7-2

 私には新しい日課ができた。それは、学校の至る所にある掲示板を欠かさずチェックすること。まあ、分かってはいたけど、縁佳は曖昧にしてくれようとしたんだろうけど、ここに私の名前が掲示されないということは、御心に適わなかったということを、確かに示しているわけで。見なくても済むものをわざわざ形にして、それで傷付いて。はぁ……、私は縁佳も時雨も見捨てたくなるほど馬鹿だ。傷付いてるのに、掲示板の前で立ち尽くすのを毎日欠かせないところとか、押し付けがましく希望を見出すところとか、何より正論だからって感情に任せて、場を弁えずにわめくところとか、馬鹿なところは枚挙に暇がない。


 ぐぬああああっ、どうしてすぐ疎遠になるんだぁーっ。辛いしつまらないし満たされないし、生きる喜びが皆無。窓の外に思いを馳せても、クラスの噂話に聞き耳を立てても、校則で禁止されてるわけでもないけど、何となくこっそりしておきたいおやつを貪っても、この悩みは解消される気配がない。


 だからって、今まで通りにするのも気が引ける。例えるなら、同じ学校を受験したけど、片方だけ不合格だった二人が、学校の話をするようなものだ。でもでもだからって!この甎全は私の精神を蝕んでいく。じゃあやっぱり?縁佳がそうするように?何事もなかったように、縁佳と普通に雑談して、休日は遊べばいいのかもしれないけど……。


 授業そっちのけで思考を肥大化させて喉が渇いたので、水筒のお茶で潤いを取り戻す。それと同時に、さっきまで考えていたことの一部が洗い流されて、リセットされた気分になって、同じ課題に異なる視点から考察を加えられるようになった。


 縁佳と遊びたいのは山々だけど、その前に最初に相対した時点で、この生徒会云々の話に双方の納得を取り付ける流れになるわけで。多分、お互いそれが億劫で仕方ないんだと思う。事実、縁佳が折れたとしても、私は納得できない。それは慈悲ですらないから。でも、外部から規定されて、誰もが説明することが可能な、あからさまで牽強付会な繋がり、欲しいに決まってる。でも、こんな己の貪婪さを、私は貫き通せる自信も理由もない、そればかりか、縁佳による鮮やかな解決を、ただひたすら待っている。


「鏡花っ」

「はっ、ななっなんでっ!?」

「今日はこのままバイトだから。バス停まで見送ってあげようと思って」

「いいの……?」

「いいから寄ったんだけどっ」


 私は思い上がりすぎていた。自分ごときに、何日も険しい表情を維持できるはずない。いつもの、人当たりのいい縁佳に戸惑うなんて、どこまで私は最低なんだ。


「帰りたくないの?」

「あっいやちがっ。帰ろう帰ろう……あぁっ、そっちはバイトで帰れないんだった配慮が足りなかったっ」

「いいよ~、その調子~」


 両手をぶんぶんふるって、全身で慌てる私を、縁佳はいとも容易く笑い物にして見せた。その馬鹿を笑う朗らかな顔は、後で思い返す分にはほっこりできる。今は……身がすくんで、特に背中が痒いほど硬直している。まあ、この刺激が幸福と生きがいの源なんだけど。


 面白がっているのを周囲に主張するための笑顔を続けられるのも、いいけど良くないので、さくっと立ち上がってカバンを手に取る。そして最初の一歩目は、せっかちに私が踏み出した。縁佳と横並びで歩けるのは、学校前のバス停までで、時間にしては三分もない。のだから、できる限り引き延ばさなければと思い至って、すぐに縁佳に引導を渡す。縁佳は、気を遣ってゆったり廊下を歩いた。


「おや?ふふっ、隠しきれてないよ」

「はへ?ええっと、こういうの、すごく久しぶりな気がするね……」

「一緒に帰るの、たった三日ぶりなんだけどなぁ」


 業間休みにも欠かさず会っていた時に比べたら、一度一緒に帰るのなんて、まだまだあまりに寂しくて心細くて生きた心地がしない。そんな不安や不満、それとは関係なくほとばしる縁佳への思いが、私の顔を転げ回って表情となっていた。そしてそれを、縁佳は見逃してはくれないようにしてくれたのである。


 校舎の外に出て、見上げた空は白い雲が隆盛を極めていて、暮色をもどろかしている。太陽の陽気が欠けた春の息吹が、ほのかな汗を拭い去っていった。と、外気は自然は、やっぱりいいものだなぁって感慨に浸っていたら、縁佳が気の抜けた声を張り上げて、斜め前を指差していた。茂みの向こうに、薄っすらバスのシルエットが浮かんでいた。


「あーっ、バス行っちゃったよー」

「なっ……、いつもよりちょっと早い……。なんて事だ……」

「まあまあ。そこまで絶望に魂を売り渡しそうにならなくても、またすぐ来るでしょ」

「ここは東京じゃないの、次は三十分後なの」

「君に東京の何がわかる」

「最も高い山」


 いやでも、これはむしろ僥倖なのだ。とりあえず、ベンチも何もない、侘しいバス停の近くまで寄った。道路のこちら側からは校門がよく見える。この時間にそこから出てくるのは、部活に入ってない、恐らく向上心のない輩だけ。自信を持つがいい。常識に迎合せず、自分の意志で怠惰を選んでいることに。


 遠い目で常葉お姉ちゃんみたいなことを考えていたら、横の縁佳が話題を提供してくれた。


「されど三日。何かあった?」

「何も」

「へぇー。授業終わりごとにこっち来てたぐらいだから、言いたいことでパンクしそうになってるかと」

「言いたいこと、そっちに行くと思い付くってだけで……」

「まー、それならいいや」


 息を吐き出すような言い方、いやまあ、発話しているんだから息は吐いてるんだけど、その空気をどこか遠くへ押し出してしまうような、投げやりで不親切で、あえて私にそう思わせるような言い方に、はっとなって素早く顔を縁佳のほうに向ける。舞い上がっていた自分に嫌気が起動する。


「あの……っ!」

「ほんとごめんっ」


 縁佳は一歩下がると、手首を直角に曲げて、軽い音と共に両手を合わせた。


「全部、無かったことにしよ。生徒会の話も、なんかぎこちなくなっちゃったのも。普通に六組に来て?それで……、今まで通り普通にお喋りしてさ?」

「そんなこと言われたって……」

「私も結構つらかった。誰かと喧嘩するのは、手足に重りを巻くようなもので、ずっと気になっちゃうんだよ。でも鏡花なら、仲直りできるよね……?」

「違うっ」

「仲直り、したいでしょ_」

「あの!わ、私じゃっ、力不足だったのかな……」


 わざとらしい地面を靴が蹴る音まで起こして、二人の距離を縮める。そして何を血迷ったのやら、右手で縁佳の左手首を掴んで、ただ事では済まさなくしていた。ああああ、やってしまったっ、物理的な距離をなくしたら、仲直りできると思ってるのかよっ!でも、そんな後悔が常に片隅に積もっていたとしても、それで止まるほど理性的に生きてない。つま先に体重が掛かる。まだ罪を塗り重ねようとしている。


 脳みそから熱くなって、思考と行動を単純化してこじ付ける。今の私は熱血だ。情熱を赤の他人に臆面もなくぶつける、好き嫌いがはっきりする性格。縁佳による鮮やかな解決を、真っ向から斬り裂いていく。視界の下半分には縁佳の制服のリボンが、上半分には自分の瞼が映っていた。


「そうならそうって、正直に言って!」

「鏡花っ……」


 多少風に吹かれようと影が通り過ぎようと、自然と自分の視野がひらけるまで、この手を放すつもりは無かった。物理的に繋がっていれば、縁佳の体温を受け取っている間は、どこか安心できる。まあ裏を返せば、そんな強力な安心感を求めてしまうほど、勝手に思い詰めているという事なんだけど。


「私は今のことしか知らない。過去のことはさっぱり。だからっ、力になれなくて当然で、私が副会長なんて身の程知らずで……。えっとつまりっ、やらせてくださいってお願いするつもりは無くて、でもやっぱり、何も言ってくれないのは違うかなーっていうか……」

「んーそうねー。鏡花はやりたいの?本当に」

「あ、えやっ、それは……ずるいよ!そんなの、当たり前じゃん……」

「うーん……。でも、不合格なのは覆りませんっ。厳しめに採点してって言ったのは、鏡花のほうなんだから」


 こんな目的すら明白でない身勝手を、縁佳がいつまでも楽しんでくれるはずもなく、瞬間的に手を振り解かれて、「はうっ」と声帯の筋肉を抜かれたような声が出る。世界が現実に覆われる。気楽な縁佳の微笑が鮮明に映る。対する私は、きっととんでもなく凝り固まった顔面をしているのだろう。


 私が茫然としている刹那で、縁佳は呼吸と体制を整え、さらに一歩下がって後ろに手を組んで堂々と立っていた。


「というのは、ちょっとした意地悪でぇ。本当は、鏡花のためを思って断ることにしたの」

「私のため……」

「うん。だって鏡花、本質的に人見知りでしょ?いやもちろん、その気になれば、表面上は問題なくコミュニケーションできるだろうけどさ。どこか無理をすることになるよね。結局、生徒会は色んな人と対話して仲裁して、そういう仕事だから。それがずっと続く」

「別にそれくらい覚悟できてるよ!生半可な気持ちで言ったわけじゃない」

「それも分かってる。けど、断続的に無理をする辛さもよく知ってるから、どうしても勧められない。金属疲労……いや、低温やけどしないように、ね」

「でも、そしたら私たちの間には何にもないじゃん!何も……絆が……っ」

「鏡花」


 縁佳が呼ぶ私の名前は、どんな楽器でもどんな奏者でも奏でられない、とても清らかで、くれたお高いチョコレートのような粒ぞろいの響きを含んでいた。こんな時でも、何度だって呼ばれたいと思う。それがげんこつの前触れだったとしても。私は、こんな風に縁佳の名前を呼べない。縁佳という名前は、すっかり私の体の奥深くに消えていた。


「鏡花にとって、私ってどんな存在?」

「はっ、えぇ?それは、どっどう答えれば、……正解?なの」

「特別な友達とか、そういうの」

「それっ。そうだ……けどっ」

「鏡花の中で特別であれば、それ以上は何も必要ないよっ」


 そんなことで、一生縁佳を見失わなくて済むのだろうか。そういう問題なのだろうか。手を繋ぐとか、副会長として縁佳に仕えるとか、他人から見て明らかな繋がり方を、ただの私の心持ちだけで超えられるって、現実を見て見ぬふりして描いた夢のような話だ。踏み出さないといけない時、勝ち取らないといけない時、ただ想うだけではダメで、どこかで箍を外さないといけないタイミングが、きっとある……んだけど……。


 縁佳の計算された笑顔は私を慰めるものではなく、気が付くと完全に縁佳のペースに乗せられていたようで、言いたいことを言い終わった縁佳は、「バイトの時間だから」って、小走りに学校前の通りを学校がある側へ渡っていった。


 縁佳が目の前から消えて、彼女の声も熱も息も消え失せてしまう。雰囲気すら流し去る空気に、苛立ちを覚えそうになるのを、カバンの紐を肩に押し付けて、ぐっと堪える。……私が本当に堪えているのは、過去のことでも何でも説明不足なままに置いておこうとする縁佳への不信感……、違う違うっ、意志を強引にでも貫けなかった自分の弱さ、それに他ならない。



 それから、また思料に沈潜する毎日が始まった。縁佳はきっと、私が勝手に迂闊に反撃したのを許してない。あーいう行為は、金輪際慎んでほしいと願ってる。私は……、縁佳にとって邪魔な存在、……なのかなぁ。せめて明世ほどの人畜無害な友人でありたかった。人畜無害でもない邪魔かもしれない私にだけ特別な感情を要求して。そんなの、いずれというほど遠くない内に、取り返しの付かない軋轢が生まれるだけだろうに。


「鏡花ちゃんって、真面目に授業を受けたことあるの?」

「んー、いつも真面目だよ」

「それはない。ずっと物思いに耽ってる」

「まっまあ、そういう時もごく稀に……」

「よっぽど私より学校に来てるんだね」


 そういう事なのか……?どういうことなのだ?と、聞き返す間もなく、自由気ままな猫みたいな永田は、次の授業の教室に向かっていった。考え事が途切れて、ふと我を顧みる。平常時より呼吸が荒くなって、私がコミュニケーションを頑張るような、低強度な無茶を心臓がしていることに気付く。縁佳のことを考えすぎて、自分のことがおろそかになっていた。ここが正念場なのに、自分を案じてどうするんだって思ったけど、でも縁佳に無理はできてもするなと諭された矢先なわけで、そうだ、たまには先生の話に集中して耳を傾けてみよう。


「あっあの……!いっいいですか、一緒でも……」

「おー、いいぞー、座れ座れぇー」


 よくよく思い返してみたら、私が授業中に縁佳のことを思わなかったことが無かった。でもたいていは、前向きなことだった。今は違う。とても縁佳に直接語れないような事ばかり、後ろ向きでじめじめした、暗くて絶望に近くて、蛮勇をもって当たったら粉々に砕けてしまうこと。でも懊悩し続けたくて、少しでも無理をしていたいから、気持ちを和らげようとしたのか、昼休みに永田の机を訪れていた。


「クーリッシュうまー」

「それ、昼ご飯?」

「もちろん。よく冷えてるよ」


 腰を椅子から浮かせて、クーリッシュを頬に押し付けて、わざわざわからせてくる。そんな食生活で、栄養バランスは大丈夫なのだろうか。そんな不安もどうでもよくなる、不変不朽いつも通りの、突然空を見上げて、無言で雲の流れを追い掛けだしてもおかしくない、何にも囚われない永田の態度。それが良かったのかもしれない。明世だったら、向こうもこめかみをぐりぐりし始めるだろうから。


「しーかーしー、よっすーの元じゃなくていいの?」

「喧嘩……じゃないけど、とても顔を合わせられる状況じゃなくて……」

「ほーん。友達を続けるのって、やっぱり難しいんだなー」

「でっでも!向こうはあんまり悪くなくてっ。悪いのはどっちかというと、こっちっていうかなんていうかっ。余計な事をしたのは私だしっ!」

「まあまあ、何とかなるでしょー。正義は鏡花ちゃんにあるわけだし、いい感じに時がたったら、しれぇーっと六組に顔を出せばいいよ」


 その一言で、全てを上手くいかせられる力はみなぎってこないけど、それでも誰かが自分を応援してくれるという事実は、縁佳に並ぶ自分に、一輪のたんぽぽ程度の自信が持たせてくれる。そんな人の心に響くようなことを言ったとは微塵も考えず、隣の隣の集団でも見渡しながら、永田はクーリッシュを両手で握って吸い上げていた。


 しばらくすると、猫の目は大きくなってこちらを見つめてきて、すぐに思い立ってクーリッシュを咥えたままカバンの中を漁って、机の上に一枚のチケットを置いた。


「そうだそうだ。……週末暇なら、これを」

「何のチケット?」

「モロックマがくれたんだけど。一緒にどう?」


 説明になってないので、首をひねりながら、自力で片言な文言を解読する。しかし芸能に関して疎いもので、Dream Gazerとか言われてもさっぱりだった。


「なんかのライブ?」

「うん。少子化の進む日本海沿岸で、今もっとも勢いのあるアイドルグループ、なんじゃない?」


 言い方に勢いはなかったけど。それはそうと、この学校でアイドルをやっている人には心当たりがあった。こういう時に、心当たりを持てる日が来るなんて、想像もしてなかった。


「それって、宇野木黎夢って人?」

「えぇー、知ってるんだ。色んな意味で意外や意外」

「あっいや、えとー、諸熊さん絡みで一度会ったことがあるだけっていうか……」

「中々、変わった人だよね」


 永田の目にもそう映っているのだとしたら、バレンタインの日に受けた友達攻撃以上の何かを、まだ隠し持っているってことなのだろうか。まあ、明世を飼いならせるほどの存在だし、真っ当な評価かな。


「こういうの、よく行くの?」

「別にー?ただ、モロックマから知り合いのよしみで貰っただけ。まっ、普段抜けたところばかり目立つ部活の先輩が、真剣に歌って踊ってるところなんて、そうそう見られるものじゃないしねー」

「んまあ、あれが、歌って踊るアイドル……」


 明世のチョコを突き返した後、あの流れでどんな顔をして練習に励んでいたのだろう。きんぴらごぼうを咀嚼しながら、そんなことを想像していると、クーリッシュをぎゅっと絞り出し終わった永田が、蓋を閉めながら再び尋ねてくる。


「で?どうする?興味ないなら無理して来なくてもいいよ」

「あっいやいや。どうせ暇だし、人生経験積みたいし、この間、バイト先に一緒に潜入してくれた恩もあるし」

「あれは要らないおかずを食べてもらったお礼だよ」

「じゃっじゃあ、……話を聞いてもらったお礼ってことで……」

「ん-?鏡花ちゃんは、私に話を聞かせたんだ」

「え?」

「わかったわかった。当日は少し早めに、一時間ぐらい前に県民会館に集合ってことでー」


 永田は首を一切揺らさず、でもふにゃふにゃした喋り方のまま、当日の予定を宣告してくる。早めであることは、何かの保険なのだろうか。まあいいや、このまま縁佳のことだけに夢中になっていたら、さすがに危うかっただろうし、幸いその自覚はあったもので、気分転換にちょうど良かったとだけ思うことにした。



 土曜日の昼が降りきって、これから橙色のベールが空に降りようかという午後五時、私は約束通り県民会館の入口前の階段の麓で、永田を待っていた。少しずつ、私たちと同じ目的の人が、ホールに吸い込まれていく。その数が増えるにつれて、約束を反故にされたらどうしようという、普段感じることのないタイプの不安に見舞われて、そこの石壁に身を委ねるようになる。私が縁佳という人間に、どれだけの信頼を置いていたのかがうかがい知れる……なんか他人事っぽい。


 それで、縁佳がこういうライブでノリノリだったら嬉しいなぁーって思ったり、でももし今誘ったとしても、「鏡花が興味なさそうだから」とあっさり断られてしまいそうだと落ち込んだり、自分の感情をメトロノームにして遊んでいたら、約束の時間から十分ぐらいして、ようやくあらぬ方向から永田が現れた。ほっとしていられるのも束の間、なんか奸計を秘めた面持ちで、こちらに早歩きで向かってきているのに気付いてしまった。


「こっちこっち~」

「え?皆あっちに向かってるけど……」


 永田は自分の企みを無邪気に遂行することしか頭にないようで、私の手を引っ張って、観客が入ったら大問題な楽屋のほうに誘導してきた。縁佳になら強引に破滅を選ばされたいけど、えぇ!?


「ねっ寧々子!これ、大丈夫なの!?大丈夫じゃないよね、やばいよね」

「焦ることはない。私たちは、潜入のプロだから」

「いつの間に?」

「よっすーのバイト先、行ったじゃん」

「堂々とレジを使っただけだけど!?」


 しかし、本番前なだけあって、スタッフも私たちに興味を示さない。なんで上手くいってしまうんだ、いや、上手くいってくれないと命が危ないんだけど、しかし勧善懲悪でなければ世界に納得できないわけで、咎められないのも心苦しかった。


 深海に沈められたように小さく縮んで、申し訳なさそうに歩く私とは対照的に、永田は猫背を忘れて、いつになく胸を張って、白い壁に白い蛍光灯の無機質な楽屋エリアの奥に進んでいく。


 そしてついに、私の嫌な予感は的中して、すれ違った人間に目を付けられる。息が止まる。けど、最後に吸い込んだ空気に、どこか既視感のある煙たさを感じ取れて、恐る恐る顔を上げてみる。そこにいたのは、寒い冬の夕べに、外でたばこをふかす剛胆なハスキーボイスのお姉さんだった。よれよれのジャージ姿だったあの時とは違って、この場のために拵えたであろう、大げさに布が盛られた衣装を着こなしていた。


「お、こんな所で会うなんて。君も……偉くなったね」

「いやどっちかって言ったら、出世したのは、これから大きな会場で単独ライブをするあなたの方では……」

「言葉選び間違えたな……。肝の据わった少女たちよ、お目当てのアイドルはこの先だ」

「それ、教えてくれちゃっていいんですか……」

「あざーす」

「じゃ、あたしは一服してくるので。良きに計らえー」


 紺碧のたばこの箱を掴んだ手を見せながら、お姉さんは出口のほうへ向かっていった。この人も一人前のアイドルなのに、踏み台にして永田は進み続けようとする。


「あの人も知り合いなの?」

「え?あー、あのその、一期一会じゃなかっただけだよ、うん」

「ふーん。それより、先輩がこの先にいるなら、モロックマも一緒かなー」


 バレンタインという日にこだわってチョコを渡し合うという点から、後はあのお姉さんの口ぶりとかから、明世と黎夢はそういう関係なのだろうと、何となく想像はできるけど、それだけだったら裏側に入ることが許されるはず無いわけで。そう言えば、前に生徒会室で、ライブの映像を吟味していたけど、マネージャーみたいなこともしてるのだろうか。現実でお目に掛かれるとは。


 やけくそになって、そんな事を一人考えていたら、角を曲がった先から馴染み深い明世の声も聞こえてくる。


「あぁ、さっきそこの神社で祈ってきたけど……。やっぱり不安だぁっ。成功するかな、うぅ何とかなってくれ!」

「はるちゃんまで緊張することないよ~」

「客の入りもばっちりらしいし!いくぞ、白高ファイトーっ!」

「しゅうっぴー、白高じゃないでしょ。何なら高校行ったことないでしょ」

「こんな気持ちになるなら、高校行っとけば良かった。部活で青春、したかったなー」

「まあまあ、アイドルやってなかったら、こんな景色見られなかったわけだし」

「わっ私もっ、それに貢献出来て良かったっ。最高の青春になったと思うっ」

「ほんと、はるちゃんはいい子なんだから~。よしよし~」


 永田には怖いものがないのか、ずんずん突き進んで、ついに壁一枚越しに盗聴するに至っていた。何なら時々、中を覗き込んでいた。そこまでして、いつもと違う明世を拝みたいか。……もしこれが縁佳だったら、私は盗撮でもする気がする。永田は穏便なほうだ。まあ、動機となる感情が違うのかもしれない。


 それにしても、あの甘くて耳にへばり付く黎夢の声が聞こえない。ここには居ないのだろうか。とは言え、永田とは違って罪の意識があるので、中を覗くのはさすがに遠慮していると、隣の部屋の扉がばたんと開く大きな音が響いて、私たちの視線がそっちに自然と向いてしまう。


「黎夢!待ちなさい、黎夢!」


 マネージャーらしき人が、その部屋から困った表情で飛び出してくる。でも、その時にはもう既に、私の頬を風がくすぐっていてた。


「な、何かあったんですかっ!?」


 さっきまで和やかだった楽屋からも、パイプ椅子が吹っ飛ぶ音がして、横に首を動かすと明世が焦りに焦りを重ねていた。私たちには気付いてなさそうだった。うーん、本当に潜入のプロになったのかもしれない。


「ごめんなさい……。私が口下手なあまり……」

「そっそんな事ないですよ!ただ、私がちゃんとケアし切れなかったから……。と、とにかく追い掛けてきますっ、本番までに、必ず呼び戻すんでっ!」


 そう宣言して走り出そうとした明世は、こっちに気付いて、「おおおおい!」と忙しく後ずさりしながら吃驚する。


「な、なんでしまちゃん……?」

「ごごっごめんなさいっ。あの、ごめんなさいっ!」

「丁度いいじゃん。友達よ、探すの手伝って!」

「あ、うん、そうしてくれると、大いに助かる……」


 私がそれに同意すると、明世含めメンバーとマネージャーも出口の方向へ走っていった。頷いてしまった以上、こんな所を目撃してしまった以上、私も急いで動かないといけない。のだけど、ここまで連れ回してきやがった永田がいない。


 まあ、恐れをなして私を囮に逃げたわけではなく、向かってくる黎夢をキャッチしようとして失敗して、そのまま追い掛けている最中だって、本人からメッセージが送られてきた。悪人が私の物語に出てこなくて良かったと安堵する反面、そんな激しい闘諍に、私は気付かなかったのか……?と、自分の鈍感さに肝だって冷やした。


 って、どうでもいいんだよっ、自分のことなんてっ。推しでもないし、最悪黎夢が見つからなくても困らないから、非日常にイレギュラーを上書きしてる感じを味わっている最低な自分がいた。無論、真面目に探すつもりだけど、建物の中だけでも小学生が一日中かくれんぼで遊べるほどなのに、外に出ていたらお手上げな気がする。


 で、建物の入口にはお姉さんが佇んでいた。まさか、こんな場所でたばこを吸っていたのかと、正義面したくなったけど、そんなにおいは全くしてこない。あの箱はフェイクで、アイコスに切り替えたのかもしれない。


「黎夢なら反対側に行ったよ、河川敷にいるんじゃない、勘だけど」

「えっと、追いかけないんですか……?」

「本番前に息が上がったら元も子もないから。若いっていいね」


 そのくらいで音を上げるようで、果たしてライブを完遂できるのか?という疑問が湧いてくるけど、ともかく言われた通りの方角を探すことにした。


「あ、そうそう。もし見つけたら、直接話しかけるんじゃなくて、すぐに明世を呼ぶんだよ」

「あぁはい、分かりました……」


 まあ、私ができるのは神経を逆撫ですることぐらいなので、言われなくてもそうするつもりだったけど、一応肝に銘じておこう。


 人の勘を鵜呑みにするのは危険な気がしたので、念のため並木の中とかも確認しつつ、進路を南に取った。河川敷までは、公園から道路を超える橋が架かっていて、簡単に行き来できるようになっている。十分な広さがあって、芝もよく刈られてて、歩いたり走ったり勝負したりするのに最適な、見通しのいい信濃川の河川敷。わざわざ足を踏み入れたのは、約一年ぶりだろうか。いやまあ、そんな事はどうでもいい。緩やかな斜面の上で、不思議と吹いていたほうが穏やかな川からのそよ風を浴びながら、よく矯めて辺りを見回した。


 それで、川に架かる大きな橋の下という、定番のかくれんぼスポットに、しゃがみ込む人影を発見した。人力ズームすると、赤を基調に白いフリルが見える。あんな格好、舞台上のアイドルぐらいしかしないだろう。明世に連絡した、論じること自体がお門違いだけど、なんか達成感みたいなのは無かった。


 明世が到着するまで、それと到着してからもしばらく、私は二人が米粒大にしか見えないぐらい遠巻きで、明らかに異質に空気の循環を妨げるように、物語の行く末を風になびかれながら占う主人公のように棒立ちで、黎夢が駄々こねてるのを観覧した。


 駄々をこねて、無理を言って、泣いてぐずってぶつかって、高校生なんてまだまだ未熟なのだから、そういう日は誰にだってある。私だって、この光景を達観できるほど偉くない。無いほうがいい感情を毎日のようにいだいている。


 だけど、それが許されるかどうかは、当人の置かれた状況次第なんだろうなぁ。明世が黎夢の剥き出しの感情を受け止めて許して、彼女自身が持つエネルギーで、社会という軌道から吹っ飛んでいかないよう、優しく手を添えてあげる。


 こうやって不安に支配されて、目の前のことさえも分からない黎夢と私が重なって見えてくる。そんな黎夢を、呆れることなく絶え間なく明世が支える。……縁佳は、私のどんな想いでも受け止めてくれるのだろうか。そんな確証はどこにもない。無きゃ立ち行かないから、ある体で生きている。でもまあ、きっと黎夢だって、明世の心情がどうであれ、同じ疑懼に罹っているんじゃなかろうか。そういうものなんだろう。


 程よく空の彩度が下がったところで、あるいは幕が上がるギリギリの時間を攻めて、二人は会場に戻っていった。遠くて陰になってはっきりしないけど、終わってからの打ち上げのことでも談笑しているような、和やかな雰囲気がここまで伝わってくる。それにしても、結局最後まで盗み見てしまった。いったい私は、何しに来たのやら……。


「無事にライブできそうで良かったね」

「んっ!?ね、寧々子!?」

「いい仕事したわー」

「狙ったの?」

「いや、どうやって?モロックマとしか面識ないのに」

「私には寧々子が全然わからん……」

「単純明快、スリルが好きなだけ。去年の文化祭でお化け屋敷を提案したのも、この私だし」

「作る側って、スリルあるの?」

「無いね」

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