7-6
ぽくぽくと、木魚みたいな音がリズム良く耳に届く。テニスボールをラケットではたく音だ。ラリーは続けば続くほどいい。この音を聞くために、部活に来てるまである。いつしか、みんなの掛け声を除去する処理が、脳内でできるようになっていた。
運がないことに、いや案外どこもそうなのかもしれないけど、私が通う中学校は部活動に参加することがほぼ必須だった。そういう普通から外れた人間は、怖い先輩に目を付けられたり、内申に影響が現れたりするらしい。まあ、普通から外れないように生み出された神話なのかもしれないけど。
そういう噂が絶えなかったから、とりあえず私はテニス部に入った。理由は特にない。でもやってみたら、そんなに悪くないと思った。あくまで、それはテニスという競技に対する感想だけど。
つまり、私は部活というところで躓いた。理不尽のような基礎練習とボール拾い……必要なのかもしれないけど楽しくはないし、それで少し部活に対する熱意を失ってしまった。まあ、それ自体は大きな問題じゃなくて、一番の障壁はやはり人間関係だった。部活中に声出せって言われたって、タイミングも言ってる事も訳わからないし、そうやって反論したら怒られるし、先輩に対する敬意が足りないとか、曖昧な基準でも詰られるし。
そうして部活動生物群集に属することに疲弊して、同級生にも先輩に逆らうやばい奴って思われて、貴重な日陰からも爪弾きにされて、旗を掲げるポールの細い影にでも命を委ねるしかないのが現状。こんなんでも、一年ちょっと続けてきてるんだから、誰か褒めてほしー……とか深層心理を引っ張り出してくるから、ナイスって掛け声が脳内を逃げ回っちゃったじゃない。現実は非情だ。とりあえず、日焼け止めを塗り直そうかな。
「いやー今日は暑いねー。これどうぞ、お疲れ様ですっ」
久しぶりの大型の影、外側は特に冷たくないのに頬に触れる水筒、人工物のように甘い声、入ってくる情報を最低限に抑えて部活に出てる身には、あまりにも多すぎる情報量が流れ込んでくる。とりあえず、本能的に影の主を見上げた。
「ちゃんと水分を摂らないと、熱中症になっちゃうのー」
とか念を押してくるので、仕方なく水筒を受け取る。
「あっま!」
「だって、いちごミルクだからね。スクロースにフルクトース、ガラクトースと色んな糖で劇甘よ」
知らないけど、甘さで喉が焼けるような感覚が残る。よく冷えてたのに、それでも。
「そもそも、ジュース持ち込みは校則違反では?」
「給食の牛乳に、給食のいちごを混ぜて飲んだら校則違反ですか?黎夢は賢いのでね、その日を狙って持ち込んでるのだー!」
そして、がーっはっはっは、とわざとらしく高笑いする。つられて笑ってしまった。いいセンスをしてる。馬鹿みたいだけど、通りすがりかも学年も不明な初対面の少女に、瞠目さえしていた。
「ね、テニスしようよ」
「今、どっからラケット出てきた……?」
「ん?やろうテニス。座ったままでもいいから」
「ではお言葉に甘えて。せっかくの機会だし、立たせてもらうね」
「おやおや、負けたらテニス部の風上に置けないけど、大丈夫?」
ラケットを素振りして、いつの間にかもう片方の手にボールを握ってて、ここからテニスをしない未来が閉ざされてしまったので、私も渋々立ち上がった。
しかしどこでやるつもりなのだろう。なんて、そんなこと、今さら心配するまでもなかった。ところてんが出来上がる瞬間のように、ぬるっと制服に上履きのままコートの反対側に乱入して、さっきまで練習試合していた人たちを追い出して、周囲の視線も意に介さず、私が構えるのを待っている。まあ、もう堕ちるところまで堕ちてるわけで、このテニスをしたいという欲求に抗うのはやめて、私は半年ぶりぐらいにラケットを握った。
「おうおう、そんな甘い球じゃ打ち返しちゃうぞっ。……おりゃ、ていやっ、どっかーんっ、なっのーっ」
で、誘ってくれたのはいいけど、威勢と声出しだけがばっちりなだけだった。辛うじて球が返ってくるけど、あまり張り合いがない。私が言うのも烏滸がましいけど、素人にしては動けている、のか……?でも、じきに体力の限界に達して、ラケットに当たった球が力なく転がり、ネットを微かに揺らした。
ボールの行く末を見守ることもなく、勝負を仕掛けてきた少女は、膝に手をついて、嵐のような息切れを響かせる。
「あの、大丈夫ですか……」
「ちょいちょぉーい、手ぇー抜いてるでしょ!ダメだよ、これは真剣勝負なのー!本気で打ってきなさい、人生最後のサーブだと思って!」
少女はゾンビのように横に揺れながら、ボールを拾いにいって、そして私に投げてきた。これ以上どんなに手加減しても、まともなラリーにならないだろうし、次いつテニスができるか分からないし、少しばかり他の部員を見返してやりたいし、ただの希望だけど彼女は人の失敗を笑ったりしないだろうし、久方ぶりなのにかつてないほど攻めたサーブをお見舞いした。
「ちょっとは容赦してほしいかった……のー……」
野球の捨て身の守備みたいな感じで、手を伸ばしてラケットを横に展開して、届かぬ夢のまま、ずさーっと倒れ込む。三年生の最後の試合でやり切ったみたいな、そんな場違いな言動を披露していた。
「大丈夫ですか?さっき、怪我しませんでした?」
「そうねー、怪我はしなかったけど……。やっぱりテニスコートは芝がいいなぁ」
「倒れたらおしまいなのよ」
直後に誰かが呼び付けた顧問がやって来て、私ごとコートから追い出された。仕方なく、定位置のポールの根元に戻って、そこで腰を下ろす。ラケットに続いて日傘まで隠し持っていたようで、彼女はそれを開きながら、肩を寄せてきた。
「黎夢は宇野木黎夢っていうのー。あなたの名前は?」
「え、あっ、諸熊明世……」
「じゃあはるちゃんだね、鉄板が無難に」
「そっそう……。ではこっちはなんて呼べば?」
「名前でいいよー。あだ名作ってくれてもいいけど、先輩はやめてね。そういう質じゃないから」
何にも物怖じせず、気まぐれでコートを占有しちゃえるんだから、さすがに三年生だったか。でも、黎夢の奔放さは生来のもので、三年生になって咎められなくなって解放されたものじゃなさそうだった。つまり、一、二年生の時はどうやって生きてたのか、そんな疑問が頭に浮かんだけど、別に私が身構えるほど、この学校は治安が悪くないのかもしれない。
「ねぇはるちゃんー、どうしたらテニス強くなれるの?」
「私に聞かないで。真面目にやってないんだから」
「習うより慣れよってことか……。次は練習してから挑もうっと」
まあ私は、習うより慣れるより、ほとんど見て盗んだけれども。これにはご師匠様も大喜びだろう。……我ながら、泣きたくなる皮肉だ。
それはそうと、普段とは違う居辛さに、淀んだ汗が流れる。部活という輪の外に引っ付く虫みたいな心持ちだったのに、今は芽胞に押し込まれて、部活の輪の中に放り込まれてしまったような、そんな感じがしている。こっちを気にして、明らかに他の部員の集中力が削がれている。私たち如きに削がれて、気が立っている。あまりいい音じゃなくなった、と、一時の気の迷いで黎夢の誘いに乗ったことを、別にそこまで後悔してなかった。
「黎夢ね、君のことをもっと知りたいのー!」
一方、水筒の中身から髪染めまで校則違反の塊である黎夢は、この針のむしろに対しても、歯の浮くようなフレーズに対しても、臆することなく平気な顔で迫りくる。
「えぇ……?私のことなんて、知っても面白くないよ」
「面白いから聞いてるんじゃないよ。敵に勝つには、敵を知らなければならぬ!」
「敵本人に聞くなよ」
「さあ、何でも質問しなさい」
「えっじゃあ、そうねぇ。…………急に言われてもなぁ」
何か質問されるのかと思ったら、もっと難題を吹っ掛けられた。顎に手をあてがって、一応は質問を考えてみる。……私が困惑しているような所作を見せたら、困惑させて楽しみたかったわけでは無いらしく、潮汐力も舌を巻く速度で、黎夢の顔から天衣無縫な表情が引いていった。そしてなぜか、日傘をその辺に置いて、私の右手を両手で包んでくる。暖かいというか、その手はやけに暑い。
「好きな曲、教えて?」
「えぇー、普段あんまり聞かないけど……。太古の昔にピアノやってたり、親の影響でクラシックなら多少」
「てってってーてーてっ、ててー、てーてってっ、てってっててーてっ、ててーてってってっ」
「それは……何?」
「クラシックとは程遠い曲」
「会話下手かな?」
「だってぇー、そんな高貴なの聞く機会ないのーっ」
黎夢は、一歩道を踏み外せばぶりっ子だって煙たがられるような、甘くて喉がただれそうな声で騒ぎ立てつつ、頬を膨らました。すっきりとした甘さとでも言うのだろうか。さらさらして、でもあくまで練乳、みたいな。食べ物で例えるならそんな感じの人だ。初対面でこんなに距離を詰められても嫌に思わないし、質問が思い付かないだけで躊躇してるだけで、本当はこの人のことをもっと知りたい……気がする。若干気圧されている自分が情けない。それだけの魅力のような不思議が、この人には隠れているのかもしれない。
と、せっかく見直してやってるのに、今度は私の頬を伸ばしてくる。
「ういぃー」
「なっ、あのっ、どうしたんですかっ!?」
「笑顔が眩しいなぁーって、それでついー」
「説明になってないよ……」
私の笑顔が素敵だったから長続きさせようと……この人なら言いかねない。私だってやりかねない。ここまで一顰一笑を追いかけられると、胡散臭さを覚えてしまいそうなものなのに、やっぱり黎夢からは感じられない。私のアンテナの感度が悪いんじゃなくて、たぶん元から発してないのだろう。
私の顔を弄れて満足げな黎夢は、日傘を手に取って閉じてから、「よいしょ」と口にしつつ、傘で地面を突いて立ち上がった。鮮烈なピンク色のインナーカラーが、逆光に負けず、私の目に焼き付こうとする。髪を染めてるなんて、何個校則違反を重ねれば気が済むのだろうか。ここまで来るとわざとやってるような気さえしてくる。まあ、似合ってるけど。
「んー、今日はもう帰るね。これから塾だからさー。また明日なのー」
指先を折り曲げて波を作りながら、黎夢はテニスコートを後にしていった。また明日……また明日、ここに座っていたら、こんな腫物を触りに、黎夢が来るのだろうか。定型文がうっかり出てしまっただけなのだろうか……。
まあ、どちらかを深く考察したところで、結論を出せるほど黎夢のことを知らないし、どうせ部活に、いや、このポールの影に縛り付けられるんだから、期待せずに待つってやつをしておくことにした。
それで来たる翌日、同じ場所で日焼け止めを厳重に塗りたくって日向ぼっこをしていたら、再び黎夢がやって来た。
「ぽよぽよ~」
「ぽ、ぽよぽよー……?」
漫画だったら寝起きみたいな擬音が、挨拶のつもりらしい。一つ、黎夢の生態を解き明かせたのかもしれない。そんなことが知りたかったわけじゃない。
それはさておき、今日の黎夢は最初からラケットを握りしめていた。まあ、これからテニスをするというのに上履きのままだけど、それでも勝てるという自信を周囲に振り撒きながら、ラケットを振り回してコートを一面開けていった。
さて私も、今日は珍しくケースから出して、自分の横に置いておいたから、ちょっと温まってるラケットを握って、黎夢が開けてくれたコートに昨日より堂々と入る。周りから殺気にも似た鋭い視線が集まる。試合ってこんな雰囲気なのだろうな。気が散った隣のコートから腑抜けたサーブの音が届く。復讐のサーブが目の前に飛んでくる。目の色を変えないと打ち漏らしてしまうような、そういうサーブだった。
それは何とか打ち返せたけど、その後も、昨日の慌てふためいていたプレイングが嘘のように、黎夢は冷静にボールの軌道を見定め、無駄のない動きで強力な球を正確なコントロールで打ち返してくる。普通に強い、三年のエースと遜色ない。調子に乗って、CPUのレベルを最大にして後悔するような気持ちになった。一日でここまで仕上げる練習法を発見してしまったのなら、ビジネスの用意をしたほうがいい。
ただし、技術とかコツしか学んでないのか、忽然と体力が尽きて「もういいやー」とひ弱な調子で呟きながら、その場にぺたーんととんび座りして、天を仰ぎ始めた。地面、熱くないんだろうか、とか他人に気を遣ってる場合でもなく、日頃まともにトレーニングしてない私も、暑さを忘れるほどに焦るほどに汗をかいてるし、筋肉痛が始まりかけている。これで黎夢が肉体まで仕上げてきていたら、何となく対抗したくなって、とんでもない無茶を自分の体躯に強いていた。命拾いした……。
自分の部屋だと勘違いしていそうな黎夢ほどでは無いにせよ、コートの真ん中で呼吸を整えるのに集中していると、誰かが呼んだであろう、四十年前なら体罰に手を染めていそうなうちの部の顧問がやって来て、私たちを怒鳴りつける。まあ、練習の妨害をしたんだから、至極当然の行動ではある。顧問が「ちょっとこっち来い」と叫ぶ。今度こそ説教されそうだなぁ。
「はるちゃんっ!逃げるのーっ!」
とか言って見せるけど、息が切れて余裕はなさそうだった。でもいいや、そんな不確かな手だって。律儀に説教を受けても、この部活に居場所が生まれることは無いんだから、だったら、少しでも可能性のあるほうに惹かれてしまう。
「はへぇ……。怖いねー、あの先生。黎夢、寒気がしたのー」
「あんまりそうは見えないけど」
「怒られ慣れてるものでー」
と、黎夢はヘラヘラしながら、先生たちの憤怒と鬱憤を溜めるような感じで、笑いながら照れた。
私たちは校門まで逃げてきた。もし先生が追いかけてきても、学校の敷地外に出れば追いかけてこない……?らしい。なんとも眉唾な話というか、まるでゲームの仕様みたいというか、しかしそれに従うことを選んだのは私なんだけど。でもこれだけ校則違反を積み上げてきたんだから、これが一番効くってわかってるのかもしれない。いずれにせよ、これで良かったと思っている自分しかいなかった。
校門を入ってすぐの両脇には、一段高い所に楡の木が数本並んでいて、その縁の石垣みたいな部分に、黎夢は座った。まるで昨日もその前もそうしていたように、私も土を手で払ってから隣に座った。木陰が涼しくて、それどころかこの大木たちに護られてるような気分にもなった。
「それにしても、上手くない?昨日はその才覚を隠してたってこと?」
「のんのん、一夜漬けなのー」
「一夜漬けで強くなれたら苦労しないよ……」
「それがねぇー、この世界は不思議に満ち溢れてるんだよっ。秘訣、知りたい?ねぇ知りたいー?」
「うん」
お金儲けチャンスだし。だけど、結論を先に言えば、そんな邪な企みは阻止された。なぜならその方法が属人的なものだったからである。凡人に天才のことなど分からないのである。
「夢の中でいっぱい練習したのー」
「何だよそれー」
「何だろうね、これ」
天才は感覚でやり遂げてしまう。しかしそれだと、引退後にいい指導者になれなくて苦労するぞー。どうでもいっか、今は部活真っ盛りの時間なので、通行人も少ないし、思いっきり笑っておこう、わっはっは。
「逆に、黎夢も質問していい?」
「何でも聞いてくださいな」
そんな言葉が滑り落ちる。そんな言葉を脳が事後承認する。面白いかはさておき、自分がそうなように、黎夢にも自分のことを知ってほしいのかもしれない。別に疑心暗鬼の人間不信になってるわけじゃないので、ちゃんと、約束?のような暗黙の了解のような何かを、律儀に守って、テニスの腕を磨いてくるぐらいの誠実さなら、友達として十分かなーって思う。
「そうねー、はるちゃんは、学校楽しい?」
「えぇー、微妙だなぁ。正直に言うと……あんまり楽しくないけど……」
「じゃあ偉いね。ちゃんと来てて」
学校行くだけで褒めてくれるのは、うちの親ぐらいだ。だから、自分が認められた気がしてしまったから、喜悦に潜ったりしちゃったけど、それを隠すように言い訳風味の返答をする。
「グレるにはまだ早いかなー、みたいな。それに、家に居たって、ずっとベッドの上でごろごろするだけだし。終わらないトンネルみたいな毎日、それはそれで、つまらないし怖いよ」
「トンネルは短いのが連続して来るほうが面白いもんねー」
「そうだね……。って、そんな事を聞くってことは、辞めたいの?」
「辞めたいっちゃ辞めたいよ。不登校になってもやることあるかって心配、黎夢はあんまりしてないから。ただ、カタギの道にも、何か面白いことがあるかもしれないし、それに外から気付いた時に戻れないし。だから毎日身を粉にして登校してる」
「消極的な理由でしか、いい子でいられないものだよね」
「いい子だって、黎夢は自信もって言えないな……」
「いい子ってのはあの……、優等生ってことじゃなくて、不良じゃないって意味だから。補導されるような時間にコンビニでたむろしないってこと」
「あーいう人たちこそ、よくぞ社会という殻を破った!って称揚されるべきなのかもね」
「それじゃ社会が成り立たないよー」
結局、学校に不満を持ちながら、その枠の中でしか生きていけない負け犬なのかもしれないけど、こうして負け犬同士が傷を慰め合って、笑い合うことぐらい許されると思う。そうだなぁ、テニスは方便に過ぎなくて、本当は自分に限りなく近い心境の人間を、黎夢は見つけたかったのかもしれないって、そんな都合の良い解釈が頭をよぎる。
どうだろう、そんな単純な動機だろうか。私は彼女を予測できるほど、彼女をほとんど知らない。あの鼻歌でさえも、それに曲名があるのかさえも、私は手掛かりを持っていない。どこまで私と同じ方向にひねくれてるのだろう。それが分かったら胸騒ぎも収まるのかもしれない。自分に限りなく近い心境の人間を、私は見つけたかった、から……。
「そろそろ日が傾いてきたねー。もうすぐ部活が終わる時間だし、着替えて帰る準備したほうがいいのー」
「あの、明日も、来てくれますか……?」
「ほむぅー、テニスし足りない?」
「あいや……、そうじゃないけど……」
「テニスはもう当分いいかな」
「そっか……」
「明日は授業終わったら、昇降口で待ってて」
「えっあ、分かった。待ってる」
少しだけ進んだ気がする。私が足を前に出さなくても、黎夢が勝手に進んだかもしれないけど、誰が進めるかは関係ないわけで、明日に進めれば何でもいいわけで。私は黎夢の甘くとろみのある笑顔を真似してみた。鏡なんて無いけどわかった、微妙だと。黎夢は戦う相手じゃない。まあ、変にヘラヘラしてるのを有耶無耶にできたので良しとしよう。
「ところで、帰り道はどっち?」
「右だけど」
「うーん、人生って上手くいかないね。黎夢は左なのー」
太陽は火力を下げて、ストーブのような温もりに鎮まって、木陰がしばしの休憩に入る。ずいぶん長い時間、ここに座っていたようだ。普段と違って、ずっと同じ姿勢だったから腰とかお尻が痛む。まあそれより、筋肉痛のほうが深刻なのだけど。
そう言えば、昨日邂逅したばかりだってことを今さら思い出すように、前向きに表現するなら明日もあるから、わざわざ台詞にするほどでもない短い言葉を交わして、黎夢は左に、私は校内に戻った。
そんな出鱈目な出会い方をして、三か月が経過した。部活に関して言えば、テニスは楽しいけど、実力が拮抗していて、それでいて仲も良い黎夢が相手してくれるから、わざわざ部活に残る必要もないと思って、すっぱり退部した。……本当は、黎夢と遊びたいから、ただそれだけ。他にすることが無かったから、今日まで部活を辞めなかったわけであって。すること、見つかっちゃった。
「明世ー、今日みるくちゃんの家行かねー?」
「あれ、テニス部は今日練習でしょ?」
「あぁ……、実は辞めたんだよねぇ……」
「えぇ!?」
「辞められるの!?」
顧問にも担任にも色々怒号を飛ばされたけど、黎夢がそれで先輩に目を付けられても、守ってくれるって豪語するから、「明世の意志を尊重する」ってぼそっと呟くから、吹っ切れられた。まあこれで、完全に不良認定されてしまったけど。浮浪人間だって?やかましいわ。
で、クラスで仲良くしてくれるこの二人が驚くように、この学校で部活に入ってない人も希少だけど、その輪から抜け出した人も希少なのだ。その貴重な体験談を、ルポでも書こうとする勢いで取材してくる。
「え?先輩は何も言わないの?あと内申は?」
「テニス部の顧問って、見かけに依って怖いよねー。殴られたから辞めたとか!?」
「そういうんじゃ……無いんだけど。ただ、惰性で部活に参加してても、何も成長しないよなーって」
そんな崇高な理念に駆られるようじゃ、不登校を選ぶだろうけど。なんて、一人で心の中で反駁していた。
「でも分かるかも。一生コンクールに出られないのに、なんで吹部続けてるんだろうってなる、てか現在進行形でなってるから遊びに行こうとしてる。明世ー、あそぼー」
「そうしたい気持ちは山々なんだけど、今日は用事があって……。ごめんね、また誘ってよ」
「そりゃ誘うよ。私の友達、みるくちゃんしか暇な奴いなくて退屈だったから、帰宅部になってくれて正直嬉しい」
そんなこと言われたら、断ったことに負い目を感じてしまうじゃないか……。でも、あんまり黎夢を待たせるわけにもいかないので、ここら辺で教室を後にした。
それで、今日は音楽室を指定されたので、反対の校舎まで歩いていく。音楽室といっても古いほう、私は授業でも使ったことがない。そんな校舎の端っこに音楽室があること自体、初めて知った。
黎夢はすでに音楽室内にいて、何なら椅子に座ってスマホを弄っていた。しかも机の上で、隠す気なんてさらさら無く。最近、黎夢のことが分かってきた。反抗したくてあからさまにルールを破っているのではなく、そもそもルールの外に身を置いているから、ルールを守ろうとすると無理な姿勢になってしまうだけなんだと。
「黎夢っ」
「おぉ!はるちゃん!ぽよぽよ~」
「こんにちは」
「ぬーん、今日もダメかー」
「流行らないよ、その挨拶」
よほど流行らせたいようで、黎夢はスマホを前髪に突き刺して、世にも珍しく生真面目な表情をした。まあ、その挨拶は黎夢にしか似合わないし許されない。
「で、今日はここで何をするつもりなの?」
「そこに接地されてるグランドピアノがあるでしょ」
「そりゃそうだけど……。弾いてってこと?」
「前に習ってたって聞いたから。たまにはこういう日があってもいいかと」
だいたいは校門前の小さな並木に集まってたけど、雨が降ってたり、雨で湿って座れる場所がなかったり、後は何か腹積もりがある時は、こうやって先に黎夢が静かな場所を確保しておいてくれる。まあ、いつでもどこだろうと、私たちが集まってやることはお喋りが大半で、たまに黎夢の思い付きが飛んでくる。そして、その “たまに” を供給するのは私だった。玩具にされてる?……まあ、そう扱ってくれる人も初めてだけど。
黎夢はピアノに一番近い椅子に移動してきて、私が演奏し始めるのを、早くもゆさゆさ横に揺れながら翹望している。そんなに期待されても、ピアノに触るの何年振りだと思ってるんだ……。もっとも、知らない人からすると、曲として形を保っていれば、それだけで拍手できるんだろうけど。それに、聞いているのは黎夢だけだから。そんなに緊張する必要はない。
そうやって暗示したけど、鍵盤に指を乗せると、やっぱりあの頃の青い失敗が蘇ってきて、体の末端の震えを生じる。時間を稼ぎたかったのか違うのか、気が付くと私は横を向いていた。その視線の先では、いつも通り黎夢がにこにこしている。こんなに穏やかな時間に、私のピアノの音色は必要なのだろうか?と思いつつ鍵盤に視線を戻すと、案外すんなり弾き始めることができた。
私はショパンのエチュードの一つ、蝶々を弾いてみせた。特に好きというわけでも無く、ただ体が当時の過酷な練習をはっきり覚えていたから選んだだけである。決して上手とは口が裂けても自称できないけど、弾いてみせてという無茶ぶりに対してカウンターを入れるのには十分な演奏ができたと思う。
「どうだった、かな」
「なんかー、どっかで聞いたことある曲だった」
「それは良かった」
演奏を語る語彙はなくとも、崩れた相好で黎夢の気持ちが何となく伝わった。友達が、好意で演奏してくれた、それに対するお礼以上の何かが、黎夢の中に灯っていた。ふぅー……、ひとまず一息付ける。……音楽室のにおいと埃が混ざった、どこか落ち着く空気を少々吸い込んだ。
「そう言えば、前に歌ってた鼻歌。挑戦してみようか?できるか、分からないけど」
窓から舞い込む晩夏の風と余韻が混ざり合う時間も程々に、こんな提案をするぐらいだから、私のほうが物足りなかったのかもしれない。もう少しだけ、黎夢に自分の演奏を……押し付けていたい。
「てってってーてーてっ、ててー、てーてってっ、てってっててーてっ、ててーてってってっ……」
待ってましたと言わんばかりに、一瞬笑って見せたかと思うと、黎夢は気持ち良さそうに鼻歌を奏で始めた。彼女の甘美であえかなる音波は、喨々と響いて音楽室を満たしていく。……聞き惚れてないで、音を重ねないと。
「いや、難しいんだけど」
「黎夢の鼻歌じゃなくて、ちゃんと聞かせてあげよう」
黎夢は机を飛び越えて、こちらに近付いてくる。そして、もちろん校則違反なスマホから正解を流した。……いい曲なんだけど、調子に乗ってすいませんでしたって感想が横溢する。言い訳をするなら、ピアノで弾くための曲じゃないから無理。
「これ、なんて曲なの?」
「少女綺想曲」
「綺想曲ねぇ」
形式に縛られず、気ままで気まぐれで、思いがけない発想を含んだ自由な曲の形態のこと、練習曲とは真逆の曲のこと。
「空を如意に飛び回りながら自由闊達に謡うような曲で、黎夢たちにもぴったりだと思うのー」
「私たちに自由はあるんだろうか」
「自由で……ありたい?が正確かも」
「なのかねー。まっでも、私からしてみれば、黎夢は限りなく自由に近付いてる感じがするなー」
「そうかな。この世界では、一人で空も飛べないのに」
黎夢はピアノの横でぴょんぴょん跳ねた。
「飛びたいの?鳥みたいに」
「うん。初めて自分の体が自分の力で浮き上がった瞬間とか、きっと一生忘れられない体験になるだろうから!」
「……私に勧めてる?」
「もちろん。黎夢ははるちゃんと一緒に飛び立ちたいのー」
「比喩として受け取っておくよ」
黎夢の素直な気持ちも、私のまだらな気持ちも、この広い音楽室の壁に吸われていく。私がピアノを弾かなければ、あまりにも静謐な時間が流れていく。でもそれくらいが丁度いい。私たちだけの空間って感じがして。練習してみようかな、さっきの曲。ありのままでもいいけど、私たちだけの空間を、私たち自身の手で自由な曲を奏でて彩れたら、もっと素敵な空気に満たされると思うから。
黎夢が傍にいるとは言え、練習というのは自分と向き合う常に孤独な作業だ。今の私は、幼い頃よりも精神的に弱くなっているのか、人の味を覚えてしまったからか、一筋縄でいかないとすぐに横を瞥見してしまう。
黎夢はピアノに一番近い席で、参考書を開いて勉強していた。そう言えば彼女は三年生で、受験を控えているのか。中学受験をしてないなら、初めて人間として選別される経験なわけで、末恐ろしいなぁとたじろぎつつも、どこかで自分にはまだ無縁なものだと見ないふりをしていた。でも近場にあるから、怖いもの見たさで近寄った。
「黎夢」
「何?」
「あの、大丈夫なの?」
「この問題は楽勝よ。小学生の頃、先生が家庭科室で豆腐を切って見せてくれたことがあってね。立方体の断面の問題は余裕っすなー」
「いや、そういう事ではなく。私と遊んでる余裕あるのかなーって」
「まあまあ、本気を出すのが早い人は、怠けるのも早いのー」
黎夢のノートに目を落とすと、そこには整然と堂々と式が並べられていた。漫然と勉強ができる方なんだろうなとは直観的に気付いていたけど、ならなおの事、私が足枷になってないだろうか。
なんて、関係ない私が眉を八の字にしていたら、黎夢が頬を優しく摘まんで伸ばしてきた。控えめにやり返しておいた。
「黎夢といる時ぐらい、たのしぃーく笑顔でいてよー」
「中学生なんだから、勉強面も気になるじゃんー。どうなの?黎夢って志望校決まってるの?」
「えぇー、いいじゃん水臭い話はー」
「水臭くないよ。むしろ、もっと仲良くなりたいから聞いてる」
「そう言われちゃあ……敵わないよぉー。えっと、一応、白高にしようかなぁーって、志望校の欄にはそう書いてるけど……」
黎夢はリュックの中から直近の模試の結果を取り出した。
「おぉー、白高C判定って、凄いね」
「まあ、黎夢はこの学校でも一二三を争う秀才ですからっ。一位の子は東京の凄い所に行くらしいし、二位の子は高専行くらしいから、実質私がナンバーワンなのー」
黎夢の草津温泉のように湧き出る自信は、こんなに胡乱なのに、思わず信じ込んでしまいそうになる。というか、信じきってその甘い罠に掛かって、ここまで踏み込んでしまったわけだけど。私はその顔を何度か見返した。その間、黎夢はずっと同じようににこやかにしていた。
「頑張ってね。油断は大敵だから」
「あぁー」
「どうした?」
「今気付いたことがあるんだけどー」
「ん?」
「はるちゃんに応援されると、とっても嬉しいのーっ」
私は偏屈な人間だから、自分の言葉が勝手にそこまでの重みを持たれると、少し気後れしてしまう。黎夢はそれを本心で言ってるだろうから、余計に。
「応援してくれる人、今までいなかったの?」
「そんな憐憫を掛けられる人生じゃないよ。ただ、はるちゃんはちょっと特別だなーって、えへへー」
改めて声を発さなくても、黎夢はいつも笑っている。……自然と距離が縮まっていることに気付く。私は彼女の笑顔に吸い込まれているのかもしれない。まあ、ブラックホールと違って、中身がある程度把握できるのは救いかな。黎夢もこんなに頑張ってることだし、練習に戻りますかね。
「ごめん、これからすぐ委員会で……」
「わかったわかった。私が全部職員室まで持ってくよ」
「頼むわ~。ありがと~」
安請け合いしてしまったけど、クラス全員分のノートは重たいなぁ。半分ずつ……いや、早く終わらせたいから、一気に全部っ。真面目にテニスを続けてたら、これくらいなんてこと無いのだろうか。いやっ、夏の終わりは、綽々の終わり、夏が終わったから、みんな後がない。
山積みのノートと足を踏み外して体勢を崩さぬよう、慎重に階段を下りていく。……二階が見えてきた、半分は越えた。
最初は緊迫してみたものの、たかがノートで大したことないので、少し下りるペースを速めてみる。問題なさそう。おっと、視線にノートを迂回させて下ばかり覗き込んでいると、誰かにぶつかってしまうかもしれない。そう思って顔を上げる。視界の端から端へ黎夢が横切る。流れ星のように、速く細く儚く突っ切っていった。
「黎夢……!」
別に秘密にしておきたい友情ってわけじゃないけど、物理的に仕切られた空間でばかり遊んでるわけじゃないけど、大体いつも二人だけの世界のつもりでやり取りしているから、こうして公衆の面前でその名を叫ぶのは、何だか小恥ずかしかった。まあ、そんなことに悩んでいる場合でもなく、私を見向きもせず、黎夢は階段を駆け下りていく。まるで何かから逃げているように。
私が、そのまま一人ぼっちで逃げさせてあげる事なんてできるはずが無くて、その辺の埃っぽい床にノートを置いたら、急いで黎夢を追いかけた。誰にでもそれなりに親切にするけど、優先順位ぐらい付けたいから。
「黎夢!」
「はるちゃん、ごめんね……。黎夢は……」
「自由に逃げていいから。付いてく」
私は黎夢の手を掴んだ。黎夢に引かれる、確かに自分の意志で。黎夢の目に涙がちらついてるのに、とても深刻な状況にあるのに、黎夢の後の風を切るのが、私たちを縛り付けるなにかから逃げているのが、黎夢の手を握れているのが、とても痛快だった。
そういい気になっていたのだけど、少しずつ雲行きが怪しくなってきた。こっちの方向にはプールしかない。つい先日まで水泳の授業があったけど、みんな蒼白して高貴な方々になっていた。最近は真夏が猛烈に暑く、故に夏というものに対する基準も上がってしまっている。この程度では残暑を名乗れない。もう夏は終わった。秋にプールに飛び込むなど、自殺行為と言っても過言じゃない。
「黎夢!辞めときなよ!」
「下に水着着てるから!」
「そういう問題じゃないよ!」
「どうでもいいーっ、うおりゃーっ」
しかし、黎夢は無我夢中で、それが最高の憂さ晴らしだと信じてて、私が手を引っ張っても振り返ってもくれず、まだ透明な色を保っているプールへ、諸手を挙げて屈託なく飛び込んでいった。水飛沫が手足にかかる。それだけで、黎夢の生死が不安になる。自由はいつも最良とは限らない……知ってたけど。私は黎夢ほど極端で思い切りのいい性格じゃないのだ。
「黎夢!……黎夢っ!」
もしこのまま浮き上がってこなかったらどうしよう。そう最悪の事態が頭をよぎったのか、彼女の名前を何度も恥ずかしげもなく感情豊かに呼んだ。湿った地面も気にせず、膝を突いて前のめりになって手を差し伸べた。
まあ、黎夢は私に目もくれず、大量の水分を率いて、脇の梯子から自力で地上に這い上がってきた。自分で起こした自由の代償だから、自分で完結しようとしたのかもしれない。となると、もしかしたら、私がいなくても飛び込んでいたのかな。だから何だという話だけど。
プールに飛び込んで頭が冷えたのか、さっきまでの思い切りはすっかり水に沈んだようで、重い体に引っ張られるように、黎夢は梯子の近くにすとんと座って、溜息を吐いた。水がどこからも滴って、制服も髪も靴も、全部絞りがいがあるほどびしょ濡れで、あと一週間もすればもう二度と着ることのない中学校の夏服が全身に張り付いて、そんな黎夢のあられもない姿は初めて見たかもしれない。
それはそうと、空が薄くどこまでも広がる雲の陰に隠れて、体感温度が若干下がる。凍えてしまわないか、他にも色々思うところがあったはずなのに、一瞬でその心配しかできなくなる。今さら靴と靴下を脱いで、私は黎夢の傍に駆け寄った。
「黎夢っ!大丈夫、寒くない!?」
「あ~、全然平気……さむっ」
扇風機の微風より些細な風に、黎夢は大げさに肩を震わせる。額から滑り落ちる水滴が、鼻筋に沿って滴って、唇の端で裂ける。時間が経てば経つほど、その色は毒々しい色に変化していく。
「タオルとか持ってないの?」
「タオルごと飛び込んだから」
「はぁ……」
私は忌憚なく嘆息しつつ、ポケットからハンカチを取り出して、黎夢の顔だけは拭いてあげた。まあ、どれだけ顔だけ拭いても、髪からぽたぽた水が垂れてくるんだけど、私ができることはこれくらいしか無くて。
「いくらむしゃくしゃしてたからって、こんな事しなきゃ良かった。ただただ寒い……」
黎夢はそう地平線の先に向かって呟きながら、カタカタと震えて、腕にはびっしり鳥肌が立っていた。彼女の周りには大きな水たまりができていて、隣に体育座りしている私のスカートも、それに触れてぐしょぐしょになっていく。そんな自分の事はどうでも良くて、不自然なほど首を横に振って、黎夢の青白い顔面を気に掛ける。何か、私ができることは無いのか……。
「にゃっ!?何々、どしたのはるちゃん!?」
「こうやってれば、私の体温を分けてあげられるかなーって……」
「はるちゃんの制服も濡れちゃうよっ!」
「こうするしかないんだから、必要な犠牲だよ」
爪の先まで力の入った手で、私は黎夢の反対側の肩を掴んで、ぐっと彼女の上半身を手繰り寄せて、自分の胴体と太ももの間に挟み込んだ。どれだけ濡れても、私は全く寒くない。寒くないけど、指先が腕が唇が声が、なぜだか震え続けている。それを抑えようと、必死にわざと全身を震わせて、温めているふりに徹した。
「少しはマシになった……?」
「あ、暖かい、けど……。嬉しい、けど……」
反対の手で、かじかんで水でふやけてしわくちゃになった黎夢の手を包み込む。私は黎夢を包み込んでいる。そんな実感だけが先走りする。実態は、私もびしょびしょになっただけなのに、黎夢を温められている気しかしない。それだけ、黎夢という人間は、私の手でもどうにでもなってしまいそうなほど儚げで、包み込めてしまえそうなほど小さくて、守ってあげたくなるほど純粋だった。
塩素に負けず、黎夢の甘いにおいが私の鼻腔に触れる。上から黎夢の顔を覗き込む。顔色こそいつもの明るさに戻ってないにしても、すぐに安らかな甘い隙だらけの表情で身を委ねてくれた。プールサイドで身を寄せ合ってないで、早く着替えたほうが良いに決まってるけど、しばしこうして無駄な時間を過ごすことに、私たちは暗黙裡に合意していた。
「……何があったの」
「面談で先生に、内申足りないから白高行けないって言われたのー……」
「それがショックで……?」
「それもそうだけど、親には凄く応援されててさ。当日満点取ればいけるって励ましてくれて、それなのに今さらやっぱ辞めるとか、言えないじゃん……」
「当日の点数次第で、チャンスはあるってことなの?」
「可能性はゼロじゃないけど、でも俺が見てきた生徒で、この内申で白高受かった奴はいないって言われたんだよぉ……」
黎夢の光を乱反射する瞳が、半分閉じられた。黎夢は今、私の手の内にあって、私の言葉次第で、全てが閉じて可能性が潰えたり、逆に希望に夢中になってくれたり、どっちにも転がれる。……背中を押そう、そんな迷うような二択じゃなかった。それで失敗したとしても、その時の私が黎夢の心を癒せばいいんだから。
「それなら、諦める理由ないよね。親が許してくれてるんだし、うん」
「はるちゃんが、そう言うなら……頑張るっきゃないよね。あの、はるちゃんが受けろって言うから」
「何だよそれ。私に責任を擦り付けて、取れるなら取ってあげたいけど、無理よ?」
「責任?それなら、黎夢の勉強を見てほしいのー」
「はぁ?三年生の内容、一ミリも知らないんだけど!」
「違う違う。見ててってことっ。黎夢が勉強してる時に、隣にいてほしいって言ってるのっ!」
「そっちの方が捗るなら、……いつでも居るよ?」
こんなに神妙な雰囲気だから、「はるちゃんの時間を浪費するなんて申し訳が立たないのー」とか、「はるちゃんと一緒にいると、気分が昂って勉強に集中できないのー」とか、真面目な発言も期待したんだけど、誰よりも近くに存在する本物の黎夢は、さっさと気を緩めて、溜まっていた涙が零れるのも気に留めず、無邪気に笑って、頭頂部を私のお腹に擦り付けてくる。
「ふふーんっ。ねぇーもっとあっためてー」
「私、そんなに体温高くないんだから勘弁してよーっ」
「震えが収まったら、もう一回飛び込もっと」
「今度は私も一緒に入るからね!温めてやんないから!」
「えぇー?次ははるちゃんの方から震い付いてきたりしてー」
とか言い合ったけど、結局二度目はなかった。改めて水面を見ると、水というものが冷徹で恐ろしくて、とても人間を受け入れる器のある存在って感じではなかったから。挙措を失っているからこそ、できる事もあるよね。
卒業式が終わって、式場から溢れた卒業生と保護者が校庭で入り乱れている。各々記念撮影をしたり、別れを惜しんだり、特別で大切な瞬間。この先、そう何度も訪れるようなものじゃない。何だろう、この胸に込み上げてくる温かい気持ちは。……貰い泣きしそう。別れは美しい、本人はたまったもんじゃないだろうけど。
「はるちゃん!」
こんな喧噪の中でもよく目立つ独特な声で、明世という名前の独自性を半減させるようなあだ名で呼ぶのは黎夢しかいない。嬉々として視界をすぼめて小走りで向かった。私にも別れたくない人がいる。他人と同じであることが全てではないけど、私も大人への階段を少しずつ上れているのだなぁと、大げさに解釈した。
「えっと、黎夢、ご卒業おめでとうございます」
「そんな大層なことじゃないのー」
「大層なことだよっ。人生の節目なんだから」
「うんー、いまいち実感が湧かないんだよねー」
黎夢はそう言って小首を傾げた。まあ、そうやってお気楽なことを言ってられるのも、努力が実を結んで、無事に白高に受かったから。いくら黎夢でも、もし落ちてたらこんな風に飄々と笑っていないだろう。
合格発表前の私は、自分事以上に神経を擦り減らしていた。黎夢の夢が詰まってるとか、黎夢の受験に私が大きく関わりすぎたからとか、多分そういう善意じゃなくて、黎夢との時間が残りわずかであることが、あまりにも受け入れがたい現実だったんだと思う。実感が湧かないのはこっちも同じだ。私の前から、黎夢が消えてしまうなんて、そんなの……。
「あ、明世、その先輩と仲良かったんだ」
同じクラスの友達が通りかかった。黎夢が他からどういう目で見られているのか、少し引っかかる部分があったので、回答するのに戸惑いがあった。
「えっあぁ、まーそれなりに良くしてもらったというか……」
「めっちゃ仲良いのーっ」
黎夢が後ろから首に手を回して、私の耳元でそんなことを容赦なく宣言した。そこまで清々しくされると、なんか照れる。
「そうだ、ママが写真撮りたいーって言ってたんだった。じゃあねー」
黎夢は私の体ごと左半回転させて、そしてそのまま私を押して連行する。黎夢の母親が私の写真を撮りたがってたらおかしいだろって思ったけど、結局なされるがままになされて、こんな時に人気があるわけ無い、古いほうの音楽室に来ていた。
「またピアノでも弾いてほしいの?」
「違う違う。ただ、最後だから。静かな場所でお話ししたかった、それだけ」
「最後……じゃないよね、また家に遊びに行くから、ねぇ……」
「最後だよ、この制服の黎夢は。胸に花まで付いててお得なのーっ」
黎夢は膝丈のスカートの裾を摘まみ上げた。
「黎夢にはあんまり似合わないよ、その野暮ったい制服」
「でも、たくさんの思い出が詰まってるのー」
「それは同意……うわっ」
「はるちゃんに会えて、本当に良かったのーっ!」
黎夢が予兆も予告もなく抱き着いてきた。一瞬本当に息が止まって、黎夢の熱を受け取る度に鼓動が加速して、大動脈が張り裂けそうになる。マシュマロに包まれるような、そういうお手柔らかさで抱擁されているのに、自壊してしまいそうだった。
このままでは死んでしまうので、黎夢の意思とか意図とかを意識から逸らして、まずは自分の居場所を確保する。でもそうやって、冷静に状況を感じ取ろうとすればする程、黎夢に押し流されそうになって、本心がそれに感応してしまって、抱き返していた。
「黎夢……!嫌だ、離れたくないっ。まだ一年も経ってないのに、全然話し足りないのにっ!」
「それは黎夢もそうだよ……」
「どうして……どうしてこんな気持ちになるの。辛いし怖いし、黎夢がいなくて、この先やっていけるか不安で仕方なくて……。卒業ってめでたいはずなのに……!」
「あの、黎夢はどうしたら、はるちゃんの不安を取り除けるのかな」
「傍にいてくれて……、こうやって慰めてくれたら、少しはマシになるかな……」
「どこか遠くに行くわけじゃないんだから、あと三年は安心してほしいのー……」
「その先は」
「そ、その先もっ、当たり前でしょっ。黎夢だって、はるちゃんが居ないのは寂しいのーっ!」
黎夢が背中をさすってくれる度に、甘くて苦い感情が滲み出てきて、涙が押し出されてきて、私は恐らく人生で初めて咽び泣いた。涙がいくら流れても、感情が流れ出ることは全くなくて、こんな贅沢な時間さえも終わりに向かっていることが、どんどん胸を締め付けていく。どれだけ腕につま先に力を籠めても、時間は巻き戻らないし、これ以上黎夢に近付けもしないのが、ただひたすらに悔しかった。
まだ黎夢の熱を抱えているような気がする。彼女から受けた熱というのは、物理的な意味での熱とは性質が違うのかもしれない。この感覚は一生忘れないと思う。時々思い出して、たとえ黎夢が隣にいたとしても、泣いてしまうかもしれない。
「ねえ、少しは泣いて楽になった?」
「黎夢が高校行っちゃうって事実は何も歪曲してないから……あんまり……」
黎夢は折り曲げた自分の膝に耳を載せて、こちらをしんみりした眼差しで見つめてくる。当たり前だけど、悲嘆に暮れたいのは、新しい環境に進みたくないのは、黎夢も同じなのだ。
「私、白高目指すよ。勉強、頑張るから。待ってて」
「うんー?」
「何、無理だって言いたいのっ」
「そうじゃなくて、もっと簡単な学校にしとけば良かったなーって」
「そういう問題じゃないでしょ。行きたい場所に行くべきだよ」
「いやー?はるちゃんの事を何も考えないなら、志望校は迷わず白高にするけど。はるちゃんと一緒の学校が一番だから」
黎夢は穴だらけの木の壁に頭をつけて、斜め上を見ながらそんな事を言った。それを否定することは私にはできない。黎夢と一緒が一番だと思っているのが私だから。似た者同士、志を同じくするからこそ、ここまで仲良くなれたんだろうけど。
「わかってる。だから下馬評ひっくり返して、絶対受かって見せる」
「んー、大丈夫かなぁ」
「私の中で、黎夢が特別である限りっ、どれだけだって努力するし、どんな試練も乗り越えるからっ。覚悟は決まってるから……あのその、心配しないでっていうか……」
自分で言ってて恥ずかしくなって、黎夢から視線を逸らしていた。曖昧にしたつもりが、そんなに曖昧になってなくて、正直びっくりした。黎夢の表情に一瞬だけ塩気が混ざる。自分が世界に吹き込んだ空気の揺れが伝わってしまったようで、逃げるように自分の顔を膝で挟み込んだ。
「心配はするよ、大切な友達のことだもん。だけど信用もしてるから、頑張って」
「あっありがと……」
「そもそも、まるで同じ高校に入るまで会えないみたいな感じで話してるけど、ちょくちょく勉強してる所とか見に行くつもりなんだよね」
「そのついでに、教えてってくれてもいいんだよ」
「勉強は自力でやるのが一番身に付くのー」
黎夢は鼻から煙でも出てそうな勢いで、それを頑なに主張した。なぜか前からそこは譲ってくれない。黎夢に勉強を教わることが目的になっていることが見抜かれてるんだろうか。
まあいいや、この学校で黎夢と一緒にいる時間の最後だし、声を出して笑っておこう。茫漠とした音楽室のドアのすぐ横で、二人の少女の声が戯れている。横も後ろも上も黒板のサッシで守られて、あぁ、隅は落ち着く。……立ち上がる時、頭をぶつけないようにしないと。
——なんか尋常じゃないぐらい揺すられてる。だらしない姿をむやみやたらに見せびらかしたくないという、人間が普通に持っているプライドで重い頭を起こし、無駄に首を左右に二三往復して、ようやく鏡花の仕業だと気付く。
「なっ何事!?」
「あの宇野木さんが、ずっと諸熊さんの寝姿を見てる。私の直観だと、三十分ぐらいあのまま」
「うがっ……なんて事だ……」
鏡花が指差す方向には、アスパルテーム大さじ二杯みたいなにやにや顔の黎夢がいた。卒業式はとっくに終わって、涙ながらに送り出したのに舞い戻ってくるなんて……、私がわるうござんした。目を擦りながら若干すり足で、大半の人がすでに帰宅して、静寂と春のうららかな日光に満ちた教室の外に出た。
「ごめん、まさか戻ってくると思わなくて……」
「いいのいいの、はるちゃんの寝顔はいつ見ても眼福だから」
「んまあ、今日は出血大サービスってことで、何でもいいや。で、私と話したかったから戻ってきたってことで合ってる?」
「正解!よくわかったね」
「そりゃあ、こっちも、少し物足りなさを感じていたから……」
黎夢の周りにはいつの間にか賑やかな友達が沢山いた。高校でそういう関係を手に入れられて、素直に良かったと思う。この世界に、黎夢と相性のいい人間が私しかいなかったら、それはそれで困るから。それはそれとして、一対一で感慨に耽る時間も欲しい。私たちは特別な関係なのだから。
「どう?」
黎夢が相対的に短いスカートの裾を摘まんで広げた。
「そっか、制服も見納めか」
「どうかを聞いてるのーっ」
「いや私服じゃあるまいし、いつも見てるし……。似合ってるは変だよなぁ」
「でも、今日で最後だよ?」
「今日で最後だからって、劇的に見違えることはないでしょ」
「ふんっ、もう着てあげないのー」
「えぇ、この先着る予定があったの?」
「何歳までいけると思う?」
「なんか嫌だな、一年後でも、明日でも」
「まーでも、はるちゃんに頭下げられたら、何歳でも着るかもねー」
頭を下げて成人女性に高校の制服を着せるなんて、とんでもない背徳感がありそうで、一度味を占めたら戻れなさそうで、心臓が悪い跳ね方をしている。
それで、最後にこの学び舎を見て回ろうという話に纏まったので、まずは五階まで上る。卒業式があったとは言っても、在校生は普通に部活動に励んでいて、時々誰かが慌ただしく私たちを追い抜いていくし、教室に暇人が数人が集まって、仲睦まじくゲームに興じていたりする。
「ああああのっ、はるちゃんさー……」
「どうした、なんでそんな焦ってるの」
「手を……繋いだら、絶対絶対ぜぇーったいやばいのーっ!」
提案でも確認でもなく、それは宣告だった、しかも死の。黎夢は顔を赤らめながら、暴発しそうになりながら私の手を鷲掴む。勢いで腕が前にすっ飛ぶところだった。そのまま反対に振り切って手を放させようと試みる。
「ちょやめっ。私はあと一年ここで生活しなきゃいけないんだよ!?どうすんの、誰かに目撃されたら!殺っちまうしか無くなっちゃうよ!」
「抱き合うぐらいなら、友達同士でもやるかもしれないけど、手を繋ぐって恋人同士しかやらないと思うのーっ」
「だから問題だって言ってるんでしょうが!」
「いいじゃん、みんな知ってるでしょ、黎夢たちのこと」
「だからって、見せびらかすようにやったら、余計なヘイトを買うじゃん!」
「いいじゃんいいじゃんー、はるちゃんは意地悪なのーっ」
黎夢は見かけのままに非力だけど、今はその設定を忘れたかのように、よく思い返してみたら、火事場の馬鹿力でテニス部の顧問から逃げたりしてたし、意外と力が強いのかもしれないとかどうでも良くて、全力をもって私の指を、自分の指で挟んで潰そうとしてくる。どれだけ前後に揺さぶっても、歯を食いしばってこっちに手繰り寄せても、全く放そうとしない。
「黎夢ぅ……、お願いだから放してよぉ……」
「しょうがないなぁ」
黎夢は、なんかの指をなんかの指で絡め取って、それすらも秘匿するかのように、これ以上の妥協を許さないと言わんばかりに、足を引っかけそうになるほど距離を詰めてきた。どうしようどうしよう。明日、誰かに呼ばれただけでカウンターパンチをお見舞いしてしまう予感がする。
……こうやって冷静さを欠いていたら、接合部に気付いてない人にも訝しまれてしまうというのに、普通に歩く方法を忘れて、全ての動作が意識的になってしまう。対する黎夢はご満悦なようで……。落ち着け落ち着け、黎夢と手を繋ぐことなんて、今さら動揺することないだろでもここ学校なんだよなぁっ。
「おぉー、知ってる後輩……」
「そっちは行き止まりだから。さっさと別の場所行くよっ」
「えぇー」
「手、離れちゃうよ」
「はいはいー」
こうやって、何とか人気のないほうに誘導して、そしてついに休憩と称して、生徒会室の隣の会議室に辿り着いた。この部屋自体は、黎夢の知り合いがよくたむろしていた場所で、彼女にも思い入れがあるはずである。
「はぁー……、いきなり話しかけられて、『昨日、宇野木先輩と手を繋いでましたよね!?』とか迫られないか不安で、明日が怖い……」
当然のように、粟が荒稼ぎできそうなほど手汗が溢れてて、さすがにハンカチで拭いておいた。顔を上げると、黎夢が冷蔵庫の中を物色して、見覚えのあるお菓子の入った大きな袋を取り出してきた。
「これ何だっけ」
「休日、一番やばい過ごし方した人が勝ちってゲームを皆でやった時に、台湾旅行したように見せかけるために取り寄せた、台湾製のタピオカ饅頭なのー」
「食べなかったの?」
「みんなお土産持ってきすぎて、食べ切れなかった」
そう懐古しながら、黎夢が個包装を一つ渡してくる。アメリカのお菓子を日本人の舌に合うようマイルドにした感じがする。美味しいし、よく噛めば異国情緒が浮かんでくる。
「いやー、思い出たくさんできたのー」
黎夢はお饅頭一つ食べると、会議室によくある長い机に頬を擦り付けて、目を閉じて、今にも眠ってしまいそうなほど、息を多く含ませながらそう言った。そんな黎夢の幸せそうな姿を見て、自然と口角が上がってしまった。
「それは良かった」
「まあ、はるちゃんとは学校外で会うことが多かったから、あんまり関係ないかもだけど」
「そんなこと無いよ。多分、三年前のあの時は後悔してたよね。私に大変な負担を強いちゃうって。同じ学校に行きたいから、もっと簡単な所にしておけば良かったって。でも、三年かけて自分の選択に自信を持てたんだから、良かったんじゃない」
「どれも、はるちゃんが付いてきてくれたおかげだけどねー」
黎夢はそうやって突っ伏したまま、両腕を伸ばして手を満開に花開かせる。しばらくそうやって机の上でごろごろしている黎夢を眺める。こっちの視線に気付いて、甘えるように見上げてくる。舞い踊る心がそのまま私と黎夢の顔の筋肉を動かした。
「そう言えば、聞きそびれてだいぶ経つんだけどさ」
「はるちゃんなら、何を聞いてもいいよー」
「あの時、どうして私とテニスしようって誘ってくれたの?」
「あぁ、それはねー。だってさ、部活に毎日出てるのに、一度もラケットを振ってるところを見たことなかったから」
「憐れんでってこと?」
「いやっ、だから勝てそうだなーって思っただけなのーっ」
「自分、素行さえ悪くなければ、多分、一年生の段階でも試合に出れたと思うよ」
「出たわけじゃないんだから誇らしげに言うなーっ」
「どうでもいいでしょ。私に一度も勝ててない事実は変わらないよ」
あの後も、部活とは関係なく何回かやったけど、筋は良さそうなのに体力切れで毎度倒れている。アイドルを始めて体力が付いたはずなのに、テニスになるとすぐに力尽きる。巧妙な演技で、実はわざとなのかもしれない。
「まああのその、結果的に困ってる人を助けたーって感じになって、そういう意味でも満足してはいるけど」
「黎夢はちゃんと優しさを軸にできているから、凄いと思うよ」
「でもあの時、あの学校での居心地の悪さを共有できて、黎夢はとっても救われた。黎夢は誰だって助けるけど、自分は助けられないからね。はるちゃん、大好き!」
さっきまで机にべったりだった黎夢は、正常な判断が追いつく前に、上体を起こして隣に座る私に抱き着いた。……そうか、こうやって温もりを分け合うのも、しばらく不可能になるのか。
「はるちゃん!元気でねっ!あと、黎夢のこと忘れないでねっ!」
「それ、新幹線の前とかでやるやつじゃない……?出発まで、まだ一週間ぐらいあるんでしょ?」
とか余裕ぶってみるけど、刻限は確実に間近なわけで、今のうちにできる限り黎夢の想いと熱を収集しようと、己の門戸を完全開放したら、今度はこっちも目頭が熱くなってきた。
高校受験の時は何だかんだ言っても、同じ中学校の校区内に帰ってきてくれて、毎日だって会えた。アイドルを始めるかどうかだって、二人で近所を散歩しながら、何日も煩悶した。距離が離れたら、二人で積み上げるってわけにはいかなくなって、独立して二つの塔を積み上げて、時々その高さを報告し合うことしかできなくなる。私は一人で積み上げて、そして黎夢に追いつけるんだろうか。
私は黎夢が眠ってしまった夜は、よく十年後のことを考えていた。そんな未来でも、私は黎夢と二人で歩んでいるのかなって。結構すぐ躓きそうになるなんて、どうして見ないふりしていたんだろう。……そりゃあ、都合の悪いことばかり考えて、眠れなくなったら元も子もないからか。
「一日に三回電話しようねっ!」
「大事なのは回数じゃないよ……」
「じゃあ一日三枚写真を送るねっ!」
「それは嬉しいけど……。私はっ、自然体の黎夢が見たいのっ。黎夢ぅ、行かないでよぉ……」
「はるちゃんが本音を言ってくれて、黎夢も嬉しい……。でも大丈夫、またすぐ会えるよ。はるちゃんは、絶対追い付いてくれる。高校に入ってからも、勉強頑張ってたの知ってるんだから」
黎夢からの締め付けがいっそう強くなる。それに生きがいを感じる。私の努力は常に全部黎夢のためで、黎夢しか見えてなくて、頭の中も黎夢のことばかり。私の人生は、存在そのものが黎夢のためにあるようなものだ。危うくて浅はかで愚かなのかもしれないけど、そう想える人がいないより絶対に幸せだから、この気持ちは手放さないし、今は黎夢の前で遠慮なく精一杯涙を流そうと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます