7-3
旗が振り降ろされる。それと同時にけたたましい足音が始まって、砂煙を残していく。走るの速いなーって、毎度感心させられる。けど、意外とこれが平均ぐらいだったりするのだろうか。なるほど、これが社会を生きにくくしている原因か。平均を必須にしたら半分は落ちこぼれるのに、なに普通だって面してるんだ。
ただのありふれた日常の飽き飽きする使い古された色落ちの激しい月曜二限の体育の授業、今日は特に強くそう実感する。
この前の土曜日に、アイドルのライブに行ってきたから、まずそんな要因が挙げられる。会場の空気に呑み込まれ酔いそうになったけど、あれは紛れもなく非日常で輝いていて。知らない世界の扉を開く、自分にとって成長ですらあった。楽しかったかと聞かれれば、また行きたいかと問い詰められれば、断じて首を縦には振らないだろうけど、でもそういう楽し気な場所の雰囲気というのは、終わってからも体中に引っ付いてるもので、退屈さが増幅されるのであった。
で、そんなものが些細になるほど重要なのが、縁佳のこと。あれから音沙汰も進展もなし。私のことが嫌いとか、二度と姿を現さないでほしいとか、縁佳がそこまで思っているわけではないだろうけど、でも今回の副会長をめぐる出来事で、無くても困らない程度の存在だとは、被害妄想でもなく確定してしまったのである。
鏡花の中で特別であればいい、それは一生寄りかかってろという意味で。私が縁佳の核心に迫ることは許されなくて。私だって一人の、大人に向かって邁進する子供なんだから、ただ依存しっぱなしという関係を、超えようとするのは当たり前なのに。
いや、それは二の次の話。とどのつまり、私の言葉は縁佳の中で響いてなかったということ。私のいかなる行動も、一緒に過ごした時間さえも、縁佳にとっては……。
校庭の縁の芝生の上に脚を延ばして、背中を丸めて自分の靴の先端を握ったり揉んだりしていると、汗が眩しい明世の影に包まれた。
「しぃーまちゃんっ。休憩中ですか?」
「え、あー、もう走る予定はないかな……。何本走ったって、タイム変わらないし」
「ですなぁ。ひえー、今日はあちぃーっすねぇー」
明世は隣に座ってきて、体操服の襟をパタパタやった。ジャージまで着込んでる私が不真面目みたいじゃないか。まあいいや、脱ぐと校庭に忘れそうだし。
「えとー、ちょっとは元気もらえたかなぁ」
「ライブでってこと?」
「うん。いやまさか、しまちゃんが来るとは予想してなかったけど」
「裏側を目撃してしまったからね……。アイドルって、本当に偶像なんだなって、胸に刻まれた」
「あーあーまったく。ファンに見つかったら一大事だったんだから……。他言無用で頼むよー」
明世は、思い出しただけで頭が痛くなっているようだった。まあそれより、あそこまで気持ちが抑えられなくなっておきながら、その後、素人目には完璧なライブを、甘くとろけるような素直な笑顔を届けられたことが凄いと思う。正直、学年がたった一つ上とは、信じられない。
「しょうがないんだけどさ。私のケアが足りなくて、未然に防げなかったのも悪いし」
「あの、二人って、どっどんな関係な感じ、なの?」
「どんな……と聞かれると難しいなぁ。先輩と後輩ってよりは、普通の友達?みたいな関係だけど……。あっ、好きとかそんなんじゃないよっ!大事なことだから念押ししとくけどっ!」
何となくそれとなく、明世の顔色を観察してみたけど、暑さで元からこんなに赤かったかもしれないという結論で終わった。
「何、この間は」
「だけど、あのその、とっても友達思いだなって、はい」
「そうなのかな」
「前に生徒会室で見かけたけど、ライブの映像を見ながらアドバイスを考えてたし、必要な時に傍に寄り添ってあげてたし。どうして、そこまでするのかなぁーって……。なんか、変なこと聞いちゃったかも!?こ、答えなくてもいいよっ」
人の心を知らないモンスターみたいになった気がした。
答えなくてもいいよって言ったけど、明世はすでに回想フェーズに突入していて、校庭の反対にそびえる新校舎を、遠い目で見つめていた。
「どうして、かぁ。まあ一番は、そうしているのが楽しいから、だけど。もう一個付け足すなら、恩返しになるのかな。私にとって初めてできた、何となくじゃなくて、地に足の着いた友達。でも、話しかけてくれたのは向こうだからね。恩義を感じてるってわけ」
「貰ってばかりじゃ、ばつが悪いもんね……」
「それもあるけどねぇ、これは声を大にしては言いにくいけど、正直、自分の知らないところで大きく羽ばたいてっちゃうのが、少し怖かったんだよ。わざわざ頑張って同じ高校に来たのに、同じ時間を過ごせなくなったら意味ないし。だったら、アイドル活動自体を私が手助けしちゃえばいいって、そう思い立って今も続けてる」
「同じ夢を追い掛けたら、同じ道を歩める……のかぁ」
「いつまでもそうしてられる訳じゃないだろうけどね。私はただの素人だし、今よりもっと著名な存在になったら、私がアドバイスできることも無くなっちゃう。まあ、あのマネージャーさんは腕が立つから、心配することはないんだけど。何年後かに、テレビ越しに再会できる日を楽しみにするよ」
「諸熊さんは、それでいいの……?」
「本人はどう思ってるんだろう。自分が、何万というファンに奉られ崇められ括られることを。嫌だったらいいな。選ばれた人間のみの特権とは言え、幸せの形態は他にもあるんだから」
「相手の気持ちを優先したりしないんだね」
「アイドルとして成功するか、それとも堅実に進学・就職する道を選ぶか。後者はともかく、前者を選ぶのなら、そこに私はいられないでしょ。だから、私は必然的に、ちょっと有名なぐらいで終わってほしいと願うしかない。願うだけで、邪魔したり誘導したりはしないつもりだけどね」
私が同じ立場だったら、縁佳がアイドルだったら、明世のように明確に選んでほしい選択肢がある中で、相手の選択に口を挟まず身を任せられるだろうか。……既にできてなかった。
「人に質問ばかりしてるけど、しまちゃんはどうするの?がすよのこと」
「えぇっ!?ななななんで、そこで平島さんの名前が……」
「あれー?名前で呼ぶって話はー?」
「うぅ……。とても呼べそうになくて……」
耳が痛いので、折り曲げた膝に口をうずめながら、両側の髪を手で束ねる。横を一瞥すると明世がほんのり笑っていた。
「しまちゃん」
「はひっ」
「もう一度、副会長の話、がすよにしてみたら」
「いやいやっ、そんなの……意味ないよ!」
「んー、こんな事を言うのも無責任だけど、しまちゃんのやる気で押し切れない?」
「私のやる気って……。無理だよ。私は諸熊さんみたいに優秀じゃないから、支えきれないし、受け止められない。指摘されるまでもなく、本当は気付いてたけどっ。意地を張って迷惑かけて……」
誰にでも見えて口にも出せる、鎖のような関係が欲しいとか、なんでそんな事を願っていたのかさえも、毎日降り注ぐ出来事と紐付けて考えすぎて見失っていた。そもそも、理由なんてあったのだろうか。そうしていないと、何もすることが無かったから、そんな風にも解釈してしまって、でもそうであって欲しくなくて、縁佳への想いは皎潔であってほしくて……。部活棟の陰になってて涼しいと思っていたけど、熱射病になったかのように、体の各所が燃え盛って苦しくなる。考えれば考えるほど、自分と自分の高校生活の価値が目減りしていく。
「でも、ここで意地を張らないと、多分ろくな事にならないと思う……。最近、がすよと話してないでしょ」
「うん……。なんかもやもやして、六組に行きにくい」
でも寂しい、死にそう。ウサギは好きだけど、なりたくはないんだが。
「実は休み時間になると、故意に六組から姿を消してる。なんかまるで、疎遠になりたがってるみたいじゃない?」
「そりゃあ、私なんかと……」
「私、ただならぬ事情がある気がするなっ」
「そうかなぁ」
目を伏せて、脚の隙間からはげかかった芝生を眺めて、私を避ける特別な事情を考えてみる。いや違う、関係ない二つの事象を、同じタイミングだからってこじつけてるだけだ。私のような愚鈍な奴を抱えられないほど、生徒会の業務が忙しいとか、そうだ、体育祭が近いんだった。だから、そういうのとか。
「でさ、考えてても結論って出ないよね。自分を納得させる証拠に乏しいから。それなら、もう行動するしかないんじゃない?」
「私が行動しても、迷惑かけるだけだって言ってるじゃん」
明世の穏やかな言葉は私に纏わりついてくる。明世は優しい。天使のよう。一年ぐらい前に、縁佳が見せた慈悲に比肩するかもしれない。でも反発してしまう。縁佳のことは自分でケリを付けなきゃって、私はそう意固地になってるんだろう。
「もう、そういう遠慮をする間柄なの?……自分が存在すること自体が、がすよにとって迷惑だって、本気で思ってる?」
「傍から見たら、そこまで親密に見えるものなの……?」
「もちろん、傍から見たお墨付きは私があげるから。ちゃんと話し合って、打ち明けあって、隠し事はなくして、仲直りして元通りにしようよ。そっちの方が、二人のためになるだろうから」
私は首を横に向けたまま、あまり深く意識しないまま、明世の提案に頭が浮き沈みした。それでいいんだ、私が縁佳に対して本当にしたいことは、明世が今言葉にしたこと。縁佳の隣を諦めたくない。いつだって一緒にいたいから、縁佳に納得したい。
「後押しした身だし、一応いつでも相談に乗るからね」
「えっと、すごく頼もしいんだけどっ。でもあの、こういうのも酷い話かもしれないけど、あんまり仲良くないのに、どうしてここまで懇々としてくれるのかなーって」
「まあ、私も身の回りに険悪な関係があってほしくないんでねー。あとは……よっよく親しくしてくれる的な人が?困ってる人は積極的に助けるって基本方針を忠実に守ってて、それに感化されて……的な?」
「とても殊勝な心掛けだね……」
「いやでも、相手の主義主張考え方、言動から功罪まで、一から百まで肯定する必要はないんだからね。お、集合だってさ。行かなきゃね」
先生の号令で、明世が先に立ち上がる。その背中は、同じく追いかける者として、追いかけるべき姿な気がした。そう勝手に、明世のことを評価したとも言い換えられる。
今の私の心の中で沸き立つものは、数分前のそれとはたぶん全く違っている。何になったのか具体的に言えと詰められても困るけど……。不撓不屈の精神?全知全能感?
水を沸き立たせ続けるのは、ガスか電気を使えば簡単だけど、自分の心は現代文明の力ではどうにもならなくて、明世と話していたずらに奮い立ったはずなのに、昼休みにはすっかり燃え尽きていた。考えても無駄とか、明世がさも正論かのように助言してくるから、その通りにしたら授業に集中しちゃったし、あと重たい話になるかもしれないからとか言い訳して、業間休みに足を運ばなかった自分にも責任が……なんていいからっ、早く縁佳と目を合わせて、呼吸も合わせて、歩幅も合わせて、趣味も合わせて……話さなきゃ、噛み合わせなきゃ。
「あ、良かった良かった。鏡花ー?」
「はっ、はぁっ!?なななななんで、何しに来た!?待ってよ心の準備が……」
「心の準備?」
「話すこと、まだ纏まってなくて……、このままだと同じことの繰り返しになっちゃう気がしてっ!」
「普段、そんな話すこと纏めてから来てたの?にしては……」
「はふっ、えとえと今日は特別っていうかっ、ととっとにかく今はダメだからっ!」
頭が真っ白になった。いや、そんな生易しい感覚じゃなくて、死後の世界を覗き見たような、そういう景色が脳内に広がった。そして、そんな禁忌を侵した代償を支払わされるように、全身の至る所に電撃が走る。痛くも痒くもなく、ただひたすらに衝撃が暴走を加速させた。
実は少し前から、頻りに私の身を案じるメッセージが縁佳から来ていたんだけど。無論、それには曖昧で一言で、返したって既成事実を作りたがってることが明け透けな返事しかできず。縁佳が私のことを突き放すわけないのに。私は縁佳のことを信頼しているはずなのに。縁佳は平常通りなのに。私は逃げてしまった、問題を卑怯な手で大きくしてしまった。
抱えがいのある弁当箱を抱えたまま、校舎の外に校庭に向いた面から飛び出していた。昼下がりの高い青空から送られてきた科戸の風で、溽暑が拭い去られる。校庭の砂は軽骨な粒から巻き上げられ、空を見上げてみれば、雲が絶え間なく移動を続けていた。雨でも降っていたら弁当が水茶漬けになるよりは、と思い直して踵を返せたものの、やけに歓迎してくれるので、話すことを外で一人でいったん纏めようという気になってしまった。
少しずついつもの歩くペースに加速しながら、校舎の日陰を潜り抜け、校舎の建っている校庭より二三段高い場所から見渡しながら、どこで息を潜めるかを考える。縁佳は熱血に精神を侵されるってことは無いから、追いかけてくることはあり得ないし、小学生でもないんだから昼休みに校庭に遊びに来るような人はいないだろうし、どこで食べてもいいんだけど……。
学校の敷地の東辺と西辺の間を視線だけ三往復して、それで三回同じ場所が目に付いたので、そこへゆらゆら向かった。体育館のギャラリーに外から直接入れる長いスロープの下、コンクリートで囲まれて、無機質だけど涼しくて、誰かが掃除してくれてるのか、座るのにそんなに迷わない。教室から遠いのでわざわざ赴く機会は少ないけど、教室にいられない時のシェルターとして、とても優秀だ。何なら、ここで授業を受けてもいい。なんか、非常食が美味しいみたいな話だけど、狭くて自分だけの空間というのは、やっぱり落ち着くというか、最後はここに帰ってきてしまうというか。
まあいいやと、弁当の包みを解いて敷いて、ひと際目立つ真っ白な雪だるまの下半身、もといポテトサラダからいただく。なんか色々入ってる。ポテトは腹持ちが良くて、大変ポイントが高い。ついでにご飯のお供になる。
「友達!」
前の週末に散々耳にした、甘くて忘れられない声。顔を上げると、陰の中でも持ち味が失われない黎夢が、似つかわしくないこんな淀んだ掃き溜めを覗き込んでいる確証が得られた。そうやって、心のシェルターを卑下したら、私の周りの空気が一斉に歯向かってくるような気がした。
「まさか、こんな所で遭遇するとはねー。やっぱり同じ学校に通ってるっていうのは、そういうことなんだねー」
だとしても、こんな所でというのは、相手が黎夢でもなければ、探していたんだろうなぁと訝しんでいただろう。黎夢は……岩をひっくり返して、裏に張り付いている生物を炙り出してても、違和感がない……いい意味で……でも実際にやってたらSNSで晒すかも……。
黎夢もこのシェルターにずかずか侵入してくる。別に私だけのスペースでは無いし、弁当箱ごと左側に寄った。
「ねぇ、ライブはどうだった?」
「んへっ!?あぁー良かった、すごく良かった、なんか、感動、しましたっ」
「んむー?」
「どどっどうしてっ、私が来たこと知ってるんですか!?ステージから見て、目立ってましたか……?」
常葉お姉ちゃんと選んだ渾身の私服が、永田が何も言わないでくれただけで、実はとんでもなくダサかったり……?もしくは、暗いところで人間の可視光ぎりぎりで超光ったり……?
「河川敷で、とぉーーくからこっちの様子をうかがってたのー。わざわざこんな所にいるってことは、はるちゃんが友人に融通したチケットの一枚は、友達に渡ったんだなーって」
「あっ、バレてたんだ……。ぬっ盗み見して、ごめんなさいっ」
「本当に謝らないといけないのは、こっちなんだけどね……。あれ、演技だからさ」
「演技って……。舞台の上で、笑顔でいることが、ですか?まあ、アイドルなんてそんなもうぐぐ……」
「ちょっとちょっとダメダメ!そこじゃないし、笑顔を作ることが必ずしも不幸ってわけじゃないのーっ!」
会話が下手くそすぎて、黎夢に口を押えられる。自分が知ったような口を利いたことを後悔するほど、黎夢の言い分には説得力があった。縁佳だって、私になら笑顔を見せてもいいかなって、そう思って明るい表情を保っているだろうし。本当に嫌いなら、相応の形相で対応するだろう。
「緊張に押し潰されそうになって、耐えられなくなって会場の外に逃亡したこと。自分で言うのは思い上がりすぎな気もするけど、黎夢がそんな不安定な精神状態に見える?」
「悩みを隠すのが上手い人も、下手の人もいるから。宇野木さんがどっちか、私には分からないかな……」
「んー、黎夢がほぼ唯一心を掻き乱されちゃうのは、はるちゃんの事だけなのー。あれはね、ただ構ってほしかっただけで……。あはは、なんて情けないんだー黎夢はー」
チーズ入りちくわをモグりながら、意識と目線を横に傾けると、黎夢は首に手を添えて、ほのかに前髪が浮いていた。
「凄く頼りがいがあって、誰にでも優しい人なんだよ。もし赤の他人だったら、黎夢はきっと憧れてた。だけど、他の人よりちょっとだけ距離が近いからって、無際限に甘えちゃう……」
「そっ、そうですよねっ。私のこともよく気に掛けてくれて。バレンタインの時に、甘い物が苦手な友達のために一緒に煎餅焼いたり、文化祭の時もクラスの人との間で仲裁してくれたし……」
「そっかー。本当に頑張り屋さんだな、はるちゃんは。まあ黎夢も、あの子がいなかったら、応援してくれなかったら、スカウトだって断ってただろうし。アイドルを始めてからも、他のメンバーとげっとあろんぐできるよう頭だって下げてくれて、本人だって忙しいはずなのに、必ず練習には顔を出してくれて、世界中のアイドルの情報を集めて、それを基にアドバイスを何千文字もくれて。どんなに気遣っても、黎夢の為になってるなら本望って言い張るような人だし。何より……」
「何より?」
「とってもキュート!」
「えっあっ、そりゃあ、まあ」
何の間かと思えば、思ったはいいけど予想するより早く、黎夢は顎を上げて、上白糖のような甘さの感情を、言葉と緩んだ表情とあとは謎のジェスチャーに乗せて、わざわざ語り始めた。
「はるちゃんったら、人のことよく観察してるからね、わざとでも俯くと、眉毛がぴくっと上下して、瞳孔をぱーっと開いて、腰を低くして近付いてきて、ちゃんと曇った顔で、いつもより低い声で、他愛のない話をしてくれるのー。それでそれで、面白いなぁって思いながら話してたら、たいていの悩み事なんて吹き飛んじゃって。こっちの憂いがなくなると、ご褒美みたいに自然と笑顔が増えてね。あと黎夢は寝顔も好きだよ。遊び疲れて熟睡してる子供みたいに少しあどけなくて純情で、あんまり喜ぶべき状況じゃないけど、特に作業中に寝落ちしてるのが良くて……」
黎夢はナパージュでコーティングされたかのような艶やかさで、抑揚豊かに忙しなく明世のことを語る。その捲し立てられた惚気話は、寿限無寿限無以下略のすりきれのように、右から左に聞き流されてしまうことが無くて、関係ないのに共感さえ誘う。喋り方が落語家のように上手いのだろうか。
「ごめん、長々とくだを巻いてしまったけど。でもとにかく、そんな一生懸命なはるちゃんが、黎夢は好きなのー!……まっまだ、直接伝えたことはないっていうか。まだ、自分に振り向いてほしくて、緊張してるふりをするっていう、卑怯なことしちゃう段階で……」
「あの……、宇野木さんは、自分の想いを受け止めてもらえると思いますか……?あっえと、いつか、将来的にでもいいんですけどっ。いつの日か、その想いが叶う日が来るって思ってるのかなーって」
「もちろん。正直、黎夢ははるちゃんのことを一番わかってるからね。お互い顔を真っ赤にして、目を泳がせて、何日か恋人同士に相応しい話題を探るのに持ちきりで、少しずつ落ち着いていって、想いを伝える前より少しだけ確かな関係になって、まあそれだけ。多分、ほとんど変わらない。だから、今はまだ、この関係が途切れそうにないんだし、まだ言わなくていいかなーって思ってるだけなのー」
私の胸中では、妬みや嫉み、僻みを含まないただの羨望が浮かんでいた。本当は、黎夢とここで出会わずとも気付かなきゃいけなかった事なんだろうけど。……私だって、縁佳とそういう関係でありたい?まだ疑問符が残るのは、私が一度失恋したことがあるから、それなら今まで思い付かないようにしてたのも納得がいく。
「あらあら、どうしたの?」
箸を動かすわけでもないのに弁当箱に目をやると、眉毛がぴくっと上下して、瞳孔をぱーっと開いて、物腰柔らかに数ミリ近付いてくる。似た者同士なのか、どちらかが影響されたのか、どうでもいいけど私も誰かに縁佳に影響を及ぼせたらいいなって思う。
「んん……、りっ理想的な関係性だと、思ったまでで……」
「なんだ、そっちも意中の人がいる感じかー。あ、恋愛相談は生徒会長の平島縁佳って人にしてみるといいって、風の噂で……」
「ひゃうっ!?……その人、なんだけど……」
なんでよりによって縁佳なんだって、まずはそう思ったけど、逆に考えれば縁佳が皆から信頼されて、そういう相談も持ち掛けられてるってことで、むしろ喜ばしいことではないか。それで無理に笑って見せた。その意図が黎夢に伝わってるはずがないので、ただ顔を引き攣らせた人になった。無駄に恥を感じるセンサーが搭載されてるので、自分の髪の毛を引っ張って気を紛らわせた。
「黎夢で差し支えなければ、話を聞くよ」
「ど、どうなんだろう……、私は縁佳のことが好きなのかな。そこもよく分かんない……」
黎夢が隣でもぞもぞしてるかと思えば、目を逸らした隙に、どこからともなく眼鏡を取り出して、それを装着していた。
「どう?」
「知的な雰囲気が、きっとどこかにあるかも……」
「もし会長さんだったら?」
想像する、悶絶する。ラテン語の成句の日本語訳みたいになった。
「ふふっ、その様子だと、友達がいだいてる気持ちは一点の疑う余地もなく、本物なのー」
「いやっ、こんなことで確信しちゃうのは早計っていうかっ」
「そうかな?とっくに魅了されてるよー。好きだから、必ずしも相手の変化を好ましいと思えるわけじゃないだろうけど、相手の変化にいちいち心を揺さぶられていたら、それは好きなんだよ」
「私は、縁佳のことが好きで、いつ何時も縁佳を見ていたくて、縁佳とお出掛けしたくて、縁佳と二人きりになりたくて、縁佳と同じものを好きになりたくて……、なのかな?」
「よーし、素直になったー」
黎夢の、噛めば噛むほど甘くなるその言葉に、私の舌が思わず回り始めた。自覚して、頭の中がその事でいっぱいになってしまえば、もう止めることも疑うこともできなくて、結局私はそうなるほど縁佳のことが好きだった。よくも思い留まれていたものだ。いや、思い留まれていたんだろうか。縁佳と一緒がいいって業間休みの度に訪ねて、縁佳と誰もが知る繋がりが欲しいって副会長の座に就こうとして、縁佳が批判の的になることが許せなくて立ち上がって、名前を付けなければセーフとでも考えていたんだろうか。
「……私も、拗ねて気を引こうとしてるのかなぁ。こうやって、目の前に現れたら逃げたりして」
「ほんとに、そんな打算的に撤退したの?ただ、どんな顔をすればいいのか分からなくて、何を望めばいいのか見失って、どんな理由なのか言葉にできなくて、はるちゃんのくれた言葉だけが頭の中で響いてるって、そんな感じなのー」
「好きだから、いつでも隣に居たい、それは自覚した。けど、私は諸熊さんみたいに器用じゃないから、きっと支えようとしたらこっちが潰れてしまう。でも、そうするのが一番確実っていうジレンマが……」
「まー別に、焦って特別な根拠を作りにいかなくても良いと思うけど。それでも、何か欲しいというなら……。支えられるから好きって変でしょ?好きだから支えるんだよ、友達」
「そうなのかな」
「うん。だから黎夢は、はるちゃんを信じてるんだよ」
「迷惑だとか、考えないんですか」
「そういうのは、自分が痛い思いをしたくないから、もしくは痛い所を突かれた時の窮余一策なのー」
そんな都合のいい言説は一般に罷り通るものでは無いのかもしれないけど、でも私にはクリティカルに刺さって、分かったように頷いていた。先に進もうとすれば、縁佳の過去を垣間見ようとしたら、お互い傷を負うのは今までの出来事からも明白だけど、だからこそ逡巡してきたわけだけど、でも私の本心は、希望と機会と喜悦をくれた今の縁佳が好きってことだから。今を手にするために過去も裏も背後も見て、全部受け入れて、おしなべて愛そうと決意、多分、そういう類いのものを、いつもより深々と刻み始めた。
気持ちが生まれ変わったように切り替わったのは、外から見ても明らかで、黎夢は満足げに目を瞑って、頭を後ろに倒した。
「ところで一つだけ、あの、失礼かもしれないし非礼を詫びたいし不躾なのですが」
「何でしょう?」
「アイドルって恋愛禁止では?」
「あぁ……」
別に攻撃する意図はないし、むしろ励ましてくれて先輩としてアドバイスしてくれて感謝してるのに、私の質問はあまりにも鋭かったようで、黎夢は氷砂糖に囚われたように固まってしまった。で、少しすると、言い訳を思い付いて、お手玉をしてるように手をぐるぐる動かしながら、時間が進み始める。
「ほ、ほらっ、女の子同士ならセーフとか、あると思うのーっ」
「んー、……確かに?」
「ていうか、そんなのを言い訳にしたくない。はるちゃんの方が大事だしっ。ダメって言われたらアイドル辞めるしっ」
黎夢はそう、迷わず言い切った。それでも、想いを伝える勇気はまだ足りないと。まあ、伝えなくても繋がっているのなら、無理に体裁を整えようとする必要はないか……。やっぱり羨ましい。私たちは、すぐにでも言葉に出さないと消えてしまう泡沫のような協力関係で、こんなコンクリートの祠に二度と帰りたくないなら、もう一度その温もりにあやかりたいなら、どんな手段を使ってでも、嘘偽りのないこの気持ちを相手に伝えなくちゃいけないから。
弁当を食べ終わって教室に戻る途中、掲示板に張られた一枚の異彩を放つポスターが目に留まる。これは良いかも。何の前触れもなく話があるって呼び出すより、私の心理的な負担も小さい。 “五月雨前に星が降る” ——願い事を一つだけ胸に秘めて、天文部主催の流星群観測会に誘ってみることにした。
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