7-9
「よっすー、今日なんか変だね。いつもと雰囲気違う」
露崎の他意のない素直な言葉にと胸を突かれる。まあ、私の目の前で、ただいま私と会話してるこの人が、本当に露崎かと問われると、自信を持って回答できる自信はないんだけど、ここは便宜上露崎であるとしておいて、そんな露崎は、借り物みたいな記憶の内容を洗いざらい吐くよう要求してきた。
「な、何だろうねぇ。色々あったんだよ、色々」
「ははーん、ついに春が来たか」
「いつか冬が来るなんて、そんな縁起の悪い表現しないでよ」
「それを超えたらもう一度春がやって来るでしょ」
「その先には冬があるよ」
「……不毛だから辞めない?」
「ねー」
普段から揚げ足を取ってばかりの人生だったおかげで助かった。まあ、揚げ足を取らないと維持できない性格なのだから当然なんだけど。
今朝、起きたら世界がおかしかった。満ち満ちる浮遊感、それは私が夢の中にいることを教えてくれた。でも夢の中だからって、特に勝手が違うということは無い。気掛かりなイベントが、常に脳裏から剥がれないような、そういうレベルの話である。ふと思い出してしまってそわそわして、目の前のことが疎かになってしまう事はあっても、別の何かに集中すれば忘れてしまう。
しかしこれは確かに夢で、おおよそ現実を模倣しつつも、その境界を明確に引くことができる。その根拠、今朝、校門付近で、時雨が双子になって歩いていた。それだけでは弱い。いや、この世に一人増えてるんだから十分大きな変化だけど、自分にも何か変化がないかなーと思い至って、トイレの鏡で自分の姿を隅々まで確認したり、Twitterでみんなの投稿を巡回したりした。何も変わらない、本当によく模倣された夢だ。
でも、ふとスマホの画面から顔を上げた時、あり得ない記憶が蘇ってくる。鏡花の告白を、私が受諾した。抵抗もした。けれど、真剣に私を見つめる鏡花に、私は自分の意思も意地も本意も打ち砕かれてしまった。……ということがありました。
いやいや!どういう事?あり得ないあり得ない、あり得ないからこそ、辻褄が合わないからこそ夢であるかそうですか。わざわざあり得ない主張を裏付けようと、鏡花とのトーク遍歴を見返す。特に何もなし。そりゃそうか、伝えたいことは全部口頭で伝えてしまったんだから。
確かめる術は直接会うしかないのか?だが、賢しい私はすぐに気が付く。鏡花は私が膝を折ったと認識しているわけで、少なくともこの夢の中ではそうなっていて、つまり相応の態度で接さないといけない。演技で誤魔化せないから、人からのお付き合いの申し入れは全部断ってるのに……。まあ、どうでもいいか。どうせ、現実でも距離を置かれるんだから。
だけど、思っていたより破滅願望がないみたいで、結局この日は、自分から鏡花の元に赴くことはなく、容易に想像できるように、もしくはよく模倣されてるようで、鏡花は鏡花で錯乱してこっちに来ない。というか、夢なら最大の山場で覚めるだろうし、のらりくらりしてれば解決するんじゃなかろうか。
とか余計なことを考えた瞬間、インコが覚えた言葉を発するような声で、自分の下の名前が呼ばれた。中央階段の横に、待ち伏せするように立っていた鏡花だった。
「あぁ……。よっ、よーっ」
「あっ、おはようございますそしてこんにちはっ!」
私の軽々とした感じを無視して、鏡花は深々と頭を下げた。しょうがないので、その礼儀作法に従っておいた。
「おはようございますそしてこんにちは」
「ごっごめん、どうしたらいいのか、全然わかんない……」
鏡花は自分の揺らめきを無視して、こっちの揺らめきばかり気にして、私の至る所を目まぐるしく瞳を動かして確認している。普段通りとも言う。
「えやー、そーねー、普通でいいんじゃない。前から仲良くしてきたんだし」
「普通……、では、手を繋ぎましょう!」
「いや、恋人としての普通ではなく」
いつものように私との距離を掴みかねてるなーって片付けてたけど、それだけじゃなくて、意外と通過儀礼を済ませておきたいらしい。しかし、勇気を出した鏡花に対し、私はにべもなく拒むだけという。手を繋ぐのも早かったのかと、鏡花は自分に降りかかる羞恥に潰されそうになって、横髪を握りしめながら赤く萎んでいた。何かを呟こうと、唇が微かに動く。その姿はある意味愛くるしいけど、同時に無力感を私に駆り立てる。
「こんな正常な通行の妨げになるような場所で、何してるの?違反切符切られるよ」
「困ってないっ」
「困ってないかー。ままー、バレエ始めたいー」
「それは困るね、金銭的に。まあ我が家は親のほうからやれって言われましたが……」
「そっ、そうなの!?」
「あっいや、二人には関係ない話だね。で?モロックマは何の用?」
「友達が通路のど真ん中で向かい合ってるから。別に話しかけても変じゃないシチュエーションでしょ」
おおよそ明世が唆したことなわけで、そりゃあここでも出しゃばってくるに決まってるか……。しかし、独占欲も強めな鏡花は、茶々を入れに来た明世に、どんな態度を取るんだろうか。
「がすよ、もしかして何から始めたらいいのか、全然知らないんじゃないの?」
「あぁ?私はこのことに関して、普通とか常識とか、そういうので舗装された道を行くつもりないんだけど」
「はっはい!何から始めたらいいですか!」
取り付ける島にはとりあえず取り付いておく人がそこにいた。
「ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ、馬原の頭の上には、三点リーダーが二つ並んでいるようだった。あぁ、そういう事でしたか。少女は淑女らしい口調で静かに頷く。馬原にはそれが、ただ背伸びしているだけに見えた。しかし警部は知っている。少女が背伸びする時、それは章が終わるということを。馬原さん、あなたは」
「あの、もういいっすか、帰ってもらって」
「これから見せ場だったのに!」
「知るか。鏡花も、経験なさそうなモロックマに縋る意味ないから」
なぜ明世の妄言にそこまで耳を傾けられるのか……。普段、なまじ正気に戻って気遣いできる人っぽい振る舞いを見せやがるから、勘違いしてる人が出てきちゃったじゃん。
「いやぁー、実際のところ、どうなんすかねぇー。適当にまさぐり合えばいいんじゃないっすかぁー?」
「同じことがあの人とできるから、そんなこと言ってるの?」
「そそそそれは別がっていうかっ!でもっ、我慢するのは良くないんじゃない、多少欲をぶつけても……。合意の上でででですよっ!?」
何に配慮してるのやら……。夢の中でますます鬱陶しくなった明世はともかく、正面を瞥見すると、鏡花は私の顔を凝視していたようで、反発するように視線が逃げて行った。その仕草の安心感は何物にも代えがたい、それが夢の中であったとしても。
それで、道化を演じることを夢に強いられた哀れな明世と別れ、今度こそ鏡花と二人きりで校舎の外に出る。手を繋ぎたいという自分の欲に忠実になるべきか、周囲を警戒しながら、鏡花は迷ってるようだった。私はそれを意図的に無視していた、距離を取ろうとしていた、いつものように。
私だったら手なんて繋がないのだけど、ここにいる縁佳は、鏡花の想いを受け入れた世界線の縁佳の体に、受け入れなかった縁佳の意識が宿っているようなもので、つまりそれくらいして然るべきという、鏡花の想いを無下にしなかった真っ当な私の演繹と、いやいや無理無理という情動的な私の先入観が混ざり合って困り果てている。でも残念ながら、言動する意識はダメなほうだから、手は後ろで組んだまま解かれることはない。
とか正義と格闘してるうちに、決意を固めた鏡花は銀杏の木の下で停止した。あくまで彼女の葛藤に気付いてない体を貫くために、または、できればその決意が実現してほしくないから、私は数歩先に進んでから振り返った。まあ、鏡花と目が合って、無理だなぁと諦念がこみ上げてきた。
「やっぱりっ……、した方がいいと思うっ」
「こんな所で……?」
鏡花が臆面なく判然と右手を差し出す。この人に世間体があるのか無いのか分からんなぁと嘆息しそうになるも、よく考えたら自分も右往左往してるので、似た者同士だった。
「私はっ、とても縁佳のことが好きだけど、縁佳は、まだそんなにって言うか、私のお願いを叶える感覚でやってると思うからっ。その気持ちを、少しぐらい変えてほしいから!」
なんと鋭いご指摘だ、さすがに視線を逸らしてしまった。この世界の私も、別に鏡花と添い遂げる覚悟があったとかそんなんじゃなくて、ただ一つの関係を失うことが怖かったから、その縁が終わる危機が、数か月数年後に起こることが確定していても、それはその時に対処するとして、今の関係を死守しようとしただけなのである。どちらに転ぶかなんて、同じ条件だとしても、もう一回試行したら結果が変わっていたかもしれない。
「わかった。けど、人目の付かない所でやろう。気恥ずかしい」
「って、どこ?」
「ぬぬっ?さあねー」
再考するまでもなく、人目の付かない場所に連れ込むことが、そもそも大問題だと気付いた。ので、無責任にはぐらかした。しかし他にも意図があってか、煩悩まみれの鏡花は、叡智を捻り出していた。
「縁佳の家、とか」
「えぇ?それはちょっと……。鏡花の家は?」
「どうしても、私の家に上がりたいの……?」
「そこまでは言ってない!けど、私の家は、たぶん家族があんまりいい顔しないからさ」
「そっか。了解了解、私の家ね」
ところで、人の記憶をぺらぺらめくってたら、今日はバイトのシフトが入ってた。夢の中なのにバイトさせられるらしい。というわけで、自分の顔を両手で押し潰して、にまにましちゃうのを隠そうと必死な鏡花に水を差すようだけど、この話は後日ということになった。
しかしそうなると、手を繋ぐだけで後日の予定を埋める、ずいぶん純真無垢ぶったカップルになってしまったけど、相手は鏡花だし、んー、まっいっか。さて、どちらの世界の私が、バイト中の私の心をかき乱しているのだろうか。むしろ楽しいかもしれないと浮かれたこっちの世界の私と、家族愛という古傷の痛みに苦しむ正史の私、どちらも大概だった。
「お、お邪魔します……」
「はいいらっしゃい縁佳ちゃん。ゆっくりしていってね」
「あー、そうさせて貰います、はい」
私はそこそこの重量のリュックを背負って、鏡花の家までやって来た。というのも、鏡花が親に私が来ることを話したら、泊まっていけばと (余計な) 提案があったらしい。鏡花がその気にならないはずも無く、唐突にお泊り会が勃発したのであった。元は手を繋ぐだけって約束だけだったのに。
鏡花の家では彼女の母親が出迎えてくれた。失礼ながら、あまり心地よくはない。そっそう、鏡花のほうが良かったなー、うん。
その鏡花は何をしてるのかと思えば、部屋の隅まで掃除機をかけていた。私の存在に気付くと、まじろぎたじろぎながら掃除機にしがみ付きながら、壁際に後ずさりしていった。
「なっなんで……、早い、早すぎるよ!待ってまだ準備中だから!」
「いや、鏡花が正午前には来てって言ったんでしょ」
「言ったけどっ……。言葉通りに受け取らないでよっ!」
「えー、鏡花のこと信頼したい」
「んはっ、それ本気で言ってる!?」
「もちろん。それより、この部屋そんな汚くないから、もう掃除しなくていいでしょ」
「うん……、しょうがないから観念する」
なんか、鏡花が求める彼女としての縁佳を演じられた手応えがあったところで、鏡花は掃除機をしまいに部屋を出て行った。私は荷物を、さっき掃除してた隅に置いて、一足先に床に腰を下ろした。特に物の数が増減したわけでもなく、前来た時とほぼ変わらない。
まあ、これで綻びが垣間見えてたら、どうしたらいいのか迷ってしまう。ここで慰めたところで、きっと現実の鏡花には反映されないだろうから。私が本当に憂慮すべきは現実の鏡花であって、……現実ではこんな綺麗さっぱりとした部屋を、保てているだろうか。
髪型も整えて寝間着から着替えた鏡花が、あんかけ焼きそばを持ってきた。どっちが私に向けた皿か、一目瞭然だった。
「あ、座布団もご自由にお使いください」
「それはどうも」
私が脇に積まれていた座布団を敷いてる間に、鏡花は隣で大きく口を開けて、彼女を待つこともせず、八雲立つパリパリの麺を頬張り始めた。
「よく食べるねー」
「まあ、今日初めてのご飯だし。休日は起きれないから、朝ご飯食べられなくて」
「鏡花って朝弱いよね」
「そ、そうでも……ないよ……?」
「そうでも無いかと思ったら、ずっこけたじゃない。生徒会選挙の時」
「そっちだって遅刻してたくせに!」
「でもスマートだったのでセーフ」
そう言えば、前回訪ねたのはこの時だったっけ。なんか、随分遠い日のことに感じる。それもそうか。あの頃から関係性も鏡花自身も大きく変化したから。この先、現実で同じようにお泊り会をすることがあれば、夢の中でいだいたものより、ずっと深い旧懐を味わうんだろうな。
夢の中なのに、あんかけ焼きそばに味があるとか、そんな事はもういちいち気にならなくなってきた。そのくせ、鏡花の胃袋の柔軟さには、毎度驚かされている。私と大差ない体の、どこにそれが収まってるのか、そしてそんなにカロリーを摂取して、どこに消えてるのか。至極エネルギー効率が悪いのかもしれない。いやまあ、事あるごとにドキドキしてるんだし、意外とエネルギー保存則は破れてないのかもしれない。
昼食を食べ終わって、さて何をしようか悩んでいたところ、さっそく鏡花の挙動がバグり始める。背筋どころか背骨を伸ばして、呼気が鏡花の顔の前で乱舞している。元を辿れば、この会は手を繋ぎたいという、当事者でなければ何とも可愛らしい動機から始まったのであった。この鏡花は、それをどう切り出せば自然か、いや、最大限の利益が得られるか、それしか頭にない。
付き合い始めたからって、いつもの調子がささやかに報われただけの鏡花を眺められて、私はどう反応するのだろう。二つの感情が並走しているけど、いざその状況になってしまえば、この世界の私のように、一歩進んだ見え方ができるようになるのだろうか。一歩引いて、大上段に構える底意地の悪い、この私が。
内心、複雑怪奇な葛藤を抱えつつも、朗らかにひと時ごと見つめていたら、鏡花のほうから寄ってきた。脚と腕に鏡花の灼熱が当たる。一呼吸おいてから、私の手が取られる。彼女が私の手を動かすと、腕に尋常じゃない力が立て籠もってることを自覚させられ、こっちも前例がないほどに緊張しているんだと、言い逃れできなくなる。
「ん……、あ、案外いいもの、ですな……」
「そうだねー」
「余裕なの……?」
「そーでもない」
「良かった。危うく私が馬鹿みたいになるところだった」
ようやく鏡花の目が開く。この距離感はいつぶりだろう。出会った時、二人で冬空の下を歩いた時、チョコを食べさせられた時、学校の屋上で目が覚めた時、鏡花は時々背筋が凍るような距離感に飛び込んでくる。何度だって、気の向くままに。一億回も飛び込まれて、多分それくらいされてようやく、私は諦めるのだろう、鏡花の前では特別に。
血管が縫合されたかのように、鏡花の温もりが溢れ出て流れ込んでくる。逆に鏡花は、私の内部に沈んで息絶えた感情の残骸さえも引き揚げていることだろう。この荒ぶる拍動も、熱くなって汗が滲み出てることも、全部鏡花に知られてしまう。でも、不快感はなくて、むしろこの柔らかくて、なのに弾力があって、自分の手にフィットするこの感触を求めて、握り返してしまうぐらいだった。まあ、夢という魔法のおかげだろう、残念ながら。
いつまでも甘酸っぱくあれればいいけど、いつかは熟れてしまうもので、この感覚も徐々に馴染んできた。それは鏡花も同様で、あまり見慣れない穏やかな表情に移ろっていく。もう一度、夢の随に目を瞑ってしまいそうな程に。
「んー?」
「どうした?」
「何でもない。ずっと見てるから」
私は鏡花のことを日頃よく観察してる。多分、家族と常葉お姉ちゃんを除けば一番に、普通なら見飽きるほどに。それに今は、わざわざこっちが探りにいかないと鏡花の心情が読み取れないわけじゃない。だけど、この瞬間も目が離せなかった。…………私は固唾を飲み込んだ。
まあ、鏡花にとって私のささやかなサインなど、愛嬌の足しにしかなってないみたいで、手加減なく寄り掛かってきた。私の頬に鏡花のそれが密着する。甘い鏡花のにおいに包まれ、ふわふわした髪が首筋をくすぐる。そこまでしてくるんだと、他人事のように驚きつつ、自分が無くなっていく風の流れに、やはり危機感を覚えていた。現実の私が感覚の主導権を握っていたら、この危機感に則って、たとえ鏡花であっても突き飛ばしていただろう。まあ、夢の中でぐらいは、目を瞑っといてやろう……。
私はカメレオンのように自分を都合よく変化させられない。必要に応じて、そんな突き上げるような視線を人に向けられない。鏡花とは、どこまで行っても対照的な存在で、見上げている星も違う……のかもしれない。だからこそ、違う星の色を語ってほしくて、求められているのかなぁ。
暗闇の中、手だけを働かせて探りを入れる。つまり、自宅と勝手が違う浴室に、手を煩わせられてるってだけである。それは想定の範囲内なのだけど、横腹が烈火に苛まれたかのように熱い。まだ外は明るいから、日が差してるんだろうか。まあ、それだけな訳ないか。知らないふりして髪を洗い切った後、髪を束ねながら流し目に湯船のほうを見た。水に帰っていった。
「あの、何してるの?」
「……見ました」
「まあ、隠してないからね」
「では、もっと見ても?」
「今後の私からの印象を気にしないなら、どうぞ」
「んんっ、……そんな言い方、ずるいよっ」
さすがの鏡花も、一緒に風呂に入ろうなどと、直接勧誘してくることは無かったが、彼女の母親がそれを提案してきた。なんだその脱法は。恐らく母親としては、後がつかえてるから早くして欲しかっただけで、娘がどんな想いを持ってるかなんて知る由もないだろうけど、とにかく鏡花に利したことは間違いないわけで、不安定で不定形な水を得た魚のように、彼女は舞い上がっているのだった。
浴槽の二人で入るのはかなり窮屈だけど、どう考えても鏡花がそういう状況を望んでそうだったので、夢の中でぐらい望みを叶えてあげた。約三分の一を占拠して、三分の一は足を延ばす共用スペースに、息はぴったりなので自然とそう割り当てていた。二人分の容積で、水面が程よく上昇して、肩までぬるめのお湯でみっちり浸かれた。
で、あんな物言いをしてしまったのに、鏡花は明世の苦し紛れのアドバイスに忠実で、私の至る所を盗み見ている。彼女の宣言する好きというのは、こういう事も含むのかと、一応確認できた。……夢の中だということを忘れかけてた。
「鏡花ー、のぼせないでよー」
「私はそんなおっちょこちょいじゃありません!」
「それはどうかねぇ」
「縁佳っこそっ、見惚れて溺れないでよね!」
「鏡花ほどじーっと見てないから、平気平気」
脳を蒸されている鏡花は、こんな発言にいちいち引っかかって、水面に映る自分の顔と目を合わせていじけ出す。ちゃんと付き合うと、実は私じゃないと制御できないほど面倒なのかもしれない。まあ、告白までしてくるぐらいだから、その自認はあるんだろう。
「そう。うん、だよね、興味ないよね、私の体なんて」
「そこまでは言ってないけど……」
そんな風に言われたら、意地を張りたくなるもので、鏡花の体を満遍なく眺めていた。その視線に気付いた鏡花が、さっきの威勢を捨ててしおらしくなる。そうされると、逆に追撃したくなる。これは、夢の私と本物の私の総意、出会ったばかりの頃を彷彿とさせる姿のほうが、やっぱり意に適っている……鏡花には言えないというか、そんな弱々しい鏡花を支えるだけの力が、そもそも私には元から宿ってない。
なんて、人の体を見ていたら、簡単に時間が進んでたようで、ぬるめのお湯でも、すっかり体の奥底まで温まってしまった。もう一皮脱ぎたいほど、むしろこのお湯を温めてしまいそうなほど。
「縁佳」
「なーに」
「動かないでね」
「まばたきもダメ?」
「それは多めにやって」
鏡花は覚悟を決めた厳めしい表情で、大量のお湯を引き連れながら立ち上がって、そして一歩前進した。何を企んでいるのか、それを知ったり一考したりする間もなく、彼女の手がじんわりと開きながら伸びる。
その終着点は鳩尾で、その嫋やかで柔らかい手のひらで、私の心音をかすめ聞くことが目的だったらしい。この状況なら誤解を招きそうだと思わなかったのだろうか。私にはもう、鏡花が分からない。そして、分からないなりに分かろうと猪突猛進する鏡花を、見習わないといけないのかもしれない。幸い普段と感覚が違うおかげで、私は鏡花の納得がいくまで身じろぎ一つしなくて済み、彼女の襟足から滴る水の音にでも、耳を傾けていた。
「どう……だった?」
「別に」
「別にって何よ」
「んー、強いて言うなら、安心したよ」
「だから何に?」
「何でしょうねぇ」
「もしかして、ただ触りたかっただけとかじゃないでしょーね」
「ないない。触るだけだったら、脚でもいいもーん」
「ちょっと!調子に乗るな!」
さっきまで腕は折り畳んで、共有スペースもほとんど使ってなかったのに、今度は私のふくらはぎを執拗に撫でたり、しまいには足を絡めてきたりする。くすぐったい、息が止まりそうになる。でも止められない。鏡花の中で踏ん切りが付いた出来事は、もう、そのまま行われるだけなのだ。ちゃんとはしゃぐ鏡花ってこんな感じなのか。そういう、人間観察的な視点に意識を動かして気を紛らわせながら、なされるがままにされた。
もし万が一付き合うことがあったら、現実の私はこんな感じで、なし崩し的にそれを受け入れてしまうのだろうか。そうであったら、どれだけ楽なことかと、気の迷いを一蹴する。これは夢だ、本当は鏡花と一緒に風呂に入ってなどいない。けれど、夢が私の感覚を捻じ曲げ続けるのなら、どうせ覚めないのなら、わざわざ夢の脚本から逸脱する必要もなくて、こうして筋書き通りの一日を過ごしたのだった。
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