7-8

 カーテンに濾された質のいい朝日影が部屋の半分を満たしていく。その光に導かれて、自然と瞼が持ち上がっていった。白を基調としたシンプルで無難で整頓された部屋が、転がり散らかる酒の缶で汚されている。


 そして自分のほうに注目すると、鏡花が普段寝ている布団の上で、その鏡花を差し置いて私が寝ていた。恐らくまた、机に突っ伏して眠ってしまったから、運んでくれたんだろう。同じことを何度繰り返してるのやら。アルコールは人を壊す、間違いないな。


 当然、そこまでしてもらっても体調は万全じゃない。仮にどれだけ高級なベッドに寝具を揃えても、二日酔いから逃れられないのだ。それに、掛けてくれた薄手の布団が妙に肌触り良く感じられて、ますますここから動く気が失せてしまう。鏡花が使っているから、鏡花の空気感を継承しているのだろうか。でも、その人にまつわる物まで神聖化されてくると、いよいよ宗教っぽくなってくるな……。


 しかし、鏡花とあまり体格が変わらない以上、布団のように物理的に全てを包み込んではもらえないのである。大きくなったり小さくなったり、融通が利くようにならないかな、鏡花。


 いくら気分が悪いからって、目を何度閉じても二度寝はできない体質なので、慎重に上体を起こした。こんなに希望と活力に溢れた日光が窓から注いでいるのに、そこから少しずれた場所は暗く重苦しい空気に支配されている。そう思った、環境のせいにした。気持ち悪い、吐きそう、それは我慢するにしても、鏡花を肩車してるんじゃないかってぐらい、体が重たい。鏡花より重い誰かが載っかったら、私はたぶん潰れて死ぬ。つまり、これ以上酒を飲んだら命が危ない。


 肩にも頭にも載ってないけど、鏡花は布団を譲ると大体、私の太ももを枕代わりにして寝ている。一生懸命寝ている、睡眠を貪っている、安らかというよりはそんな風に見える。薄暗い部屋の中で、その寝姿を壟断するのが、二日酔いの朝の数少ない楽しみになってるのかもしれない。目覚めがいい人間で良かったと、心の底から遺伝子に感謝している。


 私が体を捻ったから、鏡花も目が覚めたようで、油圧式のジャッキのように、ゆっくり力強くその体躯を起こしていく。そして、大きなあくびをしながら、布団に残った頭の形の皺を凝視していた。多分、眠くてそれくらいが限界なのだろう。


「鏡花」

「んー……」

「おはよ」

「んー……」


 擦っても三分咲きな瞳をこちらに向けて、喉を打ち鳴らして返事というか反応を示した。これなら最期の瞬間まで、私ぐらいは認識しててくれそうだな、じゃなくて。


「もうだめだぁ~、ねむすぎるぅ~」

「ちょっと、今日一限からあるんでしょ」

「ふえぇー?そうなの、がんばえー……」

「鏡花がだよっ。ほら立って、顔洗って!」


 私は、割れるもんなら割れてみろやと、頭が痛いのを堪えて、鏡花の手を引っ張りながら立ち上がった。


「あー、じゅうりょくがあっちこっちいってるかんじがするぅー」

「鏡花っ、しっかり立って、自力で立って!」

「もあばえぢきり、しぱっちゅかえらー」


 ついに呂律すら回らなくなって、そのままこっちに抱きかかってきた。鏡花の体重が私の肩を押し出す。鏡花の全てを受け止めきれるほど立派な人間じゃないので、彼女の両肩を掴んで地面に突き刺すように斜め下に力を加える。


「はい、しゃきっとする」

「しゃきっと……」


 私と目線が合わせられた鏡花は、全力を注いで血走るほどに目を見開く。しかし重力に負けて、またすぐ三分咲きに戻った。それを三回やった。あくびは四回出た。鏡花は首をのけ反らせて、気持ち良さそうにあくびをする。それに、腕まで意識が回ってないのか、首の中腹あたりに手を当てて、口を隠せた気になっている。


 そんな寝ぼけた鏡花ほど、私の奸譎な心を慰めてくれるものは無い。寝ぼけてるから気付かないだろうけど、分かりやすく、穴が開くほどに気味悪がられるほどに、私は鏡花を見つめていた。


「ねみぃー」

「悪かったって。昨日も遅くまで付き合わせちゃって」

「んー、縁佳のためだから……」

「それで無茶しないでよー」

「あさおきるのがむちゃなんだよー……」


 いくらこの時間が生きる意味とは言え、このままでは際限がないし、こんな事をしていても埒が明かな……可愛すぎて甘やかしてしまいそうなので、二日酔いで気怠い自分を叩き起こすためにも、日の光を浴びようと思い立ち、ふらふらな鏡花を引っ張ってベランダに出ることにした。


 自然と目を三分咲きにさせられる、強烈な光線が私たちをまどろみから解放する。私たちは今、太陽が東の空を青く輝かせて、街を駆動させるまさにその瞬間に立ち会っている。それは晴れた日なら毎度起こることなのに、やけに感動的な光景に映った。まだ誰も吸い込んでいないような朝の空気を全身に巡らせて、さっきの興奮を冷ます……と、二日酔いしか残らなくて辛い。


「縁佳」

「ん?」


 柵に両腕を載せて、こんな時間から元気よく登校する小学生に、若いっていいなぁと、元気を貰うどころかダメージを受けていたら、鏡花が背中をさすってくれていた。奇跡が起こったかのように、吐き気の波が引いていく。


「飲みすぎ」

「それは分かってるけど……。止めてくれればいいのに」

「己を律せるようになりなさい」

「さっき眠気に負けてた人が言うセリフですか?」

「負けてないし、打ち勝ったし」


 とは言ってるが、さする手が止まったから振り返ると、大きくあくびをする鏡花が見えた。大学でも同じように無防備な姿を晒してないだろうか……。


「眩しいね」

「これからもっと眩しくなるよ……」

「でも、見慣れた街でも簡単に幻想的にしてくれるから、日の出自体はとても好き。今日はひときわ綺麗に見えるし」


 晴れた日は毎日繰り返されてるとは言え、一度として同じ配色にはならないわけで。忘れられない日の出というのも存在し得る。


「それに、私たちにとっても、始まりの光景だからねー」

「えぇー?都合の悪いことは全部忘れちゃったの?」

「あはは、そうかもね。どんな過去も、目の前の幸せの布石だと思ってるのかも」


 鏡花はあまりに逞しく、三分咲きであっても眩しい。過去の出来事をすぐに糧にしてしまう、食らってしまう。私は高校の屋上で浴びた朝焼けを、そんな明るく思い出せない。まあ、その資格もない。


「私はもっと早く気付いてればって、今さら後悔する意味もないけど、たまに想像しちゃう。あの頃の時間も鏡花と過ごせていたら、どんなに素晴らしかったかって」

「どうなんだろうね。一度もすれ違わなかったとしたら、完璧だったんだろうか?」

「さあ。平行世界なんて、考えるだけ無駄か」


 ベランダで呑気に話していると、日の当たってる面が温まってくる。始まりの幻想は儚く、じきに街中に昼が行き渡ることだろう。最後に伸びだけして、完璧な寝起きを締めくくろう……うえぇ、気持ち悪い……。


「そうだ、朝ご飯、こっから見えてるそこのコンビニで買ってくるよ」

「私が行こうか?」

「いや、縁佳は休んでて。なんか欲しい物は?」

「お腹空いてないし、特には……。強いて言うならコーヒーかなぁ」

「ダメだよ!ちゃんと朝ご飯摂らないと」

「いいよー、吐いちゃうよー」

「二日酔いに効くご飯買ってくるからっ、ちゃんと食べてね!……うぎゃあっ」


 ベランダと部屋の段差にでも躓いて、鏡花は派手に転んだ。全然目が覚めてなさそうで心配だ……。ちなみに別に段差はなかった。普段、こんな調子で大学行ってるのかなぁ。



「あの鏡花、これは一体……?」

「プリンです、レトロな固めのやつ」

「それは見たらわかります」

「食べてみてって、美味しいから」


 鏡花は相当寝ぼけてるみたいで、私が甘い物を嫌いなのを忘れて、プリンとかアップルパイとか、そういうのばかり買ってきた。……すっかり息を吹き返して、かわいげのある相貌を生かしながら、実家から持ってきてそうなくたびれたスプーンを押し付けてくる。


「じゃあ、鏡花が食べさせて」

「うわぁー、甘えん坊だなぁ、縁佳は」

「それくらいの報酬はあって然るべきでしょ」


 と、本当にせめてもの見返りのつもりで食べさせるよう要求したんだけど、すぐに後悔することになった。鏡花は総量の三分の一ぐらいを一気にすくって、おままごと感覚で私の口に近付けてきやがった。ひんやりとした柔らかな感触が口唇に触れる。肌からも甘さを感じる。これは紛れもなく容赦もないプリンだった。


 鏡花は「早くー」とか言いながら、私の葛藤なんて歯牙にもかけず、何度も押し付けて急かしてくる。欲張りすぎて、スプーンから零れ落ちそうになってたから、さすがに降参して口を開けたつもりになった。けれど実際は、顎が命令を順守するのを拒んでいて、重機のようなスピード感でしか開いてくれない。


 辛抱強く待ち続けた鏡花は、ついに隙間を見つけて、そこにスプーンの先端を少しだけ押し込んだ。そうなるとプリンが落ちないよう、こっちも大きく口を開けざるを得なくなる。空気と一緒に、一か八か黄金に輝く氷山の一角を吸い込んだ。


 口の中にプリンがねっとりと広がる。鶏卵の味?牛乳の味?よくわからない。ただ暴力的なプリン味の甘みがあるだけ。さっさと飲み込むにしても、量が多くて何度かに分けないと窒息する。その間、十数年ぶりにプリンをしかと味わう羽目になった。こんな味だっけ、今の時代のプリンはこういう味だと論駁されたら納得するしかないけど。


「美味しい?」

「んぐ、…………意外といけなくもない?」


 思ってたより喉が焼けないというか、昨日酒で焼けちゃったからというか。でも、後に引く甘さがなくて、飲み込んでしまえば元通りなのはいいことだ。積極的に買おうとは思わないけど、残りの分を食べ切ることぐらいはできる。


「おぉ!成長だよ成長!おっけー、このレトロな固めのプリンは何とか食べられるのね、よーし」

「なのかなぁ。あ、でも次は買ってこなくていいからね」

「はい、ご褒美のファミチキ」

「それはどうも」


 もう一度鏡花から餌付けされておく。まあぶっちゃけ、肉と油のほうが旨い。


「まー最近になって思ったけど、甘い物にそこまで身構える必要もないのかもね」

「そっか。そう言ってくれて、私も嬉しい」

「なんで鏡花が喜んでるの?」

「そりゃあ、同じ物を食べて、同じ物を好きになれたら、これ以上の幸せはないでしょ」

「なのかなぁ」

「なのだなぁ」


 同じ種類のプリンを食べて、鏡花はオキシトシン溢れる表情を浮かべながら頷いた。


「本当は、毎日料理を作ってあげたいところだけど」

「鏡花って料理できるの?」

「もちろん。母親から色々受け継いだの」

「今のところ、鏡花の手料理はクッキーと煎餅だけだから。気になるわね」

「今から作るかー、天ぷらとか」

「プリンとファミチキでお腹いっぱいです……。というか、これから大学でしょ。急がなくていいの?」


 こう、釘を刺しておかないと、私のためというのを錦の御旗にして、いつでもどこでも何でもしかねない。最近は特にその気質が加速しているような気がする。


「楽しい時間は、どうしていつも終わってしまうんだ……」

「辛い時間もいつか終わるけどね」

「忍び込んで、一緒に授業受けてくれない?」

「代わりにではなく」

「同じ授業を受けることに意味があるから」

「それもいいなって心が揺らいでるのは確かなんだけど……、午後から予定があって。ごめんね」


 鏡花が肩を寄せて、その白いパンのようなふわふわしたほっぺたを押し付けてくる。私からは逆に片手を握り返しておいた。こういう時に、自分がどんな顔をしているかとか、とっくに考えなくなっていた。


「あっ、ちょっと目を瞑るなっ」


 こっちは油断したら寝てしまうなって細心の注意を払ってたのに、鏡花ときたら……。肩をずらして、私に完璧に身を委ねている鏡花を起こそうとしてみる。彼女はそのまま私の膝に倒れていった。


「えやっ、いいんですか、膝枕」

「良くない、起きろーっ」

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