第8段:ハリケーン鏡花

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 耳がキーンととなるような、甲高く底抜けに明るい音吐の波が、なだらかな坂の上の校舎から雪崩れこんでくる。全身が強張る……のはとっくにそうだった。なんか前のめりになって、両手を強く握って、一人だけ違う制服を纏って。集団から浮くのはいつもの事だ。どれだけ怪訝な視線を向けられようと、私は一歩もここから退く気はない。


「はっ」


 別にそれらしい人影が視線の端に映ったわけでもないけど、思わず寒さに身を震わせてしまう時のように、ジャーキングのように体を捻ってしまった。で、肘が軽く隣に突っ立ってる人に当たった。


「どうしたー?しまちゃんー」

「連れがいたのを今思い出した」

「連れって……。保護者のつもりなんだけど」

「怖いなら、尻尾巻いて帰ってもいいよ」

「怖くはないー……けど、まあ、がすよが気圧されてしまうような人でしょ。どんなねちっこい奴なんだろうって、気になりはする」

「気圧したのは私だし!」

「あぁ、そうですか……」


 私も何度か夜風にあたって、皮下組織ぐらいまでは冷やされた。向こうが意図してコントロールしていた部分もあるんだろうけど、それにしたって私は縁佳のことを何も知らない。まあ、好きになってから知るということに、大きな意味があるんだろうけど。鉄は熱いうちに打てと言うけど、冷えて固まれば鋼の意思となるわけで。


 それで、もちろん私は聞かれれば黒歴史だろうと、とっておきの秘密だろうと、縁佳になら言い漏らしてしまう頭が弱くてちょろい子なんだけど、縁佳は頭が切れて芯がしっかりしてるせいで、自分のこととなると途端に口が固くなるので、縁佳の過去でも知ろうものなら、因縁の相手にでも聞くしかない。その生徒会交流会以来の因縁の相手と話をするために、わざわざそいつの通う清新女子高校まで出向いたというわけである。無論、アポイントメントなんて取ってない。


 そう言えば中三の秋に、ここの文化祭に行ったことがある。常葉お姉ちゃんの策謀の一環として、半ば強引に連れてこられた。その時には常葉お姉ちゃんと同じ白山高校を目指すって決めてたから、それを揺さぶってみたかったんだろうか。でも、笑裏蔵刀な女子高なんて、私が惹かれるはずも馴染めるはずもなく、そしてそれぐらいは常葉お姉ちゃんも分かってるだろうし……。って、そんな事はどうでも良くてっ。とにかく奴を見逃さないように、よーく目を凝らさなくては。


「ところで、その人がこれから部活だったらどうするの?」

「待つ以外にある?入っていいなら別だけど」

「いぃーやぁー……。あの、ちょっと目が怖いよ」

「それは良かった」

「良くない」

「いいよー、ナメられたら負けだもん」


 明世は眉をひそめながら溜息を吐いた。だけど、今までのようにどこを見てるのか定まらない私では、この場を、いや、その先も切り抜けられない、理想には辿り着けない。縁佳に追いつけるかはともかく、その背中の輪郭を、明確に視認しなくてはならない。そりゃあ、変わるのは億劫だけど、仕方ない。


 こうして、他の生徒の白い目を掻い潜りながら、明世の握る手綱と格闘しながら待つこと十分、その憎悪と怨嗟を掻き立てる面が、舎弟と談笑しながら、斜面をゆっくりと下ってくる。決して優雅ではない、女子高が高踏な時代は、とっくの昔に終わったのだから。


 それで、ジャストなちょうど今、行く手を阻んで、なんか啖呵切って、周囲をどよめかせようとしたその時、神子島と目が合って、そしてほくそ笑まれる。性格の悪い奴ほど、記憶力がいいのかもしれない。


 靴音が私たちの目の前でぴたりと止まる。神子島の連れたちが、こちらの姿を一望してくる。


「知り合い?」

「んーそうだなぁ……、多生の縁、て感じかな」

「朝敵です」

「えっ、あーうん、ちょー敵ね、うんうん」

「 “う” って言ってたよ、はっきり聞こえたよ……」


 神子島本人は特に訂正に加担する様子もなく、静かにほくそ笑んでいる。そういう立ち位置らしい。縁佳よりもずっと傲慢で、ただ見てるだけなのに何となく腹立たしく思わせるオーラを放っている。まあ逆に言えば、縁佳だって加減を間違えれば、こっち側に転がってしまうことだってあるって話だけど。


 そんな神子島はわざわざ連れを先に帰らせ、一人で私と相まみえる。余裕に満ちた様子だった。まあ、あんなに厳粛な場で人を煽っておいて、今さら慌てふためいていたら、こっちだって恥ずかしくなってくる。


「これで話しやすくなった?」

「いや、あなたが一番話しにくいんだけど」

「なーに、あたしなんて、平島に比べたらよっぽど話しやすいでしょ」

「思い上がるなこのクソボケナス……」

「はいはいストップストップ、暴言を吐きに来たわけじゃないんだから」


 明世が私の肩を後ろに引っ張る。大抵の人は、今日誰かと殴り合うかもって、頭の片隅にすら置かずに生きている。だから、殴り合いになれば私でも勝てる……とか考えてるから、明世が付き添ってる。正気が帰ってきた。


「あたし、一応品行方正なキャラでやってるから、あなたから挑発されたとしても、あんまり汚い言葉使いたくないんだよねー。場所を変えよう、ファミレスでも……」

「そんな小細工、私に通用するとでも……」

「小細工ではないでしょ」

「じゃあ大細工?いずれにしても、私にたらふく食べさせて眠気を誘って、寝首を掻くつもりなんでしょ!いたっ」


 縁佳にもぶたれたことないのに、明世からげんこつが飛んできた。プラマイゼロにするために今度、縁佳にもとっちめてもらおう。


「すいませんね、想い人の話になると、すぐ熱くなっちゃうもので」

「ふぅーん。あ、こっちですよー、5分ぐらいで着きますのでぇー」


 神子島はその容貌に似つかわしくなく再度ほくそ笑みながら、ファミレスまで私たちを先導した。しかし、この人はこの人で、前は口撃してきたくせに、何を企図してファミレスで話をしようなんて発想に至るのだろう。悪役っぽい人に縋ってみた私も大概だけど、ねぇ。


「しまちゃん、本当に何も頼まなくていいの?」

「うん。だ、だって私は、ご飯を食べに来たわけじゃないんだから」


 とか威勢のいいことを言い出すと、お腹が鳴るのは鉄板である。


「別に、空腹じゃなくても鳴る時は鳴るんだからねっ!」

「んー、ほなフライドポテトいただきますー。そちらの人もどうぞ」

「じゃあお言葉に甘えて」


 横に座る明世まで、多糖類を脂肪酸とグリセリンがエステル結合したもので熱した化合物の塊を口にし始めた。ぐぬぬぬ……、ぬぬぬぬ…………。


 結局、胃袋が捩じ切れる思いに耐えかねて、フライドポテトに付け合わせのハンバーグが載ってるプレートを頼んだ。理性ある人間でさえこうなんだから、犬や猫を躾けるなんて、もうとんでもないことだ。


「んでさ、どうしたの?」


 マヨネーズを付けたフライドポテトを片手に、頬杖をついた神子島が、そう切り出してきた。おおよそ、私の用件を見透かしてるような気がして、なんか腹が立つ。とりあえず、切りの良いところまで食べ進めて、気持ちを落ち着けて、意を決して顔を上げた。


「あなたが、縁佳の過去を話したがってたから、聞きに来てあげた」

「奇特な方ね」

「多分、縁佳の今の友達は、私のことをそんな風に言わない。だから、余計に気になる。それだけじゃないけど」

「でもさ、こんな底意地の悪いあたしが、易々と教えてくれると思う?それに、こんな胡散臭いあたしが、真相を語ると思う?」

「真相を知ってることに疑いの余地はないんだ。それって、過去の縁佳を知るのに、あなた以上の適役はいないってことだよねっ」

「ふーん、そう期待されちゃあ、仕方があるまい。語るに落ちてあげますか」


 相変わらず、人を見下すのが様になってる人だ。こんな奴に、どうして縁佳が辱められなければならないのだろうか。どんな事情があろうと、あの時のことは許さないだろう。そして、私も彼女を見下す。そこで何となくで、過去の縁佳のことをペラペラ喋ってしまう神子島を。軽々に生きて、微妙な幸福度のまま万死の床に臥すのだろうな。


 そうは考えてみたものの、ナイフとフォークを握る指が震えてきたので、肉塊に刺して物理的に抑えてみる。負けたくないという対象のない敵愾心で、明世のほうを向くのも憚られる。雄弁を振るう側じゃなくて、インタビューアーなのがせめてもの救いだった。勢いが切れぬうちに、全てが解決するといいけど……。


「……って、改まってかしこまって聞き耳を立てられると、こちらも語りにくいっていうか。そもそも、過去の縁佳をどう形容するのが正解かわからないっていうか」

「誤魔化してないで、早く言ってくれない?冷めるでしょ」

「はいはい。あ、そうだよ、そう、説明するのが難しいというか、説明することが不可能なんだよ」

「色即是空?」


 ポテトを律儀に静謐に一本ずつ吸い込む明世が、ここに来て首を突っ込んできた。


「そう、そんな感じ!」

「ちょっと黙ってて」

「あぁごめん、つい……」


 いつから私の眼光は人を委縮させるほど鋭くなったんだろう。自分なんて白装束を纏わないと、誰も聳動させられないと思ってた。うーん、明世が気を遣っただけかもしれない。のそのそ付いてきて、わざわざ気を遣って、何が楽しいんだろうか。


「まぁー、あながち間違いじゃないっていうか。端的に言えば空っぽなんだよ、平島って。あ、捻くれてそうな二人のために補足するけど、もちろん内臓が内蔵されてないって意味じゃないよ。信念とか思想とか信条とか、もっと簡単に表現するなら、友情とか哀情とか恋情とか、蔑意も敬意も熱意も他意もない」

「感情が、無いってこと……?」

「三歳児ぐらいはあるんじゃない。空腹満腹、熱い寒い、快不快、こんなもの?あとは、何も感じない暗い部屋の中から出たがって、たまに自暴自棄になって足掻いてみてるけど、結果は芳しくないようで」

「だとしてっ、何がいじめに繋がるのっ」

「いじめっていうのは、誇張なんだけどねー。中身が空だからこそ、ギターもバイオリンも、期待通りの音を響かせるわけでしょ?人間もそう、空っぽな奴は外圧をそっくりそのままお返しするの」

「話が抽象的でよく分かんないんだけど」

「そう?よーく噛み砕いてみれば理解できるのに。怖いの?理想が、崩れていくのが」

「違う。IQが20違うと会話が成立しないってだけ」

「んー、本当に何もないんだよ。バスケ部だったけど、勝ちたいって向上心も、誰かと馴れ合いたいっていう共同体意識も、練習をサボってしまいたいという逃避欲求も。先輩の頭をボールでぶち抜いても、それがどんな影響を及ぼすのか、一顧だにしない。あたしなんて、全然惰性で生きてない。そう思わされた」

「証拠を握ってるっていうのは、文脈を後付けしたって意味?」

「そう。いじめてたのはあたし達になるんじゃない、世間的には。する必要がないから、反省はしないけどね。あいつがあたし達を恨んでるわけないもん」


 もしかしたら騙されやすい人間なだけなのかもしれないけど、少なくとも私の中では確信していた。神子島の語る姿をした縁佳が、確かについ数年前には存在していたのだろうと。人の性質を言葉で簡潔に言い尽くすのは容易ではない。そうでなければ、逮捕された人を知る人物へのインタビューが、似たり寄ったりな定型句で満たされるわけがない。曖昧で理解不能で歯切れの悪いこの思いこそが、言葉の限界で、そして当時の縁佳の限界だったのだろう。


 まあ、縁佳が空虚で虚無で無想だと、いきなり言われても、反発心が出しゃばってしまうもので、それを逃がそうと貧乏ゆすってみたり、ちょっとでも縁佳の名誉を回復しようと、勢いに任せて反駁紛いのことをしてみたりした。


「だけど今の縁佳は、全然、そんなんじゃない。至って普通。あなたが言う縁佳が本質だとして、じゃあ今の縁佳は何」

「上手く擬態する術を身に着けたみたいね。そうなる前に部活を引退したから、そこら辺の変遷は詳しくないけど、半年で部を掌握して、部長にもなるんだから、強力なブレインでもいたのかもねっ」

「ブレインって……」

「はいっ、これであなたも過去の平島を知れたわけだけど、それでどうするの?あいつはそういう奴よ、狼に育てられたような、人間味の薄い奴」


 神子島はそう言いながら、差し障りなく笑った。一瞬だけ目が合う。その時、自分の胸の奥底を覗かれたような気がした。それではっと気付く。縁佳の過去とか本性を知って、その忠誠が憧憬が信頼が揺らいで、顔を歪めて項垂れる、そんな私を、神子島は待望していたんだった。これは彼女にとっても、願ってもないチャンスなのである。だからでも無いけど、座り直して神子島に体の軸を合わせて、無心で彼女を睨み返した。


「私はあなたと違って、今の縁佳も知ってるから。見くびらないで」

「はぁー、世の中、中々上手くいかないものねー」

「それってどういう意味」

「独り言だよー。わざわざ突っ掛かってくんなって。まあ、あれだよ、あたしは他人にドラマツルギーを押し付けて、楽しんでるような人だからさ。あなたには何も押し付けられないなって、少し残念がっただけ」


 御託を並べて満足したのか、神子島はポテトの残りを食べることに熱中し始めた。残り少ないから、マヨネーズをたっぷり絡ませてから口に運ぶ。対抗して私も、付け合わせのポテトにソースをたっぷり絡ませて食べた。いろいろ思うところはあるけど、食欲は全てに優先する。



「世の中、変な人ばっかだなー。それでも埋もれていく大量消費社会、恐ろしや」


 明世は中吊り広告を見上げながら、左右に呑気に振れながら、そんなことを半笑いで言った。


「私たちの周りだけじゃない?」

「そうか、類友類友~」

「別に、私は変じゃない。当然のことをしただけ」


 そう断言してみたけど、明世が苦笑を浮かべるまでもなく、電車が私を無理くり揺らしてくる。背筋を伸ばして平衡を保とうとしても、外の風景が勝手に上下に細やかに振動する。あぁ、まだ体に余計な力が籠もってる。明世も敵だと認識しているからかもしれない、そうに違いない。


 負けたわけでも何かを成し得たわけでも無いのに、心なしか揺蕩う哀愁を打破するかのように、敵か味方かも定かでない明世が、何かを言い出しそうな気配を察知したので、流し目に逆光の彼女を見た。


「私にはー、よく分からないな。何にも夢中になれないってことかなぁ」

「そんな人はいくらでも居るよ。縁佳はもっと拗らせてて、何も好きになれないし、何も嫌いになれないし、何にも心を揺さぶられない」

「一応、しまちゃんが好きになった相手のことなのに、やけに冷徹に分析するね……」

「んー……、薄々そんな気がしてたっていうか、辻褄が合うっていうか」


 私の頭の中には、縁佳と過ごした日々が七割ぐらい鮮明に残ってる。その一つ一つと照らし合わせてみれば、腑が陥没する。生徒会長として、そこまでじゃなくても交友関係の結節点として、その役割をそつなくこなす事しか考えてない。どうしたら自然なのか、角が立たないか、彼女にあるのはそれだけで。怯懦な性格で、内に秘めた自己を主張できないわけでもない。そんなものは最初から存在しないのだから。私を気遣ってるように見えて、そうしないと時間が進まなかっただけなのだ。


 それはそうと、私は縁佳が好きなんだって、それはそうなんだけど、他人に臆面もなく告げられると、恥ずかしさのあまりのたうち回ったら迷惑なので髪の毛でも引っ張ることにした。ほのかな痛みが私を正気に引っ張ってくれる。


「まあ、私も違和感に勘付いてはいたけどね。化けの皮の後ろは、見事なタブラ・ラーサだなって。……ちょ、がすよのことを分かってあげられるのは自分しかいないのに、みたいな顔するな!」

「はぁっ!?そんな顔してないしっ」


 そうだったら良いなーという願望をおんぶにだっこに、現実を見据える顔である。


「でも、しまちゃんの心境に、あまりお変わりが無いようで、何だろうな、安心感というか頼もしさみたいなのを感じる」


 明世が高嶺の花のように微笑む。そうやって達観されると、縁佳でもない限りなんかムカつく。


「それってどういう意味。心変わりすると思った?」

「いやまあ何というか、完璧だと思っていたものが、完璧なハリボテだと知って、やっぱりショックだったんじゃないかなーって」

「うーん……、むしろ良いかも。完全無欠より、完全無欠のふりして致命的な弱点があって、それがダメでどうしようもなくて、その方がなんかゾクゾクする、ね」

「はへ?ちゃんと聞いてなかった。アナウンス聞いてた、次は白山~」


 途中まで目を合わせてまで聞いてたのに、その言い訳は通用しないっていうか、そんなに私の話に興味ないなら、付いてくるなって思った。そもそもなんで付いてきたんだろう、六時間目をサボるほどの価値、あるかなぁ。


 まあいいや、私は縁佳というどこにでもいそうな優等生を、ミステリアスに仕立て上げられたのだから。一歩前進した、勝負する最低限の資格を手に入れた……あずかり知らぬ所で、めっちゃ一方的に。向こうの窓に映る自分も、珍しく甘ちゃんになってくれてる気がする。今の私の相好が崩れてるだけかもしれない。



 ご飯を食べて風呂に入って、再び自室に戻ってくる。階段を上ってる時は、今週末までの課題をさっさと片付けてしまおうかと、優等生っぽい発想が浮かんできたけど、電気を点けてひとたびベッドが目に入ると、そこに飛び込まずにはいられなくなった。


 あの時はアドレナリンのおかげか、独りよがりで誰にも理解されない達成感に酔って、この先も全て首尾よく事が運ぶような気さえしていたけど、入浴すると話が変わる。湯船に浸かると、全身の筋肉の凝りが表面化して、体躯の疲労と向き合わされる。見知らぬ人、それも妖しい人と関わったから、ずっと体が強張って臨戦態勢にあったらしい。体は資本、労わろう、早めに寝よう。そうして、咄嗟の判断を追認した。


 と、早寝を決心したものの、風呂から上がったばかりで、まだ全身ほかほかなので、スマホを手に取って時間を潰すことにした。おー、永田から六時間目のノートが送られてきてる。ありがとうのあまり、ありがとうを二回送った。そうだなぁ、縁佳のノートって見たことないなー。参考にするつもりは毛頭ないけど、去年同じクラスだった時に覗いとけば良かった。


 寝返りを打つと、忽然とスマホが振動しだす。おあっ、常葉お姉ちゃんから電話だ、多分というか当然、何も用はないんだろうなぁ。文面でもやり取りしてないから、交流するのは実に一か月ぶりぐらいだろうか。文面も面倒なんだよねー、なんか絵文字を連ねて楔形文字みたいなのを送ってくるから。


「何、どうしたの」

「最近どうかなぁーって?上手く生きてるぅ?」

「ぼちぼち」

「二年生になったら勉強難しくなるんでしょぉ」

「そんな進研ゼミの導入みたいなこと言わないで」


 いくら大学生といえども、メガロポリスに身を置いてるといえども、一か月ぐらいではそこまで重症になることもなく、ただの常葉お姉ちゃんだった。まあ、染まった常葉お姉ちゃんを想像できないんだけど。でも、いつかは人生の伴侶を見つけて、我慢することを大人になるといい、大人になることを幸せだと主張するようになるのだろうか。常葉お姉ちゃんに対しては、そんな諸行無常を考えたくなかったから、やっぱり電話かけてほしくなかったかもしれない。


「ふんー、なんかぁ、悩み事でもあるのぉ?」

「え?常葉お姉ちゃんに言わなきゃ解決しないようなものは無い」

「えぇー、新居どうしよぉーとか、家事分担どうしよぉーとか、無いの?」


 常葉お姉ちゃんは喜色にまみれた気色悪い声で、私の膝を折ろうとしてくる。


「だから何の話?」

「よっすーさんとぉ、お付き合いしてるんでしょ」

「はぁっ、どこから仕入れたその情報」

「図星だねぇ」

「真逆だよっ」


 スマホ越しでも、勝手に息遣いとかはにかみとかを補ってしまって、まんまと常葉お姉ちゃんの術中にはまった気分になる。というかそもそも、私が縁佳を好きだなーってはっきりさせられたのは、本当につい最近のことで、本当に、思考盗聴でも疑いたくなる。……この部屋に盗聴器があって、独り言を全部聞かれてる、とか……!まあだとしても、常葉お姉ちゃんに聞かれてるってデメリットより、探す労力のほうが大きいので、どうでもいい。


「明らかに鏡花の瞳が輝いてたもん」

「そうかな?」

「私は見えないものが見えるのよぉー」

「あっそ」

「というかぁ、なんで振られたのぉ?よく睦み合ってたのにぃ」


 そんなこと直球で聞くなよって、いくら常葉お姉ちゃんでも全部は教えんぞと、足の指をぎゅっと丸めて勇むぐらいはしておいた。


「んと、なんかー、人に限らずだけど、縁佳って何かを好きになることが無いんだってさ。まー、私にそれを超える魅力がないってのもあるけど……」

「それをぉ、鏡花が覆してやりたいと?」

「そこまででは……」

「覆さないとぉ、付き合えないよぉ?」

「うぐっ」

「慰めても癒しても、あんな事もこんな事もしてもらえないよぉー?」

「いやっ別にっ、せせっせつ接吻とかそういうのを望んでないと言えば嘘にならんでもないけど、そもそもっクラス替えに遭っても卒業しても社会人になっても?ずっと一緒にいたいって同じ人生を歩みたいってただそれだけだったり?ねぇ、愚生がこの先ぼっちで生きていけると思う?しかもこの感情を抑えてだよ?無理無理、無理だね、無理だよ」

「あのぉー、それは当人にぶつけたらいいんじゃないでしょうかぁー」

「あの分からず屋に直接言ったら、伝わったことにされちゃうじゃん!ずるいんだよ、ずるいずるい」

「まぁまぁ……。成就するよぉその願い。だって普通は、そこまでの情熱を注げないから。自分を責めて落ち込んで、忘れるまで沈んで、人はそうやって次に進むのに、鏡花は意固地に前に進もうとするでしょ?でもそれが、何よりの武器なんだよぉー。頑張れぇー」

「なんか、常葉お姉ちゃんに励まされるのは癪だけど……。誰に指図されなくても、私はしたいようにさせるから、いい報せが届くまで、その反則アンテナを張ってればいいよ」


 私の中では、今なお無数の感情がグラデーションを描いている。ムカつく、鼻を明かしてやる、好戦的なものから、ただ単純に毎日のことを語らいたい、同じ物を食べたい、一緒に帰りたい、撫でられたい、撫でたい、愛でられたい、愛でたい、弄ばれたい、弄びたい、ただの親愛まで、私の全部を今すぐ縁佳にぶつけたい。たとえ縁佳がどんなことを隠していようとも、私は縁佳が好きだし、縁佳に好きになってほしいし、結局、私にもそれしかないのかもしれないけど、それがある分だけ縁佳を超えられる……といいなぁ。


 通話を終えると、部屋に寂寞が返ってくる。今日は相当空騒ぎした。寝るために落ち着こうと思ったのに、縁佳のことで頭がいっぱいになって、逆に体が温まってきた。しょうがないので、ベランダに出て夜風の力を借りることにしよう。


 窓を開けて、ベランダ用のスリッパに足を通して、何の変化も起こらない住宅街を見通す。梅雨も近いので、期待したような涼風はないけれど、杳々とした世界は思考と感情を研ぎ澄ましてくる。つまるところ、なんかやけに興奮している。こういう時は、一旦冷や水を浴びせないといけない。縁佳に適当なメッセージを送ってみる、適当、適当……。


「体調にお変わりないですか」

「そんなすぐに急変しないって」


 やっぱりクラスが分かれてから、それと、後悔してるわけじゃないって念押しするけど私が告白とかしちゃうから、前ほど会うこともないし、まして休日に遊びに行く機会はめっきり減ったし、会ってもどこかぎこちなさが生じて、深みにはまれてない感じがする。だから、ほんの数時間空いただけでも、小学生以来の同級生みたいな距離感になってしまう。空回りしてるわけでもなく、本当に心の底から、聞きたくなる。


「今何してるの?」

「暇なの?」

「今さら強調するまでもなく」

「またどこか行く?友達がいい店紹介してくれたんだよね」

「今から?」

「なわけあるかい」

「今度ね今度」


 そう言えば直近にも何度も、今度ってはぐらかされてる気がする。いやまあ、こんな夜更けに外出したいってわけじゃないけど、これはあれだ、完全に縁佳にペースを握られてる。それじゃあ、いつまでもこのままだ。縁佳は出る杭を打ってくる。まるで味方のような笑顔で、正論という金槌で。


「明日の放課後」

「えーどうしようかなー」

「用事あるなら終わるまで待つ」

「私はあなたの忠実な忠犬なので」

「いいの?犬で」

「よすがはウサギね。かわいいから」

「丑年よりはウサギ年のほうが良いけど」

「そっちのほうが似合うよ」

「干支に似合うとかないでしょ」

「じゃあ明日、待ってるから裏切らないでね」

「泣くよ、ほんとに」

「いくらでも待たせてあげるよ。しょうがないから」


 何とか約束は取り付けられたけど、それはそうとまだ胸がすかない。というより、新しいもやもやが産出されたって感じだ。例えば、私がこの恋情を伝えたかどうかに関わらず、縁佳は私と出掛けることを煙たがってたりするのだろうか。本当は嫌で、はぐらかすのが手癖でもなかったら、ストレートに抵抗感もにべもなく断るのだろうか。というか、今日神子島が語ったことから推察するように、やっぱりどんな感情も発現してないのだろうか。


 いつしか頭によぎった。この笑顔は作り物なんだと。人工ダイヤモンドでも美しさに陰りはないけれど、でも贈る以上文脈が生まれてしまうもので、いやでもそもそも、縁佳が感情を伴って笑うことがあるのかって疑念があって……ぐああーっ、ダメダメ、そんなことを思索していたら一年が終わってしまうっ。そうだ、縁佳が見上げてるかもしれないこの空の下で、縁佳の本性を勘繰るなんて、失礼極まりないそうだそうだ!ということにして室内に戻った。一段と体があったまった。今ならソフトボール投げで校外ホームランを叩き出せる気がする。


 どれだけ眠れなさそうでも、とりあえず布団に入って目を閉じろって、100人中96人は唱えそうなものなので実践してみる。こんな時こそ閃いてしまう。縁佳の本心は何も、笑顔にだけ宿るものではない。泣き顔だって、果てはしかめっ面だっていい。追い詰められた縁佳は、どんな魅力的で、私を悩殺させるような表情をするのだろう。想像していたら、意外と眠れた。



 本日の議題は、もし縁佳と相思相愛落花流水の情肝胆相照らせたとして、一体何を二人でしてみたいのか、ということである。ただ惰性で流されるままに、向こうのペースに甘えるだけでは、なんかその、良くないっていうか後悔しそうっていうか、破滅的な未来がある気がする。


「一通り大人の階段を上るってのはどうでしょう!高校生のうちに上れば、それは特別になります!」


 うーん、いまひとつ芸がない。というか、そんなものは前提に過ぎない。


「SNSの投稿を全部惚気にしましょう!」


 馬鹿だなーと一蹴しようと思ったけど、縁佳の惚気にはバックミンスターフラーレンよりも価値がありそうだなぁ。というのが惚気なのかもしれない、厄介がられるのかもしれない。


「縁佳の犬として、命令は絶対履行、食事も睡眠も外出も入浴も排泄も、ご主人様である縁佳の気まぐれでお預けを食らうのです!」


 いいな、それだよ最適解。私がペースを握るなどおこがましかったんだ。……待てよ、ということは、今は付き合うことをお預けにされてるってことなのか。なんだなんだ、興奮してきた。


「どるひゃぁーっ!」

「うわぁ、あぁっ」


 壁に寄りかかって、傍から見るとぼーっとしてたら、すぐ横の会議室の扉が勢いよく開いた。で、出てきた人と驚き合った。そんなはず無いのに、目が合ったこの一瞬で思考が盗み見られたような誤解さえ脳内に迷い込んできて、心臓がぐきっと歪んだような感触すら覚えた。穴でも空いてないか鳩尾の辺りを手でさすりつつ、壁から離れて、私なんてかき消してしまうほどの大声で叫んだその人を見上げた。


「って、鏡花ちゃんじゃん」

「……あぁー、あの、あー、知ってます、お会いしたことありますね、家にも上がりましたね、その節はお世話になりました……」


 思い出せ、思い出すんだ鏡花……!向こうは名前をちゃんと覚えてるのに、まさか私が忘れてるなんて、とても言えるわけないっ。何でもいい、思い出すきっかけさえあれば、この私なら絶対思い出せるんだからっ。あの時の会話は?家に上がる前に見た表札は?鑓水は篠瀬はこの人をなんて呼称してた?ダメだ、見事に何も思い出せない。朧気ながら文字は浮かんでるのに、読めないどころか何文字かも分からない。万事休すか?死か?縁佳以外の人間を馬糞以下の存在としか認知してない奴ってレッテルを貼られてしまうのか?


 せっかく見上げた視線は真っ逆さま、少しでも時間を稼ごうと、呪詛にも似た独り言をぶつぶつと垂れ流している。明らかに不審なので、向こうが心配して「んー?どうしたー?」と声をかけてくる。今とんでもなく日光の三猿に憧れている。


「もしかして、覚えてないの!?それだけでも覚えて帰ってって言ったのに!」

「うわわわ、違うんです違うんですっ!これはっそのっ、えと、あっあの時聞き取れなくてごめんなさいっ!」


 なんかもう、背筋を伸ばしたまま両手を体側に揃えたまま、後ろにひっくり返りそうになっている。いや、それができるほど理性が焼かれていたらどれだけ楽なことか。


「なーんか大きな音がするかと思えば、安栗の悲鳴かー」


 会議室の中から縁佳がのそのそとやって来る。それは一筋の希望の光、あの日見た流れ星よりも眩く、頼り甲斐を帯びている。自然と手が伸びてしまう。


「よっっっすぅーーーーっ」

「だから抱き着くなって。私はそういうキャラじゃないんだから」

「えぇー、0.1 kg痩せたのにー」


 縁佳に向かった手が見事にUターンしていく。そうだった、私はこの人に一度振られてるんだ。これは私に対する牽制でもあるのだろう。まあ、私の縁佳が、他人に手垢を付けられなくて済んだって、こう、前向きになろう、うん。久しぶりに、誰のためでもなく、ひとりでに何度か頷いた。


「鏡花。……ねぇ鏡花っ」

「はっ、ななっなにななんでしょう!?」


 縁佳が若干目を細めてるのに遅ればせながら気付き、舌が空回りする。


「安栗だよ、安栗。覚えた?」

「あぁ、うんっ。覚えた、絶対忘れない……と思う……」

「安栗も、そんな風に詰めないであげて。萎縮しちゃうでしょ」

「えぇ違う違う、そんなつもりじゃなかったんだけど!でも、怖がらせちゃったならごめん」

「そ、そんな事ぐらいで、こっ怖がったりしないしっ」


 少し呼吸する間を置いて、二人が声を揃えて笑い出した。縁佳の笑顔があるほうが正しい選択肢に決まってる。軽く蹂躙されて正解だった。と、こんな具合に颯爽と現れて、私を庇ってくれるような、そういう縁佳の原点のような様子に、また今更殊更心を奪われていたら、もう一段階プルスウルトラがあった。


「じゃあ、この後は鏡花と用事があるから。また明日~」

「えー、せっかく巻きで終わったのにー」

「予定入るの先だったんだからさ。ごめんって」

「まあまあ、この大畜生は私が回収するから。ほら、帰るよ安栗」

「よっっすぅーー、あそぼぉーよぉーー、鏡花ちゃんもーー」

「騒ぐな、全身の関節をトルコアイスみたいに伸ばされたくなかったら」

「もうこれ以上身長はいらないーっ」


 安栗は鑓水に重たそうに腕を引っ張られて、足をばたつかせながら退散していった。


「鏡花、なに悦に入ってるの」

「はふっ、別っ別に、別に別に……」


 これって安栗よりも私を優先してくれたことに他ならないわけで、いやまあ安栗なんて元から相手にしてないけども、縁佳ガチ恋勢の私としては幸甚の頂である。全身から喜びが溢れて止まらない。もったいない、肉汁と同じで閉じ込めておいてこそ真価を発揮するのに。


 明日、筋肉痛になる程にまにましてたら、頭頂部を素早く軽妙に薙ぎ払われる。縁佳の手元を瞥見すると、授業のプリントで作ったチャンバラを持っていた。


「ねこも中々気が利くねー」

「貰ったの?」

「そう。一番後ろの席で、一枚余ったから作ったんだってさ。ゴミ同然だと思ってたけど、まさか必要になるとは」

「もう一回、持てる力全部使って、廊下中に響き渡るぐらい叩いてくれない!?」


 死後三日の死体を目の当たりしたようなひしゃげた顔で、酷い嫌悪感を表明された。まあ、至極まっとうな反応だと思う。それを理解した上で、間違った扉に飛び込んで、致死量の脳内麻薬に溺れそうになってる自分がいる。


「鏡花、どうしたの……?ただただ単純に様子がおかしいけど」

「そりゃっ、なんてったって、めちゃ名前で呼んでくれるし、なんかこう、あぁ、今日も綺麗ですねっ」

「あの、なんか勘違いしてるのかもしれないけど、別に今日はデートじゃないからね。ただの友達同士が、放課後に遊びに行くだけ。それを履き違えるようなら、えっと、その、きょっ距離を置くからねっ」


 縁佳は一瞬迷いながらも顔を強張らせて、最後通牒的なノリの何かを送り付けてきた。わざわざ言い付けられると、興奮より落胆が勝ってしまう。まあ、めげてられない性格なもので、ふと何回か縁佳の口から聞いた気がする、友達って言葉が引っ掛かる。友達は好きなものじゃないのか。うーんと、確かに私は、好きだから友達から恋人になろうとしたわけで、そうか、私たちは価値観が合致してるのか!


「はぁ。そうやって一喜一憂してて、大変じゃないの?」

「もう慣れっこだから、気にしないで。私の情緒なんて、勝手に翻弄させられとけばいいの」


 縁佳は憐れむような視線を向けてきた。それも慣れっこというか、今となっては心地良さすらある。私のことが大っ嫌いな縁佳じゃなければ、何でも愛せる気がする。友達でいようとしてくれるんだから、大っ嫌いってことはないよね、ないよね……?


 こんな所でじゃれ合ってても腹は膨れないので、そろそろ縁佳が友達から聞いたというチーズケーキ専門店とやらに、二人並んで向かう。縁佳はそういう流行に敏感だけど、私がいないとその情報も役に立たないんだから、つまりもっと私に感謝してほしい。


 新緑薫る瑞々しく明るく眩しい街を、歩幅を揃えて歩いていると、縁佳が歯に物が挟まったかのようなもどかしそうな鬱陶しそうな形相で、頻りにこちらを流し目に見てくる。ちなみに私は首を捻って常に熟視している。相対して喋ってると純然たる横顔は楽しめないから、いい機会なのだ。


「何、その物言いたげな恍惚は」

「手を、繋ぎたい」


 食べちゃいたいと迷った。けど、これからチーズケーキを食べるんだから、胃は空にしといた方がよかろうと思い至り、手を繋ぎたいって願望が飛び出してきた。すぐに縁佳の表情がいかめしくなる。そりゃそうだ、冗談に昇華させられない選択肢なんだから。


「は?調子に乗ってると、さすがに怒るよ」

「でも、前は繋いでくれたじゃん、両手」

「あれは素手で寒そうだからって、握ってくれたんでしょ」

「だからっ、繋ぎたいのっ、一方的でも独善的でもなくて、双方的で協調的に繋ぎたくてっ」


 縁佳の網膜のその先まで、精一杯見つめてみる。それが威圧になってるかは分からないけど、縁佳の作戦はぼーっとやり過ごして、友情と恋情をごちゃ混ぜにして有耶無耶にすることだろうから、こっちはいつだってわがままで居ようと思う。これは駆け引きというか、もはや勝負なのである。


 しばらくすると、縁佳は私の苛烈で峻厳な重圧に耐えかねて目を逸らした。それで周りを見回してから蹴散らしたように言った。


「また今度ね」

「そうやっていつも……」

「この辺、同じ学校の人がいっぱい歩いてるでしょ」

「別にそれでも、私は気にしない」

「いやー、例えば万が一付き合ってたとしても、私たち付き合ってますーラブラブですーっていうのを、見ず知らずの人間に見せつけるのは、個人的な美学に反するというか。舞い上がっちゃって、そういう事をしちゃう人とは付き合えないなー」

「己のひん曲がった気質を説明するのに、そんな長い言葉は必要ないでしょ」

「ひん曲がってる?そうかなぁー、素直なほうな気がするけどなー」

「素直っていうのは、大人の言うことに反発しない優等生って意味?真に素直な人っていうのは、自分の欲望を包み隠さないことだと思うけど」


 欲のないあなたが、素直になれることは決してない。……無欲で空虚、私はそんな人が好きなのかな。まあ何でもいっか、確固たる信念があって、それを挿げ替えるのは大変だっただろうけど、何もないなら彼女の世界を一から自由に塗り潰すだけでいいんだし。


 って、好きな人の前で怖い顔をするなんて烏滸の沙汰、こっちの笑顔で相手の笑顔を誘わないと、とか考えて、それでしっくりこなくて表情を千変万化させてると、縁佳は呆れることにも飽きて、話題を逸らしてきた。そうと決めれば引きずらず、物腰柔らかで自然体で平和な表情に豹変できるのが羨ましい。


「そう言えば、鏡花ってウサギ飼いたいなーって思わないの?」

「たた例えばっ、縁佳と二人で暮らすってなったら、考えなくもないっ。……いいな、飼おう」


 縁佳に主導権を握られたままなのも癪なので、それなりに覚悟を決めて、わざわざ不愉快な話題に引き戻してみる。ゆっくりと痙攣しかかっている瞼を開く。そこには何百回と浴びせられた、紛い物の含み笑いがあった。安心と停滞は表裏一体なのだろう。その安心感に乗せられて、握りしめるような放課後を満喫したのであった。

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