7-4
命の灯火が今にも息絶えそうな、そんな灰がかった夜の街の中で、通い慣れた学校だけが最低限の明かりを焚いている。まあ、霊的な何かが顕現できるほど暗いほうが、天体観測には向いてるし、むしろ助かるのだけど。
しかし、世界は闇に覆われているはずなのに、私の視界はやけに透き通っている。感覚が研ぎ澄まされて、微かな揺らぎが気になってしまう。昼間の太陽は、私のような日陰者には眩しすぎるのかもしれない。ウサギかな。
まあそんな事はさておき、普段より二割増しの歩幅で社会の境界線を跨ぎ、深夜の高校に侵校する。夜の学校というのは、いや夜の自宅以外の、病院とか河川敷とか、要は任意の場所というのは、決まって緊張を引き起こす。その経験があるから、余計に緊張が増幅される。癖になりそうな背徳感、いっそ癖になってしまえば緊張しなくなるのに。
そんな素行の悪い身震いだけなら、下手な笑顔で誤魔化せるけど、ここに質の悪い戦慄が加わる。私は、縁佳にきちんと想いを伝えようとして、学校が特別な空間と化すこの会に誘ったんだ。ポスターを見た時はこれしか無いって突っ走ってしまったけど、今思うと攻めすぎてるというか、若気の至りというか……。巡り合わせは人間というのは、意図せずとも他人に影響を及ぼしてしまい、また及ぼされてしまうのだなぁと。気付いていたようで、どこか自分は縁佳以外に無関心だと自負していたらしく、夜の学校の階段を上っているまさにこの瞬間を、何だか意外に思えた。
でもまあ、これは薄氷を踏むような危険な賭けではなくて、それに私が縁佳を想う気持ちに偽りはなくて。ただ、関係性を明確にして、お互いが手探り合わなくていいようにするだけの、通過儀礼というやつなんだから。気負いすぎないよう、空回りしないようにすればいい。
中央のメイン階段は壁がガラス張りになっていて、上っていると空が黒く光っているのが、嫌でもよく見える。無風で月明りのない静謐な夜、普段は大体寝てスキップしてしまう夜。今日はその魔性に思う存分浸ることになるのか。足を止めて夜空を見上げて、北斗七星が浮かび上がってきて、吉兆だと信じた。
「おあ、友達!ぽよぽよ~」
「はっ、宇野木……先輩……」
オートフォーカスで、ガラスに映った自分と黎夢の顔に気付いて、慌てて振り返った。
「来てたんだね~」
「あぁはいっ、めっちゃ来てました……」
普通に返答したつもりが、自分でも追加で怯えるほどの違和感があって、黎夢は首を傾げていた。
「んー?つまりはそういう事かー」
「どういう事だとお思いで?」
「いいよねー、恋人と星を眺めるなんて」
「はぁっ!?違う違うっ……違くはあんまり無いけどっ、これからっていうか……!」
私が左右に首を動かしながら髪を弄りながら目線を逸らしながら、決死の覚悟で否定すると、黎夢は納得した面持ちで、結局仰々しく頷いてくれた。……なんか黎夢の隣にいる、ひとりでにパラパラめくられながら魔法攻撃を飛ばしてきても不思議じゃない謎の本を脇に挟んでる、物静かそうな人が、私の真似なのか、短めなその髪を強く握って引っ張っていた。そんな風に映ってるんだろうか。大げさに両手を開く、それも真似された。
「瀟洒なのー」
「そうなの?」
「そうじゃない?」
黎夢が今度は隣の人に聞いた。少女は波風立てずに、興味無さそうに答えた。
「そうでもない」
「そっかー」
「そう言えば、諸熊さんは?」
「起きてられないから来ないって。真面目だねぇ」
「真面目だ、ねぇ……」
「まあそこが長所ですから。代わりに願い事をたくさんしとくのー」
そんな伝承もあったなーと、わざわざはっとさせられる。無論、縁佳に想いを伝えるってだけで、生活リズムは崩壊するし、課題も小テストも忘れるし、食事も睡眠も呼吸さえも忘れそうになるし、瓦石のような俗信に意識を傾けられなくなる。今さら取り上げて反省するまでもなく、残念ながら私はそういう人間なのだ。まあでも、願うにしてもどうせ一つだけなので、わざわざ事前に考えておくまでのことでも無かった。
「頑張ってね」
「はい、逃げないように、善処します……?」
「君は逃げないよ、大丈夫」
「どこにそんな保障があるの?」
隣にいる少女は、冷たい口調で黎夢に底意地の悪い質問をした。
「人間らしくない程まっすぐだから、とか」
「それは、ほっ褒められてる、のですかね……?」
「それが肌に合わない人もいるだろうけど。その力で選びたい未来を勝ち取るのー!」
「……もう満足した?飲み物、早く買いに行くよ」
「スプライト百本だっけ?」
「は?この学校はスプライトが売れるのかって、バイヤーが勘違いさせられるでしょ」
二人は下の階へ軽妙に下りて行った。私が縁佳を想う気持ちに誤りも曇りもなくて、そして人をそうやって想えるのは誰でもできることじゃない……って趣旨なのかなぁ。まあ、早く縁佳の元に赴こう。縁佳が原因とは言え、一人で緊張に揉まれるのは辛いものがある。
長らく誰も近付くことが許されなかった屋上が解放され、あまつさえ深夜に生徒たちで賑わっている。どうやらジュースとかお菓子とか食べ放題らしい。こんなに退廃的な行事が文化祭以外で許されるのかと、少し驚いてしまった。その楽しげな雰囲気に反して、明かりは最低限で、誰かのスマホの光すら頼りになるぐらいだった。
「鏡花」
あと、縁佳の声とかも頼りになる。縁佳が人混みの中から直進してきた。
「あっあっ、ささ先に来てたんだ……」
「そりゃあ、準備手伝ってたからねー」
しかし、瀟洒さだけでこの機会を選んだけど、ちょっと失敗だったかもしれない。宵闇が私たちの距離をはぐらかす。むしろ、どんな困難が間に挟まってようと、変わらず綺麗だよとでも言えばいいんだろうか、というか何を伝えるつもりだったんだろうか。私がやってるのはいつも、懊悩ではなく感情を抑えようとのたうち回ることだった。
そんなことを後悔して新しい悩みの種にしていても、お構いなしに縁佳は話しかけてくる。
「鏡花から誘ってくるとは珍しい。星に興味でもあるの?」
「いいや全く」
縁佳が前を向いて考え込む。恐らく、ある事にしておかなければならなかった。
ほんの少しだけ喧騒から遠ざかった所に、既に広めのレジャーシートが敷かれていた。縁佳が遠慮なく靴を脱いで、シートの上に寝っ転がる。私も及び腰で後に続いた。横を向く、偶然にもお互い同じタイミングで。……ここまで近いと宵闇も無力で、縁佳の一顰一笑が誤魔化せない。言わずもがな、全身が張り裂けそうな激痛に見舞われていると、脳がそんな勘違いさえしている。やっぱり、星とかどうでもいいっ。
「やばいなぁ……」
縁佳が天を仰いだまま、大きなあくびの後にそんな事を呟いた。自明なのに、わざわざ尋ねていた。
「な、何が!?」
「えぇー、夜風が気持ち良くて、寝てしまいそう。ふあぁ……」
「あっ、えっ!?起きて起きて!ほら、今この瞬間にも、流れ星が降ってくるかもしれないんだからっ」
せっかく寝っ転がったのに、私は飛び起きて、縁佳に上から物言いを浴びせていた。
「寝たら起こす?」
「そりゃあ、うん。だって、他に話せる人いないし」
「そう。じゃ、頑張りますー」
瞼に力を籠めて、目を大きく見開いてる縁佳を確認して、また横に寝っ転がった。……なんで縁佳を頑張らせてるんだ、一番頑張らないといけないのは私だろうがっ。
と、自分を追い込んでみても、縁佳に先を越されてしまうのがこの世の摂理で。今にも消えそうな声で、都合良く名状するなら私にしか聞こえない声で、嘘を吐くなら生まれたての赤ちゃんのようなか細い声で、ある種の意地のように他愛のない話題を振ってきた。
「流れ星が流れる間に、三回願い事を唱えられれば叶うんだっけ?」
「何か願うの?」
「二十個は用意してきた」
「そっ、そんなに現状に不満があるの!?」
「いや不満じゃないけど……。長生きできますようにとか、生活に困りませんようにみたいな、普遍的で味気ない願い事がばっかりだし」
「甘い物が食べられますように、も追加して」
「あ、そうね。二十一個になった。というか、逆に鏡花は願い事ないの?」
「あるよ、一個だけだけど」
「確かに、一個見られたら関の山かもしれないけど、ちょっと謙虚すぎない?」
「私は甘いもの食べられるし、生活に困らないし、長生きできるし」
「その自信はどこから……」
縁佳は私と言葉を交えつつも、真剣に夜空を見張っていた。その、二十一個の願い事の中には、恐らく優先順位があって、絶対に叶えてほしいお願いなんかもあったりするのだろう。それが何なのか、分かるはずもないし、やっぱりそんな物はないのかもしれない。だって神の御前では、私のことを願ってくれたのだから。私以上に謙虚な可能性もある。でも逆に、私と同じクラスになるという願いを押しのける程の願いを秘めてる可能性だって残ってる。
つまり、私は縁佳のことが何もわからない。そうやって、しかつめらしい表情をしているのも、流れ星を忍耐強く待ち構えているのか、はたまた眠気と格闘して感情が疎かになっているだけなのか。幸い、自分のことは少し知覚できる。今も縁佳の横顔に釘付けで、縁佳のことしか頭になくて、自分も星に願わないといけないのが忌まわしい。今度は私が縁佳の願いを願ってあげたいのに。
「でも良かったよ。鏡花がきちんと私と話してくれて」
「当たり前だしっ」
「一回逃げられちゃったからねー」
「あっ、あれはー……。突然でびっくりしてしまって……。何を話すか、考える時間が欲しかったというか……」
「そう?今日は考えてきたの?」
「ん、あ、や、えぇーっと……」
痛い所を突かれたという以上に、告白しようと思ってることが見抜かれてるようで、心臓が撃ち抜かれたように機能不全に陥る。そして、すると決めたはいいものの、文面は何も考えてないことを思い出した。タブラ・ラーサってやつ。
「あのっ、縁佳は私と話せて嬉しい……のかな」
「もちろん。仲が悪いほうがいいなんて、あるわけ無いじゃない」
「そうだよね。私もほっとしてる。縁佳がいない毎日は、何だか生きてる心地すら失われてるようで、とても辛かったから……」
「そんなウサギみたいな理由で死んだりしないでよ」
「あ、死んだら悲しむ……?」
「呼ばれてなくても葬式行くよ」
「じゃあ死なない、長生きする。縁佳を悲しませないために」
決意を表明したら、縁佳の瞳がこちらに零れてきた。一方的に横顔を眺めてられると油断していたので、口パクを披露した後、夜空に目線を映した。この発言は藪蛇だったな。
ともかく、一応これは流星群の観測会なので、まずは天の気まぐれに付き合う。雲一つない夜空だけど、故に変化もほとんど生じない。影響されやすい私は、そんな落ち着いた空にたまに気持ちを和らげてもらうけど、縁佳が真横で仰向けに寝っ転がっていると思うと、静心にときめきが上書きされてしまう。もう少し縁佳を眺めていたい気持ちしかないけど、終わったらいくらでも堪能できるから、もっと明るい場所のほうが縁佳は美しいから、でも星を追い掛ける縁佳は今しか見られないから、頭を横にした。
流れ星という、ちっぽけな光を追い求めていた私たちを嘲笑うように、東の空が圧倒的に輝き始める。夜明けと共に観測会は幕を閉じた。
流れ星は見えた、一筋だけ。誰でも描けそうな白い尾を黒い空に引いて、人の子の願い事なんて聞く耳を持たずに消滅していった。感動はあまりなかった。もっといっぱい差し込んでくる、流星群の名に恥じない光景を見たことがあるから。
まあ、流れ星が一筋だけど姿を現してくれたことも、願い事を乗せられなかったことも、正直眼中にない。観測会は終わったけど、伝えたかったことはまだ言えてない。
今日は縁佳とたくさん話せた。この間の出来事など忘れて、ごく自然に。あんなすれ違いはお互いにとって不利益しかないのである。隙を見つけたら、退屈な自分のクラスを抜け出して、時々週末に出掛けて、縁佳は忙しないのに私に世話を焼いて、私はただそれを甘受して、このまま放っておいても、そんな日々になら戻れるだろう。
でも私は、いつしかそんな関係では足りなくなっていた。縁佳ばかり仕事して苦労して歩幅を合わせるのは、不公平だし頭が上がらないし息苦しいし、近付ける距離に限界が生じる。縁佳のことが好きだから、どこまでも近付きたい、縁佳が一人で頭を抱えているのを良しとできない、縁佳の全部を知りたい、代わりに私の全てを、曝け出しても差し出しても構わない。
私が中身のない思考を蒸し返しているその傍らで、縁佳は日頃の疲労もあってか、気が付くと会の途中で眠ってしまっていた。流れ星が一粒滴ってきたタイミングでは起きてたんだけど……。
観測会は終わった後も、眠い人とか交通手段を待ちたい人は朝までどこかの教室で寝ていいらしい。しかしあまりに熟睡してるので、縁佳は特別にこのまま屋上で眠ることが許されたのであった。無論、目を覚ましたら皆帰っていたなんて居た堪れないので、私が隣で見張っていることにした。決して、二人きりになれる丁度いい機会だなんて、目論んだわけじゃないっ。
「んん……、あっ、……もしかしてめちゃくちゃ寝てた?」
周囲に私しかいない上に、空が明るくなり始めていたら、たとえ寝起きでも朝ご飯をもりもり食べた日のように頭が冴えることだろう。寝落ちてしまう前の、騒がしく浮ついた熱気は消えて、爽やかな朝と腹に一物抱えた私しか見当たらなくて、それでも縁佳は健気に平然を取り戻して、レジャーシートの上に片膝を立てて座り直した。
「あっ、まだ寝てていいですよ……」
「一度起きると目が覚めちゃって、二度寝できないんだよねー」
縁佳は時々伸びをしながら、朝の健康に良さそうな空気を存分に味わっていた。清々しい縁佳の隣で、私が狼狽えているのも知らずに。いやまあ悟られても困るので、同じ姿勢で腰を丸めて縮こまっていた。今なら誰にも邪魔されず伝えられそうだけど、寝起きの人の感情を揺さぶるのは……と言い訳して、120度の角度をつけて別の方角を向いていた。
瀟洒だと思ってた、かっこ付けられたと息巻いていた。だけど結局、星は消えて夜は明けて縁佳だけが最後まで輝いていて。こんなはずでは無かったような、どんなはずか想定すらしてなかったような、もういっそのこと、縁佳がこの不和を悟って、状況を打破してくれーっ。
「そろそろ帰ろうかな」
「んえっ、あー帰っちゃう……?」
「せっかくの連休最終日だしねぇ」
言われてみれば、せっかくの連休だったのに、微妙に関係性がたわんだせいで、縁佳とどこにも行ってない。たまには私が誘ってみて、そこで決行すれば……ダメダメっ、それは問題を先送りにしてるだけに過ぎなくて。ここで言えなきゃ、いつになっても前に進めない。私は前に進みたいんだ、縁佳と。曙光とその熱が背中に差し込んできたのを合図に、立ち上がろうとシートに突いた手を押さえて、彼女の名前を口に出した。
「縁佳」
「はい?」
「もう少し待って」
「待つも何も、手を人質に取られてるんですけど。今日は一日空いてるよ。昼間眠くなるかもしれないけど」
「んと……、好きです、縁佳」
過去の失恋?あれは私の積極性が欠けていたことが敗因。ちゃんと克服した。それもどれも縁佳のおかげだ。私には縁佳が必要で、縁佳にも私を必要としてほしい。甘さも苦さも辛さも共有したい。その想いが、言葉に勝手に乗っかっていた。
大地だって鳴動させられるほど暴れ散らかしている心臓を懲らしめるように、言い訳したくなる性を満たすように、私は言葉を続けていた。
「どうして副会長に拘泥できたのか分かった。交流会でムキになれたか分かった。全部縁佳が好きだから、好きだから求められたい、求めさせたい」
顔を上げると、そこには戸惑う縁佳があって。押し倒してみたさもあるけど、そうしたら裏側を覗くことができなくなるから、顔の随所をぐるぐる動かしながら、縁佳の感情の波が引いていくのを待った。
「うーん、そんなに生徒会に入りたい?」
「本当に大事なのはそこじゃなくてっ……。うん、縁佳は、どう思ってますか、私のこと」
「それは、どう返してほしいの?」
「どうって……」
「前に、鏡花の中で特別であればいいって言ったけど、それ以上を望んでるってこと?」
縁佳の態度はやけに落ち着きがあって、一世一代の賭けを受けて立っているとは思えない普通さで、とは言え何だと探って裏をかく余力はなく、ただ切望するように頷いた。……だけじゃなくて、押さえてる手を強く握ってみた。それでも、縁佳はなぜか顔色を変えなかった。
「不満かな、今のままだと。私はこのままがいいな。煩わしいことがいっぱいだよ、恋愛なんて。今回のような喧嘩だって、取り返しが付かなくなるかもしれないしね。ただでさえ不安定なこの関係に、余計なメスは入れるべきじゃないと思う」
そう言いながら、縁佳は私の手を払いのけた。
「授業が終わる度に私の元に来るのも全然構わないし、バイトも生徒会もなければいつでも遊んであげるし、……私はいつだってこのままで居るから、ね?」
縁佳は自分の手の甲を擦りながら、まるで本調子を取り返した役者のように、感情をわざわざ詰め込んだ喋り方をして、笑わない目で威圧さえも厭わなかった。自分の弱さとか怯懦とかが、また勝手に震えとして言葉に乗っかっていた。
「ひどい勘違いをしてたのかな。私には縁佳を好きになる資格がなくて、好きとか嫌いとか言ってもらえる段階でもなくて、そういうこと?」
「鏡花、それは思い僻みだよ。どうして好きか嫌いかの二択なの?友達とかビジネスパートナーとか不倶戴天の敵とか、人の関係って多種多様で色々あるんだけど」
「嫌だ、私は縁佳に好きって言わせたいし、縁佳にかっこいいとこ見せたいし、縁佳の力になりたいのっ!縁佳はどうなの、ねえ!?」
「えぇっと、どーかなぁ……」
「私に至らない場所があるなら直すし、縁佳が望むことは何でもするし、縁佳のためなら命だって賭す覚悟があるからっ!」
「あの、別に鏡花と縁を切りたいわけじゃないんだけどさ。私、そういう人があんまり好きじゃない」
「ん、好きじゃないって言った……?私のこと、実は嫌いで、渋々付き合ってくれてたってこと?ねえ、そうなの……?」
「いや、前の鏡花は良かったんだけどね。今の鏡花は……。結局、私と鏡花は性格的な意味でも個体としても異なる人間で、家族でもなくて、別々の人生を歩むわけじゃない」
「相性が悪いって言いたいの?」
「んー、まあ突き詰めると?そうなんだけど。つまり、鏡花が私のことを、考えて顔色うかがって阿って配慮して生きる必要はないってこと。私が困ってても人生詰んでも、それは鏡花に関係ないでしょ」
「そんなことない、逆だったら縁佳は絶対助けてくれるもん」
「利益がなかったら救いの手は差し伸べないよ」
「じゃあ、私を助けて何の利益があったって言うの?」
「あったよ。はい、人助けに損得勘定を持ち出す最低な奴ですよー。それでも、鏡花は私のことを好きでいられる?こういう局面でも、相手の言葉を想いを正当に受け取ろうとしない、この私を!」
「いいよ別に。そんな事で幻滅したりしない。むしろ、欠点があったほうが安心する、もっと好きになれるぐらい」
ふいにたまに縁佳が対応に迷う瞬間、自らの行いを省察する一方で、愛しくも思ってしまう、その隙間を埋められる人間になりたいと心底願ってしまう。そうあることを許してほしくて、私は必死を振る舞って、縁佳を引き留めようと、やれやれって表情を引き出そうと、足掻き続けた。
「嫌いなら嫌いでもいいから、努力するからっ、好きになってほしいからっ。はぐらかさないでよ!」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、ただ私に、鏡花を好きになって、恋人同士になる理由がないってだけ」
「理由がないなら頑張って作るからぁっ。それまで待っててください、お願いしますっ」
「これは私のポリシーだから。私にしか変えられない、たぶん変えることもない。ごめんね」
「待っ……」
「言わなきゃ良かったんだよ、片想いのままにしておけば良かった。鏡花はこれで満足?友達にも恋人にもなれなくて、そのまま消えていく。まあ、私にとってもそれは堪えるよ。そうしたくないならどうすべきだったか。私のこと、もっと分かってほしいな」
縁佳は隠すことも臆すことも恐れることもなく、私の手を明確に振り解いて、やけに立派に正々堂々とそびえる背中を見せつけながら、そのまま屋上を後にしていった。それが縁佳の返答であり、縁佳が感じている純粋な心情というものだった。
私が触れられたのはきっと縁佳じゃない。私たちの間には、次元の違いとか夢と現実とか、速く走っても高く跳んでも解決できないような境界があって、私が追い掛けているのも所詮ホログラムみたいなものなのだろう。太陽はほんのり汗ばませられて、風は彼女のスカートと髪を揺らして、でも私は何も響かせられないままで。変わった気になっていた自分の、影よりも小さい真の大きさを突き付けられた。今の私ができるのは、こうやってレジャーシートに残った縁佳の熱を集めることだけだった。
例えばたとえ吹奏楽部でも、こんな朝早くから部活なんてやってるわけがなく、自分以外誰の気配も感じずに、学校の外へ脱出できた。学校の前の通りにだって車は一台たりとも走ってなくて、ただ生ぬるい風が木々と電線を揺らすだけだった。空は赤と青黒に二分され、帰宅に相応しいグラデーションを呈している。そう、方角を隠してしまえば、朝焼けなのか夕焼けなのかなんて区別が付かない。
人間という配慮と親切と情熱の塊の影響下から外れられたようで、一旦は胸を撫で下ろす。そして、この人気のない外気を体に取り込んで浄化された気になる。まあ、それで正常に戻れたかと言われると、それほど健康ではなくて。頭が重く熱を帯びていた。寝起きだからかもしれないし、寝起きで判断力が落ちてるから、そのくらいで済んでるのかもしれない。
あえかなる鏡花が、なんかいい感じのタイミングを設えて、剥き出しの愛を叫ぶ。そんな日が来るなんて、想像できただろうか。…………できない方がどうかしてる。去年、あれだけ時雨と懇ろになれて、予兆もあって、極めつけにあの交流会の出来事……。こんなに色んなことを長い時間を重ねてきたのに、開花するまで気付けないとは、何たる失態なのか。
見たいものしか見えてなくて、その上それで分かった気になって、テストの点数よりも何よりも、自分が凡人であることが、そのことでも落ち込むほど突き刺してくる。
いや、私が知らない鏡花なんて存在しない。鏡花は元からしたたかだ。故に私に告白することも、したくなったら止まらない。私は、そう知っていた。今を享受するために、知っていて目を背けていた。未来の私が何とかするだろうって。そうやって優位性を確保しようとしてみても、自業自得なのは変わらなかった。何事にも一生懸命な鏡花に、私は恐怖すらいだいていた。
不安定な足取りはついに臨界点を超えて、何もない所で躓いてよろめいていた。それで、私にふいに近付かれたことで、地上を歩いていた鳩が飛び立っていく。人慣れはしても、自分の安全圏を侵されると逃げる。そんな姿を振り仰いでいたら、めまいと吐き気が降り注ぐ。愛なんて重いものをなすり付けられたら、消化管が不調になるし、視野が余計に狭まるし、三半規管は狂って脳の活動にも支障が出る。
「だ、大丈夫……ですか?」
「えっあぁ、平気です平気平気」
私は足を止めて、石塀に手を突いていて、呼吸が乱れていた。そりゃあ通行人に気遣われてもおかしくない。まあ、どうしてこんな時間に街をうろつく人がいるのか謎だが……同じ制服で察した。嫌だなぁ、余計な詮索の材料にされるの。
「顔色が芳しくないようですが、そこの公園で紅茶でも飲んでいきます?淹れますよ、美味しいですよ、評判いいんですよ!」
「いやー、貧血気味な体質でして。お気遣いは嬉しいのですが、家はすぐそこですから」
「それでも、座って少し休んだほうが……」
「はいはい、いいからいいから。今日は一日ゆっくり休みますよー」
片手で塀を伝いながら、もう片方の手で振り払いながら前進しても、彼女はぴったり横に付いてくる。なんて世話焼きな人なんだ。明世もそうだけど、私に優しくすると国から補助金が貰えるのか?
なんて、嫌味を声に出してしまう前に、ジュラルミンケースを持った少女のほうから離れていった。一命は取り留めた。けど、ただただ機嫌と人当たりが最悪な人になってしまった。この溜息は、せめてその事に対してだと思いたい。
こんな人間になってしまったのも、きっと誰かのせいだけど、誰かが極端に悪いわけじゃなくて、罪にならないほど記憶に残らないほど平等に些末に皆のせいなんだ。空っぽな自分に、皆の思惑が少しずつ流れ込んで、それで私は満たされた気持ちになっていた。誰の手も寄せ付けない、親しみやすい孤高の存在、せめてそれだけでも自分の物にできたら……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます