7-7
サイズは三者三様だけど、ずんぐりむっくりな胴体は全部同じなトトロのぬいぐるみを一つ手に取り、普段安栗がやっているように、腕でしっかり抱きかかえて、頭に優しく頬擦りをしてみる。この部屋に漫然と充満する安栗のにおいの奥に、洗剤のにおいが潜んでいる。ちゃんと洗ってるのか。そういう奴だと思ってたから、今さら見直さないけど。
そんな新たな試みをしていたら、安栗が部屋に戻ってくる。ばーんという効果音が、存在がかしましいこやつに対しては様になる。
「鑓水ーっ!あったぞーっ!……あれ、どうしたの?」
「意外といいな、ぬいぐるみ」
「一体ぐらいなら貰ってってもいいよ」
「そんなに泣きたいのか?」
「え?いやいや、まさか帰り際にやっぱ返してなんて言うわけないでしょ。もう齢十七なんだからっ」
「あ、お誕生日おめでとー」
「どうもー」
まあ、どうせいつでも会えるし、ぬいぐるみは元の場所に戻した。
それで、安栗が何を持ってきたのかと言うと、こいつがまだ乳飲み子だった頃の映像とか写真である。さっき突然、「今日は安栗と鑓水の話をしよう!」とか叫んで部屋を飛び出したので、ぬいぐるみに助けを求めたわけだが、こういう意味だったらしい。
安栗もベッドの上にやって来て、寝っ転がりながらノートパソコンを操作している。別にそこまで興味ないけど、片膝立てて画面を覗き込んだ。そこには近所の公園の砂場で遊んでいる、昔の安栗が写っていた。顔の各パーツは今とほとんど変わらないのだが、いかんせん肉付きがいい。頬っぺたなんて、今息で膨らませても敵わないんじゃないかっていうのは誇張表現だけど、そう言いたくなるぐらいには、むっつりしている、ツンツンしてみたくなる。まあ、この写真が撮られた瞬間に指で触れたものなら、スコップで殴りかかってきそうな程、機嫌が悪そうだけど。
「これが三歳のわたし。なんか自分で言うのも照れるけど、神童って感じするよね!」
「今からは想像が及ばないほど肥えてて、親御さんも行く末を案じたことだろうなぁ」
「それって損して得取れって感じで、過去を貶して今を褒めてるね!?」
「いや、この時の安栗と今の安栗は確かに同一人物だから。そこを切り分けることはできないよ」
「でも砂場って、創造性に溢れてないと、公園に入っても選ばないと思うんだー」
なるほど、この厭世的な双眸は、芸術家気取りのつもりだったのか。だるい三歳児だな。
「鑓水はどうだった?」
「泥を触りたくなかったから、外で遊ばなかった。潔癖症だったみたいでね、幼稚園の時は運動会をめっちゃ嫌がって、ずっと先生に付きまとって駄々こねてたらしい」
「おぉーっ、ぽいね!」
そりゃあ本人だからね、無理に体を捻って、上半身をこっちに向けてまで吃驚することじゃないね。
「はいはいそうですよ、冷笑虚栄諦観、それが私の全てですよーだ」
「んーでも、鑓水が駄々こねてる姿、想像できないな」
「この年で駄々こねるわけにはいかんでしょ」
「どっちかって二分するなら、大人の言うことには、つべこべ言うわずに付き従うタイプって感じ?」
「安栗こそ、大人の権威を上手く利用して、グループ内で采配を振るってそうだけど」
「というわけで、わたしに向かって駄々こねてみてよ」
「は?」
何が面白いのか知らないけど、安栗は自分の過去の姿を流し見しながら、足をバタバタさせながら、こうやって適当な提案をしてくる。することが無いから仕方ないんだけど、それにしたって、安栗に向かってごねろって頼まれてもなぁ。
困っていたら良いことを聞いた。
「ねだる内容は何でもいいよ。生でも死でも、これは……そう、思考実験なのだ」
「じゃあ死ね」
「駄々をこねてよ!」
「駄々をこねるって何だよ、もう忘れたよ」
「やだやだぁーっ、死んでくれなきゃやだぁーっ、……みたいな?」
「いやだー、死んでくれー、たのむー、一生のお願いー」
「もう一息」
と指示があったので、安栗のお望み息を大きく吸ってから、特定個人を揶揄する意図は全くないけど、クラスにこんな奴いたなぁという記憶を必死に繋ぎ合わせて、それっぽい裏声でそれっぽく首を傾げる。
「ねっねぇみすずちゃん……、しっ死んでくれないかなぁ……。死んでくれると、やりみずとってもうれしいなぁっ。お願い、聞いてくれるよね……?」
「うぐあっ、ほっほんとに、死にたくなってきた……らダメなんだよっ!駄々はこねられた側は絶対に拒否しなきゃいけないのっ!」
「ほら、大人の言い分に迎合してるじゃん」
「てかいいの!?鑓水はわたしが死んでも!」
「それはダメに決まってるだろ。自殺とかしたら、三途の川の上流のダムぶっ壊して、あの世に行けなくするから。どんなに苦痛でも、寿命までは浮世に縛り付けられてな」
「そっかー、あと七十年ぐらい続くのか、人生……。あぁー、この頃に戻りたい、地平線の向こうが見えなかった、物足りなくても気付かなかった、この頃に」
威勢よく正論をくべ始めたかと思えば、タッチパッドに指を残したまま、今度は布団に顔を突っ込んで未来を憂いている。行動だけでも仰々しく物々しくやらないと、窮屈でやってられないのだろうか。
「この頃ってそんなに楽しかったかねー」
「何者にもなれないって知ってしまった今より、何者にもなれるって信じてたあの頃のほうが、何倍も素晴らしいに決まってるじゃない」
「今も昔も、日本国民で新潟市民だから安心して。しかも今なら高校生って肩書も付いてくるんだよ」
「でも少なくとも、今よりたくさんの事を毎日吸収して、それを実践してたんだよーっ。それに引き換え今は……。わたしの黄金期は小学生までだったんだなぁ」
そう未来を悲観して過去を美化しているけど、過去に倣って今を良くしようとする気はないらしい。その原因の一角に私が存在してるだろうから、これからはそれとなく “有意義” な企画を提案してみようかなって、大真面目に決心したところで、再びちゃぶ台を返される。
「うおー、入学式の時のわたしかわいいーっ。やっぱり、小学生がピークだよ、わたし!あ、鑓水も今度昔の写真見せてよ。卒アルとか見たいー」
「……お前って実は情緒不安定なの?」
「いや?むしろ安定してるほうだって、自覚ありますっ」
「さっきまでのメンヘラみたいな発言の数々、覚えてらっしゃらない?」
「死ねって言われてみて、初めて自分の人生とか命とか意識できて、どうせ来る将来を細目で見つめたくなったの。鑓水、ありがとうっ」
「えぇ……。安栗って私の話、結構ちゃんと聞いてたのね」
「はぁ?当たり前でしょ!上品で洗練された言葉遣い、つい耳を傾けてしまうの」
なぜわざわざ信憑性を落とすような一言を足したんだ……。と、息を吐く隙もなく、安栗が起き上がって迫ってくる。
「やること思い付いた!」
「相変わらず声がでかい。目の前なんだから、張り上げるな」
「鑓水の卒業文集を音読しよー!の会」
そんなピンポイントで黒歴史を掘り当てる能力があるなら、鉱脈を探すバイトでもやってくれ。しかし安栗の目は本気だ。することに飢えた人間とは恐ろしい。首を縦に振るまで逃がさんとばかりに、私の両側で壁に手を突いて脅してくる。だけど、それでもすぐには譲れないほど、あの文集に収録されている私の文章は痛々しい。去年読み返して、背中に棘が生えるようなあの感触は忘れられない。人生で一番感情をこめて声を絞り出した。
「はっ、おいおい待て待て、そそっそれだけは良くない。なあ私たち友達だろ?頼むよ、安栗なら分かってくれるよなぁ」
「うん、じゃあ辞める。嫌なことは押し付けません」
視界がトンネルを抜けたかのように明るくなる。安栗は善人ぶって理解者ぶって引き下がり、私の前で正座している。
「そんな風にされて読ませなかったら、本当に恥ずかしい文章書いてるみたいじゃん!それも許さん、どうせなら貴様に最後まで読ませてやる!」
立ち上がって指差して、安栗の半分の声量で叫んだ。追い詰められた犯人専門の役者にでもなろうかしら。
「えぇーっ、じゃあおあいこにする為に、わたしのも読む?」
「それに恥じらいはあるのか!」
「親の前で将来の夢を簡潔に語るっていう会があって、その時のスピーチをそのまま転用したから、このまま例文としてネットに流してもいいぐらい味気ない」
「負けだ、私が一方的にいたぶられるだけだ……」
「何、そんな酷いの?」
「あぁ、思い出しただけで悪寒が止まらないし、心臓が三十パーセント小さくなる……感覚をお前も味わえ!」
「まあまあ、一歳のわたしの初めて立ち上がった瞬間でも見て、心に平穏を取り戻してくれー」
安栗が私の肩をぽんぽん叩きながら、画面左下の三角を二本線に変える。とっさに両手で顔を覆った。
「やだやだ見ないーっ、見たら安栗の顔を条件反射で殴りたくなっちゃうーっ。殴りたいのは今もだけどーっ」
「あ、駄々こねてる」
「はっ、駄々こねられた」
「良かった~」
「良かったわ~」
中々ハイハイをやめない子が、ついに立ち上がった時みたいに、安栗は普通に近付いたことに安堵して笑って、私もそれに応えた。なるほど、少しコツを掴めたかもしれない。と、油断していたら視界の端に、懸命に立ち上がろうとする、でも立つという点では馬鹿未満な安栗が映る。さっきは殴りたいとか言っちゃったけど、いくら安栗だってわかってても、小さき命が羽ばたこうとしている瞬間は、応援したくなってしまう。
「お、もうちょっとで立ち上がれそう」
「頑張れぇーっ!負けるな安栗っ!いけいけ安栗っ!」
「音って大きくしても時間を遡行しないんだけど、知ってる?」
「確かに。動画時間的にまだかかりそうだね」
「お前、それは無いわ」
さっき安栗が、今の私たちは無意味に時間を浪費してるみたいなことを零してたけど、私はそんなこと無いような気がした。今日は安栗の昔の姿を知れた。そして明日にでも、私の恥ずかしい黒歴史が共有されるだろう。一人の人間を長く焦らず着実に見つめていく。それはとても贅沢で、今をときめく私たちに相応しいな営みだと思う。……怠惰の言い訳を考えるのは楽しいな。
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