、私の行動で軌道修正してくれたから」


 縁佳は情報通り相も変わらず、空虚で生きる甲斐なんて持ち合わせてなくて、外側だけは飾り立ててるけど、内実はまっさらなキャンバスで。だけど、少しは私という存在が浸透できた気がした。私なんかの色でも、今の縁佳にとっては人生が途端に華やかになること間違いなし……少なくとも、価値観も嗜好もない、起伏と感動とときめきが失われた人生よりは。


「でもさ」

「はい」

「縁佳は、今でも少しも、私の告白は受け入れようとしてくれないんだよね」

「んまあ、ありきたりだけど、私には人を好きになる気持ちがわからないし、それに、付き合って誰かを不幸にしたくないし。現状維持の平常運転が最良なのよ」

「私は、現状維持で平常運転で、縁佳のことが好きなんだけどっ」

「自他を混同しないの。自分の尺度で価値観を判断しない。多少仲良くなれた人でも、こいつうざいなってなりかねないから」

「じゃあ直します、直すので……」

「頑張ってねー。努力が私のためだったとしても、きっと他の人と関わるときに役立つから」


 とは言え、縁佳の為を思ってというのは美談であって、一番の狙いは結局、縁佳を振り向かせることなのである。だからまあ、こうして厚かましい確認をしてしまった。あえなく玉砕しましたが。


 ……別にこれくらいで懲りるつもりはないけど、、いきなり押し掛けて泊まられることを容認したんだから、そこも変節してくれていいのに。それでいて嫌うこともしないのが、余計に気味が悪くて、でも意気地なしで中途半端で虫がよすぎるところも、どうしようもなくて素敵で惹かれてしまう。


 話していたら、好きな人の髪を乾かすという幸せな時間もあっという間だった。縁佳の髪は本来の光沢と質感を取り戻し、ハーブっぽい爽やかで清廉なシャンプーの香りが、私の気持ちを一つにまとめてくれる。同じやつを使ったんだから、今ごろ私も同じ香りを発してるはず。その事実は今の私に、恍惚と陶酔だけじゃなくて、縁佳という人間をずっと身近に感じさせてくれた。追いかけていた背中は今やすぐそこにあって、だからこそ好きになれたし、その想いをぶつけられたんだろうけど。まあ、ここから追い抜くのは大変そうだ。


 なんて思い上がってたら、縁佳が忽然と反撃の狼煙を上げるように、にやにやと笑い出した。


「それよりも、鏡花って髪を乾かすの上手いね」

「えぇ!?そうなの、初めてなんだけど」

「手が震えて、満遍なく風が当たるおかげで、髪が痛まなくて済むよー」

「はぁっ?ふふっ震えてなんかなないし!」


 ドライヤーを持つ手を変な方向に捻ってしまって、縁佳の髪がぶわっと広がり視界を覆い尽くし、温風が自分の顔面に直撃する。真面目で神妙で有意義な会話にかまけてたからあまり意識してなかったけど、両手とも目に見える形で震えている。縁佳の視界の端ぐらいには映ってそうで、ただただ恥ずかしい。


 というわけでその腹いせに、終わってるのにしばらく乾かし続けて、言い訳を口パクしながら、縁佳の髪の手触りを堪能してやった。結構すぐばれた。


「じゃっじゃあ……、二回目を約束してくれるなら、すぐ辞める」

「二回目?んえー、いつでもいいの?」

「もちろん、いっいつまでも待っちゃうんだから」

「その言葉、本当になりそうだから恐ろしや……。まあいいよ、いつかまた、髪乾かさせてあげる」


 ふん、一生先延ばしにしてやろうって企んでるんだろうけど、そこには一生先延ばしにできる関係がなければならず、無意識かもしれないけど、縁佳が私と相当長く付き合うことを想定してるって読み取れて、顔の形が勝手に笑顔に歪んでいく。好きになって良かったなーと、心から思ったのだった。



「といった具合で、いや本当は住んでも良かったんだけど、でも縁佳が『あんたの因縁の相手を呼ぶ』って脅してくるから、もう致し方なく不本意で消化不良ながら渋々断腸の思いで、帰路に就いたってわけ」


 私がバッドエンドな物語を擱筆すると、真っ先に明世が、ガムシロップが半分のアイスティーを飲んだ時に捻りだしそうな反応を見せた。


「甘いねぇー」

「んー、青いわねー」


 今度は明世の対岸から、篠瀬が清籟を吹かせる。


「え?えーあー、つつがないねー」


 それはいいことだけど、鑓水は次のバトンを安栗に渡した。


「凄まじい!」

「最後は私かな、何だろう、愛くるしい?」


 露崎は目を細めてそう言い放った。縁佳と大差ない身長なのに、そんな愛されキャラな扱いをされるなんて、高校に入ってからそれを甘受してる分際で、不服を申し立てたくなった。


「良かったね、しまちゃん」

「うん、少しは距離が縮まった気がする」

「そうじゃなくて……」

「ん……?」


 明世が眉を八の字にしてこちらを見つめてくる。


「良かったね、惚気話を真剣に聞いてくれる友達に恵まれて」

「はわっ!ももっもしかしてつまらなかったですか!?」

「いやいやー、話してってせがんだのはわたしたちの方だしー。いいものが聞けたぜー」

「というか、なんで皆、縁佳の家に泊まったことを知ってたの?」

「それはあれだよ、ねこがめっちゃ自慢してたから」


 そう言えば、元を辿れば永田に騙されて、泊まらざるを得なくなったんだった。嬉々として語っちゃったけど、縁佳には申し訳ないことをしたな……と、一か月ぐらい経ってから、バランスを取るように負い目を感じ始める。だからって、泊まることを縁佳を折れさせることを選んだ自分が、間違っていたとは微塵も思わないけど。


「でも、まさか家に上げてくれるなんて、鏡花ちゃん、よっすーによほど気に入られてるんだねー」


 この文脈でなぜ棒読みなのかは不明だけど、露崎という縁佳の強力な友達からのお墨付きは、それとなく安心感がある。


「そうかな」

「もっと自信持って!」

「まだまだ、至らない点ばかりだから……」

「そう考えるのもいいけど、がすよだって完璧なわけじゃないってことは、頭に入れとくといいかもねー」

「ん?粗探しってこと?」

「なんで安栗は、無意識に悪辣な言い方をするんだっ」

「探さないと粗が見つからないなんて、羨ましいものだね。それに引き換え安栗は……」

「言っても、声と身長がでかいぐらいしか、粗なんてなくない?」

「その代わり、器もでかいんだけどね!」

「ほんまかー?」


 にこやかで穏やかで心休まる、この縁佳の取り巻きたちによる会合は、それはもう無限に続いていきそうだった。まあ実際は、この空も夏も文化祭が近付くにつれ高まるお祭り気分も、時が来れば簡単に終わってしまう。現に八月の下旬に差し掛かってるわけで、いつまでも縁佳を追い掛けられるわけじゃない。いつまで余韻に浸ってられるかも未知数だ。


 青空と、その薄っすらとした影の中、好き勝手な体勢で他愛のない話に現を抜かす少女たち。他人事のように感傷的な気分で、一歩引いた位置から眺めていると、教室に縁佳が入ってきた。なんかもう、気配で察して、首がそっちに吸い寄せられていく。もはや神が与えてくれた才能だと思う。


「あれ、まだ夏休みだというのに、皆して六組に集まって何してるの?」


 こんな相貌を綻ばせて鼻息を荒くしてるのに、縁佳の椅子に座ってるのは私なのに、なぜ一瞥で済ませて他の人に視線を移してしまうのか!あなたの彼女、ここに居ますよ!


 で、その視線に応えるように、明世が適当なことを抜かす。それくらいなら、私でもできるのに。


「それはもう、文化祭をめちゃくちゃにする鬼畜の極みみたいな計画を」

「おぉ、楽しそうね。真面目に検討してよ」

「違う違う、鏡花ちゃんがよっすーと一晩を共にしたって話をいつぅあっ!?」


 安栗は鑓水に太ももを、爪を立ててつねられて、よりいっそう大声で叫んだ。どうせ縁佳につねられるなら、思いっきりやってほしくはある。


「もしかして、その話で盛り上がってたの?」

「あぁ……、この子は悪くないんですっ、ただ、ただ熱が入っちゃって、やたらナラティブに語っちゃっただけなんですっ」


 篠瀬が背後に回って、物理的にも肩を持たれた。


「あーうん、後で厳しく叱っときますー。それじゃあ、安栗と鑓水、用事があるから付いてきてー」

「えっあっ、私も行きますっ」

「いや来るな!」


 縁佳の椅子を反動で吹っ飛ばしてまで立ち上がったのに、相変わらず冷たい。やっぱり、あれくらい強引な手口に訴えるぐらいが、縁佳の意地をへし折るには丁度いいのかもしれない。


 舌打ちしようとしたけど、そもそもした経験がなく、なんか一度前のめりに弾んだだけになってしまった。そんな私を、縁佳だけは可愛がってくれることなく、三人は教室を後にして行った。


「まあまあ鏡花ちゃん」


 明世が、私が吹き飛ばした椅子を起こしてから、後ろから悪魔のように囁いてくる。


「クラスの当番、特別に免除してもらうよう頼んどくから。がすよと回ってきなよ」

「本当に?」

「いいのいいの、付きまといたい放題だぞー」

「ありがとう。よし、縁佳をめちゃくちゃにする鬼畜の極みみたいなデートにする、絶対絶対、お泊り会までしたのに振り向いてくれない憤懣を、晴らしてみせるんだから!」

「そこまでは許可してないからね!」

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