6-6
「ただいまー……」
「おっかえり~」
おたまを持って、オリーブ色のエプロンを締めて、疲弊を隠せない私を労うわけでもなく、一方的にご機嫌を押し売りしてくる鏡花が出迎えてくれた。愛くるしさに殴られる。思わずうっとりしてしまう。私はきっと、惚け切って伸び切って、今にも天国に出航しそうな顔をしているんだろう。そんな隙だらけの表情をお礼として受け取ってほしい。
「ところで、中々強烈な生臭さが漂ってくるんだけど……」
「マグロのカマを焼いてる」
「相変わらず、食への探求心に溢れてるねぇ」
とりあえず夕飯ができるまで、リビングのソファで横になることにした。ジャケットを背もたれに掛けて、ソファの肘掛けに頭を置いて、正方形のクッションをラッコのように抱えて、準備が整ったから横向きの鏡花の後ろ姿で癒される。うむ、隙あらば洗い物に勤しんでいるな。料理が板についてきた。
しかし、ふとした瞬間にのしかかる重りのような気怠さを自覚して、溜息とあくびが止まらなくなる。その上、目がしょぼしょぼしてきて、鏡花の姿さえも朧げになってくる。今日は金曜日で、明日は心行くままに一緒にいられるんだから、ご飯を食べてお風呂に入ったら、さっさと寝るかぁー。
……で文句ないはずなんだけど、それでは満たされないって、どこかで確信していた。未来の私もきっと鏡花を求めている。けれど、今の私もそれは同じ。であるから必然的に今、精神衛生上やるべきことは一つ。しかし憚られる。体が重くて仕方ない。寝っ転がるんじゃなかった。ここから這い上がれる気がしない。革の感触が微かにひんやりしていて、姿勢を変えても体を包み込んでくれる。いいソファを買ってしまったが故に起こった悲劇。
とか言い訳してるけど、実際は私が怠惰なのではなく、怠慢なだけである。鏡花を求めている、という表現は糊塗に過ぎない。いやまあ、求めてはいるのだけど、具体的に何をすれば充足するのか。それには正解がない。というか、正解を作ってこなかった、それが怠慢。
好きだって言い合って、一緒に暮らすことも決めて、暗黙の了解だけど、どちらかが欠けても生活が立ち行かないようにして、そしてその生活が無事に軌道に乗った暁に悩む問題でないことは重々承知しているのだけど……。恥ずかしいから、正直はっきり自分に突き付けたくないけど、軽く甘える方法がいまいち体系化できていない。どうしようもないほど追い詰められた時は分かるんだけど……。
って、分からないって言い訳してないで、できることをから始めればいいのに。できること……鏡花の料理を邪魔せず、かつ彼女の温もりを最大限に感じられること……。
「ぴとー」
「ん!?何々、どうしたの?」
「ど、どうもしてない……」
「そうかな……?」
「うん、気にしないで」
料理中の鏡花に背後から忍び寄って、お腹を両腕でぎゅっと括り付け、肩の辺りに頭を置いた。一度やってしまえば、その場から離れられない、私が。鏡花の体温が流れ込んでくる。筋肉の伸縮まで感じ取れる。お互いの全てを共有し合えている。甘えてみて後悔することなんて無いんだなぁ。
「動きづらいんだけど……」
とは言いつつ、いい子な鏡花は振り払おうという素振りを見せない。
「気にしないでー……」
「縁佳を無視できないって分かっててそういう事を……」
もしかしたら私は今、とんでもない醜態を晒しているのかもしれない。しかしキッチンに鏡はないし、私の行動全てに反応を返してくれる鏡花の表情も満足にうかがえないし、罪の意識を追いやるのは簡単だった。ほしいままに鏡花と戯れる。あ、美味しそうな耳たぶがあるなぁ……。
「はむっ」
「はふっ」
アダムとイブが楽園を追放されたのは、鏡花の耳たぶを食べようとしたからなのである。それくらい柔らかい。少しだけ歯をずらして、そのふわふわな耳たぶを最大限堪能しようとしていた。
「ねぇ、歯形残さないでよ」
「んー」
「ねぇー、今から包丁使うから、離れてよー」
「はいはい」
なんだ、その素っ気ない態度は。彼女が甘えてるんだぞっ。と、包み隠さずには言えないので、息を吹きかけて髪を揺らすぐらいにしておいた。ちょっと髪が伸びてきたな。懐かしさもあって、鏡花と言えばこっちの印象が強い。
「にゃっ!?」
「んー、猫?」
「猫?じゃないっ!息をいきなりかけるな!ぞくぞくするでしょ!」
「きょうかぁーっ、すきだぁーっ」
どうでも良くなってきたので、叫びながら首の付け根に、大げさに頬擦りをした。この解放感こそが子供心ってやつなのだろうか。後で目を覆いたくなるような気恥ずかしさ見舞われることを除けば、こんなに爽快なこともない。
まあ、いくらこんな私と付き合おうとする酔狂な鏡花でも、いや、だからこそ縁佳ばかりずるいって気持ちになったのか、反転してソファに押し倒してきた。……結局、私は鏡花の前ではなす術がないってことかな。抵抗なんてできない。馬乗りされて、しかも銀色に輝く包丁を手に持ったままだから。
「あっあの、包丁……」
「ん?あーごめんごめん。……そこから動かないでね」
私を殺す勢いで睨み付けて警告すると、包丁を置きにキッチンへ向かった。そして戻ってきて、再び私の上に跨る。
「縁佳は甘えるのが下手だね」
「はぁっ?べっ別に、下手ってことはないと思うけど……」
「まっ、私をその気にさせるのは上手いかも」
鏡花はそのまま前に倒れて、私の胸の辺りに耳を置く。空腹で唸る内臓の振動が伝わってくるほどに、ぴったり密着していた。
「頭撫でてー」
「しょうがないなぁ」
果たしてこれは甘え上手なのか……?でも勝手に手が動いてしまう。それはもはや魔法の類いだ。
「私、縁佳が二人いればいいなーって思うんだー」
「なんで?」
「最後の晩餐は、縁佳と縁佳を食べたいからさー」
さっきの、包丁を持って押し倒してきたあの瞬間に意味が作られた。
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